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10/12

氷の姫、朔のギア棚に引く

――ゼリー案件翌日。


氷室ソフィアは、人生で初めて、探索予定ではなく夕飯の予定を気にしていた。


ギルドへの報告は終えた。

スポンサーへの礼文も送った。


昨日のPR配信については、広報担当から「完遂ありがとうございます」と連絡が来ていた。


完遂。

たしかに、完遂はした。


クリスタルゼリーの銀色のパウチをカメラ正面に向け、商品名が読める角度を保ち、台本を読み、飲み切り、最後まで探索者としての言葉で締めた。


仕事としては、失敗ではない。

たぶん。


ただし、端末の通知欄には、やたらと「笑顔 三秒」「氷姫 目から光」「ゼリー 美味しいとは言ってない」という単語が流れている。


ソフィアはそっと通知を閉じた。


見なかったことにした。


氷の姫は、細かい切り抜きなど気にしない。

スポンサー案件の感想を検索して胃を冷やしたりもしない。

世界ランク3位の探索者は、世間の反応に一喜一憂などしない。


しない、はずだった。


「……魔栗」


口に出した瞬間、自分で少し驚いた。


昨日、配信後に口へ入れた琥珀スライムの葛湯。


生姜と蜂蜜と柑橘皮の熱が、銀色の不自然な甘さをようやく剥がしてくれた。


そのあと、朔が何気なく言ったのだ。


明日は魔栗にする、と。


甘いなら大きめで、と言った自分の声まで、ちゃんと覚えている。


探索対象の名前より、スポンサーの確認事項より、今日の予定表より、その単語だけが妙にはっきり残っていた。


魔栗。

甘いらしい。

焼くらしい。

バターを使うらしい。

ダンジョン蜂蜜もあるらしい。


「……これは契約」


ソフィアは帽子を深く被り、マスクをつけた。


「食事の提供と素材取引。あと、昨日の業務後ケアの続き。それ以上の意味はない」


誰も聞いていない部屋で、念のため言い訳をしておく。


だが、その足取りは昨日の配信中よりも軽かった。


夕方。

地上ゲート裏の古いアパート。


表通りでは、まだ探索者向けの広告が大型モニターに流れている。


銀色のパウチを持ったモデルが、爽やかな笑顔でクリスタルゼリーを掲げていた。


ソフィアは見なかった。

見なかったことにした。

胃袋にも、見なかったことにしてもらった。


薄暗い路地へ入り、錆びた階段の横を抜ける。

古い鉄扉の前で呼吸を整える。

昨日と同じ裏口。


なのに、今日は少しだけ違った。


任務後の緊急避難ではない。

素材の採点でもない。

ゼリー案件の防衛でもない。


―――ご褒美。


その単語が、ソフィアの胸の奥で小さく弾んだ。


紐の呼び鈴へ指を伸ばす。


その前に、扉が内側から開いた。


「顔は?」


遠野朔が立っていた。


黒い長袖シャツ。

黒いエプロン。

後ろで雑に結ばれた髪。

手には、なぜか小さな木べらを持っている。


第一声が「素材は?」ではなかったことに、ソフィアは一瞬だけ反応が遅れた。


「……顔、ですか?」


「昨日の銀色が残ってるかどうか」


「言い方」


「目は死んでないな」


「それは褒めていますか?」


「状態確認だ」


朔はそれだけ言って、扉を開けたまま横へずれる。


「入れ。外で立ってると目立つ」


「はい」


ソフィアは中へ入った。


いつもの狭い部屋。

金属の棚。

折りたたみテーブル。

壁際の調味料ケース。


清掃道具と解体道具と調理器具が、異常なほど整然と並んだ、生活感より作業効率の方が強い空間。


だが、今日は少し違った。


「……増えていませんか?」


ソフィアは思わず言った。


壁の棚の一角が、前より明らかに密度を増している。


小さな手挽きのコーヒーミル。

折りたたみ式のドリッパー。

黒い小型ランタン。

細長い保温フードジャー。

折りたたまれた防水スタッフバッグ。

用途の分からない沢山の金属の棒。

ロープ。

小さなハンマー。

銀色のシェラカップが、大きさ違いで何個も重なっている。


さらに棚の下には、角ばったウォータージャグと、灰色のクーラーボックスまで押し込まれていた。


前から普通ではなかった。

だが、今は普通ではない方向に育っている。


