第4話 人間の家
空は、少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。
目の前では、小さな少女が青いカケスの背中へ乗ろうとしている。
けれど、うまくいかない。
地面からルクの背中へ乗るには、片脚で身体を持ち上げなければならない。
今の少女には、それが難しいらしい。
「……無理じゃない?」
「無理じゃない」
「でも、乗れてないよ」
「乗れる」
そう言って、もう一度試す。
やっぱり途中で身体がよろけた。
青いカケスも落ち着かない様子で、少女のそばを行ったり来たりしている。
「帰らなきゃ」
少女は焦ったように言った。
「暗くなる前に」
「家、遠いの?」
少女は答えなかった。
少し間を置いてから、もう一度聞く。
「この辺?」
「……森の中」
「送っていければと思ったけど、それだと全然わからないな」
冗談のつもりだったけれど、少女は笑わなかった。
当然か。
まだ僕のことを怖がっている。
それでも、目の前で何度も無理をしているのを見ていると、そのまま帰らせるのも心配だった。
僕は少し考えてから言った。
「僕の家、この森のすぐ近くなんだ」
少女の身体がわずかに強張った。
それだけで、次に何を言おうとしているのか察したらしい。
「少し休んでいかない?」
「……」
「足がもう少し良くなるまででいいよ」
返事はない。
「嫌なら無理にとは言わないけど」
「人間の家?」
「うん」
「……嫌」
即答だった。
「そっか」
まあ、そうなるよな。
僕はそれ以上勧めなかった。
少女は少し意外そうに僕を見る。
「……行けって言わないの?」
「嫌なんでしょう?」
「……うん」
「じゃあ言わないよ」
少女は黙った。
そのとき。
青いカケスが短く鳴いた。
「ギャッ」
少女がそちらを見る。
「……ルク」
初めて聞く名前だった。
「ルク?」
僕が聞くと、少女は少しだけ警戒した顔のまま頷いた。
「この子の名前」
「ルクっていうんだ」
「うん」
ルクがもう一度鳴く。
少女は何か言い返すように、小さな声で話しかけた。
「なんて?」
「……あなたの家に行った方がいいって」
「ルクが?」
「暗くなる方が危ないからって」
「そっか」
僕はルクを見る。
沢まで僕を連れてきたのも、この鳥だった。
たぶん、少女を助けてほしくて僕の前へ現れた。
そして今も、無理に森を帰るより休んだ方がいいと思っているらしい。
「でも」
少女が僕を見る。
「私は、まだ怖い」
「うん」
「人間の家も」
「わかってる」
「それでもルクは行けって」
少女は少し不満そうにルクを見る。
ルクは知らん顔で羽を整えた。
「暗くなってから飛ぶ方が危ないんじゃない?」
「……たぶん」
少女はしばらく迷っていた。
森の中は、少しずつ暗くなっている。
さっきまであちこちから聞こえていた鳥の声も、いつの間にか少なくなっていた。
やがて。
「……少しだけ」
「え?」
「休むだけ」
「うん」
「それから帰る」
「わかった」
「それと」
少女が僕を睨むように見る。
「変なことしないで」
「しないよ」
「触らないで」
「わかった」
「勝手に近づかないで」
「それもわかった」
僕が全部頷くと、少女は少しだけ困ったような顔をした。
「……全部わかったって言うね」
「嫌なことをしない方がいいだろ?」
「……」
返事はなかった。
でも、さっきまでよりほんの少しだけ、こちらを見る目が柔らかくなった気がした。
◇
問題は、どうやって家まで連れていくかだった。
少女は歩けない。
地面からでは、ルクの背中にも乗れない。
だからといって、僕の手に乗せるなんて今は無理だろう。
僕は少し考え、鞄の中からハンカチを取り出した。
「これならどう?」
地面へ広げる。
「なに?」
「これに乗ってもらって、僕が持つ」
少女の表情が硬くなる。
「手には乗らなくていいよ」
そう言ってから。
「でも、持ち上げるのは僕だから。嫌ならやめよう」
少女はハンカチを見る。
それから僕を見る。
ルクも布のそばへ寄ってきた。
少女がルクへ何か話しかける。
ルクが短く鳴く。
「……どうする?」
僕が聞く。
長い沈黙のあと。
「……それなら」
「いい?」
「少しだけ」
「わかった」
僕はハンカチを地面に置いたまま、十分に手を離した。
少女はルクにつかまりながら、ゆっくり近づいてくる。
片脚を引きずるようにして、なんとか布の上へ乗った。
「持ち上げるよ」
