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11/14

氷の姫、カニを倒すより割らない方が難しい

「甲羅を割るな」


氷室ソフィアは、自室のテーブルに置いた一枚の紙を見つめていた。


遠野朔の雑な字で、そう書かれている。


その下には、丸い甲羅。

横に伸びた脚。

腹側。


そして、妙に強い筆圧で赤く囲まれた場所。


毒袋。


「腹側を潰すな」


「毒袋を揺らすな」


「脚は二本までなら欠けてもいい」


「味噌は殺すな」


「……要求が多い」


ソフィアは小さく呟いた。


昨日の夜に食べた、魔栗バターのパンケーキ。


ふわりと焼けた生地。

魔栗のほくほくした甘み。

溶けたバターと、ゆっくり流れるダンジョン蜂蜜。


ゼリー案件で削られた胃と心を、ようやく人間らしい場所へ戻してくれる味だった。


あの余韻のまま帰れると思っていた。


実際、珍しく居座らずに帰った。


なのに、帰り際に渡されたのが、この紙である。


毒沼ガニ。


味噌が使えるらしい。


その一点だけは、少し気になっている。


「蟹味噌……」


口に出した瞬間、ソフィアは自分で自分を止めた。


違う。


今考えるべきは味ではない。


これは討伐任務だ。

素材回収だ。


食事の前段階である。


そこまで考えてから、ソフィアはしばらく黙った。


戦闘を食事の前段階として捉えている時点で、かなり朔に影響されている気がする。


深く考えないことにした。


紙を丁寧に折り、探索服の内ポケットへしまう。


今日は配信ではない。


ギルドの通常討伐枠。


対象は第三十一階層、毒沼エリアに出現した毒沼ガニ(どくぬまガニ)


