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 くだらない?。何が、くだらないだって?。僕の話?。・・・そりゃ、まあ、それなら認めるけどさ。

 例えば、こんな風に学校行く間、僕は色々な事を考えてきたんだよな。過去を振り返ればさ。小学生の頃から、そうだった。小学校の頃は集団登校だったから、あんまり一人で道草なんて食えなかった。でも、僕はその集団の中にいて、そしてふいに目をそらして、そいで田んぼの辺りに生えているシロツメクサの塊なんかを見て、そうして、あのふわふわした白い部分を触ってみたいな、なんて思ったもんだ。今の僕は、十六才の僕は、あの頃のガキだった僕とは違う。でも、考える事なんて、そんな変わらない。くだらないんだよ、何もかも、さ。

 例えば、学校。僕はこの学校という奴にあしかけ十年ほど通っているわけだけどさ、その中で何をしたかって言うと、何にもしていないわけ。ほんとにね。もちろん僕もね、皆と同じように部活もしたし、恋もしたし、喧嘩もしたし、それから教師に楯突いたり、不良にカツアゲされて小銭を渡して、その後、ツバ吐いて、少しでも自分をタフに見せようとした事もあったんだけどさ、でも、そんな何かもかもがもはや、走馬灯のように過ぎていく・・・。要するにね、僕はもう老人なんだよ。なんだか、僕は最近、そんな気がしているのさ。僕は、十六才の老人なんだよ。そうさ。僕はもう全部を既に見ちゃったような気がしているんだ。だから、『永劫回帰』という奴だね。くだらないけど。ニーチェ大先生だって気が狂っちゃったし。あの人の哲学の中には、『自分がこの先、気が狂う』というのも、その哲学の中にファクターとして入っていたのかな?。ちっとばかし、僕は気になるね。もし、それがあの人の哲学の中に入っていたとしたら、それは大したもんだし、もしそうじゃなくても・・・それでも、まあ大したもんだね。あの人はさ。

 まあ、僕っていうのはそんなもんなんだよね。今は五月で、衣替えはまだ先なんだけどさ。僕は、覚えているんだよ。始めて、僕の前の席の子がブラジャーしてきた日の事をね。あれは、中学二年生だったかな。その子は、別にすごくかわいいとか、気になる子だったとか、そういう事も全然なかったんだけどさ。でも、ある暑い日ーーー歴史の授業だったかなーーーに、ふと前を見ると、その子のブラジャーの紐がシャツ越しに透けて見えるわけ。僕は、うわっと思ってね。その時、僕は思わず消しゴムを落としちゃって、そしてそれが隣の、またその隣の席まで転がっていってね。僕はすぐ立ち上がって、その消しゴムを拾ったんだけど、でも、僕の心は動揺してたね。『おい、ブラじゃん・・・』。馬鹿な男子だよね。ま、男なんて、そんなもんさ。もし君が女なら、男に首紐つけて、そいつを操作するのなんて簡単な事さ。コツさえ掴めばいいんだよ。コツさえ、ね。男のくだらない夢や自慢話を聞いてやれば、その代わり、その男は君に欲しがってたブレスレットの一つでも買ってくれるかもしれない。まあ、それはいいんだけどさ。

 まあー、でも、その時の僕は鼻血が出るかと思ったね。いや、冗談じゃなく。僕はね、ウブなんだよ。ウブ。嘘だと思われるかもしれないけどさ。なんていうか、僕はあらゆる事を先に頭の中で済ませちゃうタイプなんだと思うよ。そうさ。僕はね、例えば、色々な物事やドラマやストーリーや何やかんやを先にもう、頭の中で何十周とシュミレートしてしまった奴なんだ。だから、現実にそういう事に出会うと、僕は途端にまごついてしまう。何というか、考え過ぎるのも、問題なんだよね。思考と現実のギャップというか、さ。でも、考えない事には叡智はないから、そうなると猿に逆戻りしてしまう。例えばさ、セックスなんて事例も、考えればこれは大変な大きな出来事なんだけど、でも考えなければただ腰を振るだけのくだらない行為に見える。でも、ただくだらないからって、君が誰かにすぐ体を預けたり、逆に君が誰彼誘ってやりまくったりしたらさ、何というか、そういうのは臭いとなってその人に残るんだ。僕の言っている事、わかるだろうか?。要するに、何でもないと思ったら何かあるし、何かあると考えすぎると何にもできなくなっちまうし・・・。僕はもちろん、後者の方なんだけどさ、そうやって考え過ぎちゃったせいで、僕はもうなんにもやる気がなくなっちゃったんだよ。本当に。昔、ポルトガルにペソアっていう詩人がいてさ。で、そいつはずっと孤独な(孤独を望んだ)野郎だったわけだけど、そいつが、『現実に生きるより、夢見ている方が素敵だ』みたいな事言っているんだよね。で、僕もペソアの気持ちがわかるわけさ。で、特に大切な事は、ペソアっていう人が終始サラリーマンみたいな生活送ってた人だっていう事なんだ。つまり、そのペソアという人は傍から見たら凡人中の凡人なんだけど、その内側には詩的な宇宙が広がってたんだな。で、そのギャップが、この僕と少し似てるな、ってそう思ったりもするんだ。もちろん、ポルトガルの国民詩人に自分を擬しているから、うぬぼれているとかいないとか、そういう事じゃなくてさ。あくまでも感受性の質が、って事だよ。あくまでも。

