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5/12

氷の姫、黒角鹿ステーキ丼で戦い方を変える

「待て」


遠野朔はそう言った。


だから、氷室ソフィアは待っていた。


深層ボスの突進を受け流す時より真剣に。

ランキング戦の開幕前より集中して。

スポンサー案件の撮影より、ずっと息を詰めて。


目の前のRainPeak(レインピーク)のチタン皿には、焼き上がった黒角鹿(ブラックホーンディア)の赤身肉が置かれている。


表面は深い褐色。


切ればきっと、中はしっとりと赤い。


生姜味噌の香りが、じわじわと部屋に広がっていた。


「……まだですか」


「まだだ」


「もう、かなり休んでいると思います」


「肉汁が落ち着いてない」


「私の方が落ち着きません」


「肉優先だ」


「私は?」


「待て」


「……はい」


自分でも驚くほど素直に返事をしてしまい、ソフィアは少しだけ唇を尖らせた。


配信中なら絶対に見せない顔だった。


けれど、ここにはカメラがない。

スポンサーもいない。

コメント欄もない。


あるのは、狭いアパートの台所と、黒いエプロンの裏方男と、いまにも白米に乗せられそうな黒角鹿の赤身肉だけだ。


朔は温度計を肉に差し、数字を確認した。


それから、チタン皿の上で休ませていた肉をまな板へ移す。


細い刃が、赤身に入った。


す、と。


抵抗は少ない。


焼き目のついた表面の下から、しっとりとした赤が顔を出す。


生ではない。


火は通っている。


けれど、中心には熱を含んだ艶が残っていた。


切られた断面から、澄んだ肉汁がじわりと滲む。


ソフィアは思わず前のめりになった。


朔が見た。


「近い」


「すみません」


「皿を取れ。RainPeak(レインピーク)の平皿」


「これですか?」


「それはマグの蓋だ」


「……全部銀色で分かりにくいです」


「分かりにくくない。用途が違う」


「私には全部高そうな銀色です」


「高いから雑に扱うな」


ソフィアは慌てて、棚から正しい皿を探した。


昨日までなら、こんな狭い部屋で食器を探す自分など想像もしなかった。


世界ランク上位の探索者。

氷の姫。

スポンサー企業の広告塔。


その自分が、今は裏方男のアパートで、銀色の皿とマグの蓋を見間違えている。


しかも。


少し楽しい。


「これですか?」


「それだ」


朔は短く答え、炊いておいた白米をRainPeak(レインピーク)のチタンどんぶりによそった。


米粒が、湯気を立てる。


昨日の角煮の時より、少しだけ硬めに炊かれているように見えた。


「今日のご飯、昨日と違いますか?」


「鹿肉は汁気が少ない。柔らかすぎる米だと負ける」


「米も肉に合わせるんですね」


「当たり前だろ」


当たり前ではないと思う。


少なくとも、ソフィアの知っている補給食に、そんな考え方はなかった。


ゼリーは、いつも同じだ。

銀色のパウチ。

人工甘味料。

薬品の匂い。

泥のような後味。


飲む者の体調も、胃の痛みも、今日の戦闘内容も関係ない。


ただ、必要量を流し込めと言われるだけ。


でも、朔の飯は違う。


魔豚には魔豚の米。

角煮には角煮のスープ。

黒角鹿には黒角鹿の火入れと、黒角鹿の白米。


この男は、食べる側の身体まで含めて、料理を決めている。


「何を見てる」


「いえ」


ソフィアは少し視線を落とした。


「ちゃんと、考えてるんだなって」


「考えないと失敗する」


「そういう意味ではなくて」


「そういう意味だろ」


たぶん違う。


けれど、朔にはそれでいいのだろう。


朔は白米の上に、薄く切った黒角鹿の赤身を並べた。


一枚。

二枚。

三枚。


赤い断面が、湯気を吸ってわずかに艶を増す。


そこへ、小鍋で温めていた生姜味噌だれを少し。


