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8/13

氷の姫、ゼリー案件の前にゼリーを食べさせられる


『本日、氷姫のクリスタルゼリー案件回』


『補給シーン、カメラ正面指定らしい』


『表情管理ガチ勢の出番だな』


『ゼリー飲んだ瞬間の顔、絶対見る』


『性格悪いぞ』


『でも最近の氷姫、補給後の顔が明らかに違うんだよな』


『ホットサンド後の顔と比較される未来が見える』


『あの顔は強すぎた』


『今日はゼリーであの顔になるか検証回』


『ならなかったら?』


『何か別の補給源がある』


『肉質が死ぬ男、胃まで管理してる説』


『胃質が死ぬ男やめろ』


配信待機コメント欄は、開始前から妙な方向に温まっていた。


もちろん、氷室ソフィア本人は見ていない。

見ていたら、配信前に胃が二割ほど削れていた。


――配信当日の朝。


地上ゲート裏。

古いアパートの一室。


ソフィアは折りたたみ椅子に座り、背筋を伸ばしていた。


銀髪は帽子の中にしまっている。

探索服はまだ着ていない。

スポンサーのロゴも、配信用の表情も、今はない。


ただし、膝の上には銀色のパウチが一本置かれていた。


クリスタルゼリー。

今日の配信中盤、カメラの前で飲まなければならない補給剤。


ソフィアはそれを見ないようにしている。


見ないようにしているのに、視界の端で銀色が主張してくる。


「見るだけで胃が縮んでるな」


朔が言った。


黒いエプロン姿で、作業台に道具を並べている。


ソフィアは反射的にパウチを両手で隠した。


「顔に出ていますか」


「出てる」


「配信前に聞きたくない情報でした」


「今出るなら、カメラ前でも出る」


容赦がない。


ただ、的確だった。


ソフィアは小さく息を吐く。


「台本は覚えました」


「胃には入れるなよ」


「入れません。入れるのはゼリーです」


「最悪だな」


「スポンサー商品です」


「胃から見れば敵だ」


またそれだ。


昨日の夜から、朔はクリスタルゼリーを完全に胃の敵として扱っている。


スポンサー契約、広告価値、探索者業界の常識。

そういうものにはほとんど関心がない。


あるのは、今日ソフィアの胃がどの程度傷むか。


それだけだった。


その雑さが、今のソフィアには少しだけありがたい。


「朔さん」


「なんだ」


「今日は、飲まないわけにはいきません」


「分かってる」


「嫌でも、最後まで案件はやります」


「だろうな」


「トップ探索者なので」


「なら、トップ探索者の胃を壊さない準備をする」


朔はそう言って、棚の下段を開けた。


そこから取り出したのは、透明な密閉容器だった。


中に入っていたのは、琥珀色の塊。

薄く光を透かす、ぶるりとした半透明の何か。


それは綺麗だった。


蜂蜜を固めたようにも、夕焼けを閉じ込めた氷のようにも見える。


ただし。


ソフィアは、探索者としてそれが何かを知っていた。


「……スライム?」


琥珀スライム(アンバー・スライム)だ」


朔は淡々と答えた。


「第十二階層の湿性洞窟に出る。普通は酸性粘液と瘴気毒の塊だから、素手で触るな」


「食材の説明に聞こえません」


「食材になる部分もある」


「今、かなり大事なところを雑に飛ばしませんでしたか?」


「酸と毒を抜けば、粘膜保護に使える」


「抜けば、って」


ソフィアは密閉容器の中を見た。


琥珀色の塊は、容器の中で静かに揺れている。


見た目は綺麗だ。


だが、探索者としての知識が全力で警鐘を鳴らしていた。


スライムは食べ物ではない。

倒したあとでも酸が残る。

装備の縫い目を溶かし、皮膚を焼き、瘴気毒で体内を荒らす。


少なくとも、ゼリー案件の前に食べるものでは絶対にない。


「朔さん」


「なんだ」


「ゼリーを飲む前に、別のゼリーを食べるんですか?」


「そうだ」


「発想が、もう少し人間側に寄りませんか?」


「人間側の発想で作ったのが、今日の銀色のやつだろ」


ソフィアは黙った。


強い。迷いない。

言葉も強い。

しかも、ちょっと納得してしまったのが悔しい。


朔はZOTO(ゾト)の小型バーナーをテーブルに置いた。


次に、小さなミニケトル。


シェラカップを二つ。

茶こし。

折りたたみ式のシリコン漏斗(じょうご)