「……うん」
「急に動かさないから」
僕はできるだけゆっくり、ハンカチの四隅を持ち上げた。
小さな身体が布の中央へ沈む。
少女の手が、すぐにハンカチを強く掴んだ。
「怖い?」
「……ちょっと」
「じゃあ、ゆっくり行く」
「うん」
僕は立ち上がった。
ルクが少し先の枝へ飛ぶ。
でも遠くへは行かず、すぐにこちらを振り返った。
少女から離れないように、ついてくるつもりらしい。
「家、こっちだから」
僕は森の中を歩き始めた。
足元に段差があれば、
「少し揺れるよ」
枝を避けるときは、
「今、右に曲がる」
その都度、声をかけた。
少女はほとんど返事をしなかった。
それでも最初よりは、布を握る手の力が少しだけ弱くなっていた。
◇
祖父母の家が木々の向こうに見えてきたところで、僕は足を止めた。
「着いたよ」
ハンカチの中から少女が顔を上げる。
家を見るなり、目を大きくした。
「……大きい」
「人間の家だからね」
「ここに住んでるの?」
「うん。おじいちゃんとおばあちゃんと」
その言葉を聞いた瞬間、少女の顔色が変わった。
「他にも人間がいるの?」
「あ」
そこまで考えていなかった。
「いるけど……」
「帰る」
「待って」
「帰る」
「今、その足で?」
「それでも」
本気だった。
さっきまでより声が強い。
僕は少し考えた。
「じゃあ、家の中を通らなくてもいいようにする」
「え?」
「僕の部屋、二階なんだ。森側に窓がある」
家の上を指差す。
「あの窓」
少女も見上げた。
「ルクなら、あそこまで飛べる?」
少女がルクを見る。
何か話しかけると、ルクが一声鳴いた。
「……行けるって」
「じゃあ、僕だけ玄関から入る。君はルクに窓まで連れていってもらえばいい」
「……」
「ほかの人には会わなくて済むよ」
少女はしばらく考えた。
やがて。
「それなら……行く」
「わかった」
僕は近くにあった低い枝のそばまでハンカチを下ろした。
少女は布から、その枝へゆっくり移る。
地面からルクへ乗ろうとしたときとは違う。
枝の高さは、ルクの背中とそれほど変わらない。
痛む脚で身体を持ち上げなくても、横へ乗り移ればいい。
ルクが枝のすぐそばへ寄る。
少女は枝につかまりながら身体を横へずらし、ゆっくりその背中へ移った。
少し時間はかかったけれど、今度は乗ることができた。
「それなら大丈夫そう?」
「……うん」
「じゃあ、窓で」
少女は小さく頷いた。
ルクが翼を広げる。
僕は二人が家の方へ飛んでいくのを見届けてから、玄関へ向かった。
◇
「ただいま!」
「おかえり、昴」
台所から祖母の声が返ってくる。
「今日は森へ行ってたの?」
「うん、ちょっと」
「暗くなる前に帰ってきなさいよ」
「わかってる」
靴を脱ぎ、そのまま階段を上った。
部屋へ入り、急いで窓を開ける。
すぐに羽音が聞こえた。
ルクが少女を背中に乗せて飛んでくる。
「大丈夫だった?」
「……うん」
ルクが出窓へ降りた。
少女はゆっくりその背中から降りる。
そして、部屋の中を見た。
「……」
しばらく何も言わない。
「どうしたの?」
「大きい」
「また?」
「全部」
少女は机を見る。
椅子を見る。
ベッドを見る。
僕の鞄を見る。
その一つ一つが、この子から見れば巨大なんだろう。
「机まで行く?」
「高い」
「そうだよね」
椅子の座面だけでも、少女にはかなりの高さがある。
「じゃあ、ここで休む?」
出窓を指差す。
「……ここがいい」
「わかった」
僕は少し離れたところへ腰を下ろした。
少女はまだ落ち着かない様子で、何度も部屋を見回している。
知らない場所。
しかも、人間の部屋。
怖くないはずがない。
「水、また飲む?」
「……少し」
「さっきのキャップ、あるよ」
鞄から取り出し、水筒の水を少し入れる。
今度も少女の近くへ置いて、すぐに手を離した。
「どうぞ」
少女は僕の手が離れたことを確認してから、キャップへ近づく。
両手を添えて水を飲んだ。
森にいたときと同じだった。
でも、少しだけ違う。
今度は僕が椅子に座り直しても、すぐに身体を強張らせることはなかった。
◇
「足、見てもいい?」
水を飲み終えたころ、僕は聞いた。
少女の顔が少し硬くなる。
「見るだけ?」
「まずはね」
「……触らない?」
「勝手には触らないよ」
少女はしばらく迷ってから、痛めた脚を前へ出した。
僕は近づきすぎないように身体を傾ける。
改めて見ると、本当に小さな脚だった。
