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死んだ英雄の声が視えた

「おい、墓守。誰がお前に口を利けと言った?」


 冒険者ギルド・ヴェルガ支部、遺品管理室。黴と油の匂いが染みついた部屋に、よく通る嘲りの声が響いた。


 声の主はユリウス・モルガン。大通りに店を構えるモルガン鑑定室の跡取りで、ギルドお抱えのAランク鑑定士。仕立てのいい上着、磨き上げられた指輪。


 対する俺は、袖の擦り切れた仕事着に、祖父の形見の銀の片眼鏡。Fランクの遺品鑑定士。誰がどう見ても、格が違う。


 「もう一度言います。この剣は、故人のものじゃない」


 それでも俺は繰り返した。卓の上には一振りの長剣。先週、竜牙山で死んだ剣士の遺品――ということになっている代物だ。


 「柄の消耗の位置が、故人の癖と合わない。この人は左利きで、柄を逆に巻き直す癖があった。三年前の遺品記録にも残っています。これは別人の剣だ。……本物は、どこかですり替えられている」


 「ほう。Fランクの墓守どのは、このAランクのユリウス・モルガンが真正と鑑定した品に、ケチをつけると」


 部屋の隅で、若い職員たちがくすくすと笑った。


 ――剣のことは、大して知らない。


 だが遺品のことなら、お前の百倍知っている。故人が三年間この剣とどう生きたか、記録を読みもしないお前の百倍。


 喉まで出かかった言葉を呑み込んで、俺は異議申立ての書類を差し出した。


 「なら、記録に残してください。異議として」


 「いいだろう。……ああ、そうだ。異議の受理には、Bランク以上の鑑定士の副署が要る規則だったな」


 ユリウスは書類を二本の指で摘み上げた。この部屋でBランク以上の資格を持つのは、彼だけだ。


 「俺は、署名しない」


 書類が、真っ二つに破かれた。


 「つまりこれは規則の上で、最初からただの紙屑だ。なあ墓守、身の程を弁えろ。……ああ、それとも拾って数えるか? 得意だろう、死んだ紙の世話は」


 どっ、と笑いが起きた。


 管理室長のガルドだけが、奥の帳場で「……すまんな」と口の形だけで謝ってきた。強面の巨漢が眉を八の字にしても、Aランク相手じゃどうにもならない。分かっている。


 俺は破れた書類を拾い、一礼して部屋を出た。


 ――死人は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつだって生きている人間のほうだ。


 俺を育てた祖父さんの口癖だ。遺品鑑定士として四十年、死者の持ち物だけを検め続けた男の言葉。


 じいさん。あんたの言う通りだよ。


 でもな、死人の言葉を正しく届けようにも、生きてる連中が聞きやしないんだ。




 俺の名はロイド・ヴェスタ。二十二歳。


 王都ヴェルガの外れ、日当たりの悪い路地の奥で『ヴェスタ遺品鑑定所』という小さな店をやっている。仕事は、死んだ冒険者の遺品を検めて、本物か偽物か、誰のものだったかを見極め、しかるべき遺族に返すこと。


 金にはならない。死んだ人間の古びた短剣に大金を払う客はいないからだ。同業からは「墓守」と呼ばれ、今日のように鼻で笑われる。それがFランク遺品鑑定士の毎日だった。


 その日の夕方。


 ベルも鳴らさず、店の扉が開いた。


 「……こちらに、鑑定をお願いしたいのです」


 立っていたのは、まだ十七、八の少女だった。


 上等だが着古した外套。喪を示す黒いリボンで束ねた金髪に、空色の瞳。その腕に、細長い包みを赤子のように抱えている。布越しにも分かる。剣だ。


 「七軒、回りました」


 少女は静かに言った。


 「大通りの鑑定室にも、ギルドにも行きました。どこも扉さえ開けてくれなかった。ここが八軒目です。……遺品専門と聞いて来ました。これは、兄の遺品ですから」


 目の下に隈があった。何日もまともに眠っていない顔だ。それでも瞳だけは、まっすぐ俺を見ていた。


 「……座ってくれ。話はそれからだ」


 少女は包みを卓に置き、深々と頭を下げた。


 「フィーネと申します。フィーネ・ブレイナー」


 ――ブレイナー。


 その姓を、この国で知らない人間はいない。


 「兄の名は、アルヴィス・ブレイナー。……ご存じですよね」


 知っているも何もない。


 勇者アルヴィス。十五年前に始まった大厄災――魔王領からの魔物の大侵攻を、五年前に終わらせた男。魔王を討った、この国でただ一人の勇者。


 そして三ヶ月前、討伐の傷が癒えぬまま病で死んだと、国中が喪に服した英雄だ。国葬の日は、この場末の路地にまで鐘の音が届いた。


 「これは兄の愛剣です。聖剣は国にお返ししましたから、兄の手元に残った最後の剣。……この剣が兄のものだと証明する鑑定書が、どうしても要るんです。事情は、その、込み入っていて――」


