氷の姫、案件で笑顔が三秒しか持たない
『本日、審判の日』
『何の審判だよ』
『氷姫の表情筋』
『やめろ』
『ホットサンド後の顔を知ってしまった我々はもう戻れない』
―――配信開始前のコメント欄は、いつもより少しだけ浮ついていた。
氷室ソフィアは、その全部を見なかったことにした。
正確には、見えてしまったものを、見なかったことにした。
探索者用HUDに、配信コメントが常にそのまま流れているわけではない。
深層や高難度戦闘では、視界の邪魔になるため表示は切られる。
戦闘中も同じだ。
ただし、今日のような通常巡回とスポンサーPR枠つきの配信では、ギルドの配信補助AIが拾ったコメントだけが、視界の端に三行ほど流れる。
全部ではない。
けれど、見たくない言葉ほど、なぜか目に入る。
第二十六階層、鏡晶洞。
壁も床も、薄い水晶板を重ねたような地形だった。
足元を踏むたび、かすかな音が奥へ奥へと反射していく。
天井には、氷柱ではなく透明な結晶が垂れ下がっている。
そこに配信用ドローンのライトが当たり、青白い光が幾重にも散った。
画面映えはする。
スポンサーが好きそうな場所だった。
「皆様、ごきげんよう。氷室ソフィアです。本日は第二十六階層、鏡晶洞の巡回任務を行います」
声は澄んでいた。
乱れはない。
銀髪も、探索服も、カメラへ向ける横顔も、隙なく整えてある。
腰の右側には、銀色のパウチ。
本日のスポンサー商品、クリスタルゼリー。
腰の左側には、黒い布で包んだ保温ボトル。
THERMOROCK。
遠野朔が今朝、裏口で渡してきた、無骨で重いボトルだった。
「見た目は好きじゃないが、温度が死なない」
朔はそう言っていた。
その評価が褒めているのか貶しているのか、ソフィアにはよく分からなっかった。
ただ、ボトルの重みが腰にあるだけで、今は少しだけ息がしやすかった。
中身は、琥珀スライムの生姜葛湯風。
ゼリーの前に胃へ入れる、本物の補給食。
カメラには映せない。
映したら終わる。
でも、今日のソフィアにとっては、どのスポンサー装備より大事な保険だった。
ボトルの首には、耐水テープで小さな紙片が巻かれている。
朔の字で、短く書かれていた。
『PR五分前。二口。温度を殺すな』
連絡先は知らない。
住所は知っている。
胃の状態も管理されている。
けれど、いざ困った時に、彼を呼ぶ方法だけがない。
その不便さと遠野朔らしい距離感が、少しだけ安心でもあった。
『鏡晶洞きれい』
『姫と相性良すぎ』
『今日も絵面が強い』
『で、ゼリーはいつですか』
『急かすなw』
『でも気になる』
『氷姫、案件顔できるのか』
できる。
ソフィアは心の中で、短く答えた。
できるに決まっている。
探索者として。
広告塔として。
ギルドの看板として。
これまで、嫌な仕事ならいくらでもこなしてきた。
危険な任務も。
無茶な救助も。
無理なスケジュールも。
笑顔を求められる撮影も。
ゼリーを飲むだけなら、できないはずがない。
そう思った瞬間、腰の右側にある銀色の重みを意識してしまった。
舌が、先に嫌がった。
ソフィアは表情を変えずに歩き続ける。
鏡晶洞の奥から、小さな魔物が這い出してきた。
硝子蜥蜴。
薄い透明な鱗を持つ、結晶洞窟に多い魔物だ。
群れで天井や壁を走り、口から細い結晶針を飛ばす。
大した相手ではない。
だが、雑に凍らせると結晶が砕け、周囲の足場を壊す。
以前のソフィアなら、洞窟の一角ごと凍らせて終わらせていた。
