39 武道大会決勝5
大地に沈み込んでいくバズージャが、空中で回転する。ゼロの何倍もあろうかという巨体は、信じられないほどの身軽さで宙返りすると、一瞬にして態勢を立て直す。そしてリング中央付近に残っている、ごく小さな足場に何事もなかったかのように飛び乗った。
「よっと」
見ているだけで不安になるくらいの小さな足場の上で、巨人は悠々(ゆうゆう)とたたずんでいる。彼の立つ足場は、バズージャの足のサイズよりもはるかに小さいというのに、巨人はふらつくことすらなくバランスを保っている。
「ふー、あぶないあぶない。あやうく負けるところだったよ」
「ウソでしょ!? なんであそこから立ちなおせるのよ!?」
バズージャのありえない身体能力にサーニャは完全に取り乱す。その身のこなしは、もはや人間であることを疑いたくなるほどに軽かった。一切の無駄な動きが無く、洗練されていて、もはや美しいとさえ感じられるほどに。
「し、信じられません! バズージャ選手、なんという身軽さ! なんというバランス感覚!」
「足場を無くす作戦かー。考えたね。でも残念。僕には、このくらいのスペースがあれば十分さ。ははっ!」
バズージャはガレキの上で笑っていた。ばらばらに砕けた破片に立つ姿は、もはや悪魔よりも、よっぽど不気味に見えた。まさに怪物だった。怪物の目元が鋭くなる。
「さてと。そろそろ決着をつけようか」
余裕を感じさせる口調で言うと、バズージャはハンマーを握る手に力を込める。その姿には疲労も焦りも気負いも、なにもない。
とどめをささんと、鋭い目つきが敵対者ゼロを追い求める。リングをぐるりと一周、見回したところで、怪物は、ふいに表情を崩した。――ゼロがどこにもいない。
巨人の表情から、またたく間に余裕が消える。
(バカな。どこに消えた?)
バズージャが険しい表情で探している相手は、すでにバズージャの胸元にいた。
「なに!?」
(気づかれた! だが間に合う!)
一瞬の隙をついてバズージャの間合に入り込んだゼロは、巨人が反応するよりも早く、分厚い胸板を靴底で蹴り飛ばした。分厚い脂肪で守られたバズージャには半端な攻撃ではダメージを与えられない。だがそれはダメージを与えようと思った場合の話。つまり深部への攻撃を加えたときの話。ゼロはバズージャにダメージを与える気などさらさら無い。与える必要がないのだ。怪物の全身に浸透させるように、表面への攻撃を行えばいいだけ。そうすれば怪物は後方へ飛んでいく。
巨大な顔がこわばる。バズージャが、この試合、初めてといってもいいほどの動揺をあらわにする。
直後、巨体が浮き、リングから足先が離れた。完璧な角度。このまま行けば、はるか後方の観客席の壁に激突するだろう。当然そこにはリングは無い。リングの破片すらも。完全なる場外。決着の時。
「もらったーーーー!」
勝利を確信したゼロが、雄たけびを上げる。いかにバズージャであってもあの体勢からの復帰は不可能。長い戦いについに決着がつくのだ。バズージャの体は浮いている。その巨体は、さっきまで乗っていた、あの小さな足元の、ほんの少しだけ後ろにいる。なぜだろう。バズージャが、ほとんど移動していないように感じる。あんな勢いで蹴り飛ばしたのなら、もうとっくに壁に激突していないとおかしいのに。だというのに怪物は、いまだゼロの目の前にいる。
――いや、違う。バズージャだけじゃない。なぜかゼロ自身の移動速度も急激に落ちてしまった。動こうと思っても体がまるで動かない。まるで時が止まってしまったかのようだった。そう。そうなのだ。どういうわけか時間の進みが異様に遅い。なんと長い刹那。すさまじき時の圧縮。止まってしまった時間の中で、ゼロはたしかにバズージャと目が合った。――彼は笑っていた。
