第1話 僕には、好きな女の子がいる
僕には、好きな女の子がいる。
「昴、今日どうする?」
帰りのホームルームが終わった途端、前の席の男子が椅子の背に腕をかけて振り返った。
放課後になったばかりの教室は、一気に騒がしくなる。椅子を引く音、鞄のファスナーを閉める音、部活へ向かう連中の声。窓から差し込む西日の中を、黒板消しの白い粉が細かく漂っていた。
「駅前、寄っていかないか? 三人くらい来るってさ」
「ああ、ごめん。今日は帰るよ」
「また?」
「うん。また今度」
「最近ほんと帰るの早いよな」
「悪い。また誘って」
僕は笑って、机の横に掛けていた鞄を肩にかけた。
高校一年生になり、この町の高校へ通い始めてから、思っていたより早く学校には馴染めた。
都会から来たというだけで珍しいらしく、最初のころはいろんなことを聞かれた。今ではクラス以外にも話せる相手が増えて、こうして放課後に誘われることも珍しくない。
嫌ではなかった。
むしろ、知らない町へ来たわりには、うまくやれている方だと思う。
教室を出て、昇降口へ向かおうとしたところで、聞き慣れた声に呼び止められた。
「昴!」
振り返ると、幼なじみの紬が人の間を縫うように小走りでやってきた。
幼いころ、この町へ遊びに来るたび一緒に遊んでいた相手だ。高校も同じになって、今では昔より顔を合わせる機会が増えている。
「今日、一緒に帰れる?」
「ごめん。今日は先に帰る」
「またなの?」
「うん。また明日」
「最近、ずいぶん帰るの早いよね」
紬は不思議そうに首を傾げて、僕の顔を覗き込んだ。
「何かあるの?」
「まあ、ちょっとね」
「なにそれ」
「じゃあ、また明日」
「あ、ちょっと、昴――」
軽く手を振って、今度こそ昇降口へ向かった。
言えるわけがない。
学校が嫌なわけじゃない。友達と遊ぶのだって楽しいし、紬と一緒に帰るのも嫌じゃない。
それでも今日は、早く帰りたかった。
――来ているかもしれないから。
◇
校門を出ると、自転車に跨がった。
夕方の町を抜け、緩い坂道を上っていく。
商店の並ぶ通りを過ぎると、家々は少しずつ疎らになり、代わりに木々が増えていく。道路の上まで伸びた枝が風に揺れ、重なった葉がさらさらと音を立てていた。
湿った土と、草と、木の匂い。
この辺りまで帰ってくると、不思議と息が深くなる。
両親が海外へ赴任すると決まったとき、僕は一緒に行かなかった。
外国が嫌だったわけじゃない。ただ、高校へ入ったばかりで、そこからさらに言葉も生活も違う国へ行くより、昔から何度も遊びに来ていたこの町で祖父母と暮らす方を選んだ。
子どものころは、長い休みになるとよくここへ来た。
森で遊び、川へ行き、紬と一日中走り回った。
だから、まったく知らない土地というわけではなかった。
それでも最初は、高校を卒業するまでの仮住まいくらいにしか思っていなかった。
ずっとここにいたいと思っていたわけじゃないし、どうしても戻ってきたかったわけでもない。
なのに今では、この坂道を帰る時間が、一日の中でいちばん好きになっている。
自然とペダルを踏む足に力が入った。
来ているだろうか。
昨日は来なかった。
一昨日は来た。
僕たちは、次に会う日をきちんと決めているわけじゃない。
だから今日、彼女がいる保証なんてどこにもない。
それでも、木々の向こうに祖父母の家の屋根が見えてきた瞬間、僕はもう一段強くペダルを踏み込んだ。
◇
「ただいま!」
玄関を開けながら声をかける。
「おかえり、昴」
台所の方から祖母の声が返ってきた。
「今日は早いのね」
「うん」
靴を脱ぎ、鞄を持ったまま階段を上る。
廊下の奥にある自分の部屋まで来ると、ドアノブへ手をかけた。
いるかもしれない。
いないかもしれない。
そんなことで妙に緊張している自分が、少し可笑しい。
僕はドアを開けた。
