勇者の型
「……その構え」
フィーネの声が、掠れていた。
俺は我に返って、手の中の剣を見た。深く沈んだ腰。半身に開いた肩。剣なんて握ったこともない俺の身体が、勝手に取っている構え。
慌てて柄から手を離す。
瞬間、するりと何かが抜け落ちた。
張り詰めていた足腰から芯が消え、俺はただの、姿勢のいい阿呆に戻る。……なるほど。剣を手放すと、消えるのか。
試しに、もう一度柄を握った。
来る。
足の裏が床を掴み直す。重心が臍の下に落ちる。呼吸が深く、長くなる。教わったわけでも、覚えたわけでもない。ただ、この剣を握っている間だけ、俺の身体は「正解」を知っている。
「フィーネさん。この構えに、見覚えが?」
「見覚えなんてものじゃ、ありません」
彼女は一歩踏み込んで、俺の右肘を指さした。
「肘のその角度。それに、左足のつま先だけ半歩外に開く癖。……兄さんの構えです。私、五年間毎日あの構えを見て育ったんです。世界中の誰が真似しても、その細部までは出せない」
空色の瞳が、揺れながら俺を射抜いた。
「あなた、さっき言いましたね。兄は殺されたと。……全部、話してください」
俺は話した。
剣に触れた瞬間に視えたもの。雨の夜。囲む複数の気配。白い法衣の袖。腕から力が抜け落ちていく感覚。最後まで下ろされなかった剣。
我ながら、正気を疑われて当然の話だ。遺品から死者の記憶が視えたなんて、酔っ払いの与太話にもならない。
だがフィーネは笑わなかった。
「……信じます」
「正気か? 証拠も何もないんだぞ」
「証拠ならあります。あなたのその構えが」
彼女はきっぱりと言った。それから、すがるように身を乗り出す。
「なら――もう一度、視ることはできないんですか。相手の顔が視えれば、それで」
「……やってみる」
俺は片眼鏡を直し、改めて素手で柄を握った。
来ない。
型は来る。足腰は沈む。だが、あの燐光は来ない。雨も、白い袖も、何も。何度握り直しても、レンズの向こうの世界は薄暗い鑑定所のままだった。
「駄目だ。……どうやら、一つの遺品につき、一度きりらしい」
自分の力なのに、他人の道具の説明をしている気分だった。フィーネの肩が落ちる。俺は首を振った。
「気を落とすな。どのみち、視えたものは証拠にならない。『記憶が視えました』なんて話、審問所どころか酒場でも笑われて終わりだ」
「じゃあ、どうやって」
「調べるんだよ。視えたものを手がかりに、誰でも確かめられる物証を掘り出す。……物を辿って人に届くのは、鑑定士の本業だ」
視えた記憶は羅針盤。立証は、物証で殴る。方針は決まった。
「それに――兄は雨の夜に死にました。発表では、病室で息を引き取ったことになっているのに、あの夜、兄の靴は泥だらけだった。私はずっと、誰にも聞いてもらえなかった。七軒の鑑定室にも、ギルドにも、衛兵にも」
七軒、回りました――初対面の時の言葉が、別の重さで胸に落ちた。この娘は剣の鑑定書が欲しかったんじゃない。兄の死を疑うことを、笑わない人間を探していたんだ。
「事情を、最初から聞かせてくれ」
フィーネの話はこうだった。
国葬から一月後、勇者商会が一通の遺言状を公表した。曰く――遺産、遺品、そして「勇者アルヴィス」の名と紋章の使用権のすべてを、商会に託す。
「そんな遺言、兄の口から一度も聞いたことがありません。兄は商会のやり方を嫌っていた。自分の顔が刷られた土産物を見るたび、苦い顔をしていたのに」
異を唱えたフィーネに返ってきたのは、中傷だった。あの娘は勇者の妹を騙る偽者だ。金目当てで英雄の遺族に成りすます、素性の知れない小娘だ――出所の分からない噂が、面白いほど手際よく王都に広がった。
