第17話 恋と戦争
あれほど激しかった戦場も、ほんの一瞬で静寂に包まれる。カルとホルンが争った後は、ラシケント兵もエフェス兵も、そして後から来たエフェス兵も、誰もが静かにロランとバドルの到着を待ち、立ちすくむのみ。
それはまるで、時間が止まった世界にいるようで、どこか滑稽で、どこか不気味だ。けれど、時間は確かに動いていて、それは夢でも幻でもない。
私の横では、今も眠っているように目を閉じたままの、下半身が切断されたネイが、静かに横たわっている。
人の命に軽重など無いと言うが、それはまさに大嘘だ。どんな名も知らぬ兵士の死体が積み上がっても、私はそれほど悲しくなかった。けれど、ネイが死んだ事で、心がどこか空虚に感じる。
「ねえ、ロランとバドルはまだなの」
「様を付けろ、下郎が……」
「仮にも私は今、ラシケント辺境伯の代理よ。様を付けなきゃならない理由も無いわ」
既にぼろぼろになった楼閣の椅子に腰を下ろし、懐に隠しておいた葉巻を取り出す。
「カル、火はある?」
「何か嫌なことがあると、煙草を吸いたくなるんですか?」
「葉巻と煙草は違うの。別腹なのよ」
ゆっくりと胸一杯に、ヴァニラの香りがする煙を吸い込み、空に向かって全てを吐き出す。
こんなものに頼らなきゃ、正気も保てないような弱い自分が、少しばかり情けない。
さっさと来いよロラン、バドル。私は今さら逃げ場も無い。
無敵と言われたブルーノも、今じゃこの有様だ。そして、マーシャを出し抜こうとしていた天才発明家のネイも死んだ。もはやラシケントには、残されたカードは何も無い。だが、できるだけそれを悟らせないようにして、交渉は行わねばならない。
元駐エフェス、ラシケント大使として、外交官として私ができる最後で最大の仕事となるだろう。
理由は分からないが、わざわざ自国が優勢なこの戦場に出向いてくるということは、何らかの和平交渉、或いはそうした類をこちらに持ちかけてくるだろう。条件は分からないが、決してこちらにとって、利益のある事は無いだろう。せめて、最悪の状況だけは避けなければ。
そんなことを考えていると、再びエフェスの兵達が膝を突き、額を地面にこすり付ける。
車輪が軋む音をさせながら、王族だけが使うことを許される黒い馬車が走り込んできた。
さすがに相手が最長老ともなれば、こちらも礼を尽くさねばならない。
高鳴る胸を押さえ、唾を呑み込み、馬車の出入り口が開くのを待つ。やがて下りてきたのは、記憶の片隅に残っている、あの少年が少しだけ大人びた姿と、見慣れたバドルだった。
「初めまして。私がロラン・スタント。エフェスの最長老をしています」
「お久しぶりですね、エンドさん、カルさん」
ロランとバドルが深々と頭を下げる。思ったよりは、上から目線で押さえつけるようなつもりは無いらしい。だが、状況は何ら余談を許す事はない。
「現在はラシケント辺境伯代理をしております。エンド・ガーウィンです。本来であれば応接用の部屋もあったのですが、ご覧の有様です。せめて、形が一番まともに残っている、こちらの楼閣でお話をさせていただければと存じます」
「ご丁寧な挨拶、ありがとうございます。ですが、その前にやっておかねばならない事がありまして。ホルン、こちらに来て」
「ここにおります」
「最長老として命令します。例の者を、今すぐ処刑なさい」
「はっ!」
「例の者?」
私が疑問そうな顔をしているのを見て、ロランは優しく、少年らしい無垢な笑みを浮かべた。
「これから話す事にも少々関係があります。まずは見ていて下さい」
ロランはそう言って、エフェス兵達を一人一人見て回る。
だが、見ているのは先に戦争をしていた方の兵で、自分が連れてきた兵達はまるで無視している。そもそも処刑という物騒な単語からして、何かエフェス国内に於いて、重大なもめ事があったことは想像に難くない。
やがて、指揮官であろう偉そうな身なりをした男のエフェス兵の前でホルンは止まる。だが、ホルンは少しだけまじまじと、その男を観察しただけで、すぐにその場を離れる。やがて、その三人向こうにいた、何気ない一般兵士の前で彼女は止まる。まるで犬が何かを探すように、その兵士の背中に回ったり、かがんで膝の辺りまで顔を落としたり、かと思えばつま先立ちをして頭の高さを兵士に合わせ、時にすんすんと鼻を動かす。
「見つけました」
「な……なんの事でしょう……自分は……」
「死刑執行」
