第16話 蜘蛛の糸、アリアドネの意図
今思えば、自分達は甘すぎたのかも知れない。まるで狩りでも楽しむように、ラシケント軍の兵士達が、城壁から銃と炸裂弾でエフェス兵をなぎ払うだけの、まるで単純作業のような戦争をしていただけだった。
エンドに手を汚させたくない。彼女は僕の友達。だがそれ以上に大切で、それ以上に愛しくて、守り抜かねばならない人だ。僕を地獄から連れだしてくれた、天から垂れた蜘蛛の糸。
彼女は僕が奴隷市場で見た、あの灰色の空に色を付けてくれたのだから。
「ネイ! ああもうっ! バカ! ネイのバカ! 何死んでんのよくそったれ!」
「エンドさん、とりあえず僕の後ろに下がって下さい。危険ですから!」
「あの女! 何だっけ、名前? えーっと……このメス! このアマ!」
エンドの目線の先に居るのは、こんな戦場とはおよそ不釣り合いな、召使いの服を着た女。何度もデトラに居るときに見た、忘れもしない。彼女の名前はホルン・リトヴィエだ。
「お久しぶりです。お二人とも、お元気そうで何よりです」
「返せ! ネイを返せ! ホルン! そうよ、思い出したわあんたの名前、ホルンよ!」
「あなたが居るという事は、バドル様もご一緒ですか?」
「ええ、勘違いしないで欲しいのですが、私はあなた方と話し合いに来たのです。それに、私はあなた方の味方です。こちらにも色々事情がありましてね。ご覧なさい。私が連れてきた兵達は、我が同胞であるエフェス兵達と剣を交えているでしょう?」
「だったら何でネイを! なんて事を! 勘違いじゃ済まされないわ!」
「勘違い? そうですね、勘違いという事にしておきましょう。バドル様が来るまでなら、少しくらいラシケント側の被害が増えたところで、別に問題もありませんし」
血と脂肪にてらてらと光る、サーベルの刃をゆっくりと舐める。ああ、僕もだいぶ狂っているけど、この女もかなりのものだ。こんな狂った女と、エンドさんを対峙させるのは良くない。狂う人間も、狂う役割も、僕一人で十分だ。
「エンドさん、下がっていていただけますか」
「ネイのかたき! 私が取らなきゃ! 離してよカル! 邪魔しないで!」
「いいえ、離しません。むしろ下がってもらいます」
「それじゃあ、ラシケント辺境伯ネイ・ハーマンの副官エンド・ガーウィンとして命令する! 私を自由になさい! その手を離し、あの女と一対一で戦わせなさい!」
「では、僕も命令します」
「カルが命令? 私より階級が下の君が?」
「エンドさんの大切な友達として命令します。あなたを傷付けたくないので、どうか後ろに下がってください」
「大切な友達……」
「不満そうですね」
「べ、別にそんなことある分けないでしょ!」
「じゃあ、一人の男として、僕の大切な女性のエンドさん、どうか後ろに下がってください」
「え? そ、それって! バカっ! こ、こんなところで何を!」
「下がってくれますか? 下がってくれないんですか?」
「さ……下がるわよ……でもね、でもっ! これが終わった後、もう一回言って……えっと、やっぱいいわ! あ、けど、気が向いたら! いやいやいや、いいわ! 下がるよ!」
エンドさんは汚れた僕の、心をいつも洗い流してくれた。どんなに汚されたとしても、何とかなるとか、大丈夫だとか、本当に適当で荒っぽい言葉だけれど、純粋な言葉を掛けてくれる。その不器用な優しさが嬉しくて、僕は彼女に忠誠を誓った。
この人が幸せであればいい。その為なら、腕の一本も、足の一本も、自分の命も、いともたやすく犠牲にできる。僕だけがおかしければいいのだ。
多分、このホルン・リトヴィエという女は、目的や忠誠とは違うかも知れないが、自分と似た匂いを持っている。殺すことにためらいなど、かけらもない。慈悲、優しさ思いやり、そんな心を全て廃し、人を切り刻む事に、時に喜びさえ感じている事だろう。
