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氷の姫、調達食材を採点される

『氷姫、今日も顔色よくない?』


『昨日までの限界感どこいった』


『ゼリー案件の投稿、まだないんだが』


『深層焼肉男、まさか二回目あった?』


『肉質が死ぬ男の続報求む』


―――本人の知らないところで、自分の食生活が妙な方向に追跡され始めていることなど、氷室ソフィアは知らなかった。


知っていたら、たぶん胃が痛くなっていた。


いや。

正確には、昨日までなら痛くなっていた。


今は違う。


胃の奥には、まだ温かい白湯スープと、魔豚の角煮定食の余韻が残っている。

重くない。

気持ち悪くない。


身体の芯が、ゆっくりと熱を持っている。


それだけで、ソフィアは少しだけ強くなった気がした。


だから、彼女は今日、初めて自分から素材を獲りに行った。

配信予定のない、ギルドの通常討伐枠。

対象は第十九階層に出現した黒角鹿(ブラックホーンディア)


角から黒い瘴気を放つ中型の魔物で、放置すれば低層探索者の事故につながるため、定期的な間引きが必要になる。


世界ランク上位の探索者が出るほどの相手ではない。

本来なら、ソフィアにとっては通り道に落ちている小石のような相手だった。


ただし、今日は違う。


「……凍らせないように」


ソフィアは誰にも聞こえない声で呟いた。


「肉質が死ぬ、から」


言葉にした瞬間、少しだけ頬が熱くなった。


何を真面目に思い出しているのだろう。


相手は魔物だ。

探索者として討伐する対象だ。

決して、夕飯のおかずではない。


ない、はずだった。


岩場の影から、黒角鹿が飛び出す。


長い脚。

黒い角。

引き締まった胴体。


瘴気をまとった蹄が、黒曜石のような地面を打った。


いつものソフィアなら、広範囲の氷で足元ごと凍らせ、砕いて終わりだった。


綺麗に。

速く。

安全に。

配信映えする、完璧な処理。


けれど、脳裏に朔の声が蘇る。


凍らせるな。

肉質が死ぬ。


「……対象を確認」


ソフィアは息を整えた。


右手に、氷の大鎌を作る。


いつもより小さい。

いつもより薄い。


敵を粉砕するためではなく、動きを止めるための刃。


黒角鹿が地を蹴った。

速い。


角の先から黒い瘴気が散る。


ソフィアは一歩だけ横にずれ、氷の刃を振るった。


狙うのは脚。


ただし、凍らせすぎない。


関節だけを止める。


「――っ」


氷が走る。


黒角鹿の前脚が、薄く白く固まった。


転倒。


だが、そこで反射的に魔力が膨らみかけた。


いつもの癖。

完全凍結。

粉砕。

安全確保。


ソフィアは奥歯を噛んだ。


だめ。


粉々にしたら、遠野さんに怒られる。


その思考が、あまりにも探索者らしくなくて、自分でも少し混乱した。


一瞬遅れて、氷の刃が首元へ走る。


黒角鹿は声を上げる間もなく沈んだ。

床に倒れた魔物の身体から、じわりと黒い血が広がっていく。


ソフィアは息を吐いた。


粉砕していない。

形は残っている。

首も落とした。

胴体も無事。


「……これなら」


これなら、きっと。


少しは褒めてもらえる。


そう思った自分に気づいて、ソフィアは慌てて表情を整えた。


別に、褒められたいわけではない。


契約だ。


素材取引だ。


食事の提供と素材の持ち込み。


それ以上の意味は、ない。


ないのだ。


たぶん。


―――夕方。


地上ゲート裏の古いアパート。


ソフィアは黒いニット帽とマスクで顔を隠し、両手で大きな保冷バッグを抱えていた。


バッグはギルド支給の素材運搬用だ。


本来なら回収班に渡すものだが、今日は討伐報告だけを済ませ、素材の一部を個人研究用として申請した。


もちろん、行き先は言っていない。


言えるはずがない。


世界ランク上位の氷の姫が、ボロアパートの裏口に魔物肉を持ち込んでいるなど。


知られたら、スポンサーどころかギルドの広報部が泡を吹く。


鉄扉の前で、ソフィアは呼び鈴の紐に指を伸ばした。


その前に、扉が内側から開く。


「遅い」


遠野朔が立っていた。


黒い長袖シャツ。

黒いエプロン。