「……」
誰もいない。
朝、適当に重ねていった教科書。椅子の背に掛けたままの薄手の上着。開けていった窓から風が入り、白いカーテンがゆっくりと膨らんでは戻っている。
部屋は静かだった。
僕は鞄を肩から下ろした。
「……そっか」
自分でもわかるくらい、肩から力が抜ける。
やっぱり今日は――。
「遅い」
「え?」
顔を上げる。
その瞬間、風が吹いた。
白いカーテンが大きく持ち上がる。
その向こう。
壁から少し張り出した出窓に、女の子が座っていた。
夕方の光を背にして、こちらを見ている。
花びらを何枚も重ねたような、不思議な形の頭巾。その縁からこぼれた淡い髪が、風に揺れていた。
待たされたことを怒っているような顔をしている。
けれど口元は、もうほとんど笑っていた。
「ミルル」
名前を呼ぶ。
すると、不満そうだった目元がふっと緩んだ。
「おかえり、昴」
たったそれだけだった。
ただ名前を呼んで、ただ「おかえり」と言われただけ。
なのに、さっきまで空っぽに見えていた部屋が、その一言で急にいつもの場所へ戻ったように感じる。
急いで帰ってきてよかった。
そんなことを思ってしまう。
「いつ来たの?」
「少し前」
「待った?」
「少しだけ」
本当かな。
僕が黙って見ていると、ミルルが横目でこちらを見る。
「なに?」
「いや。別に」
「変なの」
ミルルは窓の外へ視線を戻した。
それから、何かを思い出したように言う。
「今日はね、途中でルクが寄り道したの」
「また?」
ルクというのは、ミルルがいつも一緒にいる青いカケスのことだ。
森からここへ来るとき、ミルルはルクの背中に乗って飛んでくる。
出窓の外を覗けば、当のルクが枝に止まり、知らん顔で羽を整えていた。
最初にそれを見たときも驚いたけれど、もっと驚いたことがある。
ミルルはルクと話ができる。
ルクだけじゃない。森にいる鳥や小さな動物たちとも、言葉を交わせるらしい。
僕にはただの鳴き声にしか聞こえないものを、ミルルは普通の会話みたいに聞き取っている。
「また木の実?」
「そう」
「やっぱり」
「だって、おいしそうなのがあったんだって」
「ルクがそう言ったの?」
「言ったよ」
「僕には全然わからないけどな」
「昴は動物の言葉、わからないものね」
「普通はわからないよ」
ミルルが少し考えた。
「不便ね」
「そっち基準で言われても」
僕が笑うと、ミルルも笑った。
出窓の外では、話題にされている本人――いや、本鳥は知らん顔で羽を整えている。
こういう時間が好きだった。
何か特別なことをするわけじゃない。
大事件が起こるわけでもない。
ミルルが来て、僕が帰って、今日あったことを話して、くだらないことで笑う。
それだけだ。
学校で友達と話すのも楽しい。
みんなと駅前へ遊びに行くのだって、きっと楽しい。
紬と昔話をするのも嫌いじゃない。
それでも放課後になると、僕はここへ帰りたくなる。
出窓を見たくなる。
そこに彼女がいるかもしれないから。
僕には、好きな女の子がいる。
まだ本人には言っていない。
たぶん、気づいてもいない。
◇
「そうだ」
僕は鞄を開けた。
「今日、買ってきたよ」
「ほんと?」
ミルルの表情が一瞬で明るくなった。
「なに?」
「見てからのお楽しみ」
「見せて」
「ちょっと待って」
鞄の中から、小さな紙袋を取り出す。
帰り道の店で買ってきた菓子だ。
最近は、店先に甘いものが並んでいると、
――ミルル、これ好きかな。
と考えることが増えた。
自分でも少し可笑しい。
「今日は何?」
「カスタードの入ったやつ」
「カスタード?」
「甘いよ」
それだけでミルルの目が輝いた。
「食べる」
「即答だな」
「だって甘いんでしょう?」
「甘い」
「じゃあ食べる」
僕は笑いながら紙袋を机へ置いた。
「ねえ、昴」
「なに?」
「そっちに行きたい」