それこそ、エンドが言うところの「くそったれ」より、さらに下卑た何かだ。
「さて、勘違いで既にネイ様を殺したあなたの罪、この場で償ってもらってもいいですか」
「償わせられるなら、是非どうぞ」
言い捨てると同時に、目の前にホルンの持っているサーベルの白刃がきらめく。それを銃身で受け止めると、彼女は笑いながらさらに力を込める。ぎりぎりと銃身を削る嫌な音を立てながら、それは徐々に顔に向かって下りてくる。
「ねえねえ、死を間近に感じるでしょう? あなたも奴隷出身。私も奴隷出身」
「あなたと違って、僕は奴隷としてここに居るんじゃない!」
銃身を斜めにしてバランスを崩し、相手との距離を取る。その隙に銃を捨てて腰に挿してあるサーベルを抜いた。
「最近ずっと銃ばかりに頼ってたんでしょう? 腕はなまってないかしら?」
「悪いけど銃よりこっちの方が得意なんです」
素早く相手の間合いに踏み込み、袈裟懸けにサーベルを振り下ろすが、顔のすぐ前で真横に刃で受け止める。耳をつんざくような金属音と共に、小さな火花が辺りに散る。
すぐに後ろに二歩下がり、突きで相手の心臓を狙う。しかし、それもぎりぎりの間合いで飛び上がり、死体やがれきの少ない方へと転がり、体制を立て直す。
「速いっ!」
「あなたが遅いんですよ!」
振り返った瞬間に、ホルンを両断するように刃を振り下ろす。だが、次の瞬間にはそこに彼女の姿は無い。背中に冷たい気配がした瞬間、かがみ込み、背後に向かって足払いを入れる。
「いい動きでしょう?」
「なかなか素敵ですねッ!」
足払いを避けようとした彼女に、下から上に向かって斬り上げる。ほんの少しだけ、服と肉の一部をかすめ取った。
「くっ」
「惜しい、後少しで腕は取れた」
「ふざけるな! 小間使いのくせに、奴隷のくせに、偉そうな目で私を見るなあああああッ!」
斜めに、前に、上から下に、剣が振り下ろされる度に避ける。だが、少しばかり剣筋が悪い。恐らく彼女は、政治家や大商人など、普段戦う事を生業としない者達を相手にしてばかりだったのだろう。その流れには、ほんの少しだけ奢りが見える。そして、それはサーベルの切っ先を避けるのに、十分な時間を与えている。
少し大きめに間合いを取り、ホルンが振り下ろしたサーベルの上に足を載せると、彼女は体制を崩して、思わずよろめく。
「うわあっ!」
ぐらりと斜めになったホルンの体を、そのまま軽く頭に手を添え、膝に向かって叩きつける。小さく血反吐を吐きながら、軽い砂ぼこりを舞わせ、彼女は惨めに背中を見せた。
「終わりです。残念」
「くっ……完敗だわ……」
「エンドさん、後はあなたが彼女の始末をして下さい」
その言葉に、幽鬼のようにゆらりとした動きをしながら、さっき僕が離した銃を手にとって、こちらに歩いてくる。ホルンは目を閉じた。死を覚悟したのだろう。
彼女はどうするだろう。ホルンを殺すだろうか。もしそうだとしても、僕には逆らう事などできない。このまま僕が彼女を殺せば、きっとエンドさんは怒るだろう。ほんの一時でも分かり合って、助け合ってきたネイのかたきは、彼女自身の手で取らせてやらねばならない。
「掛かったわね?」
まるで蝶が飛ぶように、ホルンはうつ伏せの状態から飛び上がり、エンドの後ろに回り込む。
その手に持たれているのは、折り畳み式の小さなナイフだ。彼女はそれを右手に握り、エンドの首筋にそっと当てる。
「何すんのよこのクソッタレえええええ!」
「うるさい! カル・サルード、おとなしく武器を捨てなさい」
「エンドさん……」
「カル、命令よ! こんなくそったれの言う事なんて聞く必要ないわ! ぶっ殺しなさい!」
強がりだ。僕にエンドさんを見捨てろなど、出来るわけがない。ああ、畜生。今度こそ完敗なのか? 僕の命運もここまでか?