 だから、僕も夢を見るのは得意なんだけど、現実に生きるのは苦手なんだ。でも、時々、どっからが夢で、どっからが現実なのか、分からなくなる時がある。白昼夢というか、ゲームの世界に入り込んでしまった現実世界の住人というか・・・。例えば、僕は、うちのクラスの安達とか、秋川とかとくだらない事しゃべっててさ(新作ゲームの事とか)、そしてその内にふと、なんというか、急に自分がこの宇宙の端っこに取り残されているような感じに陥る時があるんだ。・・・そういう日って大抵、陽が出ていていい天気でね、それでカーテンに強烈な日光があたってたりするんだけどさ。で、そういう時、僕は急に世界が真っ暗か、あるいは真っ白になったように感じられて、それで皆の喋っている事が急にどこか見知らぬ国の外国語のように聞こえてくるんだよ。本当に。で、僕はその時ふいに、この宇宙の外に追いやられてしまうんだな。マジで。安達と秋川は相変わらずゲームの話してる。で、僕もそのゲームの話はわかるんだよ。そのゲーム、持ってるしね。でも、そういう安達とか秋川の会話、いやそれにもまして、この教室、この学校、そしてこの世界の意味自体が急に僕には曖昧であやふやで、さっぱりわけのわからないものになってしまうんだ。君はそういう感覚に陥った事はないだろうか?。僕は、わからなくなったんだよ。で、そうやって僕は真っ白な宇宙に放り出されて・・・でも、秋川の一言で僕は現実に返ってくる。

 「桐野、お前あそこどうやってクリアした?」

 その一言で、僕は現実に返ってきた。「ああ、あそこ。あそこね・・・。あそこは『槍』が鉄板だぜ」みたいな。実際にはクリアしてなくても、ネットで見た情報で適当言ってお茶を濁したりしてね。そんな事しなくてもいいはずだけど。でもまあ、僕はそうやって現実に返ってきた。不思議なんだよ。自分の、あるいはこの世界の意味が分からなくるという事が。僕はね、こういう事を形而上的に意味付けして欲しくないんだ。例えば、サルトルの『嘔吐』みたいな、ね。ただ、吐いただけじゃねえか。僕、サルトルが嫌いなんだよ。天才なのかもしれないけどさ。で、その教室での僕の感覚っていうのは正しく『感覚』なんだから、これを変に理解してもらいたくないんだ。僕は。これはあくまで、僕のパーソナルな感覚だ。だから僕はこの感覚を死ぬまで手放す気はないのさ。本当に。

 でも、夢を見るって事は奇妙だな。僕はそう思うね。断然、そうさ。君は夜寝る時、どんな夢を見る?。実は僕は最近は、悪夢ばかり見るんだよ。親父がさ、鎌を持って追ってくるんだよ。『お前、進路はどうなってんだ~』って。いやあ、怖くてね。本当に、怖いんだよ。うちの親父は切れると怖いからね。マジで。君は知らないから、そんな風に笑ってられるんだよ。君だって、桐野家の一員になったら笑ってられねえぜ。本当に。で、親父は鎌持って僕を追ってくるんだけどさ。それで、僕は逃げるんだけど、その逃げる場所はいつもマチマチでね。汚い下町風の市街地の事もあるし、あるいは砂漠とか、川の土手とか、色々あるんだよ。で、親父の後ろに母さんと妹が一緒に走ってくる時もあってね。僕は僕以外の家族三人に追われるんだよ。全く、やりきれないよな。でも、その時の、僕の後ろめたい気持ちとか、その罪悪感っていうのは真実でね。そう、僕はその罪悪感っていうのは本物のような気がしているんだよ。ほんとに。フロイトがどうとかは関係なく。だから、僕は逃げるわけだけどさ。で、そうやって必死に逃げてたら、その内に親父も母さんも妹も消えてるんだよ。それで、ふいにオアシスの縁のような場所に来ている。で、そのオアシスの水で、髪を洗っている女がいるんだよ。貞子みたいに長い髪しててね。で、僕は物凄く嫌な予感がするんだけど、何故かそうしなきゃいけないと思って、それでその女に声かけるんだよ。『大丈夫ですか?』みたいにね。そしたら、その女は物凄く、物凄くゆっくりとこっちに振り向くんだけど、それが怖くってね。僕はもうその時には後悔しているんだよ。しまったな、って。で、その女が振り向く。そしたら、その顔は・・・うちの親父なんだな。鬼そっくりの鬼気迫る表情に変わった、うちの親父なんだよ。いやあ、君は笑うけど、本当に夢見てる方は怖いんだぜ。凄く、怖い。そして、僕はそこで意識失って、現実に戻ってくる。そして、こっちの現実の方にも怒った親父と眉しかめた母さんと、僕を軽蔑している妹が存在しているわけだ。やれやれ。

