氷の姫、朔のギア棚に引く
――ゼリー案件翌日。
氷室ソフィアは、人生で初めて、探索予定ではなく夕飯の予定を気にしていた。
ギルドへの報告は終えた。
スポンサーへの礼文も送った。
昨日のPR配信については、広報担当から「完遂ありがとうございます」と連絡が来ていた。
完遂。
たしかに、完遂はした。
クリスタルゼリーの銀色のパウチをカメラ正面に向け、商品名が読める角度を保ち、台本を読み、飲み切り、最後まで探索者としての言葉で締めた。
仕事としては、失敗ではない。
たぶん。
ただし、端末の通知欄には、やたらと「笑顔 三秒」「氷姫 目から光」「ゼリー 美味しいとは言ってない」という単語が流れている。
ソフィアはそっと通知を閉じた。
見なかったことにした。
氷の姫は、細かい切り抜きなど気にしない。
スポンサー案件の感想を検索して胃を冷やしたりもしない。
世界ランク3位の探索者は、世間の反応に一喜一憂などしない。
しない、はずだった。
「……魔栗」
口に出した瞬間、自分で少し驚いた。
昨日、配信後に口へ入れた琥珀スライムの葛湯。
生姜と蜂蜜と柑橘皮の熱が、銀色の不自然な甘さをようやく剥がしてくれた。
そのあと、朔が何気なく言ったのだ。
明日は魔栗にする、と。
甘いなら大きめで、と言った自分の声まで、ちゃんと覚えている。
探索対象の名前より、スポンサーの確認事項より、今日の予定表より、その単語だけが妙にはっきり残っていた。
魔栗。
甘いらしい。
焼くらしい。
バターを使うらしい。
ダンジョン蜂蜜もあるらしい。
「……これは契約」
ソフィアは帽子を深く被り、マスクをつけた。
「食事の提供と素材取引。あと、昨日の業務後ケアの続き。それ以上の意味はない」
誰も聞いていない部屋で、念のため言い訳をしておく。
だが、その足取りは昨日の配信中よりも軽かった。
夕方。
地上ゲート裏の古いアパート。
表通りでは、まだ探索者向けの広告が大型モニターに流れている。
銀色のパウチを持ったモデルが、爽やかな笑顔でクリスタルゼリーを掲げていた。
ソフィアは見なかった。
見なかったことにした。
胃袋にも、見なかったことにしてもらった。
薄暗い路地へ入り、錆びた階段の横を抜ける。
古い鉄扉の前で呼吸を整える。
昨日と同じ裏口。
なのに、今日は少しだけ違った。
任務後の緊急避難ではない。
素材の採点でもない。
ゼリー案件の防衛でもない。
―――ご褒美。
その単語が、ソフィアの胸の奥で小さく弾んだ。
紐の呼び鈴へ指を伸ばす。
その前に、扉が内側から開いた。
「顔は?」
遠野朔が立っていた。
黒い長袖シャツ。
黒いエプロン。
後ろで雑に結ばれた髪。
手には、なぜか小さな木べらを持っている。
第一声が「素材は?」ではなかったことに、ソフィアは一瞬だけ反応が遅れた。
「……顔、ですか?」
「昨日の銀色が残ってるかどうか」
「言い方」
「目は死んでないな」
「それは褒めていますか?」
「状態確認だ」
朔はそれだけ言って、扉を開けたまま横へずれる。
「入れ。外で立ってると目立つ」
「はい」
ソフィアは中へ入った。
いつもの狭い部屋。
金属の棚。
折りたたみテーブル。
壁際の調味料ケース。
清掃道具と解体道具と調理器具が、異常なほど整然と並んだ、生活感より作業効率の方が強い空間。
だが、今日は少し違った。
「……増えていませんか?」
ソフィアは思わず言った。
壁の棚の一角が、前より明らかに密度を増している。
小さな手挽きのコーヒーミル。
折りたたみ式のドリッパー。
黒い小型ランタン。
細長い保温フードジャー。
折りたたまれた防水スタッフバッグ。
用途の分からない沢山の金属の棒。
ロープ。
小さなハンマー。
銀色のシェラカップが、大きさ違いで何個も重なっている。
さらに棚の下には、角ばったウォータージャグと、灰色のクーラーボックスまで押し込まれていた。
前から普通ではなかった。
だが、今は普通ではない方向に育っている。
「増えてない」
朔はテーブルの上に|CAPTAINSTAGGERのカッティングボードを置きながら言った。
