氷の姫、ボロアパートの裏口に来る
『深層で肉を焼く謎の男、爆誕』
『氷姫の配信、最後の音声ヤバくない?』
『「凍らせるな。肉質が死ぬ」←何様だよ草』
『でも氷姫が「美味しいです」って言ってるの、ガチで聞こえる』
『いや待て。そもそもモンスター肉って食えるの?』
『食えない。食ったら死ぬ』
『じゃあ何食わせたんだよ』
―――翌朝。
氷室ソフィアは、自室のソファに座ったまま、端末に流れてくる切り抜き動画を無表情で眺めていた。
黒い待機画面。
乱れた呼吸。
聞き慣れない男の声。
カチリ、と火のつく音。
そして。
ジュゥゥゥゥッ……!!
何度聞いても、深層ボス部屋で肉が焼ける音だった。
「……最悪」
ソフィアは小さく呟いた。
配信中の氷の姫ではない。
夜中に何度も同じ動画を確認してしまい、寝不足気味の二十歳の女の子の声だった。
端末には、ギルドからの確認メッセージも来ている。
体調に問題はないか。
昨日の配信終了後、何かトラブルはなかったか。
音声に入っていた人物は誰か。
スポンサーから問い合わせが来ている。
どれも、返答には困るものばかりだった。
ソフィアは用意していた定型文を送信する。
『配信機材の一時的な音声トラブルです。体調に問題はありません。ご心配をおかけしました』
嘘ではない。
体調は、昨日よりはるかに良い。
問題はない。
むしろ、問題があるのは別の方だった。
テーブルの上に、銀色のパウチが置かれている。
人工魔力補給剤。
通称、ゼリー。
いつもなら、探索後の朝に一本。昼に一本。夜に一本。
魔力の戻りが悪い日は、さらに二本。
トップ探索者として活動するために、ソフィアはそれを当然のように飲んできた。
飲むしかなかった。
けれど。
昨日、知ってしまった。
焦げた醤油の香り。
分厚い魔豚肉の肉汁。
熱い白米。
胃の奥から魔力が戻ってくる、あの感覚。
ソフィアはパウチを手に取った。
封を切る前から、人工甘味料と薬品の混ざった匂いが鼻の奥に蘇る。
「……っ」
喉が拒んだ。
昨日まで命綱だったものが、今は泥にしか見えない。
飲まなければいけない。
スポンサー契約もある。
探索者としての管理義務もある。
トップ探索者が、補給剤を飲めません、などと言えるはずがない。
けれど、指が動かなかった。
胃のあたりが、ぎゅっと縮む。
ソフィアはしばらくパウチを見つめた後、そっとテーブルに戻した。
そして、昨日もらった小さなメモを取り出す。
地上ゲート裏。
古いアパート。
一階の裏口。
そこに行けば、またあの飯が食べられる。
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなった。
同時に、ソフィアは自分の両頬を両手で押さえる。
「違うわ。これは契約。食事の提供と素材取引。それ以上の意味はないのよ」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からなかった。
夕方。
地上ゲート裏の一角は、探索者街の表通りとはまったく違う顔をしていた。
大通りにはスポンサー企業の大型広告が並び、配信者向けのスタジオや高級装備店が光を撒き散らしている。
一方、ゲート裏は薄暗い。
古い配管。
湿ったコンクリート。
回収業者の小型トラック。
洗浄を終えたばかりの素材コンテナ。
配信のカメラが絶対に映さない、ダンジョン産業の裏側。
その路地を、ソフィアは帽子とマスク姿で歩いていた。
銀髪は黒いニット帽の中に押し込んでいる。
探索服ではなく、地味なコート。
顔も半分以上隠している。
完璧な変装のはずだった。
ただし、背筋が伸びすぎていた。
歩き方が綺麗すぎた。
隠しきれない空気が、どう見ても一般人ではなかった。
通りすがりの作業員が、一瞬だけ振り返る。
ソフィアは反射的に目を伏せ、足を速めた。
古びた三階建てのアパート。
外壁は灰色にくすみ、錆びた階段が横に伸びている。
表側ではなく、建物の裏。
廃材置き場の横に、小さな鉄扉があった。
メモに書かれていた場所だ。
「……ここ、だよね」
ソフィアは扉の前で立ち止まった。
