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3/12

氷の姫、角煮定食で帰れない

遠野朔のアパートは、狭い。

古い。

おしゃれでもない。

椅子は硬く、壁の棚にはよく分からない調理器具と解体道具が隙間なく並んでいる。


それなのに、氷室ソフィアは逃げ出したいとは思わなかった。


むしろ、困っていた。

帰りたくないと思い始めていたからだ。


「椀を置け。次にいく」


朔の声で、ソフィアは我に返った。


「はい」


空になった白湯スープの椀をテーブルに置く。


胃の奥は、さっきよりずっと落ち着いていた。


ゼリーを見ただけで縮んでいた内側が、ゆっくり呼吸を思い出したような感覚。


朔は黒い鉄鍋から、四角い肉の塊を取り出した。


魔豚(オーク)の角煮。

濃い飴色の煮汁をまとい、表面は艶やかに光っている。


「バラに近い部位だ。瘴気抜きして、下茹でして、余分な脂を落としてある」


朔は角煮を小さな網の上に置き、煮汁を切った。


それからUNI-FLAMME(ユニフラム)の黒皮鉄板を火にかける。


ZOTO(ゾト)のマイクロバーナーから青い炎が立ち上がった。


「アパートなら普通のコンロを使わないんですか?」


「使うと火力の立ち上がりが遅い。あと、この鉄板だと端が温まりにくい」


「家庭料理ではないんですね」


「これは家庭料理じゃない。胃を壊した高出力探索者用の補給食だ」


「……言い方」


朔は聞いていない。


温まった鉄板に、角煮の表面を軽く押し当てる。


じゅ、と小さな音がした。


煮込まれて柔らかくなった肉の表面だけが、鉄板の熱で香ばしく焼き締まっていく。


煮汁に溶けた脂が、薄く広がる。

甘辛い香りが、さらに深くなる。


「一度煮たものを、また焼くんですか?」


「表面を締める。煮ただけだと香りが寝る」


朔は短く答える。


角煮を転がしながら、焦がしすぎない位置で火を止める。


次に、RainPeak(レインピーク)のチタン製どんぶりを取り出した。


ソフィアはそれを見て、昨日の記憶が蘇る。


「……それ、高いんですか?」


「高い」


「即答ですね」


「でも軽い。保温の癖も分かりやすい。米を雑に扱わないなら悪くない」


朔はそう言いながら、小さな鍋から白米をよそう。


つやつやとした米粒が、チタンどんぶりの中で湯気を立てた。


その上に、焼き目をつけた魔豚の角煮を二切れ。


煮汁を少量だけ回しかける。

かけすぎない。

米が沈まない程度。


最後に、針のように細く切った生姜を添えた。


横には、さっきの白湯スープをもう少し。

小皿には、浅く漬けられた香味菜。


それは、深層ボス部屋で食べたトンテキ丼のような暴力的な一杯ではない。


もっと静かで、もっと丁寧で、身体を内側から戻していくための食事だった。


「食え」


朔はいつも通り、短く言った。


「魔力じゃなくて、まず胃を戻す」


ソフィアは両手を合わせた。


「いただきます」


角煮に箸を入れる。


抵抗はほとんどなかった。


ほろり、と肉の繊維がほどける。


崩れた断面から、澄んだ脂と煮汁がじわりと滲んだ。


一口、口へ運ぶ。


「……っ」


噛んだ瞬間、甘辛い醤油の香りが広がった。


深い。


けれど、くどくない。


脂はある。


だが、昨日のトンテキのように正面から殴ってくる脂ではない。


下茹でで余分な重さを落とされ、残った旨味だけが舌の上でほどけていく。


ほろほろの肉。

甘辛いタレ。

後から追いかけてくる生姜の熱。


その全部を、白米が受け止める。


ソフィアは無言で、米を口に運んだ。


角煮の煮汁を吸った白米は、反則だった。


噛むたびに米の甘みと肉の旨味が混ざる。


胃は痛くならない。


むしろ、もっと受け入れたいと身体が言っている。


「……美味しいです」


声が震えた。


昨日のように涙が溢れるほどではない。


けれど、別の意味で危なかった。


―――これは、毎日食べられてしまう味だった。


戦闘後の極限状態で食べる救命飯ではない。


疲れた日に、当たり前のように出されたら、その場から動けなくなる味だ。


「そうか」


朔は短く返し、鍋の火加減を確認している。


やはり、感動はない。


ただ、ソフィアの食べる速度と、呼吸の深さと、手の震えが消えていく様子だけを見ていた。


「昨日ほど魔力が一気に戻る感じはしません」


「今日は回復飯じゃない。胃休めだ」


「胃休め……」