「ちょっ、カル、何で武器を捨てようとしてるの! 待てっ! 待てよコラァ! 私を誰だと思ってるの? エンドよ? それとも何、このうんこ女の言うことを聞くの? 浮気者!」
「いや、エンドさんはもうちょっと大人しく、人質らしくして下さい」
「そうよ……あなた、この現場の副官でしょ? もう少し品があった方が……」
「品とか何とかじゃないわ! 勝たなきゃいけないのよ! 戦争ってのは、いつの時代も勝った奴が勝ち! どれほどの犠牲を出しても、どんな事をしても、勝てば勝ちっていうのはバカでも知ってる絶対の結果よ! だからカル、私の言うことを聞きなさい!
もし私が死んで、現場の兵達が混乱したら、あなたが治めなさい! 君ならできるでしょう? だって、私の……私の大切な、大好きなカル君は、そういうカッコイイ奴なんだから!」
顔を真っ赤にして、徐々に声をか細くしながら、最後の方はかろうじて聞き取れるような声で言うエンド。けれども、そんなところがいかにも彼女らしい。
そう、だからこそ、こんな彼女に辛い思いをさせてはいけない。
見るがいい。さっきから争っていた両軍の兵達も、そして張本人のホルンも、誰もが何をどうしていいかわからず、こちらの行く末を見守っている。あれほど殺伐として、血煙の匂いしかしないようなこのブルーノ城塞の空気を一変させる、あなたはまさに天才だ。こんな事は誰でもない、エンドさんしかできないことだ。
だから僕は考える。そして、サーベルを置く。
「これでいいですか?」
「こらあーっ! ちょっ、ふざけんなカル! しばくわよ!」
「ええ、問題無いわ」
ホルンが笑ったその瞬間、相手の安心しきった顔を確認して、腕を下に下ろす。
かちりという、ほとんど聞こえない程度の音と共に、手のひらの中に袖からナイフが落ちてくる。
素早くナイフの柄を持ち、刃に光が反射しないように持ち変えると、その剥き出しになったホルンの右肩に向けてそれを投げる。
刹那、それは狙い通りに肩の上の肉に突き刺さり、小さく震えながらそびえ立つ。
「うおりゃああああああああああっ!」
エンドもまた、この機を逃さない。力が抜けた瞬間、胸に肘打ちを叩き込むと、向かい合うようにして間合いを空ける。これで彼女は自由の身だ。
「カル……サルード……くそっ……今度こそ終わりか……」
「そういうことですね」
サーベルを拾い上げ、どぎまぎするエンドを押しのけ、ホルンの前に立つ。構えたサーベルの刃は上に向けられ、後は振り下ろすだけだ。ホルンは覚悟を決めて、ぎゅっと目を閉じる。
次の瞬間、何も言わずにその鼻先を刃がかすめる。
これが僕の選択だ。
「何これ……慈悲? 哀れみ? ふざけないでよ! これは真剣勝負だったはず! それとも女性の私に遠慮をした? 騎士道か? 舐めるんじゃない!」
いきり立つホルンの横っ面に、今度は平手打ちを入れる。
「少し黙れ。調子に乗るな小娘」
殺意を込めた視線を送ると、彼女はびくりとして、人に怯える猫のような目を向け、俯く。
「あなたが少しくらい殺し過ぎたと言って、バドルに何を言っても通用するかも知れませんが、こちらはそうもいかないんです。おそらく、連れてきた兵達の指揮官はあなたでしょう?」
「政治的意図か……なるほど……」
「当たり前だ。そうでなければ貴様のような小娘、くびり殺しても良かったんだ」
「分かった。すまない」
唇を噛みしめると、ホルンは姿勢を正し、兵達を見据える。
「これより最長老ロラン様と、長老バドル様がおいでになる! これ以上無駄に争おうとする者は、ロラン様に対する逆賊と見なし、このホルン・リトヴィエが処断する!」
その声を聞いた瞬間、全ての兵達は一斉に膝を突き、額を地面にこすり付ける。ああ、何度見ても好きになれない。むしろ反吐が出る。こいつらの、この狂信振り。ラシケントも信仰にはうるさいが、それ以上に彼らの信仰心は篤い。
今すぐ全ての奴らの首を刎ねて回りたいところだが、もはやそれも出来ない。穏健派のバドルだけでなく、最長老のロランまでもがやって来るという。おそらく、自分達にとって悪い話ではないだろう。
鬼が出るか蛇が出るか、今は彼らの到着を待とう。




