氷の姫、黒角鹿ステーキ丼で戦い方を変える
「待て」
遠野朔はそう言った。
だから、氷室ソフィアは待っていた。
深層ボスの突進を受け流す時より真剣に。
ランキング戦の開幕前より集中して。
スポンサー案件の撮影より、ずっと息を詰めて。
目の前のRainPeakのチタン皿には、焼き上がった黒角鹿の赤身肉が置かれている。
表面は深い褐色。
切ればきっと、中はしっとりと赤い。
生姜味噌の香りが、じわじわと部屋に広がっていた。
「……まだですか」
「まだだ」
「もう、かなり休んでいると思います」
「肉汁が落ち着いてない」
「私の方が落ち着きません」
「肉優先だ」
「私は?」
「待て」
「……はい」
自分でも驚くほど素直に返事をしてしまい、ソフィアは少しだけ唇を尖らせた。
配信中なら絶対に見せない顔だった。
けれど、ここにはカメラがない。
スポンサーもいない。
コメント欄もない。
あるのは、狭いアパートの台所と、黒いエプロンの裏方男と、いまにも白米に乗せられそうな黒角鹿の赤身肉だけだ。
朔は温度計を肉に差し、数字を確認した。
それから、チタン皿の上で休ませていた肉をまな板へ移す。
細い刃が、赤身に入った。
す、と。
抵抗は少ない。
焼き目のついた表面の下から、しっとりとした赤が顔を出す。
生ではない。
火は通っている。
けれど、中心には熱を含んだ艶が残っていた。
切られた断面から、澄んだ肉汁がじわりと滲む。
ソフィアは思わず前のめりになった。
朔が見た。
「近い」
「すみません」
「皿を取れ。RainPeakの平皿」
「これですか?」
「それはマグの蓋だ」
「……全部銀色で分かりにくいです」
「分かりにくくない。用途が違う」
「私には全部高そうな銀色です」
「高いから雑に扱うな」
ソフィアは慌てて、棚から正しい皿を探した。
昨日までなら、こんな狭い部屋で食器を探す自分など想像もしなかった。
世界ランク上位の探索者。
氷の姫。
スポンサー企業の広告塔。
その自分が、今は裏方男のアパートで、銀色の皿とマグの蓋を見間違えている。
しかも。
少し楽しい。
「これですか?」
「それだ」
朔は短く答え、炊いておいた白米をRainPeakのチタンどんぶりによそった。
米粒が、湯気を立てる。
昨日の角煮の時より、少しだけ硬めに炊かれているように見えた。
「今日のご飯、昨日と違いますか?」
「鹿肉は汁気が少ない。柔らかすぎる米だと負ける」
「米も肉に合わせるんですね」
「当たり前だろ」
当たり前ではないと思う。
少なくとも、ソフィアの知っている補給食に、そんな考え方はなかった。
ゼリーは、いつも同じだ。
銀色のパウチ。
人工甘味料。
薬品の匂い。
泥のような後味。
飲む者の体調も、胃の痛みも、今日の戦闘内容も関係ない。
ただ、必要量を流し込めと言われるだけ。
でも、朔の飯は違う。
魔豚には魔豚の米。
角煮には角煮のスープ。
黒角鹿には黒角鹿の火入れと、黒角鹿の白米。
この男は、食べる側の身体まで含めて、料理を決めている。
「何を見てる」
「いえ」
ソフィアは少し視線を落とした。
「ちゃんと、考えてるんだなって」
「考えないと失敗する」
「そういう意味ではなくて」
「そういう意味だろ」
たぶん違う。
けれど、朔にはそれでいいのだろう。
朔は白米の上に、薄く切った黒角鹿の赤身を並べた。
一枚。
二枚。
三枚。
赤い断面が、湯気を吸ってわずかに艶を増す。
そこへ、小鍋で温めていた生姜味噌だれを少し。
かけすぎない。
肉の上をなぞり、米へ数滴落ちる程度。
最後に焦がしネギ。
横には香味菜の浅漬け。
椀には、薄く伸ばしたオーク骨白湯スープ。
深層で魔力枯渇した身体を叩き起こしたトンテキ丼とは違う。