 全く、やれやれだよ。夢ってのも奇妙だけど、現実っていうのも奇妙なものだと思うよ。だから、どっちも奇妙なんだな。でもさ、そういう夢の中の自分の罪悪感っていうのは、僕にとっては真実で、それだけが現実と夢をつなぐ、唯一の物であるような気もしているんだな。僕は。そう、そういう罪悪感っていうのは生きている時にも感じていて、そして夢の中でも感じている。人間の心を一つの檻だと考えると、その中にはいつも罪悪感という小鳥が入っている。こいつは詩的な比喩だけど、本当のような気がしているんだ。僕は。で、この小鳥を殺すのも逃すのも、あるいはこの檻から目をそむけるのも僕らの自由なんだけど、でも、その小鳥って殺したと思ってもまたすぐに舞い戻ってくるという厄介な性質のものでね。僕はね、元気ハツラツたるビジネスマンが羨ましいんだよ。あるいは、三組の武田みたいなスポーツマンとか。武田は、凄いんだぜ。インハイに出て、全国十六強にまで入ってね。何の競技でって?。何だっけ?。確か、バトミントンとか、何とか。とにかく、個人競技だよ。個人競技。でさ、そいつはうちの学校でも、そういうイケてるスポーツマンって事で有名なんだけどさ、で、僕みたいなひねくれ野郎は、そういう奴を知ると、こう考えるんだよ。『その武田とかいう野郎、どうせ性格のねじ曲がった糞野郎に決まっている』。僕ってひねくれてるからね。それに、嫉妬心もある。それで、そんな風に思うんだな。で、クラスの女子なんかも、「武田君、かっこいいよね~」みたいな話してて。で、僕なんかクズだから、「クソがっ」って思うけど、でも僕、武田に勝てるポイントって一つもないからね。本当に、一つもないんだよ。武田の方がハンサムだし、成績もいい。もう本当にクソがっ感じなんだよ。クソッ。でさ、僕が何かの拍子でその武田って奴を具体的に知るきっかけを得るとさ(体育の授業を三組と合同でやる、とか)、僕はそいつをよく見てやろうと思ってよく見るんだけどさ。で、それが嫌な事に、武田っていうのは性格も良い奴なんだよ。僕、見てて悲しくなってさ。もう、自分が悲しくなったんだよ。ほんとにね。どうして、そんな風に嫉妬してるかって。全く、まいっちゃってね。そしておまけに、その武田って奴はさ、僕らのランニングが終わった後、どういうわけか、僕の元に近づいてきて(全然、面識ないのにね)、それでいきなり僕にこう言ったんだよ。「君、ラストスパートかけるなら、残り半周になってからの方がいいよ」って。で、僕はぽかんとして、「あ、あ、ありがと」みたいに口ごもって言っちゃってね。で、その武田君はすぐにどっか行っちゃった。僕はね、その時に、『ああ、僕はこいつに負けたなあ』って思ったんだよ。ああ、本当に、人として自分はあの武田って野郎に負けたんだな、って。それから、僕は武田の事が好きになってね。まあ、あれから一回も喋ってないんだけど。でも、僕はあいつの事が好きだよ。気取ってないしね、それになんというか、無意識的なところがある。ああいうのって、本当に天から贈られた素質、っていうのかな。ああいう奴だと、人が良いっていう場合、本当に人が良いんだよ。裏がない、というか。でもさ、僕なんかは裏しかない人間だからね。べろんべろんなんだよ。べろんべろん。いくら裏返しても裏しかない、みたいにね。そして仕舞いに、何が表で何が裏かわからなくなってくる。なあ、君、聞いてくれよ。僕もね、普通の高校二年生になりたいんだよ。そう願望しているんだよ。でも、それはできない。それは、僕のこの、倒錯したホールデン・コールフィールド流の自意識のせいなんだ。クソッタレ。別に僕がサリンジャーを剽窃しているわけじゃないさ。ただ、たまたま僕とコールフィールドの魂の形が似ていた、それだけの事なんだ。もう何もかもがクソッタレさ。そう、感じる時もある。今のようにね。そしてそういう時には、あの武田だってこの世の中一番のクソ野郎に見えてくる。そんなわけはないのにね。でも、一番のクソ野郎はこの僕さ。それは君が一番良く知っているだろう?。・・・おや、君は笑っていらっしゃる。アハハ、と。それは確かに、優雅な笑みだけどね、だけど人として生まれた以上、悩まなきゃいけない事もある。ねえ、僕は十六才なんだよ。十六才!。こんな辛い事があるかい?。君?。僕はね、十六才だけど、もうお爺さんなんだ。だから、そのおかげで、こんな風に、安達と秋川の会話にも一種の無情を感じなくちゃならないんだよ。・・・ああ、ほら。学校が見えてきたよ。クソッタレの学校が!。チャイムをキンコンと鳴らして。ところで、僕みたいな学生が、親戚のおじさんなんかと会うと、そういうおじさんって決まって、「学校、楽しいか?」って聞くんだよな。「楽しいわけがないだろ。バカヤロウ!」とは、僕ももちろん叫べないから、僕は「はあ、まあ」って適当にお茶を濁す。親戚のおじさんと喋る事なんて、僕にはなんにもないんだよ。ほんとに。ふう、やれやれ、もう校門が閉じそうだよ。昔、遅刻しそうな生徒がガラガラと閉まる校門に向かって走って飛び込こんで、それでそのまま校門に挟まれて死んでしまったっていう事件があったな。やれやれ、だよ。遅刻は死より重い、ってね。さあ、僕は学校へ行くよ。そして、またクソッタレの授業の始まりだ。もちろん、一番のクソはこの僕だよ。それは誰よりも分かっているつもりでいるんだけどね。君も、その誠実だけは感じてくれてもいいね。やれやれ。これで僕にも、まともなセックスアピールでもあったらねえ。やれやれ。ほんとに、やれやれ、だよ。・・・ふう。