デジタル温度計。

小さな瓶に入った生姜の搾り汁。

別の瓶には、淡い金色のダンジョン蜂蜜。

細く削られた柑橘皮。

それから、塩。


料理というより、実験の準備に近かった。


だが、朔の手つきはいつも通り迷いがない。


「随分、小物が多いですね」


「粘度を合わせる。今日は火力より温度管理だ」


「温度で変わるんですか?」


「変わる。熱すぎると膜が切れる。低すぎると胃に落ちる前に固まる」


「ゼリーより繊細なんですね」


「こっちは食い物だ」


その言い方が、あまりにも本気だった。


朔は耐酸手袋をつけ、琥珀スライムをまな板に出した。


ぶるん、と鈍い音がする。


琥珀色の塊の中には、黒い筋のようなものが細く走っていた。


朔は細いメスを手に取る。


刃先が、スライムの表面を薄く裂いた。


次の瞬間、酸っぱい臭いがわずかに立ち上る。


ソフィアは反射的に眉を寄せた。


「臭いです」


「酸だな」


「危なくないんですか」


「危ない」


「さらっと言わないでください」


朔は答えず、メスの角度を変えた。


琥珀色の内部から、黒い筋だけを丁寧に剥がしていく。


それは肉の筋切りとは違う。


もっと柔らかく、もっと厄介で、少しでも力を入れれば全体が崩れそうだった。


けれど、朔の指先は揺れない。


スライムの中から、黒い瘴気の根だけが浮き上がる。


そこに、淡い光が走った。


純造分解(エクストラクト)】。


黒い筋が、薄い煙のように剥がれた。


酸っぱい臭いが消える。


次に、腐った金属のような瘴気臭も消えた。


残ったのは、澄んだ琥珀色のゼラチン質だけだった。


ソフィアは息を呑む。


「……綺麗」


「まだ食えない」


「今の流れなら、少しくらい感動してもいいところでは?」


「酸が残ってたら舌が荒れる」


「現実に戻すのが早いです」


朔は処理した琥珀スライムを細かく刻み、シェラカップに入れた。


ミニケトルに水を少量。


ZOTOのバーナーに火を入れる。


カチリ。


青い炎が、静かに立った。


大きな火ではない。


鉄板で肉を焼く時のような力強さもない。


ただ、安定している。


炎が暴れない。


朔は温度計をケトルに差し、数字を見る。


「沸かさないんですか?」


「沸かすと荒い。今日は七十度手前で止める」


「そんなに細かく?」


「胃が荒れてる相手に、雑な熱を入れるな」


ソフィアは少しだけ目を伏せた。


雑な熱。

雑な補給。

雑な期待。


今まで、自分の身体に入ってきたものの多くは、たぶんそういうものだった。


必要だから。

契約だから。

スポンサーだから。


トップ探索者だから。


そう言われて、流し込んできた。


でも、この男は。


ゼリー案件で逃げられないことを責めない。


飲まなくていいとも言わない。


ただ、その前に胃を守るものを作っている。


しかも、スライムで。


情緒はめちゃくちゃなのに、手つきだけはやけに優しかった。


「朔さん」


「なんだ」


「これ、本当に私のためではないんですか?」


朔は温度計から目を離さずに答えた。


「今日、あんたの胃が壊れると、次の試食データが取れない」


「……そういう理由ですか」


「あと、ゼリーで胃を壊すのは無駄だ」


「無駄」


「壊すなら、もっとましな飯で壊せ」


「壊さないでください」


「量を守れば壊れない」


そこは信じていいのか、少し迷った。


朔はケトルの火を止めた。


シェラカップの琥珀スライムへ、湯を少しずつ注ぐ。


透明だった塊が、とろりとほどけていく。


スプーンでゆっくり混ぜると、琥珀色の液体が粘りを帯びた。


そこに生姜の搾り汁を数滴。


ダンジョン蜂蜜をほんの少し。


柑橘皮を落とす。


最後に塩を、指先でごくわずか。


「塩も入れるんですか?」


「甘いだけだと胃が迷う」


「胃が迷う」


「甘味、熱、塩分、生姜の刺激。全部薄く入れる。強くするとゼリーと同じで、喉に残る」


朔は茶こしで液体を()した。


細かい柑橘皮と、わずかに残った繊維が取り除かれる。


それを折りたたみ式のシリコン漏斗(じょうご)に通し、もう一つのシェラカップへ移す。


とろり。


琥珀色の葛湯が、静かに落ちた。


湯気が上がる。


肉の香りではない。


ニンニクでも、醤油でも、揚げ油でもない。


生姜の柔らかい熱。

蜂蜜の丸い甘さ。

柑橘皮のほのかな苦み。


その奥に、琥珀スライム特有の、透明でつるりとした香りがある。


不思議と、嫌な匂いはしなかった。


「琥珀スライムの生姜葛湯風」


朔はシェラカップをソフィアの前に置いた。


「ゼリーを飲む前に入れる。胃守りだ」


