7 家出先での束の間の自由
義父が言っていたように、私は家の仕事を手伝っていた。それは身一つで逃げ出した後、働いて生きていく術を身につけるためだ。
祖父母と母の手伝いと言うか、実質肩代わりで経営の大まかな勉強はさせてもらえたけれど、そもそもそういった経験がゼロの二人に任されていたのは、そこまで大きな仕事ではない。
一応祖父の会社は大企業で、経営企画部等の経営の中枢部署にはベテラン社員も大勢おり、社長の身内として入ってきた祖父母たちより、彼らが担う仕事の方が重要だった。
だからこそ私は忙しい彼らが出来ない、少額の仕入れ先の現地に担当営業と一緒に足を運んだり、下請けの中小企業の方々と腰を据えて深く話す機会も得られたのだ。
私は隣国の腕の良い雑貨職人で、昔は尖っていたらしいが今は好好爺のおじいちゃんと、仕入れの商談の際に仲良くなっていた。
おじいちゃんは作る方に能力を振り切っているので、お店を企業として大きくするのは息子さんとその奥さんだった。
このご家族は私の「将来家業を継いだ時のために勉強させてください」という言い訳を、背景まで察して受け入れてくれた。
それは声に出すことはなかった。もし私の家族が私を捕まえにきた場合、「ええ〜!ジャッド様、ご家族のご了承を得ていなかったのですか〜!?知りませんでした〜」という体で、今後も祖父の会社と取り引きを続けるためだ。
私は裏方で奥さんと、事務仕事や企画を主に担当した。
息子さんは営業が主で、新規取引先開拓や、既存取り引き先のフォローや取り引き拡大、後進の育成なども担っていた。
おじいちゃんは製作と弟子の育成をしていた。
裁量が大きい分、それぞれの領域でフルに能力を発揮した。
奥さんはやり手で、経費の削減が出来る部分の発見や仮説だて、その根拠の情報収集、それらを組み合わせて代替案の提案などを息子さんと協議して、どんどん事業をブラッシュアップしていった。
おじいちゃんたち職人が作成出来る数は限られているので、作成した雑貨とテーマを合わせて、仕入れた家具なども販売していた。
若い女性用の櫛や手鏡と、ドレッサーを合わせて提案するというような形だ。
私は机上のお勉強や、家の名前を生かした大企業としての取り引きではない、新興企業のスピード感あるビジネスを体感して、毎日が刺激的で楽しかった。
二年目にはお店も雑貨・インテリア企業として規模が大きくなった。私も奥さんから仕事を分けてもらい、息子さんへの提案も出来るようになっていた。
三年目には、自分が提案した案件で、息子さんの商談に同席させてもらえる機会も出てきた。それがいけなかった。
取り引き先で実家の営業の社員と、たまたま会ってしまったのだ。