「分類を変えた」
「それを増えたと言います」
「前は取り出し効率が悪かった。使用頻度で分け直しただけだ」
「使用頻度で分け直した結果、なぜコーヒーミルが増えるんですか」
「増えてない。前からあった」
「見えないところにあったものは、私の認識上は増えています」
朔は少しだけ眉をひそめた。
たぶん、納得していない。
ソフィアは棚の前に立ち、銀色のシェラカップを見た。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
似たようなものが、なぜか大量にある。
「これ、全部同じでは?」
「違う」
即答だった。
今日一番、声が早かった。
「湯を沸かす用、ソース用、計量用、灰汁取り用、試食用、素材の仮置き用」
「カップに役職があるんですか」
「ある」
「あるんですね……」
「同じ器を使い回すと匂いが混ざる。甘いものに血抜き前の臭いが移ったら終わりだ」
「それは、嫌です」
「だろ」
ソフィアは、少しだけ納得してしまった。
この部屋の道具は多すぎる。
けれど、朔にとっては一つ一つに役割があるのだ。
その視線が、ふと棚の奥で止まった。
黒く焼けた耐毒グローブがあった。
指先の部分だけが、何かに溶かされたように縮れている。
「それは?」
朔の手が、一瞬だけ止まった。
「古いやつだ、もう使えない」
「捨てないんですか?」
「失敗した時の熱は、見える場所に置いておかないと忘れる」
それ以上、朔は説明しなかった。
ソフィアも、聞けなかった。
朔は何事もなかったように、棚から長方形の金属容器を取り出した。
飯盒のようで、弁当箱のようでもある。
「これは?」
「メスティン」
「お弁当箱ですか?」
「蒸す。炊く。焼く。煮る。簡易オーブンにもなる。蓋は重しにも使える」
「使い方が多すぎませんか」
「少ない道具で済ませるのが現場向きだ」
「家でも現場なんですね」
「ここは作業場だ」
住居ではないらしい。
一応、寝る場所はあるはずなのに。
次に朔が取り出したのは、浅く丸い黒い鉄板だった。
中央が少し窪み、縁がなだらかに上がっている。
フライパンに似ているが、もっと薄く、皿にも見える。
「今日はこれを使う」
「お皿ですか?」
「マルチグリドルだ。焼く道具だ」
「浅すぎませんか?」
「だからいい。生地の端に無駄な熱が入らない」
「端にも命があるんですね」
「ある」
また即答だった。
朔はいつもより少しだけ饒舌だった。
目の動きが違う。
肉を見る時の鋭さとはまた別の、道具を出している時の静かな熱がある。
普段は説明を省くくせに、ギアの話になると、言葉が増える。
ソフィアは半分くらい分からなかった。
シェラカップに役職がある世界は、まだ早い。
だが、楽しそうな朔を見るのは、少しだけ悪くなかった。
「朔さん、ギアの話をしている時、少し楽しそうですね」
「普通だ」
「普通ではないと思います」
「なら、あんたが道具を雑に見すぎてる」
「そういう返しになるんですね」
朔は答えず、メスティンへ水を張った。
その中に、硬い殻を持つ栗のようなものを入れていく。
濃い茶色。
表面には細い金色の筋が走っている。
普通の栗より一回り大きく、殻の合わせ目から、ごく薄い魔力の光が滲んでいた。
「それが、魔栗ですか?」
「そうだ」
「思ったより、栗ですね」
「栗に似てるから魔栗と呼ばれてる」
「それはそうですね」
朔はメスティンの蓋を閉め、ZOTOの小型バーナーに火を入れた。
カチリ。
青い炎が立つ。
昨日まで、肉を焼き、油を熱し、葛湯の温度を整えてきた炎。
今日はその上で、栗が蒸されている。
しばらくすると、蓋の隙間から細い蒸気が漏れ始めた。
じゅう、ではない。
ぱちぱち、でもない。
しゅう、とやわらかい音。
甘い香りが、少しずつ部屋に広がっていく。
焼けた肉の脂とも、醤油の焦げとも、唐揚げの油とも違う。
粉っぽくて、ほくほくしていて、秋の屋台を思わせるような匂い。
そこへ、朔がミニケトルで湯を沸かし、別のシェラカップにバターを少量落とした。
