第8話 観測番号A
制限区域の解除作業は、静かに進んだ。
神殿騎士たちは最低限の報告だけを済ませ、負傷者の搬送を優先する。誰もが疲れ切っていて、余計なことを口にする余裕はなかった。
――それでも。
視線だけは、確かに僕の方へ何度も向けられていた。
「……噂になるわね」
帰路につきながら、リアが小さく言った。
「今回の件は、“勇者が立て直した”って形で処理されるはず。でも」
言葉を切る。
「現場にいた人間は、忘れない」
僕は、何も答えなかった。
忘れてほしい、とは思わない。
でも、覚えられたいわけでもない。
ギルドに戻ると、すでにドグラスが待っていた。
表情は険しいが、怒りではない。
「終わったか」
「はい。最小限で」
リアが答える。
「……そうか」
ドグラスは、深く息を吐いた。
「神殿から連絡が来た。正式な礼も、謝罪もなし。ただ一言――」
彼は、こちらを見た。
「**“記録は取った”**とな」
胸の奥が、ひやりとした。
「記録……?」
「詳細は不明だがな」
ドグラスは、腕を組む。
「だが、神殿がそういう言い方をする時は決まってる。上に話が行った」
上。
神官長でも、大神官でもない、そのさらに先。
「アレン」
低い声。
「しばらく、大きな依頼は受けるな」
「……分かりました」
「目立つな。勝つな。生き残れ」
矛盾した命令だった。
でも、不思議と納得できた。
その夜。
ギルドの奥、誰も使っていない小部屋で、リアは水晶盤を広げていた。
「……やっぱり、出てる」
盤面には、細かな光の線が走っている。
その中心に、赤い記号が一つ。
【Observation Target:A】
「……A?」
「ええ。仮番号」
リアの声は、硬い。
「観測対象の中でも、最優先。理由は――」
彼女は、少しだけ言い淀んだ。
「**原因不明の結果を、複数回出した存在**」
喉が、鳴る。
「名前は?」
「まだ、ない」
リアは、盤面を閉じた。
「今は、ただの“現象”として扱われてる。人格も、意思も、考慮されてない」
それは、僕が一番恐れていたことだった。
「……物みたいだ」
「ええ」
否定はしなかった。
「だからこそ、役割が必要なの」
彼女は、僕を見る。
「鑑定士補助。ギルド所属。管理対象外の“個人”」
役割。
立場。
名前。
「それでも、限界はある」
リアは、静かに続けた。
「あなたが動くたび、世界はズレる。今回みたいに、ほんの少しでも」
胸が、重くなる。
「……それでも」
僕は、口を開いた。
「誰かが困っているなら、僕は――」
「分かってる」
リアは、被せるように言った。
「だから、私はあなたの側にいる」
その言葉が、胸に沁みた。
翌朝。
神殿の最奥、白い回廊のさらに奥。
円形の部屋に、数人の影が集まっていた。
「――観測番号A」
低く、機械的な声。
「発生条件:不明」
「再現性:低」
「影響範囲:局所」
光の板に、制限区域の地図が映し出される。
「勇者パーティの失敗後、異常は沈静化」
「原因は?」
沈黙。
やがて、一つの声が言った。
「**勇者ではない存在**」
「不確定要素だな」
「排除すべきか?」
その問いに、即答はなかった。
「……まだだ」
別の声が言う。
「観測を続行する。干渉は最小限に」
「番号Aの次の行動を予測せよ」
光が、ゆっくりと収束する。
「――世界条件への影響率、上昇中」
その頃、僕はギルドの裏庭で、静かに呼吸を整えていた。
風が、頬を撫でる。
ただの風だ。
でも、確かに“通る”。
力は、使っていない。
それでも、胸の奥で何かが脈打っている。
見られている。
記録されている。
それでも。
「……俺は、俺だ」
小さく呟く。
番号でも、現象でもない。
名前のある存在として、ここに立っている。
空の向こうで、雲がゆっくりと流れた。
世界は、まだ平然と回っている。
だがその歯車の隙間に。
確かに――“空白”が、一つ噛み込んでいた。