「ゼリーで荒れた胃に、濃い補給食ばかり入れれば壊れる。壊れた胃は魔力を受け取れない」


「……そんなこと、誰も教えてくれませんでした」


「ゼリー会社は教えないだろ。売れなくなる」


朔の言葉は淡々としていた。


怒りも皮肉も、強くは乗っていない。


ただ事実として言っている。


ソフィアは少しだけ箸を止めた。


これまで、魔力が切れればゼリーを飲めと言われた。


足りなければ本数を増やせと言われた。


胃が痛いと言っても、トップ探索者はみんなそうだと返された。


誰も、食べる側の胃のことなど考えなかった。


目の前の男だけが、魔力より先に胃を見ている。


「遠野さん」


名前を呼ぶと、朔が顔を上げた。


「なんだ」


「これは、本当に試作品なんですか?」


「そうだ」


「……私のために作ったわけではなく?」


「昨日の残りを、今のあんたの胃の状態に合わせて再調整した」


「それを、私のために作ったと言うのでは?」


朔は一瞬だけ考えた。


「試食対象に合わせるのは当然だろ」


ソフィアは負けた気がした。


この人は、たぶん本気で言っている。


優しさを優しさとして出さない。


人を気遣う理由を、効率や試作や胃の状態に変換してしまう。


けれど、出てくるものは温かい。


ソフィアは角煮をもう一口食べた。


今度は、少し大きめに。


「ん……」


頬が緩む。


慌てて口元を押さえようとしたが、箸を持っているので間に合わなかった。


朔が見る。


ソフィアは目を逸らした。


「見ないでください」


「反応を見ないと調整できない」


「そういう意味ではありません」


「頬の緩み方は昨日よりマシだな」


「記録しないでください」


「してない。覚えてるだけだ」


「それが嫌なんです」


そう言いながらも、箸は止まらない。


角煮。

白米。

スープ。

香味菜。


また角煮。


気づけば、どんぶりの白米は半分以上減っていた。


ソフィアは焦った。


いけない。


落ち着いて食べるつもりだった。


今日は昨日のように限界状態ではない。


世界ランク上位の探索者として、もう少し上品に、節度を持って。


「米、足すか」


「まだ何も言ってません」


「目が言ってた」


「言ってません」


「じゃあ足さない」


朔がしゃもじを戻そうとする。


ソフィアは反射的に言った。


「……少しだけ」


「最初からそう言え」


「少しだけです」


「了解。大盛りの少し手前だな」


「それは少しではありません」


「昨日の食い方を基準にすると少しだ」


「昨日のことは忘れてください」


「無理だ。調整データだから」


ソフィアは両手で顔を覆いたくなった。


けれど、追加された白米の湯気を見た瞬間、その気持ちはすぐに負けた。


白米は、偉大だった。


角煮の煮汁を少しだけ垂らされると、もう抗えない。


ソフィアは小さく「いただきます」と言って、二杯目に箸をつけた。


食事が終わる頃には、身体の芯が温まっていた。


魔力が爆発的に戻ったわけではない。


だが、空っぽの器に無理やり魔力を注ぎ込むような不快感がない。


胃が落ち着いている。

呼吸が深い。

指先が冷たくない。

ゼリーを飲んだ後の、あの重い吐き気もない。


「……立てる」


ソフィアはぽつりと呟いた。


「食ったんだから立てるだろ」


「そういう意味ではなくて」


「知ってる」


朔は食器を片付けながら言った。


その言い方があまりにも自然で、ソフィアは少し黙ってしまった。


ちゃんと分かっている。


分かっているのに、余計な慰めはしない。


その距離感が、妙に心地よかった。


「さて」


朔は空になった器を流しに置き、手を拭いた。


「食ったな」


「はい」


「帰れ」


「……はい?」


「契約内容を忘れたのか。食事の提供と素材取引以外は、互いに干渉しない」


「覚えています」


「じゃあ帰れ」


正しい。


何一つ間違っていない。


ソフィアは立ち上がろうとした。


だが、椅子から腰が離れなかった。


外に出れば、また氷の姫に戻らなければならない。


ギルドへの返信。


スポンサーへの説明。


明日の配信予定。


ゼリーの宣伝案件。


ランキング。


コメント欄。


全部が待っている。


でもここでは、ただ食べていい。


頬が緩んでも、白米をおかわりしても、遠野朔は広告価値も好感度も考えない。


ただ、胃の状態だけを見ている。


「……あと少しだけ」


ソフィアは小さく言った。