「増えてない」


朔はテーブルの上に|CAPTAINSTAGGERキャプテンスタッガーのカッティングボードを置きながら言った。


「分類を変えた」


「それを増えたと言います」


「前は取り出し効率が悪かった。使用頻度で分け直しただけだ」


「使用頻度で分け直した結果、なぜコーヒーミルが増えるんですか」


「増えてない。前からあった」


「見えないところにあったものは、私の認識上は増えています」


朔は少しだけ眉をひそめた。


たぶん、納得していない。


ソフィアは棚の前に立ち、銀色のシェラカップを見た。


一つ。

二つ。

三つ。

四つ。

似たようなものが、なぜか大量にある。


「これ、全部同じでは?」


「違う」


即答だった。


今日一番、声が早かった。


「湯を沸かす用、ソース用、計量用、灰汁取り用、試食用、素材の仮置き用」


「カップに役職があるんですか」


「ある」


「あるんですね……」


「同じ器を使い回すと匂いが混ざる。甘いものに血抜き前の臭いが移ったら終わりだ」


「それは、嫌です」


「だろ」


ソフィアは、少しだけ納得してしまった。

この部屋の道具は多すぎる。

けれど、朔にとっては一つ一つに役割があるのだ。


その視線が、ふと棚の奥で止まった。


黒く焼けた耐毒グローブがあった。

指先の部分だけが、何かに溶かされたように縮れている。


「それは?」


朔の手が、一瞬だけ止まった。


「古いやつだ、もう使えない」


「捨てないんですか?」


「失敗した時の熱は、見える場所に置いておかないと忘れる」


それ以上、朔は説明しなかった。

ソフィアも、聞けなかった。


朔は何事もなかったように、棚から長方形の金属容器を取り出した。


飯盒のようで、弁当箱のようでもある。


「これは?」


「メスティン」


「お弁当箱ですか?」


「蒸す。炊く。焼く。煮る。簡易オーブンにもなる。蓋は重しにも使える」


「使い方が多すぎませんか」


「少ない道具で済ませるのが現場向きだ」


「家でも現場なんですね」


「ここは作業場だ」


住居ではないらしい。

一応、寝る場所はあるはずなのに。


次に朔が取り出したのは、浅く丸い黒い鉄板だった。


中央が少し窪み、縁がなだらかに上がっている。


フライパンに似ているが、もっと薄く、皿にも見える。


「今日はこれを使う」


「お皿ですか?」


「マルチグリドルだ。焼く道具だ」


「浅すぎませんか?」


「だからいい。生地の端に無駄な熱が入らない」


「端にも命があるんですね」


「ある」


また即答だった。


朔はいつもより少しだけ饒舌だった。


目の動きが違う。


肉を見る時の鋭さとはまた別の、道具を出している時の静かな熱がある。


普段は説明を省くくせに、ギアの話になると、言葉が増える。


ソフィアは半分くらい分からなかった。


シェラカップに役職がある世界は、まだ早い。


だが、楽しそうな朔を見るのは、少しだけ悪くなかった。


「朔さん、ギアの話をしている時、少し楽しそうですね」


「普通だ」


「普通ではないと思います」


「なら、あんたが道具を雑に見すぎてる」


「そういう返しになるんですね」


朔は答えず、メスティンへ水を張った。


その中に、硬い殻を持つ栗のようなものを入れていく。


濃い茶色。


表面には細い金色の筋が走っている。


普通の栗より一回り大きく、殻の合わせ目から、ごく薄い魔力の光が滲んでいた。


「それが、魔栗ですか?」


「そうだ」


「思ったより、栗ですね」


「栗に似てるから魔栗と呼ばれてる」


「それはそうですね」


朔はメスティンの蓋を閉め、ZOTOの小型バーナーに火を入れた。


カチリ。

青い炎が立つ。


昨日まで、肉を焼き、油を熱し、葛湯の温度を整えてきた炎。


今日はその上で、栗が蒸されている。


しばらくすると、蓋の隙間から細い蒸気が漏れ始めた。


じゅう、ではない。

ぱちぱち、でもない。

しゅう、とやわらかい音。


甘い香りが、少しずつ部屋に広がっていく。


焼けた肉の脂とも、醤油の焦げとも、唐揚げの油とも違う。


粉っぽくて、ほくほくしていて、秋の屋台を思わせるような匂い。


