白の来訪者
純白の法衣の青年は、こちらの返事を待たず、大盾へと歩み寄った。
『――坊主。ミレイユを、そいつから離せ』
グレンの声が、地鳴りのように低くなった。さっきまでの豪放さは欠片もない。これは、戦場の声だ。
奥の間から聞こえていた夕餉の支度の音が、ぴたりと止んだ。フィーネが気配を察して、ミレイユをそのまま奥に留めてくれている。……いい判断だ。青年は戸の向こうを気にする様子もなく、黒手袋の指を組んで、恭しく一礼した。
「申し遅れました。聖印庁査問局、審問官シリル・アンヴェルグと申します。……ああ、どうぞ構えず。今日は検分に伺っただけですので」
「検分も何も、審問官どの。その盾はギルド管轄の冒険者遺品です。正式な鑑定と裁定を経て、相続人に返還済みだ」
ガルドが返還証書を掲げた。シリルは書面に目を走らせ、あっさりと頷いた。
「書類は、正しい。……ですが鑑定士殿はご存じですか。認定英雄の遺品は、英雄紋に連なる聖遺物として、庁の検分権が及びます。建前上は、ですが」
「建前で人の店に入ってこられても困る」
「では本音を」
シリルは微笑んだまま、大盾の縁に黒手袋の指先を、すっと滑らせた。左目の周りの銀の紋様が、ほんの一瞬、光を帯びた――ように見えた。
「……なるほど。静かなものだ」
何が、とは言わなかった。青年は盾から手を離し、初めて真っ直ぐに俺を見た。作り物めいた顔の、温度のない目だった。
その目が、ふと、俺の胸元で止まった。銀の片眼鏡の上を、視線がゆっくり一往復する。
「……良い品をお持ちだ。ずいぶんと、古い意匠の」
「祖父の形見です」
「そうですか」
それきりだった。だが黒手袋の指先が一瞬、何かを確かめるように動いたのを、俺は見逃さなかった。
「英雄の遺品を漁る鑑定士。――あなたの噂は、庁にも届いています。勇者の剣の審問。先日の懲戒審査。丸腰のあなたが剣客を制した、その時に立ち上ったという青白い光。傍聴人が口々に言うのです。あれは勇者様の型だった、と」
「火事場の馬鹿力に、皆さんの見間違いが乗っただけです」
「そういうことに、しておきましょう」
シリルは食い下がらなかった。それが、かえって不気味だった。信じたのでも、諦めたのでもない。今日のところは要らない、という顔だった。
審問官は扉口で足を止め、振り返った。
「良い店だ。死者に敬意のある店は、好ましい。……それを、暴くのでない限りは。――ではまた。近いうちに」
呼び鈴の音を残して、白い背中が夕闇に消えた。
「……行ったか」
俺は詰めていた息を吐いた。隣で、琥珀色の大男が唸る。
『坊主。ありゃあ、堅気の役人じゃねえ。立ち方で分かる。あの若造、人を斬れる側の人間だ』
「元英雄の勘ってやつですか。……グレンさん、もう一つ聞きたい。あんた、あの白装束に見覚えは」
『それだ』
グレンは太い眉を寄せ、こめかみの辺りを拳でごりごりと擦った。
『ある――気がする。法衣そのものじゃねえ。白装束なんぞ、授紋式で嫌ってほど拝んだ。そうじゃなくて……あの立ち方だ。あの間合いの詰め方だ。俺はどこかで、ああいう手合いと向き合ってる。喉まで出かかってるのに、掴めねえ』
「あんたが死んだ夜のことは」
『……駄目だ』
長い沈黙の後、グレンは首を振った。
『思い出せねえ。死んだ晩のことどころか、その前の幾日かが、まるごと霞の向こうだ。酒場で誰と飲んだかも、あの路地に何で座り込んだのかも。……妙な話だろう。五年前の北門は昨日のことみてえに思い出せるのに、だ』
死の間際の記憶だけが、綺麗に抜け落ちている。
偶然か? それとも、死者の記憶とはそういうものなのか。あるいは――抜き取られたのか。熱と一緒に、栓を抜かれたように。
俺の背筋を、夏だというのに冷たいものが伝った。
翌日から、鑑定所に小さな通い雇いが増えた。
「おじさん、帳場の埃がすごい。あと待合の椅子、がたがたするのが二脚あった」
学校帰りのミレイユは、店に着くなり大きすぎる前掛けの紐を締め直し、くるくると働く。フィーネと番号札を作り直し、客に麦湯を出し、しまいには帳簿の字の癖まで直された。給金は銅貨少々と――店の奥の大盾を、毎日磨く権利。本人がそう決めた。
「よし。今日もぴかぴか」
布で丁寧に鋼を拭う娘の、すぐ隣。いつも琥珀色の大男が、胡座をかいて座っている。
『……なあ、坊主。俺はつくづく果報者だな』
手は届かない。声も届かない。娘は父がそこにいることを、知りもしない。それでもグレンは毎日同じ場所に座って、娘の鼻歌を聞いている。
世界で俺一人だけが知っている、この店の一番静かな幸福だった。
三日後の夜、店じまいの後で、ガルドが「これで貸しが四つだぞ」と言いながら扉をくぐってきた。その顔色で、報せが二つとも重いことは分かった。
「まず一つ。バルガスが消えて、差し止めが解けた。グレン・ドゥーガルの検死記録だ」
卓に置かれた写しを、俺は片眼鏡越しに検めた。死因、凍死。外傷なし。争った形跡なし。そして遺体所見の欄に――英雄紋の記載が、ない。
「認定英雄の検死ならな、紋の位置と状態は必ず記録される。決まりだ。それが丸ごと書かれてねえ。……勇者様と、同じだ」
『おい、待て。つまり何か。俺の胸からも、紋が消えてたってのか』
グレンが自分の胸を見下ろした。琥珀色の霊体の、厚い胸板を。そこに在ったはずの英雄の証を。
「二つ目は」
「……悪い報せだ。勇者様の検死を酔って漏らした記録係、いたろう。十日前、川で上がった。酔って足を滑らせた――ってことになってる」
店の中が、静まり返った。
勇者の死。グレンの死。どちらも熱を抜かれたような最期で、どちらも紋が消え、どちらも綺麗に処理された。そして、その綻びを喋った男は、川に浮かんだ。
箝口令は、実在する。それも「漏らした者が死ぬ」形で。
『……坊主』
グレンの声は、静かだった。
『俺の未練は、もう済んだ。娘に真実が届いた。上等な死後だ。……だがな、こうなると話は別だ。俺と勇者の坊やを殺った奴が、この王都のどこかで、まだ英雄を殺してやがる』
「ええ。……乗りかかった船じゃない。これはもう、俺の店に持ち込まれた依頼だ」
死んだ英雄が二人、揃って同じ手口。なら三人目は、必ずいる。過去か――これからか。
答えは、思ったより早く、瓦版に載って届いた。
翌夕、ピナが店に駆け込んできた。刷りたての紙面が二枚、帳場に叩きつけられる。一枚目は一面の大見出しだった。
『剣聖ヴァン・シュトラール、五年ぶり王都帰還へ』
「フィーネさん、この人って確か」
「……はい。ヴァンさん。兄さんの隊にいた、剣士の人です」
生きた認定英雄の最高峰が、この街に帰ってくる。フィーネの声が硬いのは、懐かしさだけが理由じゃないだろう。
そして二枚目。ピナが指したのは、隅の小さな訃報だった。
『闘技場の華「双剣のリタ・アッシュフォード」急死。享年二十六』
「……また、英雄が死んだ」
(第二章 了)