 「事情は後でいい。まずはモノを見せてくれ」


 鑑定できるかどうかは、モノを見てから決める。それが流儀だ。


 フィーネが布を解いた。


 現れたのは、飾り気のない一振りの長剣だった。


 柄の革は握り込まれて黒ずみ、鍔には細かい傷が無数に走っている。だが刃には曇り一つない。毎日、手入れされていた剣だ。持ち主が死ぬ、その日まで。


 「……いい剣だ」


 思わず、そう呟いていた。


 俺は片眼鏡の位置を直し、白手袋を嵌めようとした。


 ――遺品には、素手で触れるな。


 じいさんに叩き込まれた、鑑定士の第一の躾だ。理由を訊いても「死者に礼を欠くな」としか答えなかったが、俺は今まで一度だって破ったことがない。


 なのに。


 その剣に限って、まるで柄のほうから呼ばれるように――気づけば、素手で触れていた。


 瞬間。


 片眼鏡が、燃えるように熱くなった。


 「なっ――」


 レンズ越しの世界が、青白い燐光に染まる。店が消える。フィーネが消える。足元から突き上げるような浮遊感。そして――


 ――雨。


 俺は、雨の中に立っていた。


 夜だ。石畳。冷たい雨が頬を打つ。いや、違う。これは俺の頬じゃない。


 視界の端で、見覚えのある剣が雨を弾いた。今しがた触れたばかりの、あの長剣。それを握るこの手は、俺の手じゃない。


 ――これは、死んだ男の見ていた景色だ。


 そう理解した瞬間、口が勝手に動いた。低く、掠れた、俺のものではない声で。


 「……そうか。お前たちだったのか」


 視線の先、雨の幕の向こうに、誰かが立っている。


 顔は見えない。暗すぎる。ただ、街灯の魔光を受けて、袖だけが浮かび上がっていた。


 白い、袖だ。雨の夜だというのに、泥はね一つない純白の法衣の袖。


 いや――ひとりじゃない。


 雨音の膜の向こうで、気配が増えていく。左の路地に一つ。右の軒下に一つ。背後の屋根の上に、もう一つ。この身体は、囲まれている。


 「――お前たちは、殿下まで謀るのか」


 声が、そう言った。アルヴィス・ブレイナーの声が。


 白い袖が、緩やかに持ち上がる。何かの印を、結ぶように。


 ――瞬間、剣が重くなった。


 鉛のように。いや、違う。腕そのものが持ち上がらない。体の芯で燃えていたはずの熱が、栓を抜かれた水のように抜け落ちていく。力が――外から、堰き止められていく。


 それでも、この人は剣を下ろさなかった。


 沈む手。落ちる腰。踏み込みの直前の、静かで完璧な構え。全身の血が沸騰するような怒りと、それを上回る、氷のような悲しみ――


 そこで、視界が砕けた。


 「……っ、は……!」


 気がつくと、俺は帳場の床に膝をついていた。


 鼻の奥から生温かいものが垂れて、床に赤い点を作る。心臓が耳のすぐ裏で鳴っている。片眼鏡は、まだ微かに熱かった。


 「だ、大丈夫ですか!?」


 フィーネが俺の肩を支えていた。その顔を見上げて、俺は確信する。


 視えたのだ。この剣に残っていた、持ち主の最期の記憶が。雨も、怒りも、悲しみも、この身体で。


 「……フィーネさん。あんた、兄さんは病で死んだと言ったな」


 「え……ええ。国も、そう発表して――」


 「違う」


 俺は袖で鼻血を拭い、卓の上の剣を見た。雨の夜、最後まで抜き身で戦おうとしていた、勇者の剣を。


 「あんたの兄さんは、病死じゃない。――殺されたんだ」


 フィーネの息を呑む音が、狭い店に落ちた。


 沈黙。答えの代わりに、俺は剣を鞘に納めて返そうとして――


 動けなかった。


 右手が、柄を離さない。それどころか。


 気づけば俺は立ち上がり、剣を握ったまま、深く腰を沈めていた。踏み込みの直前の、静かで完璧な構え。さっき、雨の記憶の中で「彼」が最期に取った、あれと寸分違わぬ形で。


 剣なんて、握ったこともないのに。


 「……なんだ、これ」


 俺の身体が――勇者の剣を、覚えている。

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