そこへ、朔がミニケトルで湯を沸かし、別のシェラカップにバターを少量落とした。


熱で角が丸くなり、黄色い塊がゆっくり溶ける。


「……甘い匂いがします」


「魔栗は熱を入れると香りが出る。生だと渋い」


「そのまま食べると?」


「舌がしばらく苦い」


「試したんですか」


「昔な」


その言い方が軽すぎて、ソフィアはそれ以上聞かなかった。


朔はメスティンの蓋を少しずらす。


白い蒸気がふわっと上がった。


その中で、魔栗の殻に細い亀裂が入っている。


ぱき、と小さな音がした。


ソフィアは肩を揺らした。


「爆ぜました?」


「少しな。殻に切れ目を入れてあるから問題ない」


「入れていなかったら?」


「天井を掃除することになる」


ソフィアは天井を見上げた。


古いアパートの天井には、確かにいくつか、過去の戦いの痕跡のような小さな傷がある。


蒸し上がった魔栗を、朔はカッティングボードの上に並べる。


指先で熱さを確かめ、細いナイフを入れた。

硬い殻が割れる。


中から現れたのは、淡い黄金色の中身だった。

栗より少し白く、ほくほくとした断面から、甘い湯気が立つ。


朔はそれをスプーンで取り出し、RainPeakの小さなボウルへ移していく。


一つ。

二つ。

三つ。


潰しすぎないよう、木べらで粗く崩す。


完全なペーストにはしない。

小さな粒が残る程度。


「全部潰さないんですか?」


「食感が消える。甘いだけだと飽きる」


「甘いだけでも、私はかなり大丈夫です」


「ゼリーのあとでよく言えるな」


「……あれは、甘さではありません」


「だろうな」


朔は薄力粉らしき粉と、深層卵に似た淡い光を持つ卵液、少量の塩、溶かしバターを合わせた。


そこへ粗く潰した魔栗を入れる。


混ぜすぎない。

粉っぽさが消えたところで止める。


生地の中に、黄金色の粒が点々と残っていた。


マルチグリドルが温まる。

朔は表面に薄くバターを伸ばした。


じゅ、ではなく、ちり、と短い音。


バターが透明に溶け、縁に細かい泡を作る。


そこへ、生地を落とした。


丸く広がる。

厚みは薄すぎず、厚すぎず。


表面に魔栗の粒が浮き、縁がゆっくり固まっていく。


甘い香りが、一段深くなった。


小麦の焼ける匂い。

バター。

蒸した魔栗。

ほんの少しの塩。


ソフィアは無意識にテーブルの端を握っていた。


皿はまだ空だ。


でも、もう見てしまっている。


焼けていく生地を。


ぷつ、ぷつ、と表面に小さな気泡が生まれる。


その一つが弾けた瞬間、朔が木べらを差し込んだ。


「まだ返さないんですか?」


「今だ」


生地がひっくり返る。


裏面には、薄いきつね色の焼き目がついていた。


濃すぎない。

焦げていない。


しかし、香りだけはしっかり立っている。


「……綺麗」


思わず漏れた。


ただ、丸い生地に焼き色がついただけ。


それなのに、妙に目が離せなかった。


「焼き色は薄めでいい」


朔は二枚目の生地を落としながら言う。


「魔栗の香りを焦げで潰すな。火を強くすると表面だけ先に色がついて、中が鈍る」


「パンケーキにも、そんなに考えることがあるんですね」


「食うものだからな」


当たり前のように言われた。


食うものだから、考える。


その単純な理屈が、ゼリー案件のあとだと妙に()みた。


しばらくして、皿の上に二枚のパンケーキが重ねられた。


朔はその上に、小さなバターを一片乗せる。


熱でゆっくり角が溶ける。

黄色い筋が、焼き色の上を滑った。

最後に、小瓶を開ける。

淡い金色の液体。

ダンジョン蜂蜜。


スプーンですくうと、とろりと糸を引いた。


朔はそれを、パンケーキの中心からゆっくり落とす。


蜂蜜はバターに触れ、丸く広がり、魔栗の粒が見える生地の凹凸をなぞりながら流れていく。


光っていた。


甘い匂いが、部屋の空気を柔らかくする。


銀色のパウチに閉じ込められていた人工的な甘さとは、まるで違った。


「魔栗バターのマルチグリドルパンケーキ」


朔は皿をソフィアの前に置いた。


「魔力回復は弱い。今日は補給食じゃない」


ソフィアは皿を見たまま、小さく聞いた。


