第27話 境界の噂
その噂は、正式な報告書には載らなかった。
神殿の掲示板にも、ギルドの依頼一覧にもない。
酒場で、行商人がひそひそと話す程度のものだ。
「……最近さ」
「決めなかったせいで、町が壊れたって話、聞いたか?」
管理区域の外縁。
中継都市の酒場。
僕とリアは、端の席でその話を聞いていた。
「決めなかった?」
「そう。魔物でも、呪いでもない」
「誰も手を出さずに、様子を見続けた結果……」
行商人は、肩をすくめる。
「被害が、じわじわ広がったらしい」
「最終的に、誰が悪いのかも分からんままな」
胸の奥が、ひくりと鳴った。
――第26話の、続きだ。
「それって……管理が遅れたんじゃ?」
別の男が言う。
「いや、違うらしい」
「管理は“介入不要”と判断したそうだ」
介入不要。
安全。
安定。
聞き覚えのある言葉。
「じゃあ、誰が?」
「知らん」
「ただ……現場にいた奴が言ってた」
行商人は、声を落とす。
「**“誰も選ばなかった”って**」
リアが、こちらを見る。
視線だけで、十分だった。
酒場を出ると、夜風が冷たい。
街灯の光が、石畳を均一に照らしている。
「……境界じゃない」
リアが、低く言った。
「境界“っぽい”けど、違う」
「うん」
頷く。
「選ばなかった結果だ」
境界は、選ぶ。
不完全でも、誰かが引き受ける。
だが、この噂の中心にあるのは――
**判断の先延ばし**。
「……行く?」
リアが聞く。
噂だけを追うのは、正式な仕事じゃない。
管理からの依頼でもない。
つまり――
完全に、自分たちの意思だ。
「行く」
迷いは、なかった。
噂の町は、地図の端にあった。
条件が薄く、管理も曖昧な場所。
着いたとき、町は静かすぎた。
「……人は、いる」
リアが言う。
「でも……動きが遅い」
通りを歩く人々の顔は、疲れている。
怒りでも、恐怖でもない。
**諦め**だ。
「……何があったんですか」
店先の老人に、声をかける。
老人は、少し考えてから言った。
「……何も、決めなかった」
それだけ。
「魔物が出たわけでもない」
「呪いが降ったわけでもない」
視線を落とす。
「ただ……おかしいと思っても」
「“様子を見よう”と言い続けた」
それが、積み重なった。
井戸の水が濁っても。
家畜が痩せても。
家屋が、少しずつ傾いても。
「……誰かが、止めると思ってた」
老人の声は、かすれていた。
「管理が」
「神殿が」
「あるいは……特別な誰かが」
胸が、痛んだ。
「その“誰か”は?」
リアが、静かに聞く。
老人は、首を振った。
「来なかったよ」
町外れ。
歪みは、はっきりと残っていた。
大きくない。
だが、確実に広がっている。
「……これは」
息を吐く。
「境界でも、管理でもない」
**放置**だ。
その時、子どもの声が聞こえた。
「……あの人」
振り返ると、瓦礫の影に、少女がいた。
年は、十代後半。
痩せていて、目だけがやけに大きい。
「……来ちゃったんだ」
少女は、ぽつりと言った。
「また、“決める人”が」
その言葉に、背筋が冷える。
「……君は?」
問いかけると、少女は視線を逸らす。
「……イリス」
それだけ名乗った。
「ここで、何を?」
彼女は、しばらく黙ってから言う。
「……何もしないように、してる」
何もしない。
「誰も、傷つかないように」
「誰も、選ばれないように」
その言葉が、胸に突き刺さった。
それは――
第26話で、僕が選んだ道と、同じだ。
「……それで、町は」
言葉を濁す。
イリスは、小さく笑った。
「壊れてきた」
淡々と。
「でも、まだ大丈夫」
「まだ、決めなくていい」
その目は、真剣だった。
善意で。
恐ろしく、純粋で。
リアが、息を呑む。
「……アレン」
小さく、名前を呼ばれる。
分かっている。
この少女は、
“境界の同類”ではない。
**境界を、誤解した未来**だ。
選ばないことが、優しさだと信じた結果。
噂の正体は、歪みでも、世界でもなかった。
――人の、選択放棄。
そして、目の前にいる少女は、
その中心に立っている。
胸の奥が、重く鳴った。
第2部・第2章は、ここから始まる。
これは、救いの話じゃない。
**間違った優しさと、向き合う話だ。**
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