56 死のリング
邪神が指先に再び魔力をためはじめる。
この怪物の魔力は底なしか。強大な魔力を放ち続けているというのに、魔力の衰えが一切見られない。どんな魔法の熟練者であっても魔力は無尽蔵ではない。必ずどこかで限界が来るのだ。放つ魔法が強ければ強いほど魔力の枯渇は早く訪れる。邪神は絶大な威力の魔法を放ち続けているというのに、その魔力には一切の衰えが見られない。邪神とて不死身の存在ではないはず。だというのにそのあまりに理不尽な強さに、そんなバカげた考えが頭をもたげてしまう。
高密度の魔力がヴァルドの指から飛び出した。魔力が黒い線を描き、一直線に少女へ襲いかかる。
ラトナが全身の魔力を一気に高める。金色の髪が逆立ち、ふわりと浮かび上がる。
「はああああああっ!」
先端の尖った氷の塊が、姫の両手から飛び出し、直進してくる黒い魔力と激突する。魔法同士がぶつかり合い、周囲に激しく火花が散った。ヴァルドの放った魔法が進路を阻まれて動きを止める。――かと思ったのも束の間、氷が一瞬にして蒸発する。
「なっ――」
自由を取り戻した黒い光が少女に直撃した。華奢な体が宙に投げ出される。
ラトナの前方、石柱に背中をあずけたグレンの顔に、一気に緊張が走る。
(い、いかん!)
邪神の魔法をまともに食らったラトナは、宙を飛ばされると、ルドラの数メートル前方に背中から落下した。その全身が、ヒモの切れたマリオネットのように完全に脱力する。
「クックック。ハッハッハ!」
邪神が腹の底から愉快そうに笑う。
「これでルクトルクの血も途絶えた! このヴァルドが世界の新たな支配者となるのだ!」
はるか太古、ルクトルクの一族によって封印されたヴァルドにとって、その末裔であるラトナは滅ぼすべき憎き相手。そんな彼女を葬ったことで、邪神はついに長き因縁の糸から解放されたのだ。これほど愉快なことも無いだろう。
黒獣が、ひとしきり笑い終えたあたりで、倒れているラトナの指先がピクリと動く。
「う……」
ラトナが奇跡的に意識を取り戻す。全身に激痛が走り、体はまるで自分のものではなくなってしまったかのように重い。ダメージがひどい。立ち上がりたいのに、体がまったくいうことをきかない。
「ほう。まだ生きているか」
邪神は、感心したような、あるいは、少女のしぶとさにあきれたような、そんな声を漏らした。
ラトナが体に力を籠める。なんとか、片手だけは動かせた。腕を自身の胸の前に運ぶ。意識がぼやける。精神の集中が難しい。そんな最悪なコンディションの中、ラトナは精神を集中させて、全身に残った魔力を手のひらに集める。集まった光が、手を中心にして全身に広がっていく。それとともに、ラトナの全身に走っていた痛みがいくらか和らいでいく。王女は回復魔法によって自身のキズを回復させることに成功する。しかし受けたダメージが大きすぎる。完全回復には遠く及ばない。だけど全身にいくらか力が戻ってくる。まだぼんやりとする意識の中、ラトナは、なんとか立ち上がる。
「うっ……」
少女の足元がふらつく。ダメージと疲労がひどく、ラトナは今にも倒れ込んでしまいそうだった。
ヴァルドは、立ち上がった相手に冷ややかな視線を送る。
「しぶといな」
ヴァルドは何かをひらめいたように口元を吊り上げる。
「よし、まずは貴様たち三人を跡形もなく消し去ってやろう。その後に王国の住人を根絶やしにしてくれる」
その言葉に、王女の遠のきかけていた意識が一気に戻ってくる。
「待ちなさい」
少女の声には、いささかの力強さが戻っていた。
ヴァルドの両目に、わずかに力がこもる。
「あなたの狙いは私でしょう。私だけを殺しなさい」
ラトナの言葉に、邪神は、しばし黙ると。