熱で角が丸くなり、黄色い塊がゆっくり溶ける。
「……甘い匂いがします」
「魔栗は熱を入れると香りが出る。生だと渋い」
「そのまま食べると?」
「舌がしばらく苦い」
「試したんですか」
「昔な」
その言い方が軽すぎて、ソフィアはそれ以上聞かなかった。
朔はメスティンの蓋を少しずらす。
白い蒸気がふわっと上がった。
その中で、魔栗の殻に細い亀裂が入っている。
ぱき、と小さな音がした。
ソフィアは肩を揺らした。
「爆ぜました?」
「少しな。殻に切れ目を入れてあるから問題ない」
「入れていなかったら?」
「天井を掃除することになる」
ソフィアは天井を見上げた。
古いアパートの天井には、確かにいくつか、過去の戦いの痕跡のような小さな傷がある。
蒸し上がった魔栗を、朔はカッティングボードの上に並べる。
指先で熱さを確かめ、細いナイフを入れた。
硬い殻が割れる。
中から現れたのは、淡い黄金色の中身だった。
栗より少し白く、ほくほくとした断面から、甘い湯気が立つ。
朔はそれをスプーンで取り出し、RainPeakの小さなボウルへ移していく。
一つ。
二つ。
三つ。
潰しすぎないよう、木べらで粗く崩す。
完全なペーストにはしない。
小さな粒が残る程度。
「全部潰さないんですか?」
「食感が消える。甘いだけだと飽きる」
「甘いだけでも、私はかなり大丈夫です」
「ゼリーのあとでよく言えるな」
「……あれは、甘さではありません」
「だろうな」
朔は薄力粉らしき粉と、深層卵に似た淡い光を持つ卵液、少量の塩、溶かしバターを合わせた。
そこへ粗く潰した魔栗を入れる。
混ぜすぎない。
粉っぽさが消えたところで止める。
生地の中に、黄金色の粒が点々と残っていた。
マルチグリドルが温まる。
朔は表面に薄くバターを伸ばした。
じゅ、ではなく、ちり、と短い音。
バターが透明に溶け、縁に細かい泡を作る。
そこへ、生地を落とした。
丸く広がる。
厚みは薄すぎず、厚すぎず。
表面に魔栗の粒が浮き、縁がゆっくり固まっていく。
甘い香りが、一段深くなった。
小麦の焼ける匂い。
バター。
蒸した魔栗。
ほんの少しの塩。
ソフィアは無意識にテーブルの端を握っていた。
皿はまだ空だ。
でも、もう見てしまっている。
焼けていく生地を。
ぷつ、ぷつ、と表面に小さな気泡が生まれる。
その一つが弾けた瞬間、朔が木べらを差し込んだ。
「まだ返さないんですか?」
「今だ」
生地がひっくり返る。
裏面には、薄いきつね色の焼き目がついていた。
濃すぎない。
焦げていない。
しかし、香りだけはしっかり立っている。
「……綺麗」
思わず漏れた。
ただ、丸い生地に焼き色がついただけ。
それなのに、妙に目が離せなかった。
「焼き色は薄めでいい」
朔は二枚目の生地を落としながら言う。
「魔栗の香りを焦げで潰すな。火を強くすると表面だけ先に色がついて、中が鈍る」
「パンケーキにも、そんなに考えることがあるんですね」
「食うものだからな」
当たり前のように言われた。
食うものだから、考える。
その単純な理屈が、ゼリー案件のあとだと妙に沁みた。
しばらくして、皿の上に二枚のパンケーキが重ねられた。
朔はその上に、小さなバターを一片乗せる。
熱でゆっくり角が溶ける。
黄色い筋が、焼き色の上を滑った。
最後に、小瓶を開ける。
淡い金色の液体。
ダンジョン蜂蜜。
スプーンですくうと、とろりと糸を引いた。
朔はそれを、パンケーキの中心からゆっくり落とす。
蜂蜜はバターに触れ、丸く広がり、魔栗の粒が見える生地の凹凸をなぞりながら流れていく。
光っていた。
甘い匂いが、部屋の空気を柔らかくする。
銀色のパウチに閉じ込められていた人工的な甘さとは、まるで違った。
「魔栗バターのマルチグリドルパンケーキ」
朔は皿をソフィアの前に置いた。
「魔力回復は弱い。今日は補給食じゃない」
ソフィアは皿を見たまま、小さく聞いた。
「じゃあ、何ですか」
「ご褒美飯だ」
その言葉で、胸の奥が少し詰まった。
ご褒美。
昨日、カメラの前でゼリーを飲んだこと。