足首なんて、僕の指よりずっと細い。
こんな脚の上に、さっきまであの枝が乗っていたのか。
そう思うと、今さら少し怖くなった。
ひどく腫れているようには見えない。
ただ、枝に擦れたのか、脛のあたりが赤くなっていて、小さな傷もできていた。
「少し擦りむいてる」
「……そうなの?」
「うん」
僕は机のそばに置いてある救急箱へ目を向けた。
傷薬もある。
湿布もある。
でも。
そこで手が止まった。
「……どうしたの?」
「いや」
僕はもう一度、少女を見る。
「薬はやめておこう」
「どうして?」
「君に使っていいのかわからないから」
少女が首を傾げる。
「人間に使う薬なんだ。君は……人間じゃないんでしょう?」
「うん」
「身体の作りが同じかもわからないし、合わなかったら怖いから」
少女は少し驚いたように僕を見た。
「じゃあ、どうするの?」
「水で傷をきれいにして、赤くなってるところを少し冷やすくらいなら大丈夫かなって」
「水?」
「うん。それならさっきも飲んでたし」
少なくとも、薬を塗るよりはずっと安心できる。
「傷のところ、洗ってもいい?」
「……触る?」
「綿棒を使うよ。水で濡らして、傷のところだけ」
救急箱から綿棒を一本取り出して見せる。
「嫌ならやめる」
少女は綿棒をじっと見つめた。
それから僕を見る。
「……痛い?」
「擦りむいてるから、少しは痛いかもしれない」
「……」
「どうする?」
少女はしばらく迷っていた。
やがて、小さく頷く。
「……やって」
「わかった」
僕はきれいなキャップへ水筒の水を少し入れ、綿棒の先を濡らした。
「今から近づけるよ」
「うん」
「痛かったら言って」
ゆっくり手を近づける。
少女の身体が少し強張った。
それでも逃げなかった。
濡らした綿棒の先を、傷のそばへそっと触れさせる。
「……っ」
「痛い?」
「ちょっと」
「ごめん。もう少しだけ」
傷についた汚れを落とすように、慎重に水を含ませていく。
これだけ身体が小さいと、僕にとってのほんの少しの動きでも大きく感じるはずだ。
力を入れすぎないように気をつける。
「これで大丈夫かな」
僕は綿棒を離した。
少女が自分の脚を見る。
「終わり?」
「傷はね」
「傷は?」
「赤くなってるところ、少し冷やそうか」
「どうやって?」
救急箱から清潔なガーゼを一枚取り出した。
そのままでは大きすぎる。
「……大きい」
「だよね」
僕はハサミを使い、端をほんの少しだけ切り取った。
少女の脚に合わせると、それでもまだ大きい。
さらに小さくする。
「これくらいかな」
「それ、なに?」
「水で濡らして、しばらく当てておく布」
「薬じゃないの?」
「ただの水」
少女は少し安心したようにガーゼを見る。
僕は小さく切ったガーゼを冷たい水で濡らし、軽く水気を切った。
「これを赤くなってるところに置くよ」
「……うん」
「冷たいと思う」
ピンセットで端をつまみ、傷そのものを避けながら、赤くなっているところへそっと乗せた。
「……冷たい」
「痛くない?」
「大丈夫」
「じゃあ、少しこのままにしておこう」
貼りつけるわけではない。
ただ脚の上に乗せて、しばらく冷やすだけだ。
「動いたら落ちるよ」
「じゃあ動かない」
「うん。今は休むために来たんだし」
少女は小さく頷いた。
僕はすぐに手を離し、少し距離を取った。
少女は自分の脚に乗った小さな白いガーゼを眺めている。
「……変」
「そう?」
「白いのがついてる」
「少しだけ我慢して」
「これで治るの?」
「治すっていうより、楽になるかもしれないくらいかな」
「……かもしれない?」
「僕、医者じゃないから」
少女の眉が寄った。
「じゃあ、どうしてやったの?」
「何もしないよりはいいかなって。でも、わからない薬を使うよりは安全だろ?」
少女は少し呆れたような顔をした。
でも。
さっきまでみたいに、僕の手だけを怖がっている目ではなかった。
◇
そのとき。
廊下から足音が聞こえた。
「昴ー?」
祖母の声。
少女の身体がびくっと跳ねる。
「……誰?」
「おばあちゃん」
「来るの?」
声が明らかに怯えていた。
「たぶん」
「嫌」
「わかった」
僕はすぐに立ち上がった。
「隠れられる?」
「どこ?」
少女が周囲を見回す。
出窓には白いカーテンが掛かっている。
「あの後ろなら見えない」
少女は迷うことなく、カーテンの陰へ移動した。
ルクも窓から外へ飛び、すぐそばの枝へ止まる。