「……人間風情が」
邪神の声から、苛立ちが滲む。すさまじい殺気だった。それは今までの殺意がかわいく思えるほどの本物の殺意。
その声を聞いた途端、ラトナは背筋が凍り付いた。そして自分でも気づかないうちに一歩、退いていた。
「誰に口を聞いている。身の程をわきまえよ」
苛立ちを隠さぬ顔で言い放った後、ヴァルドが全身に力を込める。
「はーーーーーーーーッ!」
邪神の全身から黒いオーラが立ち込める。ヴァルドの肉体が、今までとは比較にならないほどの魔力で覆われていく。ただでさえ異常だった魔力が、一段と強さを増していく。
「くっ!」
風が吹きすさび、ラトナの髪が激しく乱れる。
「な、なんてこと……」
それは圧倒的な魔力の圧。尋常ならざる魔力に押し返される。その場に立っていることさえ困難になり、ラトナは体勢を低くして、なんとかその場に踏みとどまる。しかしこれでは、ただこの場所にいるだけで体力が失われていく。
ラトナの後ろで、うつぶせに倒れているルドラの指先が、かすかに動く。
「う……」
ルドラが倒れたまま顔を上げる。視線の先には、今までよりもはるかに強い魔力をまとった邪神がいる。
「クックック。まとめてあの世に送ってやる」
ヴァルドが片腕を顔の前に掲げる。その手に、渦を巻くように魔力が集まっていく。闇よりも黒い魔力の球体が、ヴァルドの手中に出現する。それは今までの魔法よりもはるかに強力な魔力の塊。
(な、なんてこと! 今までは本気じゃなかったというの!?)
暴力的なまでの魔力に、ラトナが目を見開いて動揺する。
(こ、このままではルドラとグレンまで……)
ルドラとグレンにはもはや戦う力が残されていない。
この数年間、ラトナは多くの時間を二人と共に過ごした。
グレンとは物心ついた時からの仲だ。歳がちょうど十歳離れている彼を、ラトナは兄のように慕った。特に幼いときは、よくわがままを言って困らせたものだ。そんな少女に対してグレンは、時には小言を言って、たしなめつつも、なんだかんだラトナと行動を共にして近くで少女を守っていた。普段は仏頂面の彼だが、意外にも面倒見のよいところがあった。ラトナに剣を教えたのも彼だった。
ラトナに魔法を教えたのはルドラだ。
魔族である彼女は、魔法の扱いに長けていた。圧倒的な魔法の腕を持つ彼女は、ラトナの魔法の師匠としても優秀だった。彼女の元でラトナはメキメキと腕を上げ、一流の魔法使いへと成長した。
あまり弱音を吐かないラトナではあるものの、時にはルドラに悩みを打ち明けることもあった。長命なルドラは、その度に、ラトナには無い知見を与えてくれた。ラトナにとってルドラは、魔法の師であると同時に人生の師でもあった。そして家族のような存在でもある。
今、三人の命は終わろうとしていた。
(……させはしない! この命に代えても……)
ラトナ姫に左手で死のリングが不吉な輝きを放つ。この指輪の力があれば、次こそはヴァルドにとどめを刺せるはず。失われる命を三つから一つに減らせる。
(ルドラ……グレン……)
こんな時だというのにラトナの心は不思議と穏やかだった。これで邪神との因縁に幕を下ろせる。もう誰かが悲しむことは無くなるのだ。大切な二人の仲間を守れる。幕切れとしては悪くない。そんなふうに感じていたのかもしれない。
「ありがとう」
ラトナの瞳から、涙が流れた。
グレンの目が見開かれる。
倒れたルドラが、ラトナに向かって、かすれた声を絞り出す。
「よ、よせ!」
口角を吊り上げたヴァルドが腕を振り上げる。
「消え去れーーーーーーー!」
その時、大気が震えた。
ラトナとヴァルド、向かい合う二人の中央で、漆黒のマントがなびいていた。