「ああ」
僕は出窓へ近づき、何気なく右手を差し出した。
それはもう、僕たちの間では何度も繰り返してきた動作だった。
ミルルは驚かない。
身構えもしない。
ただ立ち上がって、僕の手へ一歩踏み出した。
一歩。
もう一歩。
小さな靴底が掌を踏む感触が、ごくわずかに伝わる。
ミルルは掌の中央まで歩くと、倒れないように僕の親指へ片手を添えた。
「お願い」
「はいはい」
掌をなるべく水平にしたまま、ゆっくり持ち上げる。
目の高さが近づいてくる。
僕の掌の上に立つミルルは、だいたい十五センチほど。
両手で囲えば、すっぽり包めてしまいそうなくらい小さい。
けれど、子どもではない。
顔立ちも身体つきも、人間なら僕とそう歳の変わらない少女に見える。ただ、その全部が十五センチほどの身体に収まっているだけだ。
花びらを重ねたような頭巾の下から淡い長い髪が流れ、胸元には星をかたどった小さなペンダントが揺れている。
日が暮れると、ミルルの髪は淡く光る。
初めて見たときは、本当に驚いた。
今では、それさえすっかり見慣れてしまった。
「机でいい?」
「うん」
僕はミルルを机の上へ下ろした。
小さな靴が机につく。
ミルルは僕の掌から降りると、すぐに紙袋の方を見た。
「カスタード」
「覚えるの早いな」
「甘いんでしょう?」
「そこだけはしっかり覚えてるんだ」
僕は紙袋から菓子を取り出して、小さく切り分ける。
ミルルの皿に乗せると、切ったところから黄色いカスタードが少し覗いた。
「これ?」
「そう。黄色いところ」
ミルルが覗き込む。
「柔らかそう」
「食べてみれば?」
「うん」
小さな一口。
ミルルがカスタードのついた部分を口へ運ぶ。
「……」
「どう?」
返事がない。
その代わり、もう一口。
「ミルル?」
「おいしい」
ようやく答えた。
「ほんと?」
「うん。すごく甘い」
「気に入った?」
「これ好き」
また一口。
「カスタード、おいしい」
覚えたばかりの言葉を確かめるみたいに、ミルルが言う。
そのまま嬉しそうに食べ始めた。
ミルルは甘いものが好きだ。
人間のお菓子は知らないものばかりらしく、最初のころは一口食べるたびに驚いていた。
それを見るのがおもしろくて、僕もついいろいろ買ってくるようになった。
「そんなに急いで食べなくてもなくならないよ」
「急いでないよ」
「そう?」
「普通」
言いながら、また一口。
僕は思わず笑った。
こういう顔を見ると、買ってきてよかったと思う。
今の僕も、ミルルも。
まだ、そのお菓子に何が使われているのかなんて、気にしたこともなかった。
出窓の外では、ルクがこちらを眺めている。
しばらくしたら、日が暮れる前にミルルを森へ連れて帰るのだろう。
明日も来るのか。
明後日なのか。
それとも、しばらく来ないのか。
僕にはわからない。
それでも僕は、きっと明日も学校が終われば急いで帰る。
今日と同じように。
出窓を見るために。
ミルルがいるかもしれないから。
◇
ミルルと初めて会ってから、もうすぐ三週間になる。
三週間。
たったそれだけだ。
なのに僕の放課後は、三週間前とはずいぶん変わってしまった。
僕には、好きな女の子がいる。
身長十五センチ。
動物と話すことができて、青いカケスのルクに乗り、森から僕の部屋へ遊びに来る。
そして――。
彼女は、人間ではない。
遠いルメア星からやって来た、ルメア星人だ。
三週間前まで、僕はミルルの存在すら知らなかった。
初めて会ったころの彼女は、僕が少し手を動かしただけでも身体を強張らせた。
手を伸ばせば、今にも逃げ出しそうな目で僕を見た。
それが今では。
僕が手を差し出せば、当たり前のように乗ってくる。
まさか自分が。
掌に乗ってしまうほど小さな女の子を好きになるなんて。
三週間前の僕は、想像したことさえなかった。