幾人もの血を吸ったサーベルで、男の首を横一線に斬り落とす。分からないとでも言いたげな表情のまま、男の首は地面に転がり、残された胴体からは血しぶきが噴水のように舞い落ちてゆく。
バドルはその血がロランに掛からないよう、自分の薄衣の長い袖で覆い隠し、自らがその血の雨に濡れそぼる。
「ありがとうバドル。ご苦労様ホルン」
「仰せのままに」
ひざまずいて、頭を下げるホルン。その表情は、満足に満ちた微笑みを浮かべている。
とまあ、何か向こうではよく分かった感じだが、私としては置いてきぼりもいいところだ。
いきなりやってきて、死刑だと言って一般兵士の首を切り落とされても、何が何だかさっぱり分からない。
そして、そんな疑問を露骨に顔に出していたら、案の定ロランは説明を始めてくれた。
「今殺したのは長老衆の一人、アディルア・ラルカームの配下の者です。アディルアは以前から、マーシャ大使であるアレサ・ウィルトを通じて巨額の献金を受け取り、開戦派として強権を奮っていた売国奴の一人です」
「アレサが献金?」
「そうです。戦争の再開と、だらだらとした戦争の継続を行うには、長老衆の過半数を超える賛成が必要です。しかし、本来長老衆は戦争に荷担するなど、反対の者ばかりだったのです。
また、一方で戦争は一国のみではできません。ラシケント側にも戦争の再開を持ちかけます。その結果、エフェスとラシケントという二つの大国は、一見中立を保っているかに見えるマーシャの手のひらの上で、いいように転がされてしまう事になるのです。
どれほど領土が大きくとも、どれほど強い信仰心を人々が持っていようとも、結局は目もくらむばかりの大金の前では、それらは大きく揺らいでしまい、どちらの国の中枢にも、口先の使い方だけは立派な売国奴達がのさばるようになってしまいます。
その結果、マーシャの思うとおりに事は運び、我々エフェスは総力を挙げて戦争をするなどという事は、当然行わないのです。ラシケントを潰してしまっては、戦争が終わってしまう。おそらくその辺りは、アレサもあなたにおっしゃっていたのではありませんか?」
にこにこと笑顔を浮かべてはいるものの、この少年は実に食えない相手だというのが、会話の端々からびんびんと伝わってくる。正直言って、自分は単純でおめでたい頭の構造をした女だと、自分でも思う。およそ外交のような、権謀術数が飛び交うような、化け物同士の嘘吐きゲームの世界には、自分は向いていないだろう。
だが、こいつは気に入らない。そして、この気に入らないガキに負けているであろう、自分が情けない。
「おそらく今、エンドさんは自己否定でもしていると思いますが、それほど正直なあなただからこそ、私はこうして、安心して交渉ができるのです。私も結局、老練な政治に長けている長老衆達にとっては、ただの都合のいい象徴として、この十数年の間生きてきましたから」
「うーん、あんまり褒められて嬉しくないというのが、やはり正直なところです……」
「あははっ、まあそれは仕方ないです。ただ、分かって欲しいのは、ラシケントにもエフェスにも、共にそういった売国奴が数多く存在していて、開戦をするにしても、誰がどう見ても戦争をせざるを得ない状況に持ち込みたい人々が居ました。そこで、アレサが考えたのは、最近になって問題になっている水利権の問題、つまり、レテ川のダム建設です。
このダム建設に関わる建設国債の全ては、アレサ・ウィルトが率いるウィルト商会が全てを引き受けました。そもそも今のラシケントでは、まだこのような巨大ダムの建設に関わる費用を、自力で捻出できる程の国力はありません。しかし、ダムを造ればエフェスは自然と干上がる事になり、戦争は激化する。そして、適当に破綻する一歩手前で、マーシャは自ら和平の使者になることで、両国に対して恩義を売ることができる。まさに金の亡者が考えそうなことでしょう」
「つまり、この戦争は全てマーシャが仕掛けたもの。踊らされていたのはラシケントとエフェスの両国?」
「そういうことです」
有無を言わさない、どこか威厳とも神々しさとも言える何かをまとったロラン。だが、どこか腑に落ちない部分がある。まだ引っかかるのだ。ここで黙るわけにはいかない。
「でも、ラシケントとエフェスには厳然たる宗教の違いがあり、この為に戦っていた部分があるわけですよね。あなたがここに来た理由は、ずばり戦争を終焉させるためだとは思います。その事自体は素晴らしいですが、あなたにとって、戦争をやめる理由は?