「何が」


「消化するまで」


「スープは消化に悪くない」


「急に動くと、胃が驚くかもしれません」


「俺の台詞を都合よく使うな」


「十五分だけ」


朔は壁の時計を見た。

それから、折りたたみテーブルの上を片付ける。


「十五分だ」


「ありがとうございます」


ソフィアは内心で、勝った、と思った。


もちろん顔には出さない。


氷の姫なので。


ただし、頬は少し緩んでいた。


朔は棚から小さなノートを取り出し、何かを書き込んでいる。


ソフィアはそれを横目で見た。


「それは?」


「今日の記録」


「やっぱり記録しているじゃないですか」


「頬じゃなくて、食後の魔力反応と胃の状態だ」


「頬も書いていませんか?」


「書く必要があるほど分かりやすいなら書く」


「書かないでください」


朔は返事をしなかった。


怪しい。


十五分が過ぎた。


朔は時計を見る。


「時間だ」


「……正確ですね」


「火入れも休ませも、時間を守らないと失敗する」


「私は肉ではありません」


「胃は似たようなものだ」


「違います」


ソフィアは立ち上がった。


身体は軽い。

足元が安定している。

胃が痛くない。

それが、こんなに安心することだとは思わなかった。


裏口へ向かうと、朔が棚から小さな紙袋を取った。


「持っていけ」


「これは?」


「白湯スープの残り。明日の朝、ゼリーの前に温めて飲め」


「ゼリーは飲まないと駄目ですか?」


「スポンサーに聞け」


「遠野さんに聞いています」


「俺なら飲まない」


「……」


「ただ、急にゼロにすると周りに怪しまれる。飲むなら量を減らせ。先にスープを入れれば、多少は胃が耐える」


ソフィアは紙袋を受け取った。


温かい。


容器越しに、ほんのり熱が伝わってくる。


「ありがとうございます」


「礼はいい。次は素材を持ってこい」


「はい」


「魔豚なら後ろ脚。できるだけ凍らせるな。切断面を潰すな。血抜きできる状態で持ってこい」


「注文が多いですね」


「食材だからな」


「……戦闘としては?」


「知らん。俺は食材として見てる」


ひどい。


でも、少しだけ笑ってしまった。


ソフィアはマスクをつけ直し、裏口の扉に手をかけた。


外に出れば、また氷の姫だ。


けれど、ポケットには朔のメモがある。


手には、白湯スープの紙袋がある。


そして胃の中には、魔豚の角煮と白米の温かさが残っている。


それだけで、昨日までより少しだけ、戦える気がした。


「遠野さん」


ソフィアは振り返った。


「明日、素材を持ってきます」


「手ぶらなら飯は出さない」


「分かっています」


「あと、裏口から来い」


「それも分かっています」


「居座るな」


ソフィアは少しだけ目を逸らした。


「……努力します」


「守れ」


昨日と同じ言葉だった。


けれど、昨日より少しだけ、距離が近い気がした。


ソフィアは裏口から外へ出た。

夜の路地は冷たい。


それでも、身体の中は温かかった。


―――だが、同じ頃。


掲示板では、昨日の切り抜きから派生した新しいスレが立っていた。


【疑惑】氷姫、今日ゼリー案件の投稿してなくない?


1:名無しの探索者

いつも探索翌日はゼリーのPR投稿あるよな?


5:名無しの探索者

今日はない


9:名無しの探索者

昨日の深層焼肉男のせい?


12:名無しの探索者

焼肉男って呼び方やめろ


18:名無しの探索者

じゃあ何男だよ


23:名無しの探索者

肉質が死ぬ男


31:名無しの探索者

もっと悪いわ


37:名無しの探索者

でも今日の氷姫、ギルド前で見た奴いない?

なんか顔色良かったらしいぞ


42:名無しの探索者

魔力枯渇後なのに?


48:名無しの探索者

普通ならゼリー漬けで死んだ顔してるタイミング


55:名無しの探索者

つまり何か食った?


61:名無しの探索者

深層焼肉男、二回目ある?


70:名無しの探索者

検証班、氷姫の食生活を追え


―――本人たちの知らないところで、噂は少しだけ形を変えた。


深層で肉を焼く謎の男。


そして。


その飯を食べたらしい氷の姫。


世界はまだ知らない。


その噂の中心にいる二人が、古いアパートの裏口で、こんなにも地味で温かい契約を始めたばかりだということを。


挿絵(By みてみん)

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