放置すれば毒霧が周辺階層へ流れ、複数の通路を封鎖しなければならなくなる。


世界ランク上位の探索者が出るには、少し地味な案件だった。


ただし。


「沼ごと凍らせるな、か」


戦うだけなら簡単だ。


沼ごと凍らせる。

毒霧も泡も、カニも泥も、まとめて閉じ込める。

最後に甲羅ごと砕く。


安全で。

速くて。

美しい。


今までなら、それで終わっていた。


けれど、それでは甲羅が割れる。


腹側が潰れる。

毒袋が揺れる。


味噌が死ぬ。


「……味噌が死ぬ、って何」


自分で言って、少しだけ笑ってしまった。


笑ったあと、ソフィアは表情を整える。


氷の姫に戻る。


今日は、世界ランク上位の探索者として仕事に行く。


ただし、探索服の内ポケットには、裏方の男が描いたカニの絵が入っていた。


地上ゲート裏の古いアパート。


出発前に寄るよう指示されていたため、ソフィアはいつもの鉄扉の前に立った。


呼び鈴の紐へ手を伸ばす前に、扉が開く。


「遅い」


遠野朔が立っていた。


黒い長袖シャツ。

黒いエプロン。

後ろで雑に結ばれた髪。


手には、灰色の大きなバッグを持っている。


「まだ集合時刻の五分前です」


「毒沼エリアでは五分が毒袋の生死を分ける」


「今ここはアパートです」


「準備が遅い奴は現場でも遅い」


言い返そうかと思ったが、どうせぶれないのでやめた。


「入れ。渡すものがある」


部屋の中には、いつもの折りたたみテーブルが出ていた。


脚に傷の多い|CAPTAINSTAGGERキャプテンスタッガーのロゴ。


その上に、いくつかの道具が並んでいる。


灰色の防水スタッフバッグ。

厚手の耐毒グローブ。

透明な密閉素材ケース。

簡易毒検知紙。


それから、朔の手書きメモがもう一枚。


「毒沼ガニ用だ」


朔は淡々と言った。


「貸す。壊したら弁償」


「最初の説明がそれなんですね」


「大事だろ」


「私の身の安全より?」


「その探索服は耐毒加工だ。こっちのバッグは一点物に近い」


「比較対象がおかしいです」


ソフィアはバッグを見た。


MontaBell(モンタベル)の防水スタッフバッグ。


色は地味な灰色。

派手さはない。


けれど生地は厚く、縫い目には樹脂の補強が入っている。


雨を弾くというより、泥と毒液と悪意をまとめて拒絶しそうな作りだった。


「これ、前に棚にあったものですよね」


「見てたのか」


「ギア棚が多すぎて、嫌でも目に入ります」


「なら覚えろ。毒沼ではこれが一番死なない」


「バッグが死ぬ前提なんですか」


「毒沼では道具から死ぬ」


冗談を言っている顔ではない。


ソフィアはバッグを手に取った。


思ったより軽い。


肩にかけると、ベルトの長さが妙にちょうどよかった。


腰の位置でケースが揺れない。

歩いても、身体に当たりすぎない。


「……これ、長さを調整してあります?」


朔は密閉ケースの蓋を確認したまま答えた。


「揺れると毒袋が死ぬ」


「私に合わせてくれたんですか」


「毒袋に合わせた」


「でも、背負うのは私です」


「なら、あんたごと毒袋に合わせた」


言い方。


ソフィアは少しだけ黙った。


昨日、自分用のカトラリーが朔の棚に増えていた。


今日は、朔のギアが自分の身体に合わせて調整されている。


理由は全部、素材のため。

胃のため。

毒袋のため。


それでも、朔の生活圏に置かれた道具と、今自分の肩にかかっているバッグが、どこかでつながっている気がした。


「朔さん」


「なんだ」


「ありがとうございます」


「礼はいい。汚すな」


「貸してくれたことへのお礼です」


「だから汚すな」


「会話が狭いです」


「毒沼に広い会話はいらない」


朔は耐毒グローブを渡した。


「少し大きい。指先の感覚は落ちる」


「それで大丈夫なんですか」


「素手よりは大丈夫だ。毒袋には触れるな。甲羅の横を持て」