その直後。
コンコン。
ドアが鳴った。
「昴、入るわよ」
「ちょっと待って!」
「なに?」
僕は慌ててドアへ近づく。
「今、着替えてる!」
「そうなの?」
「うん!」
「じゃあ、お茶ここに置いておくわね」
「ありがとう!」
「宿題もちゃんとしなさいよ」
「わかってる」
祖母の足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
僕はしばらく耳を澄ませた。
もう戻ってこない。
「……大丈夫」
小さく声をかける。
カーテンの陰から、少女がゆっくり顔を出した。
「行った?」
「うん」
少女はほっと息を吐いた。
でも、すぐに僕を見る。
「今の人に、言うの?」
「なにを?」
「私のこと」
「言わないよ」
少女の目が少し大きくなる。
「……ほんと?」
「うん」
「どうして?」
「どうしてって」
少し考える。
「君、見つかったら困るんでしょう?」
「……うん」
「だったら言わない」
「人間なのに?」
その言葉に、僕は少しだけ引っかかった。
「人間だと、秘密を守らないの?」
少女は答えない。
僕をじっと見ている。
「人間は、怖いって聞いてた」
「……そっか」
沢でも言っていた。
人間は怖い。
みんなからそう聞いている、と。
「でも」
僕は少女を見る。
「僕が誰かに話したら、君は嫌なんでしょう?」
「……うん」
「じゃあ話さないよ」
「信じていいの?」
僕は少し迷った。
簡単に信じて、なんて言うのも違う気がした。
「今すぐ信じなくてもいいよ」
「……え?」
「僕が本当に言わないかどうか、今はわからないでしょう?」
「……うん」
「だったら、あとでわかればいい」
少女は黙った。
「でも、僕は言わない。約束する」
「……約束」
「うん」
少女はしばらく僕を見ていた。
まだ、完全に警戒を解いたわけではない。
それでも。
沢で会ったときとは、少しだけ目が違って見えた。
◇
それからしばらく。
少女は出窓に座ったまま、静かに足を休めていた。
脚に乗せていたガーゼがぬるくなったころ、僕はそれを外した。
「……どう?」
「なにが?」
「足」
少女は自分の脚を見る。
ゆっくり動かしてみる。
「……さっきより楽」
「ほんと?」
「うん。冷たいの、気持ちよかった」
「よかった」
冷やしたからなのか。
ただ休んだからなのか。
僕にはわからない。
でも、さっきより表情が楽そうなのは確かだった。
「立てそう?」
「やってみる」
少女は窓枠へ手を添え、ゆっくり立ち上がった。
一歩。
もう一歩。
まだ少し足をかばってはいる。
それでも、沢にいたときみたいに身体が大きく傾くことはなかった。
「歩ける」
「無理してない?」
「してない」
今度の声には、さっきほどの強がりは感じなかった。
少女は窓の外を見る。
空はもう、夕方から夜へ変わろうとしている。
「帰る」
「もう大丈夫?」
「うん」
僕は窓を少し大きく開けた。
ルクがすぐに枝から飛んできて、出窓の縁へ降りる。
今度は地面から乗るわけじゃない。
ルクの背中は、少女が立っている出窓とほとんど同じ高さにある。
身体を持ち上げる必要はない。
少女は窓枠へ片手を添えながら、痛めた脚に無理をかけないよう、ゆっくり身体を横へ移した。
そのままルクの背中へ乗る。
「乗れた」
思わず言う。
少女も自分の足を確かめるように少し動かした。
「……うん」
「気をつけてね」
「うん」
ルクが翼を広げる。
そのとき。
少女が僕を見た。
「……あの」
「なに?」
少し迷っているようだった。
それから、小さな声で言う。
「ありがとう」
「え?」
「助けてくれて」
少女は自分の脚を見る。
「それと、これも」
「水で洗っただけだけどね」
「でも、少し楽になったから」
「そっか。よかった」
少女はもう一度、僕を見る。
「それから」
「うん?」
「誰にも言わないって言ってくれたことも」
僕は少しだけ笑った。
「約束したからね」
「……うん」
少女はルクの背中にしっかりつかまった。
「じゃあ」
「うん。気をつけて」
ルクが翼を広げる。
青い身体が、窓辺からふわりと浮かんだ。
少女を背中に乗せたまま、森の方へ向かっていく。
僕は窓辺に立ち、その姿を見送った。
名前も知らない。
どこから来たのかも知らない。
それでも。
沢で僕を怖いと言った女の子が、最後に「ありがとう」と言ってくれた。
それだけで、少し嬉しかった。