今は、違う。
「対象を確認。処理します」
指先から、薄い氷の輪が走った。
輪は空中でほどけ、三本の糸になる。
一匹目の脚を絡める。
二匹目の顎を止める。
三匹目の尾を床へ縫いつける。
動きを奪ったところで、首元だけを断つ。
氷の量は最小。
床の結晶は割れない。
硝子蜥蜴の胴体も潰れない。
素材回収班が見れば、たぶん喜ぶ倒し方だった。
戦闘に入ると、HUDのコメント表示は自動で落ちる。
視界の端から、余計な文字が消えた。
残るのは、魔物の足音と、結晶針が空気を裂く微かな音。
それでいい。
探索者が、見るべきものを間違えたら終わりだ。
ソフィアは最後の一体を沈め、周囲を確認してから、ゆっくり息を吐いた。
―――戦闘終了。
数秒遅れて、HUDに抽出コメントが戻る。
『うっま』
『最近の姫、氷が細いんだよな』
『前みたいな全部凍らせる感じじゃない』
『これ燃費かなり良さそう』
『素材にも優しい』
『だから素材前提で見るな』
『肉質が死ぬ男の教育が行き届いてる』
ソフィアは反応しない。
その呼び名だけは、やめてほしい。
本人が聞いたら否定しなさそうなところも含めて、非常に困る。
巡回は順調だった。
硝子蜥蜴の群れを処理し、瘴気濃度を測定し、ギルド指定の記録ポイントを二つ通過する。
魔力消費は少ない。
身体も重くない。
問題は、探索ではなかった。
『ソフィアさん、次の広場でPR枠に入ります』
ギルドスタッフの通信が入る。
ソフィアは一瞬だけ、まばたきの間隔を整えた。
「承知しました」
岩陰に入り、通信状態の確認をするふりをする。
配信ドローンは結晶洞の全景を映している。
その死角で、ソフィアは黒布を少しずらし、THERMOROCKの蓋を開けた。
湯気は、まだ立った。
生姜の香りが先に来る。
それから、蜂蜜のやわらかい甘さ。
柑橘皮の少しだけ大人びた苦み。
スプーンで二口。
急がない。
流し込まない。
舌に乗せてから、ゆっくり喉へ落とす。
温かい粘度が、内側を通っていく。
昨日まで荒れていた場所に、薄い布をかけるような感覚だった。
痛みを消すのではなく、刺激が直接触れないようにする。
派手な回復ではない。
けれど、今の自分にはそれで十分だった。
ソフィアは蓋を閉めた。
「……仕事」
声には出さない。
口の中だけで、そう言った。
広場へ出る。
鏡晶洞の中央部。
床の結晶が円形に広がり、カメラを置けば商品が綺麗に映る場所。
明らかに、事前に指定されていたPRポイントだった。
小型ライトドローンが角度を変える。
配信ドローンが正面へ回る。
ソフィアの姿が、ちょうど結晶光を背負う形になる。
HUDに、抽出コメントが流れた。
『あ、来るぞ』
『商品映えスポットだ』
『PRの気配』
『姫、がんばれ』
『もう応援になってるの草』
『案件なのに』
「ここで、本日の探索を支えてくださっているクリスタルゼリーをご紹介いたします」
ソフィアは銀色のパウチを取り出した。
ラベルがカメラに正面から映るよう、角度を合わせる。
三秒。
担当者に言われた通り、三秒。
大型魔獣の予備動作を待つよりも、今の三秒の方が長く感じた。
「クリスタルゼリーは、探索中の魔力補給を手軽に行える人工魔力補給剤です。携帯性に優れ、開封後すぐに摂取できるため、幅広い階層で活動する探索者の皆様を支えてくれます」
台本通り。
よどみなく。
一語も落とさない。
口角も、上がっている。