ラシケントと仲良くしたいから。戦争はいけないから。そんな理由だけで、あなたがここに来るとは思えません。あなたは聡明な人でしょう。しかし、聡明ではあっても、聖人ではない。まだ何か隠している。あなたにとって、戦争をやめたい理由が、別に存在している。そのためにあなたは、操り人形だった今までを自ら断ち切り、ここに来た。その理由を教えて下さいと言ったら……失礼でしょうか」
「エンドさん。あなた仮にも最長老であるロラン様に向かって、少々言葉が過ぎてるんじゃありませんか? 戦争をやめようと言うのに、それほど理由など無くてもいいでしょう。そのうちに分かるかも知れないし、分からないかも知れない。しかし、分からなくても平和が戻れば、あなたにとって何の問題も無い。違いますかな?」
バドルの言うとおり、元大使であり、現在は辺境伯代理という微妙な立場である私が、あまり口を出すべき事ではないだろう。だが、ロランはバドルを制して、前に出る。
「私はあなたと似ている気がします。不器用で、何かを伝えるのがとても下手だ。大切な事を伝えようとして、逆に相手に要らぬ気遣いや、余計な手間や、勘違いをさせてしまう事がある。だから、これは私個人としてお教えする事です。
幸いこの楼閣にはあなたと私、そしてバドルとホルン、それにあなたの従者だったカルさんしか居ません。ですが、聞いた以上は、これから互いの国の和平を実現するために、お手伝いをして下さい。それが私の出す条件です」
「平和のために働けと言うなら、私は喜んで働きましょう。少なくとも、戦争の手伝いをするよりは、遥かに我が国のためになりますから」
それを聞いたロランは、とても嬉しそうに頷いた。本当は、言いたくて仕方がなかったのだろう。聞かされる方としては、その方が気が楽でいい。バドルは渋い顔をしているが、そんなことは知ったこっちゃない。最長老が一番偉いのだ。
「では、今から大切な事をお教えします。一度しか言わないので良く聞いて下さいね。あなたの国、ラシケントの法皇、メフィウス・ソーリアは――」
そこで言葉を切り、私の目を見る。何もったいつけてるんだ。法皇がどうしたのよ。
「メフィウス・ソーリアは私の大切な、婚約者です」
「…………」
「びっくりしましたか?」
「すっごく」
そうか、ロラン・スタントとメフィウス・ソーリアはそういう男同士の関係だったのね。
特にエフェスの教義じゃ同性愛は厳禁だし、そりゃ隠したくもなるよね。そりゃあびっくりだわ、うん。
「勘違いしてるといけないので言っておきますが、メフィウスさんは女性ですよ」
「なんとーっ?!」
「あはははっ、やっぱりあなたも知らなかったんですね!」
「いやいやいや。うちの国の法皇って、男しかなれないし」
「ええ、ですから彼女は、男だと偽って生きているんです」
「え……?」
「十年前にエフェスとラシケントが休戦することができたのは、元は彼女が飛ばした風船の手紙がきっかけだったんです。本当に素晴らしい偶然でしたが、私の屋敷の庭に、彼女が飛ばした風船の手紙が落ちていまして、そこにはラシケントで日々辛い思いをしながら生きる、女の子の悩みが書いてありました。そして、良ければ私と手紙のやり取りをしてください、と。
私としては、別にそれを拒む理由も無いので、伝書鳩を通じて、あくまでも個人的にやり取りをしていました。その中で、徐々に彼女の手紙に記された内容が、ラシケントの政治情勢にかなり詳しい事に気が付きました。
