第2話 短い放課後
「今日は、あんまり長くいられないよ」
「え?」
ミルルが窓の外を見ながら言った。
「暗くなる前に帰らないと」
「ああ……」
僕もつられて窓の外を見る。
まだ日は沈んでいない。けれど西の空は少しずつ赤みを増し、森の木々も長い影を落とし始めていた。
太陽が森の向こうへ隠れるまで、それほど時間は残っていない。
「そっか」
自分でもわかるくらい、声が落ちた。
ミルルが振り向く。
「……なに、その顔」
「どんな顔?」
「がっかりしてる」
「してないよ」
「してる」
「してないって」
ミルルはしばらく僕の顔を見つめていた。
それから、少しだけ頬を膨らませる。
「だったら、もっと早く帰ってきてよ」
「え?」
「昴が早く帰ってきたら、そのぶん長くいられるでしょう?」
「……うん」
「寄り道しないで」
「今日はしてないよ」
「じゃあ、次も」
「わかった」
「ほんと?」
「うん。できるだけ早く帰ってくる」
僕がそう答えると、ミルルは満足そうに笑った。
その顔を見ただけで、さっきまで感じていた残念な気持ちが少し軽くなる。
もっと早く帰ってきて。
そんなふうに言われたことが、嬉しかった。
僕だけが会いたいと思っているわけじゃない。
そう思ってもいいような気がしたからだ。
「そういえば」
「なに?」
僕は椅子へ座った。
ミルルは机の上に腰を下ろし、足を前へ伸ばしている。
「ミルルは今日、一日何してたの?」
「今日?」
「うん」
聞いてから、自分でも少し不思議に思った。
僕はミルルが好きだ。
それだけは、もう自分でもわかっている。
けれど、好きなくせに、僕はまだミルルのことをあまり知らない。
僕の部屋へ来ていない時間。
森へ帰ったあと。
朝起きてから、ここへ来るまで。
どこで何をしているのか。誰と話して、どんなものを食べ、どんなふうに一日を過ごしているのか。
知らないことばかりだった。
だから知りたかった。
好きな女の子が今日一日、どんな時間を過ごしていたのか。
そんな些細なことまで。
「今日はね」
ミルルは考えるように少し上を向いた。
「朝、ルクと森の東の方へ行ったの」
「東?」
「大きな木がいっぱいあるところ」
「何しに?」
「木の実を探しに」
「ミルルが食べるの?」
「違うよ。ルクが好きなの」
僕は出窓の外を見る。
枝に止まっていたルクが、ちょうどこちらへ顔を向けた。
「やっぱりルクか」
「いっぱい落ちてたよ」
「それで寄り道もしてたんだ」
「うん」
「なるほどね」
ミルルはそのまま、今日あったことを一つずつ話してくれた。
朝の森で赤い実を見つけたこと。
ルクが別の鳥と木の実を取り合っていたこと。
昼には、おばあちゃんの手伝いをしたこと。
「何を手伝ったの?」
「葉っぱを分けたの」
「葉っぱ?」
「食べられるのと、薬に使うのと」
「見ただけでわかるの?」
「わかるよ」
「僕には全部同じに見えそう」
「昴は知らないからでしょう?」
「まあね」
ミルルは当たり前のように言って、また今日の続きを話した。
昼過ぎには少し眠くなって、少しだけ昼寝をしたらしい。
「仕事中に?」
「休んでいい時間だったの」
「ほんと?」
「ほんとだよ」
「ちょっと怪しい」
「失礼ね」
ミルルがむっとした顔をする。
でも、その顔も長くは続かなかった。
「それでね、起きたら昴のところに行こうって思ったの」
「僕のところに?」
「うん」
「……そっか」
「なに?」
「いや。なんでもない」
また少し嬉しくなる。
ミルルにとっては、何でもない一日の話なのだと思う。
けれど僕には、その全部が面白かった。
僕の知らなかったミルルを、一つずつ知っていく。
それが楽しい。
「昴は?」
「僕?」
「今日は何してたの?」
「学校」
「それは知ってる」
「授業受けて、昼飯食べて、友達と話して」
「それだけ?」
「だいたいそれだけ」
「つまらない」
「ひどいな」
「私の方がいろいろしてる」
「それは認める」
ミルルが得意そうに笑った。
僕もつられて笑う。
こんなふうに、お互いの一日の話をする。
それだけなのに、不思議と時間が早く過ぎていった。
◇
「あ……」
ミルルがふいに窓を見た。
僕も同じ方を見る。
部屋の中へ差し込んでいた光は、いつの間にかずいぶん弱くなっていた。