かけすぎない。

肉の上をなぞり、米へ数滴落ちる程度。


最後に焦がしネギ。

横には香味菜の浅漬け。

椀には、薄く伸ばしたオーク骨白湯スープ。


深層で魔力枯渇した身体を叩き起こしたトンテキ丼とは違う。


胃を休ませるための角煮定食とも違う。


これは、もっと静かで、鋭い。


身体の奥に通る魔力の線を、細く整えるための飯だった。


「黒角鹿の赤身ステーキ丼。生姜味噌だれ」


朔はどんぶりを置いた。


「集中飯寄りだ。魔力の戻りは強くないが、出力のぶれは少し抑えられる」


「出力のぶれ……」


「氷を細く使う練習には向いてる」


ソフィアはどんぶりを見つめた。


これは、自分が獲ってきたものだ。


失敗だらけで。

二十点で。

朔に散々ダメ出しされて。

それでも、目の前で飯になっている。


温かくて。

美味しそうで。

食べていいものになっている。


それが、妙に嬉しかった。


「食え」


朔は短く言った。


「次に獲る時の参考にしろ」


「……いただきます」


ソフィアは箸を取った。


鹿肉を一切れ、白米と一緒につまむ。


湯気が顔に触れる。


生姜味噌の香りが、鼻の奥をくすぐる。


口へ運ぶ。


噛んだ。


「……っ」


最初に来たのは、赤身の濃さだった。


魔豚の脂の甘さとは違う。


もっとまっすぐで、力強い。


噛むほどに、肉の旨味がじわじわと滲む。


そこへ生姜味噌が乗る。

味噌の深み。

焦がしネギの香ばしさ。

生姜の熱。


血の香りを嫌なものにせず、肉の力として舌の上にまとめていく。


白米が、それを受け止めた。


少し硬めの米粒が、赤身の旨味と味噌だれを抱え込む。


噛む。


また噛む。


飲み込む。


胃の奥に、静かな熱が落ちた。


トンテキ丼のように、魔力が爆発するわけではない。


角煮定食のように、胃を包み込むわけでもない。


もっと細い。


もっと澄んだ熱が、指先へ流れていく。


「……美味しい」


声が漏れた。


しまった、と思った時には遅かった。


朔がこちらを見ている。


ソフィアは慌てて姿勢を正した。


「美味しいです」


「言い直しても遅い」


「今のは、感想として必要な情報です」


「そうだな」


「記録しないでください」


「感想は記録する」


「頬は?」


「今のところ昨日より緩い」


「見ないでください」


「反応を見ないと調整できない」


昨日と同じような会話。


なのに、昨日より少しだけ気安い。


ソフィアはそのことに気づき、慌てて鹿肉をもう一口食べた。


いや、慌てて食べる理由にはなっていない。


でも箸は止まらなかった。


肉。

米。

味噌だれ。

浅漬け。

スープ。

また肉。


食べるたびに、身体の内側が少しずつ整っていく。


指先の魔力が、いつもより滑らかに流れる。


荒れていた胃に無理やり魔力を流し込む感覚ではない。


細い水路に、澄んだ水が通るような感覚。


「指先に氷を出してみろ」


朔が言った。


「今ですか?」


「今だ」


「食事中に?」


「食後でもいいが、今の方が反応が分かりやすい」


「……分かりました」


ソフィアは箸を置き、右手の人差し指を立てた。


いつもなら、氷は勝手に大きくなる。


刃になり、鎌になり、空間ごと拒絶する壁になる。


けれど今は。


「……」


指先に、小さな氷の針が生まれた。


細い。

透明。

長さは数センチほど。


震えない。

余分な魔力が漏れない。


ソフィアは目を見開いた。


「いつもより、軽い」


「胃が荒れてない。魔力の通り道に余計な抵抗が少ない。黒角鹿の赤身は、出力を太くするより細く整える方に向いてる」


「そんなことまで、食事で変わるんですか」


「変わる」


朔は当然のように言った。


「だから食い方を間違えると死ぬ(・・)


