第18話 観測者の足音
丘の出来事から、数日が過ぎた。
羊の件は、町では「不思議なこともある」で片づけられた。
噂は広がらず、神殿からの問い合わせもない。
――それが、逆に不気味だった。
「静かすぎるわね」
宿の一室で、リアが窓の外を見ながら言う。
「条件が薄い土地とはいえ、完全に無反応なのは……」
「観測が、届いてない?」
「それもある。でも」
リアは、机に広げた地図を指でなぞる。
「**届かなくなった**可能性もある」
その言い方が、胸に引っかかった。
「……切り捨てられた、ってことですか」
「いいえ」
リアは、首を振る。
「切り捨てるには、まだ早い」
「あなたは“危険だけど有用”のままよ」
その時だった。
階下で、扉の開く音がした。
続いて、落ち着いた足音。
旅人のものとは違う。
規則的で、迷いがない。
「……来た」
リアが、低く呟く。
ノック。
間を置かず、扉が開く。
「失礼」
現れたのは、一人の男だった。
年齢は四十代半ば。
神官服だが、装飾は控えめ。肩書きを誇示しない佇まい。
目だけが、やけに静かだ。
「セドリックと申します」
柔らかな声。
「神殿の調整役、のようなものです」
来た。
観測側の“顔”。
「……何の用ですか」
リアが、一歩前に出る。
「ご安心を」
セドリックは、両手を見せた。
「拘束も、命令もありません」
「今日は、ただの挨拶です」
視線が、僕に向く。
「あなたが、アレンさんですね」
「……はい」
「噂は、上でも届いています」
穏やかな言い方だった。
だが、油断できない。
「境界の土地で、問題を起こさずに問題を収めている、と」
問題を起こさずに、問題を収める。
的確すぎる表現だった。
「それは、評価ですか」
リアが問う。
「事実です」
セドリックは、否定も肯定もしない。
「そして、懸念でもある」
やはり、そう来る。
「あなたは、世界を壊す可能性を持つ」
「同時に、壊れた世界を戻せる可能性も持つ」
淡々と、事務的に。
「……だから、来た?」
「ええ」
頷く。
「一つ、お願いがあります」
お願い。
その言葉に、背筋が張る。
「しばらく、この土地に留まってください」
「……監視、ですか」
「いいえ」
セドリックは、少しだけ微笑んだ。
「**隔離**です」
はっきり言われた。
「ここにいれば、あなたは目立たない」
「ここにいれば、被害も最小限に抑えられる」
合理的だ。
そして――
「世界にとって、都合がいい」
口にすると、セドリックは頷いた。
「その通りです」
迷いがない。
「ですが」
彼は、続ける。
「強制ではありません」
「あなたが拒否するなら、それも記録します」
記録。
その言葉が、重い。
「……もし、離れたら?」
「観測が、再開されます」
静かな宣告。
リアが、強く唇を噛む。
「選択を、迫るんですね」
「ええ」
セドリックは、視線を逸らさない。
「あなたが、どこに立つのかを」
沈黙が、部屋に落ちた。
僕は、窓の外を見る。
町の灯り。
人々の暮らし。
ここにいれば、救えるものがある。
離れれば、また歪みが広がるかもしれない。
でも――
「……答えは、今すぐですか」
「いいえ」
セドリックは、静かに言った。
「数日、お待ちします」
彼は、踵を返す。
「考えてください」
「あなたが、**どこに存在するか**を」
扉が閉まる。
リアが、息を吐いた。
「……来たわね、ついに」
「うん」
胸の奥が、静かに重い。
ここに留まれば、安全。
外に出れば、危険。
でも、そのどちらも――
誰かが決めた“正しさ”だ。
夜。
一人で、町外れの丘に立つ。
風が吹く。
薄い条件の風。
遠くで、何かが軋む音がした。
小さな、でも確かな歪み。
観測者は、もう近くにいる。
足音は、静かだ。
だが、確実に――
逃げ場を、狭めてきていた。
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