 


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 例えば、学校っていうのは八時三十分から始まるんだけどさ、僕はこの時間、いっつも眠いんだよね。僕はね、朝が凄く弱いんだ。それでいっつも寝ぼけ眼で、朝の十分HRに挑む。で、この十分HRってのも凄くくだらないものでね。君もこれに出席したら、この世にこんなくだらないものがあるのか、って目を見張ると思うよ。本当に。だってね、それは、つまり、こういう事なんだよ。最近、内の担任の田口がね、『爽やか七組通信』っていうのを作って、それでそのザラ版紙を毎日配るわけだけどさ。まあ、それはいいんだけどさ。熱心な先生って感じで。でも、その内容がね・・・。ひどいんだよ。まあ、あれだよ。簡単に言うと、教師の自己満足ってやつなんだけどさ。だって、全編こんな感じなんだぜ。


 「七組のみなさん、おはようございます。今日も一日、頑張って素晴らしい日にしていきましょう。

 さて、今月末には球技大会が予定されていますが、僕も学生時代には一生懸命参加した覚えがあります。みなさんもまた、球技大会に熱心に参加されれば、それは後に残る良い思い出となるでしょう。僕の学生時代には今のように、ボールやユニフォームなどは高機能なものではありませんでしたし、ルールなども今とは少し違っていました。ですが、僕達は熱心にそれに参加し、そして僕達のクラスはその時、無事に優勝する事ができました。僕が高校二年生の頃、丁度あなた達と同じくらいの年の頃です。」


 これ以上引用すると、君はナルコレプシーにでもかかったように卒倒して眠っちまうだろうから、もうここらで止めておこう。しかしねえ、君。こういうものを忙しい教師職務の間に書いて、刷って、それで毎日配ってる、そういう事を思うと、何というか、涙が出るじゃないか?。どうだろう、君?。本当に泣けてこないか。・・・おい、そこ、笑ってるんじゃないよ。あの田口先生が『頑張って』毎日書いて配ってるんだぞ。笑うなんて、ひどいじゃないか。・・いや、僕もおかしくてつい笑っちまうんだけどさ。もちろん、心の中で、だけど。

 で、さ。それだけならいいんだけどさ。ま、そういうザラ紙もらっても、みんな読まずに適当に鞄に突っ込むか、引き出しの奥に放り込んどくか、その二択なものでね。で、それだけならいいんだよ。本当に。でもね、僕はある日、この田口に呼び止められてしまったんだよ。ある、昼休みにね。その日は珍しく、田口は教室で昼飯を食っていた。担任が昼休みに教室にいるっていうのは、生徒からしたら嫌なものでね。だって、自由な雰囲気が損なわれるじゃないか。まあ、いいんだけどさ。で、とにかく、僕は呼び止められたんだよ。僕が飯を食い終わってトイレ行こうとしている時にね。その時に、田口が僕を呼んだんだ。

 「おい、桐野。ちょっと来い」

 全く、人をどこぞの忠犬か何かのように呼びやがって。でも、僕は行ったよ。もちろん。僕は、エリート品行方正スーパー高校生なんでね。まったく。

 「なんですか、先生」

 僕はその時、内心、(僕、何かしたっけ?)と内心訝っていた。何かやったかな。悪い事。あれが見つかったかな、これが見つかったかな、なんて。まあ、そんな悪い事は特にしていないんだけれど。

 「お前、本読むの好きだろ?」

 と、田口は何というか、無神経を絵に描いたような感じで僕にそう聞いてきたよ。僕は、嫌な予感がしたね。あるいは、面倒事の予感というか。

 「あ、はい。まあ」

 と僕は普通に答える。そしたら、田口は

 「お前、今日のクラス通信、どうだった?。ちょっと、あの、あれだ。森鴎外チックに書いたつもりなんだが」

 僕は、たまげたね。田口の口から『森鴎外』なんて単語が飛び出てきた事にね。それに、クラス通信?。一行も読んでないよ。

 「お前、森鴎外って読んだ事あるだろ?。本、好きなんだから?」

 僕がまごついていると、田口はそう畳み掛けてきた。僕を見かねて、助け舟を出してくれたのかな。それなら、自分を先に見かねた方がいいんじゃないか・・・とは僕は言わなかったよ。もちろん。そんな事はね、全然思いもしなかった。僕は品行方正ウルトラエリート高校二年生だからね。