「じゃあ、何ですか」


「ご褒美飯だ」


その言葉で、胸の奥が少し詰まった。


ご褒美。


昨日、カメラの前でゼリーを飲んだこと。

笑顔を三秒しか保てなかったこと。

それでも、最後まで仕事を投げ出さなかったこと。

探索も、PRも、コメント欄も、全部背負って帰ってきたこと。

誰も大げさには褒めなかった。

ソフィア自身も、自分を褒める余裕などなかった。


けれど、目の前に温かい皿がある。


その皿を作った男は、淡々と言った。


「昨日、こなしただろ」


それだけだった。


でも、それで十分だった。


「……いただきます」


ソフィアはRainPeakのフォークを手に取った。


刃先を入れる。


表面はふわりと沈み、中に残った魔栗の粒がほろっと崩れる。


切り分けた一片に、バターと蜂蜜を絡める。


湯気が上がる。

口へ運ぶ。

噛んだ。


「……っ」


最初に来たのは、甘さだった。


でも、怖くない。


舌に貼りつく甘さではない。

喉に残る人工的な膜でもない。

蒸した魔栗のほくほくした甘み。

焼けた生地の香ばしさ。

バターの塩気。

ダンジョン蜂蜜の、花のように丸い甘さ。


それが一緒にほどけていく。


噛むと、魔栗の粒が舌の上で崩れた。


粉っぽさが少しある。

けれど、それがいい。

甘さに輪郭が出る。


蜂蜜だけなら流れてしまうところを、魔栗が受け止める。


バターが香りを伸ばす。


ほんの少しの塩が、全部を甘いだけにしない。


飲み込むと、胃の奥に穏やかな熱が落ちた。


昨日の銀色の記憶でざらついていた心の表面を、蜂蜜の熱がゆっくり撫でていく。


硬くなっていた頬が、内側からほどける。


ソフィアは目を伏せた。


「……甘い」


声が、小さく落ちた。


朔は向かい側で、次の生地を焼きながら言う。


「甘いな」


「でも、嫌じゃないです」


「それなら戻ってる」


「何がですか?」


「味覚と顔」


「顔」


「昨日よりマシだ」


ソフィアは反論しようとした。


しかし、フォークが二口目を切っていた。


バターが溶けた中心部。

蜂蜜が染みた端。

魔栗の粒が多い場所。


どこから食べるべきか、真剣に迷っている自分がいる。

世界ランク上位の探索者としては、たぶんかなり平和な悩みだった。


「……甘いものが、怖くないです」


ソフィアはぽつりと言った。


朔の木べらが、一瞬だけ止まる。


「昨日のやつは?」


「あれは甘いものではありません」


「そうか」


「はい。あれは……銀色の試練です」


「商品名にするな。売れない」


「売れなくていいです」


朔は二枚目を皿に移した。


ソフィアの皿ではなく、別の小皿。


自分用らしい。


ソフィアはそちらを見ないようにした。


見ないようにしたが、視界には入る。


大きさが少し違う。


朔の方が、ほんの少しだけ大きい気がする。


「朔さん」


「なんだ」


「それ、私のより大きくありませんか」


「焼きムラが出た」


「嘘ですよね」


「俺の分だ」


「……」


「見るな。自分のを食え」


ソフィアは自分の皿へ視線を戻した。


確かに、まだ残っている。


だが、減っていく。


減っていくのが、すでに寂しい。


三口目。

四口目。


蜂蜜が皿に少し垂れている。


ソフィアはパンケーキの端でそれをすくった。


端は、中心より少しだけ焼き目が強い。


表面が香ばしく、そこに蜂蜜が絡む。


危険だった。

静かな危険。


唐揚げのように叫びたくなる危険ではない。


このまま黙って食べ続け、気づいたらもう一枚頼んでいる種類の危険だ。


「……もう一枚、焼けますか」


言ってから、ソフィアは少しだけ口元を押さえた。


遅い。

完全に言ったあとだった。


朔はマルチグリドルの温度を見ている。


「生地はある」


「本当ですか」


「ただし、次は小さめだ」


「大きめで」


「ご褒美の範囲を超えるな」


「昨日、私はプロとして最後までやりました」


「やったな」


「それなら、大きめでもいいのでは?」


「ご褒美と暴食は違う」


「今日は甘いものが怖くなくなった記念日でもあります」


「記念日を増やすな」