「本日は、実際の探索中に使用する形でご紹介します」
パウチの封に指をかける。
切る。
ぷつ、と音がした。
その瞬間、匂いが出た。
甘い。
けれど、食べ物の甘さではない。
舌に触れる前から、口の奥に薄い膜が張るような匂い。
果物に似せようとして、果物から一番遠いところへ着地したような香り。
ソフィアは、微笑んだまま止まった。
まだ始まっていない。
ここからだ。
彼女はパウチを口元へ運んだ。
『飲むぞ』
『表情見るなよ』
『見てる』
『正直者』
『姫のプロ根性を信じろ』
一口。
冷たいゼリーが舌に乗った。
最初に、作られた甘さ。
次に、金属に似た魔力の気配。
その後ろから、喉の壁へ残る重い粘り。
味として成立していないわけではない。
たぶん、研究者は努力した。
企業も、飲みやすくしようとしたのだと思う。
けれどソフィアの舌は、もう知っていた。
熱い鉄板で焦げた醤油を。
揚げたての衣から立つ油の香りを。
肉汁を受け止める白米を。
火加減を見て、食べる人間の胃まで見て出された食事を。
だから、比べてしまう。
比べた瞬間、負けた。
ゼリーが。
ではない。
仕事用の笑顔が。
一秒目。
口角は残っている。
二秒目。
目だけが、遠くへ行った。
三秒目。
氷の姫の微笑みは、輪郭だけを残して停止した。
『あ』
『今』
『目』
『目が広告を置いていった』
『表現w』
『笑顔の外側だけ残ったぞ』
『三秒だった』
『三秒は持った』
『持った判定でいいのか?』
『案件としては事故、探索者としては勇者』
ソフィアはコメントを見なかった。
見たら終わる。
今だけは、視界の端に流れる文字が全部、結晶洞窟の反射光でありますように。
そういうことにした。
喉が、すぐに水を求めた。
だが、朔の指示を思い出す。
飲んだ直後に水を入れるな。
胃が驚く。
後味を流したくなるのは分かるが、待て。
分かるなら何とかしてください、と思った。
だが、文句を言う相手はここにいない。
今は、紙片とボトルだけがある。
ソフィアは二口目を飲んだ。
探索者として必要な量。
スポンサーが期待する絵。
ギルドが求める実績。
視聴者が見ている安心感。
その全部を、銀色のパウチごと飲み込む。
胃は暴れなかった。
琥珀スライム葛湯は効いている。
喉は嫌がっている。
舌は抗議している。
心は少しだけ玄関の裏口へ帰りたがっている。
それでも、ソフィアは最後まで飲んだ。
パウチを下ろし、カメラへ向ける。
中身が空になっていることが分かるよう、軽く折った。
「探索中の補給は、体調と状況に合わせて行うことが大切です。皆様も、ご自身の消耗をよく確認し、無理のない判断を心がけてください」
台本にはない言葉だった。
だが、嘘ではない。
むしろ、今日一番本音に近かった。
ソフィアは静かに一礼した。
「以上、クリスタルゼリーのご紹介でした。巡回任務を再開します」
『飲み切った』
『プロだ……』
『いや最後のコメント、普通に良かった』
『無理のない判断を心がけてください、重いな』
『姫、絶対無理してる側だろ』
『でも最後までやったのすごい』
『美味しいとは一言も言ってなくない?』
『言うな』
『企業案件で一番大事なところでは?』
『言うな』
PR枠は終わった。
だが、仕事は終わらない。
ソフィアは鏡晶洞の奥へ進む。
少しだけ、氷の反応が遅れた。
魔力は補給されている。
数値としては問題ない。
それなのに、指先の集中がわずかにざらつく。
硝子蜥蜴が、右壁から三匹同時に飛び出した。