物騒な結論だった。


けれど、否定できない。


ソフィアは氷の針を見つめた。


世界中が褒める、自分の氷。


美しい。

完璧。

圧倒的。

そう言われ続けてきた力。


でも、自分ではずっと分かっていた。


燃費が悪い。

細かい制御が苦手。

一度出すと、すべてを拒絶してしまう。


敵も。

汚れも。

血も。

弱さも。

……食材も。


「……私の戦い方、変えられますか」


ソフィアは小さく聞いた。


朔は少しだけ考えた。


励ましはしなかった。


大丈夫だとも、あんたならできるとも言わなかった。


ただ、空になりかけたどんぶりを見て、肉の残量を確認した。


「変えないと、次も肉が死ぬ」


「そういう返事なんですね」


「でも、今日ゼロじゃなかった」


ソフィアは顔を上げた。


朔はまな板を片付けながら続ける。


「粉砕しなかった。首は残した。後ろ脚も持ってきた。二十点だが、昨日までのあんたならゼロ点の素材しか残らない」


「……それは、褒めていますか?」


「事実だ」


また事実。


けれど今度は、少しだけ胸が温かくなった。


ソフィアは氷の針を消し、箸を持ち直した。


「次は、もっと綺麗に獲ってきます」


「血抜きできる状態で持ってこい」


「はい」


「凍らせるのは関節だけでいい。胴に氷を入れるな。首を落とすなら刃を薄くしろ。切断面を潰すな」


「注文が多いです」


「食材だからな」


「……戦闘対象です」


「食えるなら食材だ」


ソフィアは少し笑ってしまった。


本当に、この人はぶれない。


世界ランク上位の探索者も、深層ボスも、黒角鹿も、全部食材の状態で見る。


ひどい。

ずれている。


でも、そのずれ方が、今のソフィアには心地よかった。


「遠野さん」


「なんだ」


「おかわりは、ありますか」


朔の手が止まる。


ソフィアはすぐに言い直した。


「少しだけです」


「今日の運動量なら、まだ入るな」


「運動量で判断するんですね」


「食った分を使えるなら問題ない」


「大盛りではなく、少しだけで」


「大盛りの少し手前だな」


「違います」


「昨日よりは少ない」


「昨日のことは忘れてください」


「無理だ。調整データだから」


ソフィアは反論したかった。


でも、追加された白米の上に、薄く切った黒角鹿の赤身が二枚乗せられた瞬間、反論はどこかへ消えた。


生姜味噌だれが、肉と米に少しだけ垂らされる。


湯気が上がる。


ソフィアは小さく息を呑んだ。


「……いただきます」


二杯目は、一杯目より少し落ち着いて食べられた。


たぶん。


少なくとも本人はそう思っている。


―――朔がどう記録したかは、知らない方がいい。


食後。


ソフィアは椅子に座ったまま、手のひらに小さな氷の結晶を作っていた。


六角形。

薄い。

透明。


今までなら、ほんの少し力を入れただけで大きくなりすぎていた氷が、今日は指先の上で静かに形を保っている。


「……綺麗」


思わず呟いた。


朔は片付けをしながら言う。


「それを敵の関節にだけ入れろ。胴体に入れるな」


「余韻を壊すのが上手ですね」


「肉の話をしてる」


「私は少し感動していたんです」


「そうか」


「聞いてます?」


「聞いてる。で、次は首元の太い血管を潰さずに止めろ」


「やっぱり肉の話じゃないですか」


朔は流しに食器を置き、手を拭いた。


それから棚から小さな紙を取り出し、簡単な図を描く。


鹿の輪郭。

首。

脚。

胴。

赤い印。

青い印。


「ここは凍らせていい。ここは駄目だ。ここに氷を入れると血が止まりすぎる。ここを潰すと臭みが残る」


「……本当に戦闘指南ではないんですね」


「食材回収の手順だ」


「でも、役に立ちそうです」


「なら覚えろ」


ソフィアは紙を受け取った。


手書きの黒角鹿解体メモ。


世界ランク上位の探索者が持つには、あまりにも地味な紙。


けれど、どんなスポンサー資料よりも、今の彼女には大事に思えた。


「ありがとうございます」


「礼はいい。次は四十点を持ってこい」


「満点を目指させてくれないんですか?」