「大手の鑑定室が軒並みあんたを門前払いしたのも、偶然じゃないだろうな」
「……やっぱり、そう思いますか」
王都最大の商会を敵に回してまで、小娘の味方をする商売人はいない。圧力なんて、かける必要すらなかったかもしれない。
俺は卓の上の剣を見た。
五年間、王都の平和な陽の下で、それでも毎日欠かさず手入れされていた刃を。雨の夜、囲まれてなお下ろされなかった、この剣を。
――遺品は、死者が最後に遺した言葉だ。
なら、この剣はまだ、言い終えていない。
「依頼を受ける。……ただし、剣の真贋鑑定だけじゃない。遺言状の帰属鑑定まで含めてだ」
「え……でも、あなたに危険が」
「遺言の偽造はな、フィーネさん。死者の口を塞いで、別の言葉を喋らせる行為だ」
気づけば、声が低くなっていた。
「遺品鑑定士が、それを見過ごしたら終わりだ。Fランクだろうと墓守だろうと――意地って奴がある」
その夜。宿まで送ると言い張った俺の判断は、三十分後に正しかったと証明された。
人通りの絶えた製革通りに入った途端、前から二人、背後から一人。申し合わせたように現れた男たちが、道を塞いだ。
「悪いな、嬢ちゃんたち」
先頭の男が、無精髭の下で笑った。堅気じゃない。腰の剣は飾りじゃなく、握り慣れた実用品だ。
「その剣、置いていきな。ついでに、余計な依頼からも手を引くことだ。……なあ、墓守の先生よ」
もう話が回っている。雇い主の想像はつく。つくが――三対一で、こっちは非戦闘職と十七の娘だ。
いや。
俺の右手には、布に包んだ勇者の剣がある。
「フィーネさん。下がっててくれ」
「なっ、あなたが下がってください! 私のほうがまだ剣は――」
「借りるぞ、アルヴィスさん」
布を払い、柄を素手で握った。
――来る。
足裏が石畳を掴む。重心が落ちる。世界が、ゆっくりになる。
そして視界の端、俺の背後に――青白い燐光が、人の形に立ち上がった気がした。
「な、なんだ……?」
男たちがたじろぐ。構わず、教わったことのない呼吸で、俺は踏み込んだ。
一歩が、伸びる。
自分でも信じられない速さで間合いが消え、先頭の男の剣が抜き切られるより早く、峰が男の手首を打っていた。骨の鳴る音。剣が石畳に落ちる。返す刀身が二人目の膝を払い、体勢の崩れたところに柄頭が顎を突き上げる。
二人が、崩れ落ちた。
――ただし。
「っ、ぐ……!」
俺の両腿と肩も、悲鳴を上げていた。筋が焼けるように熱い。型は完璧でも、それを支える身体はFランクの鑑定士のままだ。三人目まで保つか、これ――
その三人目は、白刃を抜いて振り返った先で、固まっていた。
フィーネが、落ちていたゴロツキの剣を突きつけていた。腰の据わった、綺麗な中段。……なるほど、勇者の妹は伊達じゃない。
「い、言う! 言うから斬るな!」
武器を捨てた三人目は、面白いくらい素直に吐いた。雇われただけだ、顔役から金が出てる、依頼主なんて知らねえ――ただ。
「ただ、聞いたんだ。もう決まりだって……あの遺言状は、もう〝本物〟になったんだと」
「本物に、なった?」
「モルガン鑑定室の、お墨付きが出たんだよ……!」
夜気が、すっと冷えた気がした。
モルガン鑑定室。Aランク鑑定士、ユリウス・モルガン。
――今朝、俺の異議を破り捨てた、あの男。
「……フィーネさん。こいつは思ったより、根の深い話かもしれない」
俺は疼く肩を押さえながら、笑ってみせた。
「そして思ったより、俺向きの話だ」