森の向こうへ、太陽が沈み始めている。
「もう帰らないと」
「もう?」
「うん」
「まだ少しくらい大丈夫じゃない?」
「だめ」
ミルルは立ち上がった。
「遅くなると、おじいちゃんが心配するもの」
「怒られる?」
「怒るっていうより、心配するの」
少し考えてから、ミルルは窓の外を見た。
「それに、暗くなるとルクも飛びにくくなるし」
まるで自分の名前が聞こえたことに気づいたように、外でルクが一声鳴いた。
「ルクも帰りたいって?」
「まだ大丈夫だって」
「じゃあ、もうちょっと」
「だめ」
「なんで?」
「昴がそう言ってると、本当に暗くなるまでいそうだから」
「……」
否定できなかった。
僕が黙ると、ミルルが少し笑う。
「また来るよ」
「うん」
わかっている。
今日が最後じゃない。
また会える。
それでも、帰ると言われると少し寂しい。
僕は右手を差し出した。
ミルルはもう何の迷いもなく、その掌へ乗る。
机から出窓まで。
ほんの短い距離を、落とさないようにゆっくり運んでいく。
窓辺まで来ると、ミルルは僕の掌から出窓へ降りた。
外ではルクが待っている。
「ねえ、ミルル」
「なに?」
「次、いつ来る?」
聞くと、ミルルは少し考えた。
「わからない」
「そっか」
思わず肩を落とす。
でも。
「でも、また来るよ」
ミルルが笑った。
「ほんと?」
「うん」
「約束?」
「約束するほどのこと?」
「してよ」
「じゃあ、約束」
「うん」
それだけでよかった。
いつになるかわからなくても。
また来る。
そう言ってくれただけで、次に学校から帰ってくる楽しみができる。
◇
ルクが窓辺へ飛び移った。
ミルルがその背中へ乗る。
そして。
夕暮れの森を背にした彼女を見たとき、僕はふと目を細めた。
淡い髪が、柔らかな光を帯び始めていた。
昼間はただ白く見える髪が、暗くなるにつれて、内側から月明かりを含んだように淡く輝く。
胸元でも、小さな星が光っていた。
ミルルがいつも身につけているペンダントだ。
昼間の光を受けたそれは、辺りが暗くなると、夜光塗料みたいな柔らかな光を放ち始める。
髪の光とは少し違う。
それでも二つの光が重なると、ミルルそのものが夕闇の中に浮かび上がっているように見えた。
初めて見たときは、本当に驚いた。
人の髪が暗闇で光るなんて知らなかったし、胸元の星まで一緒に輝くなんて想像もしなかった。
今では、もう見慣れている。
ミルルの髪が夜に光ることも。
ペンダントが暗くなると輝くことも。
僕にとっては、いつの間にか彼女の当たり前の一部になっていた。
だけど。
綺麗だと思う気持ちだけは、初めて見たときから少しも変わっていなかった。
「どうしたの?」
僕の視線に気づいたのか、ミルルが首を傾げた。
「いや」
「なに?」
「今日も綺麗だなって」
「……髪?」
「うん。それとペンダント」
ミルルは自分の髪を少しだけ指先で触った。
「いつもと同じだよ」
「知ってる」
「変な昴」
そう言いながら、少し嬉しそうに笑った。
「じゃあね」
「うん」
「次もちゃんと早く帰ってきて」
「来る日、わからないんだろ?」
「来たときのために」
「毎日急いで帰れってこと?」
「だめ?」
「……わかったよ」
「ふふっ」
ミルルが笑う。
「またね、昴」
「また」
ルクが翼を広げた。
青い身体がふわりと浮き、夕暮れの森へ飛び出していく。
羽の色は、すぐに木々の影へ溶けていった。
けれど。
ミルルの姿だけは、まだしばらく見えていた。
淡く光る髪。
胸元に灯る、小さな星。
木々の間を抜けながら、小さな光が少しずつ遠ざかっていく。
僕は窓辺に立ったまま、それが見えなくなるまで見送った。
◇
今日一日、何をしていたのか。
そんなことを聞いただけだった。
それでも昨日より少しだけ、ミルルのことを知れたような気がする。
それが嬉しかった。
もっと知りたい。
好きなものも。
嫌いなものも。
どんな毎日を過ごしているのかも。
家へ帰ったら誰と話すのかも。
まだ僕の知らない、ミルルのことを。
それに。
夕闇の中で光る彼女を綺麗だと思う気持ちも。
あの日から、ずっと変わっていない。
三週間前。
初めてミルルと出会い。
初めて、あの光を見たときから――。




