第29話 優しさが壊したもの
町は、少しだけ息を吹き返した。
瓦礫は仮止めされ、井戸の水も最低限は使える。
人々は「助かった」と口にするが、表情は晴れない。
それも当然だった。
何も終わっていないからだ。
「……すごいね」
イリスが、ぽつりと呟く。
「私が触ったのに、壊れなかった」
その声には、微かな希望が滲んでいた。
だが――
「壊れてる」
はっきりと言う。
彼女の肩が、びくりと跳ねた。
「止まっただけだ」
「直ったわけじゃない」
リアが、静かに補足する。
「ここから先は、“どうするか”を決め続けなきゃいけない」
イリスは、唇を噛んだ。
「……決めたら」
「また、誰かが傷つく?」
「うん」
否定しない。
「多分、必ず」
残酷だが、嘘はつかない。
それでも、彼女は逃げなかった。
それが、昨日までとの決定的な違いだった。
「……私がやる」
小さな声。
「でも、全部は無理」
「全部、やらなくていい」
肩に、そっと手を置く。
「一つずつだ」
その日の午後、最初の選択が来た。
町外れの斜面。
歪みが集中し、土砂崩れの兆候が出ている。
「ここを固めれば、中心部は守れる」
リアが、地形を見ながら言う。
「でも」
住民の代表が、声を上げる。
「斜面の下には、三軒家がある」
「固めたら、あそこが巻き込まれる」
三軒。
少ないが、確実な犠牲。
「逆に、何もしなければ」
リアが続ける。
「町全体に、被害が広がる」
静まり返る。
選択肢は、二つ。
どちらも、最悪だ。
イリスが、震える手で胸を押さえる。
「……だから」
「私は、決めたくなかった」
その言葉は、痛いほど理解できた。
「……イリス」
目を合わせる。
「ここで、選ばなかったら」
「斜面が、勝手に決める」
「……でも」
「選ぶのは、犠牲じゃない」
一歩、前に出る。
「**責任だ**」
住民たちが、こちらを見る。
不安と、期待と、恐怖。
「この町を守るために」
「どこを切るかを、決める」
イリスの呼吸が、乱れる。
「……私に」
「そんな資格、ない」
「ある」
即答。
「ここにいるから」
それだけだ。
沈黙の中で、時間だけが流れる。
斜面が、きしむ音。
イリスは、ついに目を閉じた。
「……下の三軒を」
「避難させて」
声は、震えている。
「斜面を、固める」
住民の代表が、歯を食いしばる。
「……分かりました」
泣き声が、上がる。
三軒の家族が、避難を始める。
イリスが、斜面に手をつく。
力は、まだ拙い。
境界でも、管理でもない。
ただの、選択の結果。
斜面が、止まる。
町は、守られた。
だが。
「……家が」
崩れ落ちる音。
三軒分。
土煙の向こうで、何も言えず立ち尽くす人々。
イリスが、膝をついた。
「……私が」
「私が、壊した……」
違う。
だが、そう言いたくなる気持ちは、分かる。
「……イリス」
彼女の前に立つ。
「それが、“決める”ってことだ」
彼女は、顔を上げる。
涙で、ぐしゃぐしゃだ。
「優しく、したかった」
「誰も、泣かせたくなかった」
「うん」
「でも」
言葉を継ぐ。
「優しさだけじゃ、町は守れない」
その瞬間。
遠くで、角笛が鳴った。
管理官の隊列。
神殿の紋章。
「……来た」
リアが、低く言う。
セドリックの言葉が、頭をよぎる。
――評価される。
これは、評価対象だ。
守った町。
壊れた家。
泣いている人。
全部、記録される。
イリスは、顔を覆った。
「……私、間違えた」
答えは、一つしかない。
「間違えた」
はっきり言う。
「でも、逃げなかった」
それが、境界だ。
管理官たちが、近づいてくる。
視線は、冷静で、容赦がない。
優しさは、人を救う。
同時に、壊す。
その現実を、イリスは初めて背負った。
そして――
背負えたからこそ。
次の判断は、もう避けられない。
境界は、甘い場所じゃない。
そのことを、全員が理解し始めていた。
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