57 勇者
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ゼロの背中で、空気を受け止めた漆黒のマントが大きく膨らむ。ふわりと舞い上がったマントは、空気の抵抗を受けてゆっくりと少年の足元に帰っていく。
「ゼ、ゼロ!」
ゼロの前にたちすくむラトナは城で別れた時とは別人のように疲弊していた。白いドレスには、槍で貫かれたような穴が胸元に開いている。王女が耳に装備した二つの命のイヤリングには、最初にあったはずの赤い宝石が無かった。ラトナの背後の石柱の前にはルドラが倒れていて、反対側の柱の前にはグレンが倒れている。二人ともまともに動ける状態ではないことが一目でわかる。特にグレンの状態がひどい。すぐに治療しないと命にかかわるレベルの重傷だ。三人とも世界を守るために戦った。その結果、この窮地に追い込まれた。ルクトルク王国を、そして世界を破壊せんとする邪神によって。
ゼロの心の底で、ふつふつと怒りが湧き上がる。これほどの怒りを少年は今までの人生で感じたことがない。歯を食いしばったゼロが、拳を硬く握り込む。拳を小刻みに震わせて、ゼロは邪神を睨みつける。
邪神の手で黒く輝く魔力の球体が、ふっと姿を消す。
ゼロに遅れてサーニャたちもやってくる。彼女たち三人はゼロの背後に立つと、身構えた。アルルはすぐさま腰からレイピアを抜く。
「クゥ、回復だ!」
ゼロが言うと、クゥは背中から世界樹の杖を取り上げて両手で構える。
「ヒール!」
クゥの声が神殿にこだまする。少女が呪文を唱えると、あたたかな光がラトナを、そして柱の前で倒れるルドラとグレンを包み込む。
抜群の回復力を誇るクゥのヒールによって、三人の傷がみるみるうちに癒えていく。三人の傷は一瞬にして完全に消えてしまった。これで危機的な状況は一応は脱した。とは言え目の前にはヴァルドがいる。この脅威を取り除かない限り、一切の安心はできない。
倒れているルドラとグレンが、何事もなかったかのように立ち上がる。
「お、お前たち、なぜ逃げなかった……」
ルドラは助けに現れたゼロ達に困惑している。普段かぶっているフードがめくれて、額からは二本の角が生えていた。
「ルドラと同じ理由だ」
ゼロは背中越しに答える。ルドラがラトナを助けに来たように、ゼロ達もラトナを助けるためにこの場所にやってきたのだ。
グレンの足元には折れたミスリルの剣の柄が転がっていた。さらにミスリルの鎧はいびつにへこんでいる。邪神にやられたことは明白だ。特殊金属で作られたミスリルの鎧を捻じ曲げるとは異常な攻撃力だ。
そしてサーニャは邪神を見上げて言葉を失っていた。両目は大きく見開かれ、口は半開きになっている。
(何これ……)
サーニャの喉がゴクリと鳴る。少女は戦ってすらいないのにすでに大量の汗を全身にかいていた。いつも自信満々の少女が、今は一言すら発しない。
邪神の周囲では、莫大な魔力が波のように揺らいでいる。ほとばしるような黒い魔力が、周囲の空間を歪めている。
(デタラメな強さじゃない……)
魔法に詳しいサーニャだからこそ、邪神の強さを肌で感じ取ってしまったのかもしれない。
邪神が、新たな乱入者に視線を落とす。その瞳には一切の動揺がない。それがゆるぎない自信から来るものなのか、それとも人間のことを敵にすらならない存在だと思っているのか、真意はわからない。
「何者だ」
「俺は勇者だ」
邪神からの問いかけに、ゼロはいつもの調子で返した。こんな時だというのにゼロの口調はいつもと変わらない。……いや、その奥からはかすかな怒りがにじみ出ていた。それは紛れもなく目の前の邪神に対する怒り。
「なんだと?」