「分かりました」


「分かってない顔だな」


「分かっています。できるかは別です」


「できなかったら点が下がる」


「点数制、継続なんですね」


「当然だろ。素材だからな」


最後に、朔は簡易毒検知紙を小さな防水ケースへ入れた。


「持ち帰る前に、ケースの外側へ当てろ。黒くなったら汚染されてる。そのままここへ持ち込むな」


「作業場に毒を入れるな、ですよね」


朔が一瞬だけ顔を上げる。


「覚えてるならいい」


ソフィアはバッグを肩にかけ直し、手袋と検知紙を確認した。


「行ってきます」


自然に口から出たことに気づき、自分で少し驚いた。


まるで、普通に出かける前の挨拶みたいだった。


朔も一瞬だけ視線を上げた。


だが、返ってきた言葉はいつも通りだった。


「甲羅を割るなよ」


「……はい」


それでもソフィアは、少しだけ笑った。


第三十一階層、毒沼エリア。


ゲートを抜けた瞬間、空気が変わった。


湿っている。

重い。


肌にまとわりつく瘴気が、細かな針のように探索服の表面を叩く。


足元には黒紫色の泥が広がり、沼の表面では泡が膨らんでは弾けていた。


ぽこり。

ぷつり。


そのたびに、緑がかった毒霧が細く立ち上り、視界をぼやかす。


遠くで、硬いものが岩を擦る音がした。


ぎ、ぎ、と。


「対象エリアに到着」


ソフィアは記録用ドローンに向け、冷静な声で告げた。


今日は配信ではない。


だが、ギルドの討伐記録は残る。


「これより、毒沼ガニの捕獲を開始します」


討伐ではなく、捕獲。


自分で言って、少しだけ奇妙な感覚を覚えた。


通常、毒沼ガニは捕獲するものではない。


倒し、毒が漏れないよう封じ、専門の処理班へ回す。


可食部を考える探索者などいない。


いたとすれば、正気ではない。


その正気ではない男が、今朝、自分の身体に合わせたバッグを持たせた。


ソフィアは肩のベルトを軽く握る。


揺れない。


沼の奥で、水面が盛り上がった。


黒紫の泥を割り、巨大な甲羅が現れる。


毒沼ガニ。


横幅は一メートルほど。


濡れた黒緑色の甲羅の縁には、(のこぎり)のような突起が並んでいる。


長い脚は、沼の上を滑るように動いていた。


腹側からは、毒々しい緑の光が薄く漏れている。


あそこに毒袋がある。


朔のメモで、赤く囲まれていた場所。


毒沼ガニが、ぎち、と(はさみ)を鳴らした。


泡が弾け、毒霧が濃くなる。


ソフィアは右手を上げた。


いつものようにやれば、一瞬だ。


沼も霧も、カニも、すべて凍らせればいい。


だが。


甲羅を割るな。

腹側を潰すな。

毒袋を揺らすな。


「……本当に、戦闘中に考えることではないわね」


息を吐く。


氷を出す。


ただし、広げない。


沼の表面だけに、薄く。


黒紫の泥の上を、透明な氷が走った。


毒沼ガニの脚が止まる。


ほんの一瞬。


次の瞬間、巨体が真横へ跳ねた。


長い脚が氷を割り、毒泥を跳ね上げる。


ソフィアは半歩退いた。


足元で毒泡が弾けた。


緑色の飛沫が肩へ向かう。


その瞬間。


ソフィアは反射的に身体をひねった。


バッグを背中側へ逃がし、自分の左腕を飛沫の前へ出す。


じゅ、と音がした。


探索服の袖に毒泥が付着し、薄い煙が上がる。


熱い。


けれど、バッグには一滴も触れていない。


ソフィアは肩越しに、灰色の生地を確認した。


無事だった。


そのことに、まず安堵している自分に気づく。


以前の自分なら、真っ先に探索服を守っていた。


返り血も、泥も、傷も拒絶する。


スポンサーのロゴが入った服を汚さず、完璧な姿で帰還する。


それが氷の姫だった。


なのに今、自分から袖を差し出した。


朔のバッグを汚さないために。


考えるより先に、身体がそう動いていた。


バッグが汚染されれば、作業場に毒を持ち込む。


道具が使えなくなる。