後ろで雑に結ばれた髪。

手には、肉用の温度計。


昨日と同じように、第一声には情緒が一切なかった。


「すみません。ギルドで素材申請に少し時間がかかって」


「素材は」


やはり、そこだった。


ソフィアは保冷バッグを少し持ち上げる。


「持ってきました」


「入れ」


「はい」


部屋に入ると、昨日と同じ匂いがした。


金属。

調味料。

研がれた刃物。

わずかな肉の脂。

そして、米を炊いた後の柔らかい湯気。


ソフィアの胃が、小さく反応した。


「……今のは違います」


「まだ何も言ってない」


「言われる前に否定しました」


「効率が悪いな」


朔はそう言いながら、折りたたみテーブルの上に厚手の防水シートを広げた。


脚には、傷だらけの|CAPTAIN STAGGERキャプテンスタッガーのロゴ。


安っぽいのに、妙に頼もしい。


「そこに置け」


ソフィアは保冷バッグを置いた。


中から、透明な密閉袋に入った黒角鹿の肉塊を取り出す。


後ろ脚の一部。

赤黒い肉。

黒い皮。

太い筋。


氷の結晶が、表面に薄く残っていた。


朔の眉が、わずかに動いた。


その時点で、ソフィアは少し嫌な予感がした。


「……どうでしょう」


朔は答えなかった。


手袋をつける。

肉を持ち上げる。

切断面を見る。

匂いを嗅ぐ。

指で押す。


もう一度、切断面を見る。


ソフィアは背筋を伸ばしたまま、じっと待った。


深層ボスと対峙する時より緊張している気がした。


「二十点」


朔が言った。


「二十点……」


ソフィアは一瞬、言葉を失った。


「百点満点で、ですか?」


「そうだな」


「……思ったより低いです」


「昨日までならゼロだ。形が残っているから二十点」


「褒めていますか?」


「事実を言ってる」


褒めてはいなかった。


ただ、ゼロではないらしい。


ソフィアは自分でも情けないくらい、その二十点に少しだけ救われた。


「凍らせないようにしたんです」


「凍ってる」


「粉砕はしていません」


「粉砕しなければ食材になると思うな」


朔は肉の断面を指で押した。

赤い汁が、少し濁って滲む。


「血が抜けてない。氷が入って繊維が割れてる。首を落とした位置も悪い。切断面が潰れてる」


「……そんなに駄目ですか」


「黒角鹿としては駄目だ」


「探索者としては?」


「知らん。俺は食材として見てる」


昨日も聞いたような返事だった。


ひどい。


けれど、嫌ではない。


世界中が褒める氷を、この男だけは肉質の敵として扱う。


それがなぜか、ソフィアには少しだけ息がしやすかった。


「黒角鹿は赤身が強い。血の臭みが残ると食えたもんじゃない」


朔は作業用ライトを点けた。


白い光が、肉の表面を照らす。


「普通なら、これはローストにしない。低温で火を入れても臭みが出る」


「じゃあ……今日は、食べられませんか?」


ソフィアの声が、自分でも分かるくらい小さくなった。


朔が顔を上げる。


「食わせないとは言ってない」


「……本当ですか?」


「駄目な素材を、食えるところまで戻すのも仕事だ」


その言葉に、ソフィアの胸の奥が少し跳ねた。


慰めではない。

優しい言葉でもない。


でも、捨てないと言われた気がした。


朔は腰のツールベルトから細いメスを抜いた。


刃先を軽く拭い、肉の筋に沿って入れる。


す、と音もなく刃が沈んだ。


無駄がない。


迷いがない。


肉を切っているのに、どこか治療にも見えた。


「凍結が入った部分を削る。ここは食感が死んでる」


「そんなに分かるんですか?」


「押せば分かる。戻りが悪い」


「……すみません」


「謝る相手は俺じゃない。肉だ」


「肉に謝るんですか?」


「無駄に死なせたならな」


ソフィアは反論しようとして、やめた。


この部屋で、食材に関して朔と議論して勝てる気がしない。


朔の指先が、肉の奥から黒ずんだ筋を抜き取る。


その瞬間、淡い光が走った。


純造分解(エクストラクト)】。


瘴気の毒だけを、栄養から切り離す異常なスキル。


黒角鹿の肉にこびりついていた腐った鉄のような臭いが、薄く剥がれていく。