「最初から満点を狙うと素材が死ぬ」


「何をしても素材が死ぬんですね」


「雑に扱えばな」


ソフィアは紙を丁寧に折り、ポケットに入れた。


そして裏口に向かう。


外に出れば、また氷の姫に戻る。


ギルド。

スポンサー。

視聴者。

ランキング。

ゼリー案件。


全部が待っている。


でも、今日は少し違う。


胃の中には、黒角鹿の赤身ステーキ丼がある。


指先には、いつもより細く通る魔力の感覚が残っている。


ポケットには、朔の雑な手書きメモがある。


「遠野さん」


ソフィアは扉の前で振り返った。


「次は、二十点より上を持ってきます」


「期待はしない」


「そこは少ししてください」


「期待すると、だいたい肉が死ぬ」


「もういいです」


少しむくれた声が出た。


朔は気にしていない。


ただ、最後に一つだけ付け加えた。


「でも」


ソフィアは目を瞬かせる。


「今日の黒角鹿は、捨てるほどじゃなかった」


それだけだった。


褒め言葉としては、ひどい。


あまりにも低温。

あまりにも不器用。


けれど、ソフィアはなぜか、胸の奥がじんわり温かくなった。


「……はい」


扉を開ける。

夜の路地は冷たい。


けれど、今日はその冷たさが嫌ではなかった。


ソフィアはマスクを直し、黒いニット帽を深く被る。


そして、誰にも見られないように、ほんの少しだけ笑った。


―――翌日。


氷室ソフィアの通常討伐映像が、ギルド公式から短く公開された。


配信ではない。

ただの討伐報告用ダイジェスト。


映っていたのは、第十九階層で黒角鹿を制圧する氷の姫の姿だった。


いつも通り、美しい。

いつも通り、冷静。

いつも通り、圧倒的。


ただし。


敵は、粉々になっていなかった。


氷は脚の関節だけを止め、薄い刃が首元を正確に断っている。

返り血は、わずかに彼女の袖を汚していた。


今までの氷の姫なら、絶対に残さなかった汚れ。


その小さな変化に、最初に気づいたのは、やはり掲示板だった。


【疑惑】今日の氷姫、黒角鹿を粉砕してなくない?


1:名無しの探索者

公式ダイジェスト見た?


4:名無しの探索者

見た

相変わらず綺麗だった


8:名無しの探索者

いや綺麗なんだけどさ

黒角鹿、粉々になってなくない?


12:名無しの探索者

ほんとだ

脚だけ凍ってる


17:名無しの探索者

氷姫っていつも敵を氷像にして砕くタイプじゃなかった?


21:名無しの探索者

今日のは首落としてるな

返り血ちょっと袖についてる


26:名無しの探索者

氷の姫が返り血……?

解釈違いです


31:名無しの探索者

いや待て

素材回収班的にはめちゃくちゃ助かる倒し方


37:名無しの探索者

黒角鹿って赤身が高く売れるやつだろ?

粉砕しないの偉すぎる


42:名無しの探索者

氷姫、急に素材に優しくなった?


48:名無しの探索者

まさか昨日の「肉質が死ぬ男」の影響?


53:名無しの探索者

やめろ

あの謎の男が氷姫の戦闘スタイル変えたみたいになるだろ


59:名無しの探索者

実際変わってない?


64:名無しの探索者

深層焼肉男、氷姫を食材回収型に育成中説


70:名無しの探索者

肉質が死ぬ男、何者なんだよ


―――その頃。


地上ゲート裏の古いアパートで、遠野朔は端末に流れてきた公式ダイジェストを一度だけ見た。


黒角鹿の倒れ方。

氷の入り方。

首元の切断面。

血の流れ。

返り血の位置。


それだけを確認し、端末を伏せる。


「三十五点だな」


誰に聞かせるでもなく、朔は呟いた。


それから、棚の奥から小さな調味料ケースを取り出す。


生姜。

味噌。

山椒。

黒胡椒。


次に持ち込まれるであろう黒角鹿のために、彼はもう次の下処理を考え始めていた。


世界はまだ知らない。


氷の姫が少しだけ戦い方を変えた理由も。


その変化を、誰より正確に採点している男がいることも。


そして何より。


その男が、次の飯のためにしか動いていないことも。


挿絵(By みてみん)

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