朔はそう言いながら、生地を落とした。


一枚目より、少し大きい。


ソフィアは気づかないふりをした。

朔も何も言わなかった。


二枚目が焼けるまでの間、ソフィアはテーブルの端に置かれたカトラリーケースに気づいた。


RainPeakのロゴが入った、細長い布ケース。


以前も見たことがある。


ただ、中身が違う。


銀色のスプーンとフォーク。

それから、小さなナイフ。

どれもまだ傷が少ない。


「このスプーン、前はありませんでしたよね」


朔は小さな瓶から蜂蜜をすくいながら答えた。


「買った」


「誰用ですか?」


「あんた用」


音が消えた気がした。


ZOTOの炎の音も。

バターが溶ける音も。

外の路地を通る小型トラックの音も。


一瞬だけ、全部遠くなった。


「……私用」


「そうだ」


「なぜ」


「毎回違う金属だと、熱さの感じ方が変わる。感想がぶれる」


「あ、そういう理由ですか」


「他に何がある」


朔は本気で分かっていない顔だった。


本当に。

心の底から。


ソフィアは少しだけ、フォークを持つ指に力を込めた。


「いえ。何でもありません」


「変な顔してるぞ」


「していません」


「昨日よりは生きてる顔だな」


「それは褒めていますか?」


「観察結果だ」


「そうですか」


ソフィアは視線を落とす。


自分用のスプーン。

自分用のフォーク。

自分用のナイフ。


理由は、感想のブレを防ぐため。


関係性の進展というには、あまりにも色気がない。


けれど。


朔の棚に、自分用の道具が増えている。


それは、彼の生活圏に自分の居場所が少しだけできたということだった。


たとえ本人が、それを調整データの精度向上と呼ぶのだとしても。


「朔さん」


「なんだ」


「次から、このカトラリーを使えばいいんですね」


「そうしろ。熱いものを食う時は先に言う。金属は熱を持つ」


「はい」


「あと、持って帰るな。ここに置いておく」


「……はい」


その言葉が、少しだけ嬉しかった。


置いておく。


ここに。


ソフィアは二枚目のパンケーキを受け取った。


今度はさっきより、ほんの少し大きい。

バターも少し多い。

蜂蜜は、さっきより控えめ。


「蜂蜜、少ないですか?」


「一枚目で舌が甘さに慣れてる。二枚目は魔栗を出す」


「そういう調整なんですね」


「そういう調整だ」


ソフィアは二枚目を食べた。


一枚目より、魔栗の香りが強かった。


蜂蜜の甘さは控えめなのに、物足りないわけではない。


噛むほどに、栗のほくほくした甘みが立ち上がる。


バターの塩気が、二口目、三口目を誘う。


静かに。

確実に。

逃げ道を塞いでくる。


ソフィアは目を閉じた。


配信中の顔ではない。

スポンサー撮影用の笑顔でもない。

コメント欄に切り抜かれるための表情でもない。


ただ、甘いものを食べている二十歳の女の子の顔だった。


「……これ、危ないです」


「何が」


「毎日食べたくなります」


「毎日は焼かない」


「なぜですか」


「ご褒美は毎日だと補給に格が落ちる」


「名言っぽいことを言っていますが、つまり焼いてくれないんですね」


「そうだ」


「厳しい」


「食い物に甘えるな」


「甘いものなのに」


「うまい返しをした顔をするな」


していたらしい。


ソフィアは慌てて表情を整えた。


だが、もう遅い。


朔は見ていた。


記録はしていないと信じたい。


食後。


ソフィアは椅子に座ったまま、温かいミニケトルの湯で淹れられた薄いハーブ茶を飲んでいた。


甘さのあとに飲むと、口の中がすっきりする。


朔はマルチグリドルを拭いている。


水に浸けない。

洗剤も使わない。

薄く油を馴染ませ、布で丁寧に磨く。


食器ではなく、刃物を手入れしているような真剣さだった。


「それも、ちゃんと手入れするんですね」


「焼き面が育つ」


「道具は育つんですか?」


「育つ。雑に扱うと()ねる」


「道具が拗ねるんですか」


「焦げる。歪む。くっつく。全部、拗ねたのと同じだ」


「朔さんの中では、道具と食材の感情表現が豊かですね」


「人間より分かりやすい」


