第3話 森で出会った小さな少女
三週間前。
この町へ引っ越してきて、まだ一週間も経っていなかったころ。
放課後、僕は一人で森へ入った。
祖父母の家の裏手から続く森だ。
子どものころ、この町へ遊びに来るたび、紬たちとよく歩き回った。木の枝を剣にしたり、沢で靴を濡らして祖母に叱られたり、秘密基地を作ろうとして途中で飽きたり。
久しぶりに戻ってきた町で、昔と変わらない場所を見てみたかった。
ただ、それだけだった。
森へ入ると、町の音はすぐに遠ざかった。
枝葉の隙間から細い光が落ち、踏むたびに枯れ葉が乾いた音を立てる。
「この辺、変わってないな」
昔歩いた記憶を頼りに進んでいると、すぐ近くで羽音がした。
「うわっ」
一羽の青いカケスが、目の前の低い枝へ降りる。
黒い目で、じっと僕を見ていた。
「……なに?」
もちろん返事はない。
右へ進もうとする。
カケスが先回りした。
「え?」
左へ行く。
また先回りする。
試しにもう一度右へ。
鳥も右へ。
「僕の邪魔してる?」
そんな馬鹿な。
そう思った直後、カケスは森の奥へ飛んでいった。
数メートル先の枝へ止まり、こちらを見る。
僕が動かずにいると、一度戻ってきて頭上を旋回し、また同じ方向へ飛んだ。
「……ついて来いってこと?」
鳥に案内されるなんて聞いたことがない。
けれど、そうとしか見えなかった。
「わかったよ」
誰に言っているんだろうと思いながら、僕はあとを追った。
◇
カケスは少し飛んでは止まり、僕が追いつくとまた先へ進んだ。
それを何度か繰り返すうち、子どものころにも入ったことのない森の奥まで来ていた。
「帰り道、大丈夫かな……」
少し不安になったころ、水の流れる音が聞こえてきた。
木々の間を抜けると、小さな沢へ出る。
カケスは近くの枝へ止まった。
「ここ?」
鳥は僕ではなく、地面の一点を見ていた。
その視線を追おうとしたとき。
「――たすけて!」
「え?」
女の子の声だった。
周囲を見回す。
けれど、人の姿はない。
「どこ?」
「ここ!」
また聞こえた。
今度はわかった。
下だ。
視線を落とす。
草の間に、淡い色が見えた。
最初は花だと思った。
花びらのようなものが揺れ、その下から淡い髪が覗く。
さらに、その奥に。
顔があった。
「……え?」
人の形をしている。
腕も、脚もある。
けれど。
「小さ……」
十五センチほどしかなかった。
一瞬、人形かと思う。
でも胸は上下していた。
草を掴む指が動く。
そして、その小さな口がもう一度開いた。
「たすけて」
僕は言葉を失った。
生きている。
でも、人間がこんなに小さいはずがない。
何を見ているんだ。
確かめるように身体を屈める。
「……っ!」
少女の身体がびくりと強張った。
「あ」
そこで止まる。
怖がっている。
僕はゆっくりしゃがみ、それ以上は近づかなかった。
「ごめん。急に近づかないから」
少女は返事をしない。
ただ、僕を見上げている。
僕だって混乱していた。
助けてと言われた。
だから助けたい。
今は、それだけ考えることにした。
「どこか怪我してる?」
少しして、少女が足元へ目を向けた。
視線を追う。
「あ」
倒れた枝が、片脚を押さえていた。
僕なら簡単に持ち上げられる枝でも、この子には自分の身体ほどもある。
「これ?」
小さく頷く。
「どけるよ」
手を伸ばしかける。
その瞬間、少女の目が僕の手へ向いた。
身体がまた強張った。
僕は止めた。
この子から見れば、僕の手は自分の身体より大きい。
「直接は触らない」
近くに落ちていた細い枯れ枝を拾う。
「これで上の枝だけ動かす。いい?」
少女は枯れ枝と僕を交互に見た。
しばらくして。
「……うん」
「じゃあ、動かないで」
枝の下へ枯れ枝を差し込み、ゆっくり持ち上げる。
「今、抜けられる?」
少女が身体を動かした。
一歩。
もう一歩。
脚が抜ける。
「よし」
枝を下ろすと、少女はその場へ座り込んだ。
「足、痛い?」
「少し」
「歩けそう?」
少女は立とうとした。
けれど、力を入れた瞬間に身体が傾く。
「危な――」
反射的に手が動く。
少女が怯えた顔をした。
僕は寸前で止めた。
「……ごめん。触らない」
少女は僕の手を見つめてから、もう一度座った。
◇
見れば見るほど、不思議な子だった。
小さいだけじゃない。
服を着ている。
花びらを重ねたような頭巾も、ちゃんとした靴もある。
何者なんだ。
そう聞きたかったけれど、今はそれより先にやることがある。
「喉、渇いてない?」
少女が僕を見る。
「水あるけど」
「……水?」
「飲む?」
少し間があって。
「……飲みたい」
水筒を出しかけて止まる。
さすがに大きすぎる。
鞄を探すと、昼休みに飲んだペットボトルが残っていた。
キャップをすすぎ、少量だけ水を入れる。
「ここに置くね」
少女の前へ置いて、すぐ手を引いた。
僕の手が離れたことを確かめてから、少女が近づく。
両手を添えて一口。
もう一口。