 「ありますよ」

 と僕はやっと答えた。

 「・・・ふうん。それで、どうだった?。俺の、今日のクラス通信?」

 僕はそう聞かれて、考えたね。そして、その時ふいと、くだらない事を思いついたんだ。僕って奴はとんでもなくくだらない人間なんだけど、その気になればどこまでもくだらなくなれるんだ。ほんとだよ。

 「いや、あれですね。先生の今日の文章はどちらかというと、鴎外よりは内田百間に似ていますね。なんといいますか、幻想的な所が、と言いますか。例えば、百間は、ただの白い猫でも、『白くて小さな毛むくじゃらの生き物』みたいな書き方しますよね。ご存知の通り。で、こういう言い方は一種の文体なんですけどね、田口先生。わかるでしょう?。田口先生も。ここではね、ただそこには『白い猫がいた』と書くのとはまた違ったニュアンスが生まれるわけですよ。そう書く事によって。そして、比喩なんかもそういう風に文体の問題と絡まってきます。文章を書くっていうのは、ただ描写するだけ、それだけじゃ駄目なんですよね。もちろん、その事は田口先生もよく知っていると思いますが。だって毎日、『爽やか七組通信』書いていますからね。ええ、そうです。もちろん、そうですよ。で、今日の先生の文章には、ちょっとそういうニュアンスが感じられましたね。つまり、『文体上の努力』と言うんですかね。で、何故、文章を書く人が文体を意識的にそうやって、訓練して作り上げなければならないかと言うと、これはまた大変な問題なんですけど。まあ、こういう問題は面倒なんで省きますが。今は。でも、先生、今日のクラス通信は良かったですよ。そうだ、素晴らしかった。そう、今日の『爽やか七組通信』はね」

 僕はそれだけ言うと、さっと頭を下げて、それで田口の前からさっさと去っていった。僕はね、その時には頭がおかしくなっていたんだよ。本当にさ。多分、物凄くフラストレーションが溜まっていたんだろうね。あるいはストレスが。そういうものってさ、ただなんとなく生きているだけでも溜まってくるものなんだよ。自分の中に。どっぷりと。で、その時に、何かがきっかけになってそういうものが弾け飛んで、全部外に出ちゃったんだな。僕はね、田口の前から去ってトイレに行く時、もう物凄く後悔したんだよ。ほんとに。くだらない事言っちまったな、って。僕はトイレに行って、それで鏡を見て自分に呼びかけた(トイレに誰もいなくて本当に良かった)。「お前は一体、何やってるんだ?」って。クソッタレ。全くもって、僕は馬鹿な奴だよね。でも、君は誤解してはいけないな。悪いのは、あんな下らない事毎日書いて、刷って、配ってる田口の方なんだよ。そう、悪いのは全部、田口。この世の中のありとあらゆる悪はね、うちの担任の田口のせいなんだ。ほんとだよ。アフリカの子供が今日の食べ物に困るのも、それは田口があんな馬鹿みたいなプリントを毎日刷って配っているからなんだ。それは、論理的に説明できるね。どうやってって?。・・・うーん、まあ、馬鹿話もこれぐらいにして置こうか。まあ、僕ってひどいんだよね。本当に。そしてね、それから一週間くらいは、僕は田口の目をまともに見れなかったよ。マジで。田口の方から僕を見る目は少し変わったみたいだったけど。『こいつは一体どういう奴なんだろう?』みたいな感じでさ。でも、それから田口に、その日の事について聞かれた事はなかった。やれやれ。ほっとしたよ。田口にまた森鴎外の事なんかについて聞かれたら、僕は何を言えばいいのかもうさっぱりわからなったからね。 

 

 

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 君は僕の事を、滑稽だと思うだろう。そりゃあね、僕も僕自身が滑稽に見える事はあるさ。くだらない、愚かしい人物だとは思うさ。でも生きている限り、どんな人間も滑稽なんだよ。滑稽だというのが真実なのさ。本当に。君は分かるだろう?。・・君は何もした事がないからそんな事を言うのさ。どんな人間も、人の意識という名の魚眼レンズに写ってしまえば、そいつは滑稽な生き物になっちまう。それは例えば、テレビカメラに映しだされた人間が誰も彼も滑稽に見えるのと同じ事でね。で、その映し出された人間がまじめになればなるほど、そいつは滑稽で愚かしい者に見えてしまう。今、君はパソコンの前だか何かのモニターの前でじっくりとこの僕を観察しているのかもしれないけれど、でもね、そうやって見ている君を見ているもう一つの別のカメラだって、どこかに存在するかもしれない。もしそうだったとしたら、多分、君だって僕と同じくらいに滑稽に写しだされている事だろうよ。この僕と同じくらい、滑稽にね。