ソフィアはカップを見つめた。


琥珀色の液面が、部屋の灯りを受けて揺れている。


綺麗だ。

温かい。


そして、どう見てもゼリーだった。


「……ゼリー案件の前に、別のゼリーを食べるんですね」


「こっちは食い物だ」


「ゼリーと扱いが違いすぎませんか」


「違うからな」


ソフィアは両手でシェラカップを持った。


指先に温度が伝わる。


熱すぎない。

冷たくない。

ちょうど、掌の中に収まる温かさ。


彼女はそっと口元へ運び、飲もうとした。


「飲むな」


止められた。


「え?」


「食え。流し込むと胃が驚く」


「葛湯って、飲み物では?」


「今のあんたには食い物だ。一口ずつ入れろ」


ソフィアは少しだけ眉を下げた。


「ゼリーと扱いが違いすぎます」


「こっちは食い物だと言っただろ」


二回目だった。

よほど大事らしい。


ソフィアは小さなスプーンで、琥珀色の葛湯をすくった。


とろりと糸を引く。


それを、ゆっくり口に入れる。


最初に来たのは、生姜だった。


強くない。


舌を刺すほどではなく、喉の奥へ薄く熱を残す程度。


次に、蜂蜜の甘み。


人工甘味料のような鋭さはない。


丸くて、柔らかくて、舌の上に無理やり居座らない。


柑橘皮の香りが、最後にふっと抜ける。


そして、琥珀スライムのゼラチン質が、喉をゆっくり滑っていった。


「……」


ソフィアは目を瞬かせた。


飲み込んだあと、胃が反抗しなかった。


縮まない。

跳ね返さない。

吐き気も来ない。

温かい膜のようなものが、喉から胃の奥まで、ゆっくり落ちていく。


ゼリーとは違った。


あれは、胃に魔力を押し込んでくる。


これは、胃の内側を撫でるように広がる。


荒れた場所に、薄い布をかけられるような感覚。


痛みが消えるわけではない。


けれど、痛みが直接空気に触れなくなる。


そんな静かな救いだった。


「……これなら」


声が、思ったより小さく出た。


「これなら、飲めます」


「飲むな。食え」


「そこは譲らないんですね」


「譲ると胃が死ぬ」


ソフィアは少し笑いそうになった。


でも、笑うと喉が揺れて、せっかくの温かさが逃げそうだったので、やめた。


もう一口。


今度は、少しだけ落ち着いて味わう。


蜂蜜の甘さが、朝の空腹に優しい。


生姜の熱が、ゼリーを思い出して縮んでいた胃をほどいていく。


柑橘皮の苦みが、甘さを終わらせてくれる。


薬品臭はない。

泥の味もしない。

喉に変な膜が貼りつく感じもない。


膜はある。


けれどそれは、不快なものではなく、守られている感覚だった。


「……美味しい、です」


派手に頬が緩む感じではなかった。


白米が欲しくなる味でもない。


唐揚げのように、脳が負ける味でもない。


ただ、身体の奥が静かに息を吐く。


それが、少しだけ泣きたくなるくらいありがたかった。


朔はソフィアの顔を見て、少しだけ頷いた。


「拒否反応は弱いな」


「もっと情緒のある感想はありませんか?」


「目の力が少し戻った」


ソフィアは、スプーンを持つ手を止めた。


思っていたより、ちゃんと見られていた。


「……そうですか」


「今日は、ゼリーの五分前にこれを二口。直前に一口。飲んだ後はすぐ水を入れるな」


「水も駄目ですか?」


「後味を流したくなるだろうが、胃が暴れる。少し待て」


「……後味を流したくなる前提なんですね」


「まずいんだろ」


「はい」


即答してしまった。


ソフィアは慌てて口元を押さえる。


スポンサーに聞かれたら終わる本音だった。


もちろん、ここにはカメラもマイクもない。


あるのは狭いアパートと、シェラカップと、琥珀色の葛湯と、スポンサー商品を胃の敵扱いする裏方男だけだ。


朔は何も言わず、黒い保温ボトルを取り出した。


無骨で、少し重そうなボトルだった。


「残りを入れる」


「持って行っていいんですか?」


「配信前に少しずつ入れろ。冷めると効きが落ちる」


「分かりました」


「一気に飲むな」


「食べるんですよね」


「そうだ」


「そこまで言われると、少し面倒です」


「胃を守るのは面倒だ」


朔は漏斗を差し、琥珀スライム葛湯を保温ボトルへ移していく。


とろり、とした琥珀色の液体が、静かに消えていった。


ソフィアはそれを見ながら、今日の配信を思い浮かべる。


カメラ。

コメント欄。

スポンサー台本。

銀色のパウチ。


「すっきり飲みやすく、深層探索の頼れる味方です」


たぶん、言わなければならない。


笑顔も作らなければならない。


一口以上、必ず飲まなければならない。


その事実は変わらない。