ソフィアは反射で広く凍らせかける。
結晶洞の床に、白い霜が走った。
以前の自分なら、そのまま全部を閉じ込めて砕いていた。
けれど、今は止める。
氷を絞る。
霜を戻す。
糸にする。
三匹の脚だけを絡め、首元へ刃を滑らせる。
遅れは一瞬。
立て直しは、それより速かった。
硝子蜥蜴が床に落ちる。
結晶は割れていない。
胴体も潰れていない。
周囲に危険がないことを確認した後、コメント表示が戻る。
『今、一瞬広がりかけた?』
『でも戻した』
『制御えぐ』
『ゼリー後にこれできるの普通にすごい』
『案件で魂抜けかけてからの戦闘続行』
『トップ探索者だわ』
ソフィアは淡々と任務を続けた。
測定杭を確認する。
結晶滴の落下地点を避ける。
予定外に出現した硝子蜥蜴の群れを処理する。
銀色の後味は、まだ喉の奥に残っていた。
それでも、足は止めない。
硝子蜥蜴が壁を走る。
右手を上げる。
氷を絞る。
脚を止め、首元だけを断つ。
嫌な味が残っている。
胃はまだ警戒している。
それでも、目の前の魔物は待ってくれない。
配信を見ている新人探索者も、スポンサーも、ギルドの担当者も、コメント欄の誰かも、きっと彼女の本当の気持ちまでは知らない。
―――知らなくていい。
氷室ソフィアは、そのためにカメラの前に立っている。
怖い時も。
苦い時も。
胃が拒んだ時も。
それを全部、表情の奥へ押し込めて、最後の一体まで処理する。
それが、彼女が選んだ仕事だった。
誰かに綺麗だと言われるためだけではない。
スポンサーのロゴを背負うためだけでもない。
自分より弱い探索者が、明日もこの階層を歩けるように。
その道を、氷でならしておくために。
ソフィアはもう一度、指先に氷を通した。
細く。
透明に。
必要な分だけ。
最後の硝子蜥蜴が、音もなく床へ落ちる。
ソフィアは息を整え、カメラに向けて顔を上げた。
乱れは、もう残していない。
巡回終了予定時刻。
最後の測定ポイントで、ソフィアはカメラに向き直った。
「本日の巡回任務は、これで完了となります。ご視聴、ありがとうございました」
一礼。
配信ドローンのランプが消える。
赤から黒へ。
配信終了。
その瞬間。
ソフィアは、銀色の空パウチを握りしめたまま、長く息を吐いた。
「……勝った、のかな」
勝利の実感は薄かった。
戦闘には勝った。
任務も終えた。
案件もやり切った。
けれど、味覚だけは、どこかに置いてきた気がする。
ソフィアはTHERMOROCKのボトルを取り出した。
ボトルの首に巻かれた紙片を、もう一度見る。
さっき読んだ一行の下。
折り目で隠れていたところに、続きが小さく書いてあった。
『終了後、水はまだ。葛湯を一口。三分待て』
見ていないはずなのに、見られているみたいだった。
腹が立つ。
でも、その通りにすれば胃が助かることも、もう分かっていた。
ソフィアは蓋を開ける。
まだ温かい。
温度が、本当に死んでいない。
琥珀色の葛湯を一口だけ食べる。
生姜の熱が戻ってくる。
蜂蜜の甘さが、銀色の甘さを上書きしていく。
柑橘皮の苦みが、喉に残った不自然な膜を少しだけ切る。
ようやく、口の中に人間の食べ物が戻ってきた。
ソフィアは目を閉じた。
「……帰ろう」
どこへ、とは言わなかった。
けれど足は、もう決まっていた。
――その夜。
掲示板は当然のように荒れていた。
【悲報】氷姫、ゼリー案件で笑顔が三秒しか持たない
1:名無しの探索者
見たか?