 いやあ、でも、学校っていうのは楽しい所だよ。本当に。僕はね、ここではこうやって色々言っているけれど、でも生活する人間としてはそれなりの常識家でいるつもりなのさ。もちろん、さっきみたいに、時々、わけのわからない事を言いもするけど。でも、生活っていうのはそういうものだろう?。どう思う、君?。多分、この僕達の生きている世界ではさ、本当に最後の言葉、黙示録の言葉っていうのは言ってはいけない事になっているんだ。そして、この世界のどんな人物も自分の中に、その最後の言葉、黙示録の言葉っていうのを秘めているんだ。僕は何だか、そんな気がするんだけどね。そして、その最後の言葉は日常生活では言ってはいけない事になっているので、人はそれをネット上に吐き出したりするんだ。僕も、やられた事があるね。ある日、ふと気まぐれにインターネット上で自分の名前を検索してみたらさ、そしたら、ヒットしたんだ。僕の事を書いた言葉が見つかったんだよ。意外な事に。僕はたまげたね。で、その書いた内容を見ると、「桐野はいつも気取っててウザい」なんて内容だった。どいつが書いたのかはよく分からなかったけどね。それはうちの高校の掲示板でね。本当に、インターネットっていうのは色々な言葉や憎悪が書かれているんだね。僕はね、その掲示板に「僕が桐野だ。文句あるか」って書いてやろうかと思った。本当に。でも結局、僕は書かなかった。何というか、陰湿なものは放っておくしかないんだ。それに付き合うというのも、嫌なものだしね。で、僕は何も書かなかった。そして、僕はノートパソコンの前でさ、宣誓を行ったんだ。『不肖桐野龍一、十六才はこれから一切、インターネット上で自分の名前を検索しない事をここに誓います アーメン』ってね。残念ながら、神父はいなかった。でも、その宣誓は荘厳なものだったよ。天使が二体、天から降りてきてね。それから、ヨハネとキリストも降りてきて、ついでにサタンと、後、ドストエフスキーとシェイクスピアとモーツァルトも降りてきた。それで、そいつらは僕の肩をぽんぽんと叩いて、『汝は今、正しき事をしたり。インターネット上で自らの名を検索する事は現世において非常に危険な事なり』って言ってくれてね。そいつら、すぐ天に帰っていったけど。で、僕はノートパソコンのふたをぱたっと閉じて、思ったんだ。『僕は何をやってるんだろう?』って。

 こんな事はつまらないって?。・・そうだね。確かに、君の言う通りだね。多分、僕って凄い自意識過剰な人間なんだと思うよ。ほんとの話。で、僕の自意識っていうのさ、他人の意識まで意識しちゃうから、性質(タチ)が悪いんだよね。でも、僕のこんな性格は、フロイトとかラカンだとか、そういう偉い先生には分析してほしくないんだけどね。だって、ああいう精神分析科医っていうのは、みんな先生面してこっちに近づいて「あー、君のよく見る夢は何だね?」って。偉そうでね。実際は偉そうじゃないかもしれないけど、とにかく、嫌なんだよ。分析されるっていうのが。だって、僕はもう僕を散々分析し尽くしたみたいなもんだからね。僕は自分で自分を粉々にしてしまったんだよ。くだらない事にね。で、その残骸を今更秤にかけられても、僕としちゃあ、困るんだ。だって、その残骸だって僕の一部のわけだからね。僕はくだらない自分が好きなんだよ。かといって、犯罪者にはなりたくはないけれど。

 ところで、昔、僕はバスケットボール部に入っていたんだ。昔、というか二、三年前の事だけどね。中学の時。で、そこの先輩というのが厳しくてね。僕は入部した当初は勘違いしていたけど、そこは意外に体育会系の厳しい部活だったんだ。僕としちゃあ、困ったよ。何せ、僕のいた中学っていうのは強制的にどこかの部活に入らなきゃいけない仕様だったからさ。適当に目をつぶって引いたカードが最悪のジョーカーだった、なんて気分だったんだよ。「おい、一年。お前ら、グラウンド三周してこい」みたいなね。僕はそういうのは漫画とアニメの中にしかないと思ってた。でも、現実にあるんだね。そういう部活、そしてそういう人が。もちろん、僕はすぐに幽霊部員になったよ。幽霊部員。僕はこの言葉の響きが好きだな。君はどう思う?。僕はね、幽霊なんだ。実在しない。だから、全ての言葉は僕を素通りする。気楽なもんだよ。