けれど、今は少しだけ違った。


胃の中には、琥珀色の温かさがある。


手元には、それを詰めた保温ボトルがある。


そして、今日のゼリーの味を誰より信用していない男が、胃が死なない手順だけを真面目に組んでいる。


「朔さん」


「なんだ」


「今日、ちゃんとやります」


「仕事だからな」


「はい」


「ただし、無理に全部飲むな。台本に一口以上と書いてあるなら、一口でいい」


「でも、スポンサーが」


「胃はスポンサーの持ち物じゃない」


ソフィアは、思わず顔を上げた。


朔は保温ボトルの蓋を閉めている。


こちらを見ていない。


たぶん、深い意味を込めた言葉ではない。


彼にとっては、ただの事実。


胃は本人のもの。


だから、壊さないように扱う。


それだけ。


けれど。


ソフィアは、その言葉を少しだけ大事にしたくなった。


「……はい」


返事は、思ったより素直に出た。


朔は保温ボトルを差し出す。


「持っていけ」


ソフィアは両手で受け取った。


ずしりと重い。


でも、その重さが今は心強かった。


「ありがとうございます」


「礼はいい。今日の反応を覚えておけ」


「感想が必要なんですか?」


「必要だ。銀色の方をどこまで防げるか見たい」


「私の胃を実験場にしていませんか?」


「今さらだろ」


「否定してください」


「無理だ」


ひどい。


でも、少しだけ笑ってしまった。


ソフィアは保温ボトルを胸に抱え、立ち上がった。


そろそろ、ギルドの配信準備室へ向かわなければならない。


このアパートを出れば、氷の姫に戻る時間だ。


銀色のゼリーを飲む未来は、まだ消えていない。


けれど、その前に本物のゼリーを食べた胃は、さっきより少しだけ静かだった。


「朔さん」


裏口の前で、ソフィアは振り返る。


「これ、配信中に映ったら大変ですよね」


「映すな」


「分かっています」


「保温ボトルは黒い袋に入れろ。ロゴも見せるな。飲む時はカメラの死角で、少量ずつだ」


「……慣れていますね」


「配信に映らない仕事は慣れてる」


朔は淡々と答えた。


その言葉に、ソフィアは少しだけ胸の奥を押される。


カメラに映る自分。

映らない場所で、胃の温度まで管理している朔。


表と裏。

フロントとバックヤード。


同じ配信の中にいても、二人はまったく違う場所に立っている。


でも今日、彼が渡した琥珀色の葛湯は、自分の内側にある。


それだけは、誰にも映らない。


誰にも奪われない。


「行ってきます」


「ゼリーは一口でいい」


「そこですか」


「そこだ」


「……はい。行ってきます」


ソフィアは保温ボトルをバッグにしまい、裏口から外へ出た。


朝の路地は冷たい。


けれど、胃の奥には温かい膜がある。


銀色のゼリーを思い出しても、まだ縮まない。


それだけで、少しだけ戦える気がした。


――その頃、掲示板では新しいスレが立っていた。


【実況前】今日の氷姫、ゼリー飲めるのか問題


1:名無しの探索者


本日クリスタルゼリーPR回


5:名無しの探索者


補給シーン、表情管理チェックします


9:名無しの探索者


性格悪くて草


14:名無しの探索者


でも最近の氷姫、補給周りだけ明らかに様子おかしいんだよな


19:名無しの探索者


ホットサンド後の顔、まだ忘れられない


23:名無しの探索者


あれを見た後でゼリー飲む顔を見せられるの、人の心がない


28:名無しの探索者


クリスタルゼリーって本当にうまいの?


34:名無しの探索者


探索者だけど、味の話はやめろ


39:名無しの探索者


姫ならプロ根性でいけるだろ


44:名無しの探索者


ただ最近、プロ根性だけじゃない何かで回復してる感ある


50:名無しの探索者


謎の補給係いる説?


55:名無しの探索者


深層焼肉男


61:名無しの探索者


ホットサンド男


66:名無しの探索者


肉質が死ぬ男


72:名無しの探索者


呼び名が毎回ひどい


78:名無しの探索者


でも今日の案件で分かる


84:名無しの探索者


何が?


91:名無しの探索者


氷姫が本当にゼリー生活に戻れる体なのか


98:名無しの探索者


戻れない体って言い方やめろ


104:名無しの探索者


胃袋がもう謎飯側に寝返ってそう


110:名無しの探索者


胃袋の裏切りは草


―――世界はまだ知らない。


彼女の胃袋には、琥珀色の本物のゼリーが、静かに膜を張っていることを。

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