胃を休ませるための角煮定食とも違う。
これは、もっと静かで、鋭い。
身体の奥に通る魔力の線を、細く整えるための飯だった。
「黒角鹿の赤身ステーキ丼。生姜味噌だれ」
朔はどんぶりを置いた。
「集中飯寄りだ。魔力の戻りは強くないが、出力のぶれは少し抑えられる」
「出力のぶれ……」
「氷を細く使う練習には向いてる」
ソフィアはどんぶりを見つめた。
これは、自分が獲ってきたものだ。
失敗だらけで。
二十点で。
朔に散々ダメ出しされて。
それでも、目の前で飯になっている。
温かくて。
美味しそうで。
食べていいものになっている。
それが、妙に嬉しかった。
「食え」
朔は短く言った。
「次に獲る時の参考にしろ」
「……いただきます」
ソフィアは箸を取った。
鹿肉を一切れ、白米と一緒につまむ。
湯気が顔に触れる。
生姜味噌の香りが、鼻の奥をくすぐる。
口へ運ぶ。
噛んだ。
「……っ」
最初に来たのは、赤身の濃さだった。
魔豚の脂の甘さとは違う。
もっとまっすぐで、力強い。
噛むほどに、肉の旨味がじわじわと滲む。
そこへ生姜味噌が乗る。
味噌の深み。
焦がしネギの香ばしさ。
生姜の熱。
血の香りを嫌なものにせず、肉の力として舌の上にまとめていく。
白米が、それを受け止めた。
少し硬めの米粒が、赤身の旨味と味噌だれを抱え込む。
噛む。
また噛む。
飲み込む。
胃の奥に、静かな熱が落ちた。
トンテキ丼のように、魔力が爆発するわけではない。
角煮定食のように、胃を包み込むわけでもない。
もっと細い。
もっと澄んだ熱が、指先へ流れていく。
「……美味しい」
声が漏れた。
しまった、と思った時には遅かった。
朔がこちらを見ている。
ソフィアは慌てて姿勢を正した。
「美味しいです」
「言い直しても遅い」
「今のは、感想として必要な情報です」
「そうだな」
「記録しないでください」
「感想は記録する」
「頬は?」
「今のところ昨日より緩い」
「見ないでください」
「反応を見ないと調整できない」
昨日と同じような会話。
なのに、昨日より少しだけ気安い。
ソフィアはそのことに気づき、慌てて鹿肉をもう一口食べた。
いや、慌てて食べる理由にはなっていない。
でも箸は止まらなかった。
肉。
米。
味噌だれ。
浅漬け。
スープ。
また肉。
食べるたびに、身体の内側が少しずつ整っていく。
指先の魔力が、いつもより滑らかに流れる。
荒れていた胃に無理やり魔力を流し込む感覚ではない。
細い水路に、澄んだ水が通るような感覚。
「指先に氷を出してみろ」
朔が言った。
「今ですか?」
「今だ」
「食事中に?」
「食後でもいいが、今の方が反応が分かりやすい」
「……分かりました」
ソフィアは箸を置き、右手の人差し指を立てた。
いつもなら、氷は勝手に大きくなる。
刃になり、鎌になり、空間ごと拒絶する壁になる。
けれど今は。
「……」
指先に、小さな氷の針が生まれた。
細い。
透明。
長さは数センチほど。
震えない。
余分な魔力が漏れない。
ソフィアは目を見開いた。
「いつもより、軽い」
「胃が荒れてない。魔力の通り道に余計な抵抗が少ない。黒角鹿の赤身は、出力を太くするより細く整える方に向いてる」
「そんなことまで、食事で変わるんですか」
「変わる」
朔は当然のように言った。
「だから食い方を間違えると死ぬ」
物騒な結論だった。
けれど、否定できない。
ソフィアは氷の針を見つめた。
世界中が褒める、自分の氷。
美しい。
完璧。
圧倒的。
そう言われ続けてきた力。
でも、自分ではずっと分かっていた。
燃費が悪い。
細かい制御が苦手。
一度出すと、すべてを拒絶してしまう。
敵も。
汚れも。
血も。
弱さも。
……食材も。