 でも、今も僕は不思議に思うんだよ。例えば、うちの担任の田口にせよ、あの体育会系のバスケットボール部の、物凄く威張ってて、なおかつ後輩の女の子をつまみ食いにして、その後も色々あって最終的には退学処分食らった当時の先輩にしろ、なんというか、その自意識の構造っていうのはどうなってるんだろうね?。僕は自意識というのにとても興味があるんだ。君はどう思う?。僕は自意識というのは、自分で自分を意識する事だって思ってる。例えば、注射針を自分の腕に刺す。すると、その痛みを僕は感じる。そして、そういう、注射針を刺している自分と刺されて痛がっている自分とを同時に意識する。そういうものが自意識だと、思うんだけどね。そしてね、そういう事ってのは他人の痛みも自分のように感じる、何というか、そんな感じ方へとつながっていくんだな。僕は痛い事が苦手でね。小学生の時、クラスメイトが彫刻刀で指をざっくりと切ってばっと血が出ちゃった時があったけど、あれは痛そうだったな。あの時は僕は思わず、そいつが切った人差し指の部分、その部分をかばうかのように、自分の人差し指をさすっていたよ。無意識のうちにね。ところで、こういうのって意味ある事なのだろうかね?。でも、確言してもいいけど、あのバスケ部の先輩は人の痛みなんて全然感じない奴だったと思うよ。田口もまあ、似たようなもんじゃないかな。誰かを攻撃したり、傷つけたりしてもね、その痛みはあくまでも他人のもので、そしてそれは自分の痛みだと、そういう風には感じられないタイプなんだと思う。両方共。で、僕は痛いのが嫌だからね。だけど、君も知っての通り、この世界じゃ、人を傷つけなければならない時っていうのもある。殴られたら、殴り返さなきゃいけないし、それに人を傷つけないと自分の存在をちゃんと立証できない。そういう場面もさ、人生にはあるじゃないか?。そういう時っていうのは僕らはもう、有無を言わさず、それをやらなきゃいけない。そういう時には相手をぶん殴らなきゃいけない。でも、そうやって広がった自意識の世界だと、そうやって他人を殴る事は自分を殴る事にもつながるんだな。だって、人の痛みを自分のように感じるわけだからさ。だから、他人を殴る事は必然的に自分を殴る事に通じてしまう。でも、そんな時もやっばり相手を殴らなきゃいけない。だって、相手はこちらの痛みなんて、全然理解できるような奴じゃないんだからね。だから、僕はあのバスケ部の先輩にさ、楯突いたほうが良かったのかな、なんてそう思う時もある。だって、あいつは言ったんだよ。僕がだらだらと練習してたら、急につかつかっと僕の方にやってきて、それでこう言ったんだ。

 「お前、生意気だな」

 おいおい。僕のどこが生意気だって言うんだよ?。黙ってランニングして、そして入らないジャンプシュートも、ボール集めだって皆と一緒にやったぜ?。おいおい?。どういうこったよ?。ちなみに、僕は昔から、よく言われるんだよね。これがまた。「お前は生意気だ」とか「桐野君って何考えてるか全然わからないよね」とかさ。うるせえよ。僕は僕の事、考えてんだよ。僕はそれに、この宇宙の事だって考えている。僕はパスカル並みの頭脳と思考を持つ高校二年生なのさ。・・嘘だけど。で、僕はその時、「はあ」って感じで顔を上げて、それで言ったんだよ。

 「ちゃんとやってますが」

 「お前・・・」

 僕がそう言うと、その先輩はビキビキっと顔を引きつらして、それで僕をどんと押したんだよ。本当に。手の平で。で、僕は後ろにずっこけた。その時、皆がやってた練習がパタッと止まったね。そう、それは映画かアニメのワンシーンのようだったね。君にも見せたかったよ。で、その先輩はこう言った。

 「前から、思ってたんだよ。お前は生意気だって」

 それで先輩は倒れてる僕につかつかっと近づいてきた。僕は起き上がろうとしたけど、その肩口をそのクソ先輩が蹴ってきてね。で、僕はもう一度後ろに倒れこんじまった。僕ってね、ひ弱なんだよ。痩せてるし、力もあんまりない。そういや、中学の時、『十キロ走』っていう小規模なマラソンイベントがあってね。その時に、女子に次々と抜かれていったのは情けなかったな。あれは悲しかったよ。マジでさ。

 「お前なあ・・・」

 そう言って、先輩は更に僕に何か危害を加えようとした。殴ろうとしたのか、蹴ろうとしたのか、よく覚えていないけど。で、その時、僕は怖かったんだよね。単純に、ただ怖かった。それで情けない事に手で顔の辺りを守って、それで後ろに身を引いた。その時僕は怖かったんだよ。立ち向かおうなんて、夢にも思わなかった。それが僕の悪い所なんだと自分でも思う。僕もプロテイン飲んで、そしてボクシングでもやって、そんな先輩ぐらいぶん殴るか、それか少なくともその攻撃をさっとかわすくらいのスキルは身につけていなくちゃならない。でも、そういうのは僕はからっきし苦手でね。だからいつだってサンドバッグなんだよ、僕は。困った事にね。でさ、その時にはもう、周囲の他の先輩がその先輩を押しとどめていた。「やり過ぎだ」ってね。で、その後、僕は体育館の外に出された。「お前、今日はもういいから、帰れ」って、その止めてくれた先輩に言われてね。で、僕にそう言った先輩はさ、割と良心的な人だったんだよ。でも、その先輩はその時に僕に言った。「お前、この事あんまり人に言うなよ。次の大会出れなくなったら、事だからな」。確かに、暴力事件には世間はうるさくなってたもんで、その事を先輩は気にしてたんだと思う。だから、僕をそうやって口止めした。でも、僕はその先輩は嫌いじゃなかった。その先輩はバスケットボールに本当に熱心に取り組んでいた人だったからね。だから、次の大会を気にしてそう言うっていうのも、気持はよくわかった。かといって、僕の中にはわだかまりも残っていた。それで僕は残念なような、またどこか煮えたぎっているような、そんな不可解な感情を抱えながら家路をたどったんだ。その日は暑かったよ。シャツが汗でぐしゃぐしゃになるぐらいにね。

