第99話:別れの旋律。アステリアへの帰還の門と、エルナの選択
第99話:別れの旋律。アステリアへの帰還の門と、エルナの選択
二〇二六年八月二六日、午後十一時。
祝宴の余韻が残る事務所のベランダ。新橋の夜風に吹かれていたエルナの**『彗星銀』**が、突如として青白い光を放ち、共鳴を始めた。
烏森神社の真上、夜空の一点が歪み、かつて彼女が通り抜けてきた次元の裂け目——アステリアへの帰還の門が、静かにその口を開いたのだ。
「……ッ!? ……聴こえる。……アステリアの、あの清廉すぎて、どこか寂しげなハープの旋律が……」
ハンスが、洗い物をしていた手を止め、窓辺に歩み寄る。山本の表情も、酒の酔いが一瞬で吹き飛んだように引き締まった。
「……エルナ様。……門が開きましたね。……パノプティコンの不協和音が消えたことで、世界の調律が一時的に正常化されたのでしょう。……今なら、貴女は故郷へ帰れます」
ハンスの声には、迷いも引き止めもなかった。ただ、主の決断を尊重する、忠実な従者としての「静寂」があった。
エルナは、空に浮かぶ青い光を見つめた。
あちら側には、自分が守るべきだった王宮があり、自分が正すべき歴史がある。
だが、彼女の絶対聴覚が同時に捉えたのは、眼下に広がる新橋の、止まらない喧騒だった。
「……ハンス。……聴こえるか。……深夜営業のラーメン屋の麺をすする音。……コンビニのレジが打つ、軽やかなビープ音。……そして、明日を夢見て、あるいは絶望して、それでもこの街を歩く人々の、泥臭い足音を」
エルナは彗星銀を、まるで慈しむように掌で転がした。
「……私は、まだこの街のすべてを聴き終えていない。……いや、聴くどころか……」
彼女の脳裏をよぎったのは、松屋の牛めし、喫茶店かもめのナポリタン、そして数えきれないほどの新橋の「旨味」だった。
「……私は、まだこの街の『アジフライ』のバリエーションをすべて制覇しておらぬ! ……ガード下の煮込みの深淵も、裏路地のカレーの隠し味も、まだ私の胃袋は『満腹』とは言っておらんのだ!」
エルナは空の門に向かって、不敵に笑い飛ばした。
「……ハンス! 帰還の門など、勝手に閉じさせておけ! ……私はアステリアの騎士である前に、この新橋という『巨大な厨房』の常連客なのだ。……貴殿も、まだ私に作らねばならぬ料理が、山ほどあるだろう?」
「……ククッ。……そう仰ると思って、明日の朝食の仕込みはもう済ませてありますよ、エルナ様」
空の光は、エルナの決意に気圧されるように、ゆっくりと、しかし名残惜しそうに消滅していった。
山本警部が、呆れたように、しかしどこか嬉しそうに煙草をくゆらせる。
「……ったく、食い意地の張った騎士様だ。……だが、新橋の治安を守る身としては、その『食欲』、頼りにしてるぜ」
新橋の夜空に、再び日常の闇が戻ってきた。
エルナは、彗星銀を力強く鞘へ収めると、明日の献立を夢見ながら、深い眠りへとついたのである。




