第88話:新橋、まどろみの午後。届かなかった郵便物と、山本警部の『差し入れ』
第88話:新橋、まどろみの午後。届かなかった郵便物と、山本警部の『差し入れ』
二〇二六年八月二五日、午後二時。
松屋で胃袋を満たし、泥のように眠りについてから数時間。新橋の事務所に差し込む西日は、埃の舞う室内を黄金色に染め上げていた。
エルナはソファに倒れ込んだまま、ハンスは椅子の背もたれに頭を預けたまま、静かな寝息を立てている。パノプティコンの電子音も、地下の脈動もない、ただの「ありふれた午後の静寂」がそこにはあった。
——コン、コンコン。
遠慮がちだが、リズムの整ったノックの音。
エルナの絶対聴覚が、その音の中に混じる「使い込まれた革靴の軋み」と「重い溜息」を捉え、彼女の意識をゆっくりと浮上させた。
「……警部か。……鍵は開いているぞ。勝手に入って、勝手に茶でも淹れてくれ」
エルナが掠れた声で応じると、扉が開いた。入ってきたのは、顔中に無精髭を蓄え、目の下に隈を作った山本警部だった。その手には、新橋の老舗『櫻田』の包み紙に包まれた**『特製たい焼き』**が握られている。
「……生きてたか。……地下であれだけの騒ぎを起こしておいて、呑気に昼寝とはいい身分だな、貴様ら」
「……山本警部。……お疲れ様です。……たい焼きの、香ばしい『焦げ』の音が聴こえますね」
ハンスも目を擦りながら起き上がる。山本はぶっきらぼうにたい焼きの包みを机に置くと、ポケットから一通の、少し煤けた封筒を取り出した。
「……差し入れはついでだ。……こいつを届けに来た。……例の連続放火事件(第75話)の現場……あのカレーの家のポストの隅に、焼け残って挟まってたやつだ。宛先はここになってやがった」
エルナは、手元に引き寄せた**『彗星銀』**の箸で、そっとその封筒に触れた。
——……カサッ。
箸を通じて伝わってきたのは、電子のノイズではなく、人の手で丁寧に綴られた「感謝の振動」だった。
差出人は、あのカレーを食べていた家族。放火の魔の手が迫る直前、彼らはエルナたちが新橋の事務所へ戻ったという噂を聞き、感謝の言葉を綴っていたのだ。
『……私たちの日常を守ってくれてありがとう。また、美味しいカレーを作れる日が来たら、ぜひ食べに来てください』
短い言葉だったが、その一文字一文字が、エルナの心に染み渡っていく。パノプティコンとの戦いで削り取られた彼女の精神が、この「届かなかったはずの言葉」によって、ゆっくりと修復されていくのを感じた。
「……警部。……わざわざこれを届けるために、現場へ戻ったのか?」
「……ふん。……鑑識が漏らしたゴミを拾うのも、デカの仕事だ。……さあ、食え。冷めると皮の『鳴り』が悪くなるぞ」
三人は、西日の差し込む事務所で、たい焼きを頬張った。
尻尾まで詰まった餡子の甘さと、山本が淹れた少し濃すぎる茶。
新橋の平和は、こういう「小さな、しかし確かな手触り」の積み重ねでできている。
エルナは窓を開け、再び動き出した街の雑音を聴いた。
そこにはもう、パノプティコンの影はない。……だが、絶対聴覚が捉えた風の音の中に、遠いアステリアの空を思わせる、澄んだ一音が混じっていた。
「……ハンス。……世界はまだ、調律を必要としているようだな」
「……ええ。……ですが、まずはこのたい焼きを完食してからにしましょうか」
まどろみの午後は、次の戦いへの、静かな序曲でもあった。