 で、翌日の事だけれど、もうその辺りから、僕は幽霊部員になっていた。そして、僕はもう部活にほとんど顔を出さなくなった。でも、後で聞いた話だけれど、その僕を突き飛ばした先輩っていうのは、随分前から部活内でも嫌われていた人らしい。それに、後輩の女子に手を出している、ってのも噂になってた。そういうのは僕と同期でバスケ部に入った友人が教えてくれたよ。そしてその友人は「あいつはクソ野郎だし、気にする事はねえよ。お前、戻ってこいよ」と言ってくれた。ありがたかったね。でも、僕が戻る事はなかった。僕はそれから樽の中に入って、そして本を読んで暮らしたんだ。古代ギリシャのディオゲネスみたいにね。・・・でも、僕らには古代ギリシャのように、入る樽がないんだよ。本当に、どこにもさ。で、そういう事件とか色々な事が、僕を、僕の脳髄という名の樽の中に押し込めていったんだ。もちろん、自分からそんな場所に入り込んだと言う事もできるけど。

 まあ、そんな事もあってね。色々あったんだよ。本当に色々とね。僕はまだ十六才だけど、もうこの世の中のあらゆる事を既に体験し尽くしたような気がしている。『永劫回帰』だね。ニーチェだよ。でも多分、ニーチェのせいだけでもない。だって、僕らは日々、テレビとインターネットを通じて、色々な情報とかニュースにさらされているわけだからね。だから、僕らがそんな情報に埋もれて、自分という名の情報を見失うのも当然だよ。え?。今、うまい事言ったって?。僕が?。・・へへ、そうだね。僕は今、うまい事言ったね。君にだけ聞こえるように、こっそりと。君はもっと僕を褒めてくれたまえ。僕はね、褒められて伸びるタイプなんだ。自分で言っちゃうけど。え?。もう、急に褒める気がなくなったって?。そうかい。それなら、まあいいけど。まあ、君のその気持は、僕もよく分かるな。僕らが褒めたいのは、前を向いて走っている奴らに対してであってさ。そいつらに声援送ったら、そいつら急にくるっとこっちを振り向いて、「ありがとう」、なんてね。いや、褒めたいのは走っている姿勢に対してであって、君の存在そのものに対してじゃないんだよ、というその事を僕らは勘違いしがちなんだね。・・ところで、君、ありがとう。僕を褒めてくれて。

 なあ、君、聞いてくれ。僕にもね、ジャン・ジャック・ルソーのように、何か自分の内に語るべき何かがあればいいと思うんだけれどね、でも、そんなものはほとんど一欠片も見当たらなのさ。田山花袋って作家に『蒲団』って作品があって、確か、女子大生か何かと不倫して、それで何か、その女の蒲団の匂いを嗅ぐとか嗅がないとか、そんな作品だったと思うけど。そういうのって面白いんだろうか?。今はもう、田山花袋なんて誰も読んでないけど。僕にも、蒲団の一つでもあればいいんだけど。僕には、何も話すタネがないんもんでね。

 でもね、聞いて欲しいのはこんな僕にも過去があって事なんだ。過去が。十六年ーー。思えば長かったよ。でもね、その十六年というのは空っぽなんだ。まあ、君もここまで僕の話を聞いてくれたら、よく分かると思うけど。本当に、空っぽなんだよ。空っぽ。僕の人生空っぽなんだけどさ、でも、僕がそれ以外には選べなかったってのも事実でさ。例えば、まともな恋愛なんて僕はした事ないんだけど、でもバレンタインにチョコをもらってホワイトデーにお返しするなんて僕はうんざりだし、誕生日に何かプレゼントする為に一生懸命バイトするとかさ。どうでもいいんだよ、そんな事は。確かに、素敵な事かもしれないけどさ、でも、そんな事が一体、何だろう?。僕らには広い青空があるじゃないか?。そう、この世界はどこまでも広がっている!。僕達は精神の翼を広げて、どこまでも飛翔できる!。そうだろう?。君!?。もちろん、これは空元気でね。体育教師の原口の真似さ。あいつはうるさいんだよな。朝会うと、「おはよう!。桐野君!」って。僕は「あ、どうも・・」ってだらっと返すんだけどね。まあ、どうでもいいんだけどさ、そんな事。

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