「……私の戦い方、変えられますか」
ソフィアは小さく聞いた。
朔は少しだけ考えた。
励ましはしなかった。
大丈夫だとも、あんたならできるとも言わなかった。
ただ、空になりかけたどんぶりを見て、肉の残量を確認した。
「変えないと、次も肉が死ぬ」
「そういう返事なんですね」
「でも、今日ゼロじゃなかった」
ソフィアは顔を上げた。
朔はまな板を片付けながら続ける。
「粉砕しなかった。首は残した。後ろ脚も持ってきた。二十点だが、昨日までのあんたならゼロ点の素材しか残らない」
「……それは、褒めていますか?」
「事実だ」
また事実。
けれど今度は、少しだけ胸が温かくなった。
ソフィアは氷の針を消し、箸を持ち直した。
「次は、もっと綺麗に獲ってきます」
「血抜きできる状態で持ってこい」
「はい」
「凍らせるのは関節だけでいい。胴に氷を入れるな。首を落とすなら刃を薄くしろ。切断面を潰すな」
「注文が多いです」
「食材だからな」
「……戦闘対象です」
「食えるなら食材だ」
ソフィアは少し笑ってしまった。
本当に、この人はぶれない。
世界ランク上位の探索者も、深層ボスも、黒角鹿も、全部食材の状態で見る。
ひどい。
ずれている。
でも、そのずれ方が、今のソフィアには心地よかった。
「遠野さん」
「なんだ」
「おかわりは、ありますか」
朔の手が止まる。
ソフィアはすぐに言い直した。
「少しだけです」
「今日の運動量なら、まだ入るな」
「運動量で判断するんですね」
「食った分を使えるなら問題ない」
「大盛りではなく、少しだけで」
「大盛りの少し手前だな」
「違います」
「昨日よりは少ない」
「昨日のことは忘れてください」
「無理だ。調整データだから」
ソフィアは反論したかった。
でも、追加された白米の上に、薄く切った黒角鹿の赤身が二枚乗せられた瞬間、反論はどこかへ消えた。
生姜味噌だれが、肉と米に少しだけ垂らされる。
湯気が上がる。
ソフィアは小さく息を呑んだ。
「……いただきます」
二杯目は、一杯目より少し落ち着いて食べられた。
たぶん。
少なくとも本人はそう思っている。
―――朔がどう記録したかは、知らない方がいい。
食後。
ソフィアは椅子に座ったまま、手のひらに小さな氷の結晶を作っていた。
六角形。
薄い。
透明。
今までなら、ほんの少し力を入れただけで大きくなりすぎていた氷が、今日は指先の上で静かに形を保っている。
「……綺麗」
思わず呟いた。
朔は片付けをしながら言う。
「それを敵の関節にだけ入れろ。胴体に入れるな」
「余韻を壊すのが上手ですね」
「肉の話をしてる」
「私は少し感動していたんです」
「そうか」
「聞いてます?」
「聞いてる。で、次は首元の太い血管を潰さずに止めろ」
「やっぱり肉の話じゃないですか」
朔は流しに食器を置き、手を拭いた。
それから棚から小さな紙を取り出し、簡単な図を描く。
鹿の輪郭。
首。
脚。
胴。
赤い印。
青い印。
「ここは凍らせていい。ここは駄目だ。ここに氷を入れると血が止まりすぎる。ここを潰すと臭みが残る」
「……本当に戦闘指南ではないんですね」
「食材回収の手順だ」
「でも、役に立ちそうです」
「なら覚えろ」
ソフィアは紙を受け取った。
手書きの黒角鹿解体メモ。
世界ランク上位の探索者が持つには、あまりにも地味な紙。
けれど、どんなスポンサー資料よりも、今の彼女には大事に思えた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。次は四十点を持ってこい」
「満点を目指させてくれないんですか?」
「最初から満点を狙うと素材が死ぬ」
「何をしても素材が死ぬんですね」
「雑に扱えばな」