その返事に、ソフィアは少しだけ笑ってしまった。


笑ってから、ふと気づく。


ここでは、笑顔の秒数を気にしなくていい。


三秒で消えてもいい。

長く残ってもいい。

誰も商品価値に変えない。


遠野朔はたぶん、表情よりマルチグリドルの焼き面を気にしている。


それが、今のソフィアには気楽でありがたかった。


「そろそろ帰れ」


朔が言った。


いつもの調子だった。


正しい。

食事は終わった。

契約上は帰る時間だ。


ソフィアは一度、反射的に「あと少し」と言いかけた。


しかし、今日は飲み込んだ。


甘いものを食べた余韻が、まだ身体の中にある。


それを持って帰るのも、悪くないと思えた。


「はい。今日は帰ります」


朔が少しだけこちらを見る。


「珍しいな」


「私だって、毎回居座るわけではありません」


「そうか」


「そうです」


ソフィアは立ち上がり、マスクをつけ直した。


帽子を深く被る。

手には何も持っていない。

けれど、胃の中には魔栗と蜂蜜の温かさがある。

口の中には、銀色ではない甘さが残っている。


そして棚には、自分用のカトラリーが置かれている。


それだけで、昨日より少しだけ、外に出るのが怖くなかった。


「朔さん」


「なんだ」


「ご褒美、ありがとうございました」


朔は片付けの手を止めなかった。


「礼はいい。昨日の反動を戻しただけだ」


「それでも、です」


「なら、次は働け」


「働く?」


ソフィアが首を傾げると、朔は棚から一枚の紙を取り出した。


そこには、簡単な図が描かれている。


丸い甲羅。

脚。

腹側。

そして、赤い印。


見慣れない魔物の図だった。


嫌な予感がした。


「次は毒沼ガニ(どくぬまガニ)だ」


ソフィアは固まった。


「……カニ、ですか?」


「毒沼エリアにいる。味噌が使える」


「味噌」


「甲羅を割るな。腹側を潰すな。毒袋を揺らすな。脚は二本までなら欠けてもいいが、味噌は殺すな」


「ご褒美の次に、要求が急に重すぎませんか」


「ご褒美は終わった」


「切り替えが早い」


「毒袋を間違えると俺も死ぬ」


「もっと重くなりました」


朔は紙をソフィアに差し出した。


「沼ごと凍らせるなよ。甲羅が割れる」


「世界ランク上位の探索者に対する注意事項ではないです」


「食材調達係への注意事項だ」


ソフィアは紙を受け取った。


毒沼ガニの雑な図。

危険箇所。

凍らせていい場所。

絶対に潰すな、と強めに書かれた毒袋。


その紙を見て、ソフィアは小さく息を吐いた。


さっきまで、魔栗と蜂蜜で満たされていた心が、一気に現場へ引き戻される。


けれど、不思議と嫌ではなかった。


次に何を獲ってくればいいのか。

どう倒せば、食材として生きるのか。

どう持って帰れば、朔が料理にできるのか。


そのことを考える自分に、もうあまり驚かなくなっている。


「分かりました」


ソフィアは紙を丁寧に折った。


「甲羅を割らず、腹側を潰さず、毒袋を揺らさず、味噌を殺さないようにします」


「分かってるならいい」


「分かってはいます。できるかは別です」


「できなかったら点が下がる」


「点数制、継続なんですね」


「当然だろ。素材だからな」


ソフィアは少しだけ笑った。


本当に、この人はぶれない。


昨日のゼリー案件も。

今日のご褒美飯も。

次の毒沼ガニも。

全部、胃と食材と道具の話になる。


でも、そのぶれなさに、ソフィアは何度も救われている。


「朔さん」


「なんだ」


「次は、七十点を目指します」


朔はようやく、ほんの少しだけソフィアを見た。


「六十点でいい。毒沼ガニで最初から七十を狙うと、だいたい毒袋が死ぬ」


「何をしても、何かが死にますね」


「雑にやればな」


「では、雑にやらないようにします」


「そうしろ」


ソフィアは裏口の扉を開けた。


夜の路地は冷たい。


けれど、口の中にはまだ、魔栗と蜂蜜の甘さが残っている。


銀色ではない。

本物の甘さ。


―――それを確かめるように、ソフィアは小さく息を吸った。

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