代わりに、赤身肉特有の濃い香りが立ち上った。


ソフィアは思わず息を吸った。


獣の香り。

血の香り。

けれど、不快ではない。

力強い。


「……すごい」


「まだ下処理だ」


朔は淡々と返す。


MontaBell(モンタベル)の保冷バッグを出す」


「モンタベル?」


「棚の下。灰色のやつ」


言われた通り、ソフィアは棚から折りたたまれたバッグを取り出した。


地味な灰色。

派手さはない。

けれど、生地は厚く、縫い目がしっかりしている。


「これ、普通の保冷バッグですか?」


「普通よりは死なない」


「バッグが死ぬんですか?」


「現場では道具も死ぬ」


朔はまったく冗談を言っている顔ではなかった。


「次から素材はこれに入れろ。冷やすのと凍らせるのは違う」


「氷魔法で冷やすのも駄目ですか?」


「やるなら外側だけ。肉に氷を入れるな。水分が膨張して繊維が裂ける」


「……難しいですね」


「戦闘よりは簡単だろ」


「戦闘の方が簡単です」


「だろうな」


朔は肉の表面を拭き、軽く塩を振った。


それから小皿に、味噌、すりおろした生姜、少量の醤油、煮切った酒、刻んだ焦がしネギを合わせる。


箸で練ると、濃い香りが立った。


「臭みを消すんですか?」


「消すんじゃない。赤身の強さに寄せる」


「寄せる」


「臭いを殺すと味も死ぬ。使える香りは使う」


ソフィアは黙って頷いた。


たぶん、料理の話だ。


でも、少しだけ人の話にも聞こえた。


朔はUNI-FLAMME(ユニフラム)の黒皮鉄板を取り出した。


重そうな黒い鉄板。


表面には使い込まれた油の層が、鈍く光っている。


「それ、昨日も使っていましたよね」


「これは別のサイズだ」


「分かるんですか?」


「見れば分かる」


「私には全部黒い板に見えます」


朔が一瞬、こちらを見た。


「肉を焼く鉄板を全部黒い板で済ませるな」


「すみません」


なぜか怒られた。


ZOTO(ゾト)のマイクロバーナーに火が入る。


カチリ。


青い炎が、狭い部屋の空気を変えた。


鉄板がじわじわと熱を持つ。


朔は手をかざし、少し待った。


急がない。

焦らない。

温度計を当て、数字を確認する。


「赤身は火を入れすぎると終わる」


「終わる」


「噛んでも楽しくない肉になる」


「それは……嫌ですね」


「嫌だろ」


朔は薄く油を引いた。


鉄板の上で、油がすっと伸びる。


そこへ、黒角鹿の赤身を置いた。


ジュッ。


低く、鋭い音がした。


魔豚の脂が爆ぜる音とは違う。


もっと乾いた、赤身肉が鉄に触れる音。


表面が一瞬で焼き固まり、肉の縁がわずかに縮む。


濃い香りが立つ。

鉄。

肉。

焦げた脂。


そして、生姜味噌。


ソフィアの喉が、分かりやすく鳴った。


「今のは」


「聞こえた」


「最後まで言わせてください」


「腹の音じゃない、か?」


「……そうです」


「なら、そういうことにしておく」


そういうことにされてしまった。


朔は肉を返す。


焼き目のついた表面が、深い褐色に染まっていた。


その瞬間、部屋の空気が変わる。

深層の冷気も。

スポンサーの通知音も。

ゼリーの銀色のパウチも。


全部、鉄板の上で焼ける黒角鹿の匂いに押し流されていく。


ソフィアは、思わずどんぶりの置かれていないテーブルを見つめた。


まだ、食べていない。


まだ、白米に乗ってすらいない。


それなのに。


胃が、もう知っていた。


これは、絶対に美味しいものだ。


朔は焼き上がった肉を鉄板から下ろし、RainPeak(レインピーク)のチタン皿に移した。


「休ませる」


「……今すぐでは、駄目ですか」


「駄目だ。肉汁が逃げる」


「少しだけでも」


「駄目だ」


即答だった。


世界ランク上位の氷の姫は、深層の魔物を前にしても揺らがない。


だが、目の前で休まされている黒角鹿の赤身肉には、勝てなかった。


朔はそんなソフィアを見て、淡々と言った。


「待て」


「……はい」


返事だけは、やけに素直だった。

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