4:名無しの探索者
見た
8:名無しの探索者
三秒だった
12:名無しの探索者
最初の笑顔は完璧だったんだよ
17:名無しの探索者
一口目のあと、目だけ旅に出た
23:名無しの探索者
あれは広告用の笑顔が本体から切り離された瞬間
29:名無しの探索者
比喩が怖い
35:名無しの探索者
でも飲み切ったのは普通にすごい
41:名無しの探索者
プロ根性だけで完走してた
48:名無しの探索者
美味しいとは一言も言わなかったな
52:名無しの探索者
そこに気づいてしまったか
59:名無しの探索者
最後の「体調と状況に合わせて」が意味深すぎる
66:名無しの探索者
あれ、台本じゃなさそう
72:名無しの探索者
氷姫、ゼリー苦手説が濃厚になってきた
79:名無しの探索者
でも最近顔色良いんだよな
84:名無しの探索者
じゃあ何で回復してるんだよ
91:名無しの探索者
飯
97:名無しの探索者
飯で全部説明しようとするな
103:名無しの探索者
ホットサンド後の顔と今日のゼリー後の顔、比較出てるぞ
110:名無しの探索者
やめろ
116:名無しの探索者
左、生命
右、業務
122:名無しの探索者
的確すぎる
129:名無しの探索者
肉質が死ぬ男、今日も裏にいたんじゃね?
135:名無しの探索者
いたらゼリー飲ませないだろ
141:名無しの探索者
いや、飲ませた上で何か対策してそう
148:名無しの探索者
胃の裏方までいるのかよ
155:名無しの探索者
氷姫の胃担当、謎すぎる
―――その頃。
地上ゲート裏。
古いアパートの裏口で、呼び鈴が一度だけ鳴った。
弱々しい音だった。
朔は扉を開ける。
そこに立っていたソフィアは、帽子とマスクをしていた。
いつもの変装。
ただし、肩の力が普段より少し落ちている。
手には、空になったTHERMOROCKの保温ボトル。
もう片方の手には、くしゃりと丸められた銀色のパウチ。
「……朔さん」
「胃か」
「胃です」
短いやり取りのあと、朔は扉を開けたまま横へ避けた。
「入れ」
ソフィアは素直に入った。
部屋の中は、静かだった。
唐揚げの夜のような油の匂いはない。
ホットサンドのような焦げたパンの香りもない。
代わりに、小鍋から白い湯気が上がっている。
RainPeakの小鍋。
ZOTOの火。
小さな木べら。
深層キノコとオーク骨の出汁を薄く合わせた、柔らかい香り。
派手ではない。
けれど、玄関をくぐった瞬間、ソフィアの喉が少しだけほどけた。
「飲み切ったのか」
朔が聞く。
「飲み切りました」
「予定より多い」
「……仕事でしたので」
「仕事でも、胃は予備がない」
「分かっています」
「分かっててやるなら、次から報告しろ」
怒られている。
淡々としているが、たぶん怒られている。
ソフィアは少し俯いた。
「すみません」
「謝る相手は俺じゃない」
「胃ですか」
「そうだ」
「胃に謝るの、二回目です」
「覚えてるなら改善しろ」
正論だった。
でも、今日は反論する元気がない。
ソフィアは椅子に座った。
朔は小さな椀に、温かいスープを注ぐ。
「粘度は落としてある。今は葛湯よりこっちだ」
「なぜ分かるんですか」
「顔色と、ボトルの残量」
「見ただけで?」
「十分だろ」
十分ではないと思う。
けれど、今さら驚くことでもない気がした。
ソフィアは椀を受け取り、両手で包む。
温度が指に移った。
その時点で、少しだけ泣きそうになる。
「いただきます」
飲む。
今度は、飲んでいい。
薄い出汁が舌に触れた。
塩は弱い。
生姜も控えめ。
深層キノコの旨味が、奥で静かに広がる。
オーク骨の白湯は、今日の胃でも受け入れられるくらい軽く整えられていた。
ゼリーの後味を殴って消す味ではない。
掃除する味だった。
喉の壁に残っていた不自然な甘さが、少しずつ剥がれていく。
「……戻ってきました」
ソフィアは小さく言った。
「魔力か」
「いえ」