調理ができなくなる。


そして、飯が死ぬ。


朔の道具が最後に守っているものは、結局いつも、食べる人間の胃と命だ。


ソフィアは、それを知っていた。


「……順番まで、似てきましたね」


誰に聞かせるでもなく呟く。


毒沼ガニが再び滑る。


今度は鋏が来た。


黒緑の刃が、空気を裂く。


ソフィアは氷の壁を作りかけ――止めた。


受け止めれば、衝撃が甲羅へ返る。


代わりに、細い氷の糸を鋏の関節へ絡ませた。


止めない。


ほんの少しだけ、軌道を逸らす。


鋏がソフィアの横を抜け、泥を叩いた。


その一瞬に、足元へ薄氷を走らせる。


毒沼ガニの右側の脚が滑り、巨体が傾いた。


甲羅が岩へぶつかる直前。


ソフィアは岩との間へ、薄い氷の膜を差し込んだ。


硬く固定するのではない。


衝撃だけを受け、わずかに弾ませる。


氷なのに、壊すためではなく、守るために使う。


甲羅は割れなかった。


「……難しい」


それでも、やることは見えた。


止めない。

壊さない。

逃げる方向だけを削っていく。


ソフィアは沼の表面を細く凍らせ、毒沼ガニの進路を絞った。


最後に残った一方向へ、巨体が滑る。


その先へ回り込む。


氷の薄刃を作る。


切るためではない。

刺すためでもない。


甲羅の縁と脚の付け根、そのわずかな隙間へ冷気を通す。


関節だけを、一瞬止める。


「――そこ」


白い線が走った。


毒沼ガニの動きが止まる。


完全凍結ではない。

粉砕でもない。


脚の動きだけを奪い、甲羅を残し、腹側を泥へ打ちつけない状態。


ソフィアは耐毒グローブをはめた。


指先の感覚が鈍い。


朔の言った通り、少し大きい。


だが、持てる。


甲羅の横。


毒袋のある腹側へ触れない位置。


持ち上げず、滑らせる。


ソフィアは密閉素材ケースを開き、毒沼ガニを慎重に収めた。


蓋を閉める。

固定具をかける。


ケース内部の緩衝材が、甲羅を押さえつけずに揺れだけを殺した。


癖は強い。

けれど、よくできている。


「捕獲完了」


声にした瞬間、全身から力が抜けそうになった。


倒すだけなら、十分の一の時間で終わっていただろう。


魔力も、もっと少なくて済んだかもしれない。


だが、今削られているのは魔力ではない。


指先。

神経。

集中力。


そして、なぜか胃の奥。


「……蟹味噌雑炊」


また口に出してしまった。


ソフィアは慌てて上空の記録用ドローンを見る。


少し離れた位置で、毒沼エリアの全景を撮影している。


今の呟きは、拾っていない。


拾っていないはずだった。


――数時間後。


ギルド内部向けの短い討伐記録が、素材回収班の間で回覧された。


映っていたのは、第三十一階層で毒沼ガニを捕獲する氷室ソフィアの姿。


いつものような大技はない。


沼全体を凍らせることもない。

白銀の氷像も、粉砕もない。


薄い氷で進路を絞り、脚の関節だけを止め、甲羅を割らずに密閉ケースへ収めている。


地味だった。


だが、素材回収班には分かった。


それがどれほど面倒なことか。


【疑惑】氷姫、今度は毒沼ガニを丁寧に捕獲してる


1:名無しの回収班


今日の記録映像見た?


6:名無しの探索者


見た

毒沼ガニ割らずに持って帰ってたな


12:名無しの探索者


それすごいの?


18:名無しの回収班


普通は割れる

というか割って処理する


25:名無しの探索者


氷姫なら沼ごと凍らせて終わりじゃないの?


31:名無しの回収班


今日は沼の表面と脚だけ止めてた

素材回収側から見ると、かなり助かる


40:名無しの探索者


また肉質が死ぬ男の指示か?


46:名無しの探索者


今度はカニ質が死ぬ男?


52:名無しの回収班


カニ質って何だよ

でも甲羅も腹側も潰れてないのはマジですごい


61:名無しの探索者


まさか食うつもりじゃないよな?