笑顔を三秒しか保てなかったこと。
それでも、最後まで仕事を投げ出さなかったこと。
探索も、PRも、コメント欄も、全部背負って帰ってきたこと。
誰も大げさには褒めなかった。
ソフィア自身も、自分を褒める余裕などなかった。
けれど、目の前に温かい皿がある。
その皿を作った男は、淡々と言った。
「昨日、こなしただろ」
それだけだった。
でも、それで十分だった。
「……いただきます」
ソフィアはRainPeakのフォークを手に取った。
刃先を入れる。
表面はふわりと沈み、中に残った魔栗の粒がほろっと崩れる。
切り分けた一片に、バターと蜂蜜を絡める。
湯気が上がる。
口へ運ぶ。
噛んだ。
「……っ」
最初に来たのは、甘さだった。
でも、怖くない。
舌に貼りつく甘さではない。
喉に残る人工的な膜でもない。
蒸した魔栗のほくほくした甘み。
焼けた生地の香ばしさ。
バターの塩気。
ダンジョン蜂蜜の、花のように丸い甘さ。
それが一緒にほどけていく。
噛むと、魔栗の粒が舌の上で崩れた。
粉っぽさが少しある。
けれど、それがいい。
甘さに輪郭が出る。
蜂蜜だけなら流れてしまうところを、魔栗が受け止める。
バターが香りを伸ばす。
ほんの少しの塩が、全部を甘いだけにしない。
飲み込むと、胃の奥に穏やかな熱が落ちた。
昨日の銀色の記憶でざらついていた心の表面を、蜂蜜の熱がゆっくり撫でていく。
硬くなっていた頬が、内側からほどける。
ソフィアは目を伏せた。
「……甘い」
声が、小さく落ちた。
朔は向かい側で、次の生地を焼きながら言う。
「甘いな」
「でも、嫌じゃないです」
「それなら戻ってる」
「何がですか?」
「味覚と顔」
「顔」
「昨日よりマシだ」
ソフィアは反論しようとした。
しかし、フォークが二口目を切っていた。
バターが溶けた中心部。
蜂蜜が染みた端。
魔栗の粒が多い場所。
どこから食べるべきか、真剣に迷っている自分がいる。
世界ランク上位の探索者としては、たぶんかなり平和な悩みだった。
「……甘いものが、怖くないです」
ソフィアはぽつりと言った。
朔の木べらが、一瞬だけ止まる。
「昨日のやつは?」
「あれは甘いものではありません」
「そうか」
「はい。あれは……銀色の試練です」
「商品名にするな。売れない」
「売れなくていいです」
朔は二枚目を皿に移した。
ソフィアの皿ではなく、別の小皿。
自分用らしい。
ソフィアはそちらを見ないようにした。
見ないようにしたが、視界には入る。
大きさが少し違う。
朔の方が、ほんの少しだけ大きい気がする。
「朔さん」
「なんだ」
「それ、私のより大きくありませんか」
「焼きムラが出た」
「嘘ですよね」
「俺の分だ」
「……」
「見るな。自分のを食え」
ソフィアは自分の皿へ視線を戻した。
確かに、まだ残っている。
だが、減っていく。
減っていくのが、すでに寂しい。
三口目。
四口目。
蜂蜜が皿に少し垂れている。
ソフィアはパンケーキの端でそれをすくった。
端は、中心より少しだけ焼き目が強い。
表面が香ばしく、そこに蜂蜜が絡む。
危険だった。
静かな危険。
唐揚げのように叫びたくなる危険ではない。
このまま黙って食べ続け、気づいたらもう一枚頼んでいる種類の危険だ。
「……もう一枚、焼けますか」
言ってから、ソフィアは少しだけ口元を押さえた。
遅い。
完全に言ったあとだった。
朔はマルチグリドルの温度を見ている。
「生地はある」
「本当ですか」
「ただし、次は小さめだ」
「大きめで」
「ご褒美の範囲を超えるな」
「昨日、私はプロとして最後までやりました」
「やったな」
「それなら、大きめでもいいのでは?」
「ご褒美と暴食は違う」
「今日は甘いものが怖くなくなった記念日でもあります」
「記念日を増やすな」
朔はそう言いながら、生地を落とした。
一枚目より、少し大きい。
ソフィアは気づかないふりをした。
朔も何も言わなかった。
二枚目が焼けるまでの間、ソフィアはテーブルの端に置かれたカトラリーケースに気づいた。