その瞬間、全身が警告を発した。ここから逃げだせ、と。この場所にとどまるな、と。早く目の前の怪物から逃げるのだ、と。なぜ逃げる必要が? 明らかに勝ちの確定した状況で。自分の方が圧倒的に優位な状況で。なぜ逃げる必要がある? まばたき一度するだけの時があれば、バズージャはリングの外。ゼロが逃げ出すべき理由などひとつもない。自分の勝ちだ。勝ちのはずなのに。――なのに! まばたきするだけの時間が流れない。時が戻ってこない。だというのに。
なにか良くないことが起こる確信だけがあった。
そんなことあるわけないのに。そんなことあっていいはずがないのに。勝利は目前。ここまで来て負けるなんて、ありえるはずがない。ありえるはずがないのだ! 自分の勝ちなのだ! 自分は強い。圧倒的に強い。人智を超えるほどに。A級悪魔よりも。誰にも負けない。まして人間相手に負けるわけがない。自分は強いのだ。
しかし、ゼロはもう気づいていた。
視界の端に捉えてしまった。強いがゆえにそれを知ってしまった。
(……ウソだろ)
ハンマーがこちらに向かってくる。バズージャのあのハンマーが横なぎに、ゼロの元を目指している。怪物はすでに地に足がついていない。体は空中にあり、踏ん張ることなどできるはずもない。まともな攻撃などできまい。蹴られた衝撃でバランスすらも崩している。あんな状態でなにができるというのだ。最悪な状態だ。だが反撃してきた。
超破壊力の凶器は、もう、目前に迫っていた。ゼロはなにも考えられなくなった。ありえない状況に頭が真っ白になる。思考が追いつかない。もうなにも考えられない。だというのに、片腕が勝手に動いていく。ハンマーを妨害するように、あの凶器からゼロを守るように、体の横に構えられていく。攻撃が届くよりも前に、体がガードの体勢を取ってくれる。ガードが間に合った。みしり、と全身がきしむ音がした。
「ぐああっ!」
同時、時の膠着から解放される。時間が一気に加速する。
「うわーーーーー!」
吹き飛ばされる。あまりにも速い。世界が回る。視界にいろいろなものが映っている。けれどそれがなにかなんて、もうわからない。その中にはサーニャたちだっているかもしれない。わからない。ゼロにはもうなにもわからない。
背中に、今日何度目かの衝撃が走った。なにかにぶつかったらしい。世界がやっと止まった。ずいぶん高い位置にいた。高い位置から見下ろしている。見下ろしているのは壊れたリング。視線のはるか先にリングがある。さっきまであそこで戦っていた。戦っていたはずの場所。遠い場所。
その時になってゼロは、自分が観客席にいることに気づいた。観客席の階段部分に背中から埋まるようにして倒れている。周囲には壊れた階段の破片が飛び散っていた。両サイドで観客たちが騒ぎ立てている。声は聞こえるのになにを言っているのかまでは、わからない。悲鳴かもしれないし、歓声かもしれない。あるいは別のなにかか。まるで耳に入ってこなかった。
リングアウトしたら、その時点で負けが確定する。
「ウソ……だろ……」
ゼロは階段に背中を沈めたまま、愕然とした。
「ウソでしょ!? ゼロが負けるなんて!」
観客席上部まで吹っ飛ばされたゼロを見上げて、サーニャは動揺している。
階段に埋まっているゼロが、苦い顔で立ち上がる。マントから小石がぽろぽろと落ちた。
(クソ……。あと一歩だったのに……)
くやしさがにじんでくる。握り込んだ拳が震える。手を伸ばせば届くところまで来た優勝は、夢と消えた。
「むああ……」
観客席のクゥは、よくわからない声を上げて、小動物のようにプルプル震えている。
「じぇ、じぇろぉぉぉ……」
その隣でアルルが泣き出してしまった。
「ちょ! 泣かないでよ……」
そうは言っているものの、サーニャの顔も暗い。
「あんなにがんばったのにぃぃぃ……」
アルルがポロポロと涙をこぼす。少女はまるで自分のことのように悲しんでいる。
サーニャはなにも言わず、慰めるように少女の背中をさすった。
観客席の仲間たちが意気消沈する。
静まり返るサーニャたちとは逆に、会場は歓声に沸き上がる。
白熱した試合は幕を下ろした。
それはゼロたちにとっては予想外の結末だった。