椀を見つめる。
「味覚が」
朔は少しだけ黙った。
それから、いつもの調子で言った。
「なら死んでないな」
「もっと優しい言い方、できませんか」
「生きてるなら十分だ」
雑だった。
けれど、もういつものことだが、その雑さが少しだけありがたかった。
ソフィアはもう一口飲んだ。
喉が楽になる。
肩も落ちる。
氷の姫の輪郭が、椅子の上で少しずつほどけていく。
「今日、コメント欄で何か言われると思います」
「もう言われてるだろ」
「見たんですか?」
「見てない。見なくても分かる」
「……笑顔、三秒でした」
「三秒も持ったなら上出来だ」
ソフィアは椀を持ったまま顔を上げた。
「褒めていますか?」
「案件としては知らん。胃の状態から見れば、三秒は持ちすぎだ」
「……それは褒めていますか?」
「事実だ」
いつもの言葉。
でも、今回は少しだけ笑えた。
ソフィアは息を吐く。
「次は、美味しいものが食べたいです」
「今日は回復優先だ」
「分かっています。でも、希望を言うくらいは」
朔は棚の奥を見た。
ソフィアもつられて視線を向ける。
そこには、まだ見たことのない道具が増えていた。
丸い鉄板。
浅い鍋。
小さな金属箱。
折りたたみ式の何か。
そして、紙袋。
中に入っているのは、硬い殻を持った黒褐色の実だった。
「明日は補給食じゃない」
朔が言う。
「明日?」
「今日これ以上食わせると、胃が仕事を放棄する」
「胃は仕事をするものなんですか」
「する。毎日」
「……確かに」
妙に納得してしまった。
朔は小鍋の火を落とし、紙袋を軽く叩いた。
中で、から、と硬い音がする。
「魔栗だ」
「まぐり」
「甘い。魔力回復は弱いが、気分は戻る」
甘い。
その単語が、今日初めて、怖くないものとして耳に入った。
ソフィアは椀を抱えたまま、そっと目を細めた。
カメラに向ける笑顔ではない。
スポンサーのための笑顔でもない。
三秒で崩れる必要もない。
ただ、温かいスープの湯気の向こうで、少しだけ戻ってきた顔だった。
「朔さん」
「なんだ」
「明日、大きめでお願いします」
「まだ何を作るか言ってない」
「甘いなら、大きめがいいです」
「ゼリーで懲りた直後に、甘いものを大きめで頼むな」
「ゼリーと一緒にしないでください」
「それはそうだな」
朔はあっさり認めた。
その認め方が妙に嬉しくて、ソフィアは椀に口をつけたまま少し笑った。
朔はそれを見て、短く言う。
「顔、戻ったな」
「はい」
今日は、素直に頷けた。
「でも、胃はまだ戻り切ってない。飲んだら帰れ」
「……消化するまで」
「その言い訳は前に聞いた」
「では、味覚が完全に帰宅するまで」
「言い方を変えるな」
「十分だけ」
朔は壁の時計を見た。
少しだけ考える。
それから、小鍋に残ったスープをもう半分、椀へ足した。
「七分」
「刻みますね」
「胃に聞いた」
「私の胃と会話しないでください」
「今日一番信用できる情報源だ」
ひどい。
でも、また笑ってしまった。
ソフィアは椀を受け取り、もう一度、ゆっくり口をつける。
銀色の案件は終わった。
笑顔は三秒しか持たなかった。
切り抜きは、きっと当分燃える。
それでも今、ここにはカメラがない。
パウチもない。
商品名もない。
あるのは、小さな火と、温かい椀と、明日の魔栗。
そして、自分の胃をなぜか誰より真面目に見ている、黒いエプロンの裏方男だけだった。
ここまで一気に進めたかったので、長くなってしまいましたスミマセン…!
少しでも「面白い」「続きが読みたい」と思っていただけましたら、画面下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にし、リアクションや感想を書いて応援していただけると、作者の最大の魔力回復(励み)になります!
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