第98話:祝宴の準備。ハンスの隠し味と、エルナの感謝の乾杯
第98話:祝宴の準備。ハンスの隠し味と、エルナの感謝の乾杯
二〇二六年八月二六日、午後八時。
新橋の雑居ビル、その三階にあるエルナの事務所。窓を開ければ、下からは日常を取り戻したサラリーマンたちの笑い声と、ガード下を走る電車のジョイント音が、心地よい通奏低音となって流れ込んでくる。
「……ハンス。聴こえるか。……今夜のまな板の音は、いつになく『跳ねて』いる。……貴公の指先も、ようやく重力から解放されたようだな」
「……ええ。……エルナ様、今夜は特別です。……市場の連中が、街を救ったお礼にと、最高の『初物』を担いできてくれましてね」
ハンスが取り出したのは、新橋の老舗魚屋が「これぞ江戸前」と胸を張った、丸々と太った真鯛。そして、地下の「黄金の出汁」を浄化した際にハンスが抽出した、究極の『根源の昆布』だ。
ハンスは、使い込まれた包丁で鯛を下ろしていく。
——……サクッ、サクッ……。
その断裁音は、パノプティコンの冷徹な切断音とは正反対の、命を慈しみ、新たな価値を与えるための「創造の音」だった。
エルナは**『彗星銀』**の箸を、今夜は武器としてではなく、ただの一膳の箸として食卓に並べた。
「……警部も、そんなところで突っ立っていないで、座るがいい。……今夜は法も秩序も関係ない。……ただ、旨いものを食う『住人』としてな」
山本の差し入れは、地元の酒屋で手に入れた「新橋」の名を冠した地酒。
「……ふん。……署の連中には内緒だぞ。……俺は、この街の『不協和音』を取り締まるのが仕事だが……。……今夜のこの、出汁の香りは……俺の管轄外だ」
ハンスが土鍋の蓋を開けた。
立ち上る湯気と共に広がったのは、鯛の身から溢れ出した脂と、極上の昆布が織りなす、天上の芳香。
「……さあ、出来上がりました。……新橋・再生の『鯛めし』です」
エルナは、彗星銀で一口、その炊きたての米を運んだ。
「……ッ!! ……ハンス……。……聴こえる。……米の一粒一粒が、出汁の旨味を抱えて歓喜の合唱を上げている。……アステリアの王宮でも、これほどの『完璧な調和』は聴いたことがない」
三人は、山本の持ってきた酒で、静かに杯を合わせた。
「……新橋に、そして……この街のすべての『雑音』に。……乾杯」
エルナの絶対聴覚が捉えたのは、ビルを揺らす電車の音に重なる、ハンスと山本の満足げな「ごちそうさま」という響き。
それは、どんな名曲よりも、エルナの魂を深く調律していくのだった。




