北門の英雄
北区の物置部屋の戸を叩くと、大きすぎる前掛けの少女が顔を出した。
息を切らした俺と、フィーネの顔を交互に見て、ミレイユは何かを察したらしい。前掛けの裾を、ぎゅっと握った。
「――でかい音、鳴ったぞ」
俺はしゃがんで、目線を合わせた。
「公開の審査で、全部証明された。五年前の北門で、撤退命令はちゃんと出てた。あんたの父さんは命令に背いてない。それどころか、仲間を先に逃がすために、自分から最後尾に残った。……盾の傷、三百七十一。全部正面。あの盾は最後まで、誰かを庇ってた盾だ」
「…………」
「嘘だと思うなら、明日の瓦版を見ろ。ギルドが正式に、軍へ再調査を出した。もう誰にも覆せない。あんたの父さんは臆病者じゃない。北門の殿――みんなを逃がした、本物の英雄だ」
ミレイユは、しばらく動かなかった。
やがて、口がへの字に曲がって、ふるふると震えだした。泣き方を我慢する癖のついた子供の、いつもの顔だった。だが今日は、我慢の堤防が持たなかった。
「っ……ほんとに? ほんとの、ほんとに……?」
「ああ。ほんとの、ほんとだ」
少女は声を上げて泣いた。五年分、まとめてだった。フィーネがその小さな背中を抱きしめて、俺はただ、泣き止むまで待った。
この泣き声を聞かせたかった人は、もうここにいない。
――その時の俺は、まだそう思っていた。
数日後、ギルドの公示板に再調査の結果が貼り出された。
撤退命令の刻限は戌の刻と訂正。グレン・ドゥーガルの「持ち場放棄」の記録は抹消。殿は志願によるものと認定し、戦没した守備隊員らと同等の栄誉を認める――。
瓦版は三日続けて一面だった。『北門の臆病者は、北門の殿だった』。酒場の笑い話は一夜で武勇伝に変わり、あの叔母は手のひらを返して「うちの姪はね、英雄の娘なんですよ」と近所に吹聴して回っているという。現金なものだ。
そして今日、鑑定所の帳場に、ガルドが返還証書を広げていた。
「遺品、大盾一枚。正式な鑑定完了により、相続人ミレイユ・ドゥーガルに返還する。……署名の横にな、判子の代わりに手形を押してくれ。こういう書類は、本人の印が残ってたほうがいい」
朱肉を押された小さな手が、証書にぺたりと収まった。
ミレイユは布の外された大盾の前に立ち、傷だらけの鋼を見上げた。彼女の背丈の、倍以上もある。
「……おかえり、お父さん」
そっと、盾に触れた。
その、瞬間だった。
盾が、光った。
琥珀色の燐光が、堰を切ったように溢れ出す。見覚えのある光景だった。勇者の剣の時と同じ――温かい光の粒が川のように宙を渡り、俺の胸へ、流れ込んでくる。
「ロイドさん!?」
フィーネの声が遠い。熱くはない。ただ、重い。どっしりと、岩のように、だが不思議と苦しくない重さが、胸の奥に一つ、加わっていく。
光が収まった時、俺は無意識に半歩、ミレイユたちの前に出ていた。
腰が落ち、両足が床に根を張り、半身が壁になる。知らない構えだった。なのに身体は知っている。受ける角度、逸らす角度、背後の誰かを死角に入れる立ち位置――守りの型が、俺の身体に書き込まれている。
そして。
『……よお』
声じゃ、なかった。
いや、声もした。だがそれだけじゃない。帳場の横、大盾のすぐ隣に――男が、立っていた。
琥珀色に淡く光る、山のような大男。無精髭、太い眉、岩を削ったような笑い皺。半年前に路地で死んだはずの男が、生前の姿のまま、そこにいた。
『鑑定士の坊主。……世話んなったな』
「……グレン、さん」
思わず声に出た。フィーネとガルドが弾かれたように振り向き、俺の視線の先を見る。二人には、何もない空間だ。ミレイユだけが、盾に触れたまま、きょとんと俺を見上げていた。
視えているのは、俺だけ。
アルヴィスの時は、声だけだった。それも一度きり、遠く、掠れて。だが今、目の前の男は、輪郭までくっきりと視えている。同じ「継承」のはずなのに、何が違う?
『さあな。俺に聞くな』
グレンは俺の内心を読んだように、のっそりと肩をすくめた。
『気づいたら、ここに立ってた。それだけだ。……ただ、なんとなく分かる。俺はもう、思い残しがねえ。だから軽いんだ。魂ってやつがな』
核心的な未練が、解けたから。
娘に「逃げなかった」と伝えたい――その願いが、誰にも覆せない形で果たされたから。この人は消えるんじゃなく、こうして残ったのか。
なら――継いだのに、声しか届かなかったあの人は。アルヴィスはまだ、何かを重たく、残しているのか。
『それよりも、だ』
グレンの目が、俺から逸れた。
大盾の前の、小さな娘に向いた。琥珀色の巨体が、音もなく歩み寄る。ミレイユは気づかない。父親が真横に立っても、まったく、気づかない。
『……でかくなったなあ』
霊の目が、ふと、娘の前掛けのポケットに留まった。使い込まれて角の丸くなった、木彫りの熊が覗いている。
『……持ってて、くれたのか。あんな下手くそな熊』
彫りかけの子熊は、あの凍える路地で失われた。だが先に渡した一匹は、五年間、罵声の中でもずっと、この子のポケットにいたのだ。
節くれだった大きな手が、そばかすの浮いた頬に伸びて――すり抜けた。
何度も、何度も、すり抜けた。
グレンは笑ったままだった。笑ったまま、いつまでも娘の頬の高さで手を止めていた。俺は奥歯を噛んで、その光景から目を逸らした。これを、伝えてやれない。視えると明かせば、この子は「お父さんと話して」と泣くだろう。十歳の口に、この秘密は重すぎる。
「おじさん? どうしたの」
「……いや。なんでもない」
代わりに、俺は用意していたものを取り出した。盾の縁から欠け落ちていた、親指ほどの鋼の欠片。磨いて、革紐を通してある。
「大盾は、まだあんたには重すぎる。だからこいつを、代わりに」
「盾の、かけら……」
「三百七十一のうちの、一つ分だ。首から提げとけ。……父さんの盾は、これからもあんたを守る」
ミレイユは欠片を両手で受け取り、それから、大盾を見上げて言った。
「大きいほうは、おじさんの店に置いて。あたし、毎日見に来るから」
隣で琥珀色の大男が、破顔した。
『はっ。そいつは名案だ。――なあ坊主、悪いが当分、居候させてもらうぜ』
こうして場末の鑑定所は、看板娘と、誰にも視えない用心棒を、いっぺんに雇い入れることになった。
その日の夕暮れだった。
フィーネはミレイユを連れて、奥の間で祝いの夕餉の支度をしている。店表に残っていたのは、俺とガルド、それに琥珀色の居候だけだった。
店じまいの間際、扉の呼び鈴が鳴った。
入ってきた客を見て、俺は――俺よりも先に、グレンの霊が、低く唸った。
純白の法衣。黒い手袋。銀の髪。歳の頃は二十をいくつか出たばかりの、作り物めいて整った顔の青年だった。その左目の周りに、銀の刺青のような紋様が、薄く刻まれている。
青年は店内を一瞥し、大盾の前で足を止め、それから、微笑んだ。
「――失礼。その盾は本来、聖印庁の管理物のはずですが」