RainPeakのロゴが入った、細長い布ケース。
以前も見たことがある。
ただ、中身が違う。
銀色のスプーンとフォーク。
それから、小さなナイフ。
どれもまだ傷が少ない。
「このスプーン、前はありませんでしたよね」
朔は小さな瓶から蜂蜜をすくいながら答えた。
「買った」
「誰用ですか?」
「あんた用」
音が消えた気がした。
ZOTOの炎の音も。
バターが溶ける音も。
外の路地を通る小型トラックの音も。
一瞬だけ、全部遠くなった。
「……私用」
「そうだ」
「なぜ」
「毎回違う金属だと、熱さの感じ方が変わる。感想がぶれる」
「あ、そういう理由ですか」
「他に何がある」
朔は本気で分かっていない顔だった。
本当に。
心の底から。
ソフィアは少しだけ、フォークを持つ指に力を込めた。
「いえ。何でもありません」
「変な顔してるぞ」
「していません」
「昨日よりは生きてる顔だな」
「それは褒めていますか?」
「観察結果だ」
「そうですか」
ソフィアは視線を落とす。
自分用のスプーン。
自分用のフォーク。
自分用のナイフ。
理由は、感想のブレを防ぐため。
関係性の進展というには、あまりにも色気がない。
けれど。
朔の棚に、自分用の道具が増えている。
それは、彼の生活圏に自分の居場所が少しだけできたということだった。
たとえ本人が、それを調整データの精度向上と呼ぶのだとしても。
「朔さん」
「なんだ」
「次から、このカトラリーを使えばいいんですね」
「そうしろ。熱いものを食う時は先に言う。金属は熱を持つ」
「はい」
「あと、持って帰るな。ここに置いておく」
「……はい」
その言葉が、少しだけ嬉しかった。
置いておく。
ここに。
ソフィアは二枚目のパンケーキを受け取った。
今度はさっきより、ほんの少し大きい。
バターも少し多い。
蜂蜜は、さっきより控えめ。
「蜂蜜、少ないですか?」
「一枚目で舌が甘さに慣れてる。二枚目は魔栗を出す」
「そういう調整なんですね」
「そういう調整だ」
ソフィアは二枚目を食べた。
一枚目より、魔栗の香りが強かった。
蜂蜜の甘さは控えめなのに、物足りないわけではない。
噛むほどに、栗のほくほくした甘みが立ち上がる。
バターの塩気が、二口目、三口目を誘う。
静かに。
確実に。
逃げ道を塞いでくる。
ソフィアは目を閉じた。
配信中の顔ではない。
スポンサー撮影用の笑顔でもない。
コメント欄に切り抜かれるための表情でもない。
ただ、甘いものを食べている二十歳の女の子の顔だった。
「……これ、危ないです」
「何が」
「毎日食べたくなります」
「毎日は焼かない」
「なぜですか」
「ご褒美は毎日だと補給に格が落ちる」
「名言っぽいことを言っていますが、つまり焼いてくれないんですね」
「そうだ」
「厳しい」
「食い物に甘えるな」
「甘いものなのに」
「うまい返しをした顔をするな」
していたらしい。
ソフィアは慌てて表情を整えた。
だが、もう遅い。
朔は見ていた。
記録はしていないと信じたい。
食後。
ソフィアは椅子に座ったまま、温かいミニケトルの湯で淹れられた薄いハーブ茶を飲んでいた。
甘さのあとに飲むと、口の中がすっきりする。
朔はマルチグリドルを拭いている。
水に浸けない。
洗剤も使わない。
薄く油を馴染ませ、布で丁寧に磨く。
食器ではなく、刃物を手入れしているような真剣さだった。
「それも、ちゃんと手入れするんですね」
「焼き面が育つ」
「道具は育つんですか?」
「育つ。雑に扱うと拗ねる」
「道具が拗ねるんですか」
「焦げる。歪む。くっつく。全部、拗ねたのと同じだ」
「朔さんの中では、道具と食材の感情表現が豊かですね」
「人間より分かりやすい」
その返事に、ソフィアは少しだけ笑ってしまった。
笑ってから、ふと気づく。
ここでは、笑顔の秒数を気にしなくていい。
三秒で消えてもいい。
長く残ってもいい。
誰も商品価値に変えない。
遠野朔はたぶん、表情よりマルチグリドルの焼き面を気にしている。
それが、今のソフィアには気楽でありがたかった。