「……おいしい」
「ただの水だけど」
返事はなく、また飲んだ。
「まだいる?」
少女が頷く。
もう一度だけ水を入れた。
「お腹は?」
「……少し」
昼に残したパンを取り出す。
小さくちぎり、少女の近くへ置いた。
「パン。僕たちが食べるもの」
少女はじっと見つめる。
「食べていいよ」
「……いいの?」
「うん」
少し迷ったあと、少女が近づいた。
匂いを確かめるように顔を寄せ、恐る恐る一口かじる。
もう一口。
「どう?」
「……おいしい」
「よかった」
水とパンを口にすると、少女の呼吸は少し落ち着いた。
それでも僕が動けば、すぐに視線が向く。
特に、手へ。
僕は必要のない動きをしないようにした。
◇
青いカケスが枝から降りてきた。
少女のそばへ寄ると、その表情が少し緩む。
「この鳥、知ってるの?」
「……うん」
「じゃあ、やっぱり。この子が僕を連れてきたんだ?」
少女がカケスへ何か話しかけた。
鳥が短く鳴く。
「……今、話した?」
少女が身構える。
「あ、言いたくなかったらいいけど」
少しして。
「……話せる」
「え?」
「この子と」
「鳥と?」
「うん」
「鳴き声の意味がわかるってこと?」
少女が不思議そうな顔をした。
「普通に話すよ」
「普通に……」
「鳥だけじゃないよ。森の動物とも話せる」
僕はカケスと少女を交互に見た。
今度は少女が首をかしげた。
「人間は話せないの?」
「話せないよ」
「……そうなんだ」
驚いたのは、少女の方だった。
「いや、こっちが驚いてるんだけど」
思わず口にすると、少女はますます不思議そうにした。
どうやら彼女にとっては、動物と話す方が普通らしい。
◇
聞きたいことは一気に増えた。
どうしてこんなに小さいのか。
どうして動物と話せるのか。
そもそも、人間なのか。
けれど質問を重ねれば、また怖がらせる。
僕は黙った。
沢の水音だけが続く。
しばらくして、少女の方から声を出した。
「……どうして」
「え?」
「どうして、何も聞かないの?」
「聞いていいの?」
少女は答えない。
「聞きたいことはいっぱいあるよ」
少女が僕を見る。
「でも、怖がってるみたいだから」
その表情が少し硬くなった。
「あ、ごめん」
「……怖いよ」
「え?」
「人間は、怖い」
「……僕も?」
聞いてから、馬鹿な質問だったと思った。
少女は迷わず頷いた。
「怖い」
「そっか」
でも、この身体の差なら仕方ない。
「人間に会ったことあるの?」
少女は首を横へ振った。
「ない」
「じゃあ、どうして怖いって?」
「言われてるから」
「誰に?」
「……みんな」
「みんな?」
そこで口を閉じた。
それ以上は話したくないらしい。
「わかった。もう聞かない」
少女が少し目を見開いた。
「……聞かないの?」
「嫌そうだから」
「……」
「話したくなったら、そのときでいいよ」
少女は何も言わなかった。
ただ、それまで僕の手ばかり見ていた目が、一瞬だけ僕の顔へ向いた。
ほんの少し。
それだけだった。
沢の水音が、二人の間を流れる。
しばらくして。
「……私は」
少女の方から口を開いた。
「え?」
「アースマルメの人じゃないよ」
「……アースマルメ?」
「この星の名前」
僕は少し考えた。
「この星のこと?」
「うん」
「僕たちは、地球って呼んでるよ」
「チキュウ?」
「うん。地球」
「……地球」
少女が小さく繰り返す。
「地球っていうんだ……」
それきり、また口を閉じた。
僕も続きを聞かなかった。
ただ。
「じゃあ……君は地球の生まれじゃないんだ」
少女は少し迷ってから頷いた。
「うん」
「……そっか」
十五センチほどしかない。
動物と話せる。
そして、地球の生まれでもない。
理解できたわけじゃない。
むしろ、わからないことは増えた。
それでも。
今は、それ以上聞かないことにした。
◇
森へ差し込む光が、いつの間にか傾いていた。
「もうこんな時間か」
僕が空を見ると、少女も顔を上げた。
その瞬間。
「帰らなきゃ」
急に立ち上がる。
「その足で?」
「帰れる」
一歩踏み出した途端、顔が歪んだ。
「……っ」
「ほら」
「大丈夫」
青いカケスが少女のそばへ寄る。
少女はその背中へ手をかけた。
「乗って帰るの?」
「うん」
片脚を庇いながら、身体を持ち上げようとする。
けれど、乗れない。
一度。
二度。
もう一度。
そのたびに身体がぐらついた。
「……無理じゃない?」
「無理じゃない」
「でも」
「帰らなきゃ」
さっきより焦った声だった。
少女はもう一度、カケスの背中へ手を伸ばす。
やっぱり乗れない。
空は、少しずつ夕方の色へ変わっていく。
このままでは帰れない。
それでも、この子は帰ろうとしている。
僕は森の向こうを見た。
祖父母の家は、ここからそう遠くない。
もう一度、目の前の少女を見る。
人間を怖がっている。
僕の手さえ怖がっている。
それでも。
このまま森に残して、僕だけ帰ることはできなかった。