最初は貴族の娘かな? そう思っていましたが、やがて彼女の方から、驚かないで聞いて欲しいという断りを入れた上で、自分こそがラシケントの法皇、メフィウス・ソーリアだと言ってきたのです。
見ず知らずの、とは言っても相手は私でしたが、男の子に自分のそんな素性をうち明けてしまうくらいに、彼女は追い詰められ、疲れ果てていました。しかし、その立場は性と国は違えども、私もまた同じ。他の長老衆達に、若く世間知らずという事もあって、言われるがままに全ての執政を行う日々。だからこそ、お互いがより深く分かり合えたのです。
そして、そんな彼女、メフィウスに会いたい。会って話したい。そう思った私は、百年に及んだ長き戦争に、終止符を打つことにしたのです。私が初めて、自分の意志で、最長老として命令を下したのです。
後に、まだご存命だったヨシュアさん、そしてエンドさん、あなた方に連れられて、メフィウスは私の国に来てくれました。その時、一目惚れしてしまったのですよ。神殿の奥で、本当の女の子である姿を見せてくれた彼女の美しさに、言葉を失い、ただ、抱きしめていました」
このヤロー、私とお父様が色々悩んでるときに、あの神殿の奥で法皇様ときゃっきゃうふふと戯れていたのか。何だか腹が立つけれど、まあいいだろう。少なくとも悪い奴じゃない。
しかしまあ、代々世襲する法皇だったけれど、多分先代には女の子しか産まれなかったのだろうなあ。それが彼女をこんな悲劇に追い込んだ。結果としては良い方に転がったと言えるんだけど、何だか解せない話だ。
「それでも結局、長老衆の反対もあり、ラシケントとの休戦は十年という期限を切られました。私は十年後、再度その交渉を行えばいいと、どこか楽観的になっていましたが、マーシャはそんな私の思惑を知ってか知らずか、水不足のエフェスに対し、ラシケントにダムを造らせる事で無理矢理に戦争をさせようと思い立ったわけです。そして、より戦争を激しくするための武器を開発し、販売する事にも成功しました」
「はぁー。悪い奴ですね、マーシャの連中って」
「そうでしょう。エンドさん、あなたもそう思われますよね? ですから、私達に力を貸して下さい。エフェスとラシケントの大掃除を」
「大掃除って……」
「アレサから政治献金を受け取っていた、親マーシャ派の長老衆と、ラシケント国内に於ける親マーシャ派貴族達の粛清です」
「ちょ、ちょっと待って! 私にはそんな大胆な事できませんよ?」
「エフェスの事はもちろん私達の問題ですが、ラシケント国内に於いては、親マーシャ派の筆頭である宰相のルアドに恨みを持つ者も多くいます。それに、ここに残されている兵達はきっと、あなたの命令なら聞くのではないですか?」
「聞くかも知れないけど……」
「今こそ私は、エフェスとラシケントが共に手を取り合い、反撃の狼煙をあげた事を、売国奴の長老衆共に見せてやりたいのです。だからこそ、ラシケントの人間であるエンドさん、あなたの協力が必要です。どうか、私に力を貸して下さい」
「あっ、あの、最長老であるロラン様が頭を下げないで!」
「では、協力していただけますね?」
有無を言わせぬその笑顔。やれやれ、私って案外押しに弱い女なのかも知れない。
ちらりとカルの方を見ると、くすくすと笑いを噛み殺していた。
何だか腹が立つなあ、もう。