「そろそろ帰れ」
朔が言った。
いつもの調子だった。
正しい。
食事は終わった。
契約上は帰る時間だ。
ソフィアは一度、反射的に「あと少し」と言いかけた。
しかし、今日は飲み込んだ。
甘いものを食べた余韻が、まだ身体の中にある。
それを持って帰るのも、悪くないと思えた。
「はい。今日は帰ります」
朔が少しだけこちらを見る。
「珍しいな」
「私だって、毎回居座るわけではありません」
「そうか」
「そうです」
ソフィアは立ち上がり、マスクをつけ直した。
帽子を深く被る。
手には何も持っていない。
けれど、胃の中には魔栗と蜂蜜の温かさがある。
口の中には、銀色ではない甘さが残っている。
そして棚には、自分用のカトラリーが置かれている。
それだけで、昨日より少しだけ、外に出るのが怖くなかった。
「朔さん」
「なんだ」
「ご褒美、ありがとうございました」
朔は片付けの手を止めなかった。
「礼はいい。昨日の反動を戻しただけだ」
「それでも、です」
「なら、次は働け」
「働く?」
ソフィアが首を傾げると、朔は棚から一枚の紙を取り出した。
そこには、簡単な図が描かれている。
丸い甲羅。
脚。
腹側。
そして、赤い印。
見慣れない魔物の図だった。
嫌な予感がした。
「次は毒沼ガニだ」
ソフィアは固まった。
「……カニ、ですか?」
「毒沼エリアにいる。味噌が使える」
「味噌」
「甲羅を割るな。腹側を潰すな。毒袋を揺らすな。脚は二本までなら欠けてもいいが、味噌は殺すな」
「ご褒美の次に、要求が急に重すぎませんか」
「ご褒美は終わった」
「切り替えが早い」
「毒袋を間違えると俺も死ぬ」
「もっと重くなりました」
朔は紙をソフィアに差し出した。
「沼ごと凍らせるなよ。甲羅が割れる」
「世界ランク上位の探索者に対する注意事項ではないです」
「食材調達係への注意事項だ」
ソフィアは紙を受け取った。
毒沼ガニの雑な図。
危険箇所。
凍らせていい場所。
絶対に潰すな、と強めに書かれた毒袋。
その紙を見て、ソフィアは小さく息を吐いた。
さっきまで、魔栗と蜂蜜で満たされていた心が、一気に現場へ引き戻される。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
次に何を獲ってくればいいのか。
どう倒せば、食材として生きるのか。
どう持って帰れば、朔が料理にできるのか。
そのことを考える自分に、もうあまり驚かなくなっている。
「分かりました」
ソフィアは紙を丁寧に折った。
「甲羅を割らず、腹側を潰さず、毒袋を揺らさず、味噌を殺さないようにします」
「分かってるならいい」
「分かってはいます。できるかは別です」
「できなかったら点が下がる」
「点数制、継続なんですね」
「当然だろ。素材だからな」
ソフィアは少しだけ笑った。
本当に、この人はぶれない。
昨日のゼリー案件も。
今日のご褒美飯も。
次の毒沼ガニも。
全部、胃と食材と道具の話になる。
でも、そのぶれなさに、ソフィアは何度も救われている。
「朔さん」
「なんだ」
「次は、七十点を目指します」
朔はようやく、ほんの少しだけソフィアを見た。
「六十点でいい。毒沼ガニで最初から七十を狙うと、だいたい毒袋が死ぬ」
「何をしても、何かが死にますね」
「雑にやればな」
「では、雑にやらないようにします」
「そうしろ」
ソフィアは裏口の扉を開けた。
夜の路地は冷たい。
けれど、口の中にはまだ、魔栗と蜂蜜の甘さが残っている。
銀色ではない。
本物の甘さ。
―――それを確かめるように、ソフィアは小さく息を吸った。
少しでも「面白い」「続きが読みたい」と思っていただけましたら、画面下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にし、リアクションや感想を書いて応援していただけると、作者の最大の魔力回復(励み)になります!
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