ソフィアは紙を丁寧に折り、ポケットに入れた。
そして裏口に向かう。
外に出れば、また氷の姫に戻る。
ギルド。
スポンサー。
視聴者。
ランキング。
ゼリー案件。
全部が待っている。
でも、今日は少し違う。
胃の中には、黒角鹿の赤身ステーキ丼がある。
指先には、いつもより細く通る魔力の感覚が残っている。
ポケットには、朔の雑な手書きメモがある。
「遠野さん」
ソフィアは扉の前で振り返った。
「次は、二十点より上を持ってきます」
「期待はしない」
「そこは少ししてください」
「期待すると、だいたい肉が死ぬ」
「もういいです」
少しむくれた声が出た。
朔は気にしていない。
ただ、最後に一つだけ付け加えた。
「でも」
ソフィアは目を瞬かせる。
「今日の黒角鹿は、捨てるほどじゃなかった」
それだけだった。
褒め言葉としては、ひどい。
あまりにも低温。
あまりにも不器用。
けれど、ソフィアはなぜか、胸の奥がじんわり温かくなった。
「……はい」
扉を開ける。
夜の路地は冷たい。
けれど、今日はその冷たさが嫌ではなかった。
ソフィアはマスクを直し、黒いニット帽を深く被る。
そして、誰にも見られないように、ほんの少しだけ笑った。
―――翌日。
氷室ソフィアの通常討伐映像が、ギルド公式から短く公開された。
配信ではない。
ただの討伐報告用ダイジェスト。
映っていたのは、第十九階層で黒角鹿を制圧する氷の姫の姿だった。
いつも通り、美しい。
いつも通り、冷静。
いつも通り、圧倒的。
ただし。
敵は、粉々になっていなかった。
氷は脚の関節だけを止め、薄い刃が首元を正確に断っている。
返り血は、わずかに彼女の袖を汚していた。
今までの氷の姫なら、絶対に残さなかった汚れ。
その小さな変化に、最初に気づいたのは、やはり掲示板だった。
【疑惑】今日の氷姫、黒角鹿を粉砕してなくない?
1:名無しの探索者
公式ダイジェスト見た?
4:名無しの探索者
見た
相変わらず綺麗だった
8:名無しの探索者
いや綺麗なんだけどさ
黒角鹿、粉々になってなくない?
12:名無しの探索者
ほんとだ
脚だけ凍ってる
17:名無しの探索者
氷姫っていつも敵を氷像にして砕くタイプじゃなかった?
21:名無しの探索者
今日のは首落としてるな
返り血ちょっと袖についてる
26:名無しの探索者
氷の姫が返り血……?
解釈違いです
31:名無しの探索者
いや待て
素材回収班的にはめちゃくちゃ助かる倒し方
37:名無しの探索者
黒角鹿って赤身が高く売れるやつだろ?
粉砕しないの偉すぎる
42:名無しの探索者
氷姫、急に素材に優しくなった?
48:名無しの探索者
まさか昨日の「肉質が死ぬ男」の影響?
53:名無しの探索者
やめろ
あの謎の男が氷姫の戦闘スタイル変えたみたいになるだろ
59:名無しの探索者
実際変わってない?
64:名無しの探索者
深層焼肉男、氷姫を食材回収型に育成中説
70:名無しの探索者
肉質が死ぬ男、何者なんだよ
―――その頃。
地上ゲート裏の古いアパートで、遠野朔は端末に流れてきた公式ダイジェストを一度だけ見た。
黒角鹿の倒れ方。
氷の入り方。
首元の切断面。
血の流れ。
返り血の位置。
それだけを確認し、端末を伏せる。
「三十五点だな」
誰に聞かせるでもなく、朔は呟いた。
それから、棚の奥から小さな調味料ケースを取り出す。
生姜。
味噌。
山椒。
黒胡椒。
次に持ち込まれるであろう黒角鹿のために、彼はもう次の下処理を考え始めていた。
世界はまだ知らない。
氷の姫が少しだけ戦い方を変えた理由も。
その変化を、誰より正確に採点している男がいることも。
そして何より。
その男が、次の飯のためにしか動いていないことも。