――その頃。


地上ゲート裏の古いアパート。


ソフィアは裏口の前に立っていた。


左袖には、毒泥の跡が残っている。


ギルドで簡易洗浄は済ませた。


耐毒加工のおかげで、肌には届いていない。


それでも、薄い緑色の染みは完全には落ちなかった。


一方で、MontaBellの防水スタッフバッグは綺麗なままだった。


ケースの外側にも、毒検知紙の反応はない。


ソフィアは少しだけ胸を張り、呼び鈴の紐へ手を伸ばした。


扉が開く。


「遅い」


「今日は本当に時間通りです」


「毒検知は」


第一声が、それだった。


ソフィアは小さく息を吐き、バッグを持ち上げる。


「反応なしです。ケース外側も、バッグも、汚染はありません」


朔はソフィアではなく、バッグを見た。


次にケース。


最後に、左袖の染みを見る。


「その袖は」


「毒泥が少し。耐毒層で止まっています」


朔の視線が、もう一度バッグへ戻った。


「バッグを庇ったのか」


ソフィアは一瞬だけ答えに迷った。


だが、隠すことでもない。


「汚染したまま持ち帰れば、朔さんの作業場へ毒が入りますから」


「服よりこっちを優先したのか」


「この服は洗えます。でも、そのバッグが使えなくなったら、次の素材を安全に運べません」


少し間を置き、付け加える。


「それに、作業場が使えなくなったら、『 飯が死ぬ』でしょう」


朔の手が止まった。


ほんの一瞬だけ、ソフィアと左袖を見る。


「……そうか」


それだけだった。


けれどソフィアには、自分が少しだけ彼の側へ入れたように聞こえた。


食べさせてもらうだけの試食係ではなく。


彼が何を守り、何を優先しているのかを理解する人間として。


胸の奥が、採点を聞く前から少しだけ軽くなる。


朔は棚から中和剤の入ったボトルを取り、ソフィアへ渡した。


「先に袖を洗え。毒が乾くと布の層に残る」


「バッグではなく、私が先でいいんですか」


「検知反応がないなら、バッグは逃げない」


「……はい」


朔はソフィアの肩からバッグを受け取った。


ごく自然な動作だった。


それでも、預ける時に少しだけ安心した。


部屋へ入ると、折りたたみテーブルにはすでに防水シートが敷かれていた。


CAPTAIN STAGGERの作業バット。


耐酸仕様のトレー。

ピンセット。

細いメス。

簡易毒検知紙。


棚の奥には、RainPeakのチタン鍋が見える。


料理はまだ始まっていない。


だが、準備は完全に始まっていた。


ソフィアは袖の処理を終え、テーブルの横へ戻った。


朔がバッグから密閉素材ケースを取り出す。


中で、毒沼ガニがわずかに脚を動かした。


甲羅は割れていない。

腹側も潰れていない。


脚は一本だけ、先が欠けている。


毒袋は、たぶん無事。


……たぶん。


朔は手袋をはめた。


ケースの外側を検知紙でなぞる。


反応なし。


蓋の隙間。

固定具。

緩衝材。


一つずつ確認し、ケースを開ける。


空気が変わった。


濃い泥の匂い。

青臭い毒の気配。


その奥に、海ではないのに、どこか甲殻類らしい甘い匂いが混じっている。


ソフィアの喉が、少しだけ鳴った。


「今のは」


「腹だな」


「まだ何も言っていません」


「言う前から分かる」


「毒沼ガニですよ」


「味噌は濃い」


「……そういうことを言うからです」


朔は聞いていない。


毒沼ガニを持ち上げる。


甲羅の縁。

腹側。

脚の付け根。


そして、毒袋の位置で手を止めた。


沈黙。


ソフィアの背筋が伸びる。


深層ボスと対峙した時より、今の方が緊張している気がした。


「……どうですか」


朔は答えない。


毒袋の周囲へ、触れるか触れないかの位置まで指を近づける。


それから、短く言った。


「七十点」


ソフィアの胸が、明らかに跳ねた。


「七十点」


「喜ぶな」


「でも、七十点です」


「毒沼ガニとしては、だ」


「前より上がっています」


「上がってる」


「それは、褒めていますか?」


「事実だ」


また事実。


でも、その事実が嬉しい。


世界ランク三位の探索者が、毒沼ガニの持ち込み点数で喜んでいる。


冷静に考えると、やはりかなりおかしい。


だが、もうあまり驚かなくなっていた。


「甲羅は生きてる。腹側も潰れてない。脚は一本欠けたが、許容範囲。外側の汚染もない」


朔は淡々と確認していく。


「ただし」


その一言で、ソフィアの喜びが止まった。


朔は毒袋のあたりを見たまま、低く言う。


「毒袋が半分死にかけてる」


「半分」


「処理を間違えると、俺も死ぬ」


部屋の温度が、少し下がった気がした。


ソフィアは息を呑む。


「……そんな状態なんですか」


「揺れは少ない。ただ、最後に一度、体勢が傾いてる」


「分かるんですか」


「袋の根元が少し濁ってる」


そんなところまで分かるのか。


ソフィアは毒沼ガニを見た。


ただの危険な魔物にしか見えない。


だが、朔には違うものが見えている。


甲羅。

身。

味噌。

毒袋。

毒と旨味の境目。


食べられる場所と、死ぬ場所。


彼はそこを、当然のように見分けている。


「朔さん」


「なんだ」


「これ、本当に食べるんですか」


朔はようやく顔を上げた。


怖がってもいない。

浮かれてもいない。


ただ、作業前の職人の顔だった。


「食えるところまで持ってきた」


朔は細いメスを取る。


刃先が、作業灯の下で白く光った。


「ここからは俺の仕事だ」


ソフィアは黙った。


毒沼ガニの甲羅の下で、緑がかった光がわずかに揺れている。


危険だ。

間違いなく危険だ。


普通なら研究所へ回すべき素材。


古いアパートの折りたたみテーブルの上で処理していいものではない。


それでも、朔は手を止めない。


耐毒グローブの指先で、甲羅の縁を探る。


毒袋を避け、蟹味噌を残すための位置を見極める。


ソフィアは無意識に息を詰めていた。


「離れてろ」


朔が言った。


「危ないんですか」


「危ない」


「なら、朔さんも」


「俺はやる側だ」


「……」


「それに」


朔はほんの少しだけ、毒沼ガニの甲羅を押さえた。


「蟹味噌は生きてる」


その声は、ひどく静かだった。


次の瞬間、メスの刃が甲羅の隙間へ入る。


毒検知紙が、端からじわりと黒く染まった。


ソフィアの喉が、ひゅ、と鳴る。


朔は動じない。


ただ、淡々と刃を進める。


毒と旨味の境目へ。

死と飯の境目へ。


世界がまだ知らない、裏方の仕事が始まった。

本日19:30、もう1話更新予定です!

少しでも「面白い」「続きが読みたい」と思っていただけましたら、画面下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にし、リアクションや感想を書いて応援していただけると、作者の最大の魔力回復(励み)になります!

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