少年からの答えに、邪神の目元にかすかに緊張の色が宿る。
そんな邪神を放置して、ゼロは身をひるがえすと、ラトナの元に歩く。
「ゼロ……!」
緊張に塗りつぶされた顔のラトナに、ゼロは片手を上げて「よっ!」と気さくに挨拶すると。
「実は、またゲームに詰まっちゃってさ」
ラトナに一面をクリアしてもらったゲームが、今度は二面で詰まっている。そのことをゼロはラトナに語り出した。
ゲームという場違いな話を切り出されて、意味が理解できないのか、ラトナは呆然としている。
そんなことは、お構いなしに、ゼロは言葉の先を続ける。
「だから、もう一度ラトナに――」
「ゼロ!」
アルルの一際大きな声が空気を裂く。
背後からの殺気を感じとったゼロが、即座に振り返る。目の前に迫っていたのは黒い拳だった。人間のものとは明らかに違う、圧倒的に巨大な拳。邪神の不意打ち。拳はゼロが反応する間もなく、少年の顔面を捉えた。
ゼロの上半身が大きくのけ反る。
邪神の攻撃は、無防備なゼロの顔面を完璧に打ち抜いた。
まるで鉄球で打ち付けられたかの様な衝撃が、ゼロの全身を駆け巡る。今までに体験したことのない、ありえないレベルの攻撃力。その攻撃力は、A級悪魔を遥かに凌駕していた。
その光景に、仲間たちは目を見開き、言葉を失う。ラトナの表情が凍りつく。
「ふざけるな」
足元のゼロを睨みつけて、邪神は冷徹な口調で吐き捨てる。
ゼロはその場に足を踏ん張ると、崩れた上体を引き戻す。体勢を戻したゼロは、何も言わずに佇んでいる。少年の口の端からは、赤い血が流れていた。
「……………………えっ」
サーニャの表情が崩れる。少女は目と口を大きく開いて、目の前の光景に愕然とする。
(ゼ……ゼロがキズを……)
A級悪魔との戦いですら、かすり傷一つ負ったことないのないゼロが、口から血を流している。邪神の一撃は、圧倒的強さを持つゼロに、いともたやすく傷を負わせてしまった。つまりゼロの防御力すら上回る超破壊力の攻撃力を邪神は持つのだ。
サーニャの顔は、この場にいる誰よりも驚愕に染まっていた。
口角から流れる血を、ゼロは手の甲でぬぐう。
「あのな」
ゼロが低い声でつぶやく。淡々とした声ではあったが、どこか力強さも感じさせる、そんな声だった。
「俺たちは大事な話をしてるんだ」
言いながらゼロは両こぶしを握り込む。そして怒りを宿した瞳でヴァルドを睨みつけると。
「遊んでんじゃねえぞーーーーーーーーーーー!」
全身に力を込めた少年が地面を蹴り、邪神に飛びかかった。ゼロが邪神の顔面に拳をたたき込んだ。ミシッという骨のきしむような音と共に、邪神の顔が不自然なほどに横に捻じ曲がる。邪神の足が浮いた。黒い巨体が吹っ飛ぶ。後方にある大理石の柱に邪神が激突する。その衝撃で、巨大な柱が根元から折れてスローモーションのように倒れていく。だというのに邪神の勢いは止まらない。その巨体は神殿を追放されて、はるか彼方まで吹っ飛んでいく。そして岩肌に激突したところでその勢いはやっと止まった。岩肌が激しい音を立てて崩れ落ちていく。岩や土砂が、倒れたヴァルドの全身を覆い隠していき、黒い巨体は完全に土の下に埋もれてしまった。
「よっしゃあああ!」
サーニャがゼロの会心の一撃に、腹の底からの雄たけびを上げる。魔法使いは今までの暗い顔を吹き飛ばして、誰よりも歓喜している。
「す、すげえ……」
「ウソ……」
クゥとアルルが、呆然とする。
ラトナ、グレン、ルドラは埋もれた邪神を凝視したまま、一言も言葉を発せなかった。三人とも表情を大きく崩し、目の前で起きた現実に驚愕していた。
邪神よりもはるかに小さなゼロが、黒い巨体をただの一撃で完膚なきまでに殴り飛ばした。