昨日の深層ボス部屋より、今の方が緊張している気がした。
呼吸を整える。
チャイムらしきものはない。
代わりに、小さな呼び鈴が紐で吊るされていた。
ソフィアは指を伸ばす。
その直前、扉が内側から開いた。
「遅い」
遠野朔が立っていた。
黒い長袖シャツに、黒いエプロン。
昨日より髪が少し整っていて、後ろで雑に結ばれている。
目元を隠していた前髪が上がったせいで、思ったより整った顔立ちが見えた。
ソフィアは一瞬だけ固まった。
昨日、深層で見たときとは違う。
血と煤と瘴気にまみれた裏方ではない。
狭いアパートの裏口で、淡々と料理の準備をしている、ただの青年に見えた。
ただし、手には肉用の温度計を持っていた。
「……あの」
「素材は?」
第一声が、それだった。
ソフィアは固まったまま、ゆっくり目を逸らす。
「……今日は、ありません」
「契約違反だな」
「すみません。今日は探索予定がなくて……」
「じゃあ、なぜ来た」
真正面から聞かれた。
ゼリーが飲めなかったから。
昨日の味を思い出してしまったから。
胃が、あの温かいご飯を覚えていたから。
そんなことを、言えるはずがなかった。
「……体調確認、です」
「誰の」
「私の、です」
「自分で自分の体調確認に来たのか」
「はい」
「変な日本語だな」
ぐうの音も出なかった。
朔はしばらくソフィアを見て、それから小さく息を吐いた。
「入れ」
「いいんですか?」
「裏口でトップ探索者を立たせておく方が面倒だ。誰かに見られたら、俺の作業効率が落ちる」
それは優しさなのか、迷惑がられているのか。
たぶん両方だった。
ソフィアは小さく頭を下げ、鉄扉の中へ入った。
部屋は、狭かった。
六畳ほどの台所兼作業場。
奥に寝室らしき部屋が一つ。
それだけなら、ただの古いアパートだ。
だが、普通の部屋ではなかった。
壁一面に、金属製の棚が組まれている。
そこには、調理器具、解体道具、調味料ケース、真空パック機、小型バーナー、チタン製の器、黒皮鉄板、鉄鍋、砥石、手袋、密閉容器が、異常なほど整然と並んでいた。
部屋というより、基地。
台所というより、現場。
人が暮らすための空間を、食材処理と調理のために最適化した場所だった。
「……ここ、本当に人が住む部屋ですか?」
「寝る場所はある」
「そういう意味ではなくて」
「余計な物を置くと導線が死ぬ」
朔は当然のように言う。
小さな折りたたみテーブルが、部屋の中央に出されていた。
脚には|CAPTAIN STAGGERのロゴ。
少し傷が多いが、頑丈そうな作業台だ。
その横には、簡易チェアが一つだけ置かれている。
「座れ」
「はい」
ソフィアは促されるまま椅子に座った。
硬い。
だが、不思議と落ち着く。
高級ホテルの控室やスポンサーの応接間よりも、ずっと息がしやすかった。
朔は手を洗い、壁の棚から小さな鍋を下ろした。
RainPeakのチタン製クッカー。
その中には、白く濁ったスープが入っていた。
火にかけられた瞬間、ほのかな湯気が上がる。
骨の甘い香り。
生姜。
ほんの少しの塩。
「オーク骨の白湯スープだ」
朔は淡々と言った。
「昨日の残りを処理した。脂は抜いてある」
「昨日の……」
「今日は素材なしだから、本来は飯を出さない」
「……はい」
「だが、昨日の状態でゼリーに戻したら、胃が確実に荒れる。そうなると今後の試食効率が落ちる」
「試食効率」
「だから初回だけ前払いだ。次は素材を持ってこい」
ひどい言い方だった。
けれど、目の前のスープは、どう見てもソフィアの胃を気遣って温められている。
朔は小さな椀に白湯スープを注ぎ、ソフィアの前に置いた。
「先にそれを飲め。胃を起こす」
「……いただきます」
ソフィアは両手で椀を持った。
温かい。
それだけで、指先のこわばりがほどける気がした。
ゆっくり、一口飲む。
白湯スープは、見た目よりずっと軽かった。
骨の旨味がある。
けれど脂は重くない。
舌に触れた瞬間は穏やかで、飲み込むと胃の奥にじんわり熱が落ちていく。
ゼリーで荒れた内側に、薄い膜が張られていくような感覚。
痛みが、少し遠のいた。
「……やさしい」
思わず、声が漏れた。
朔が眉をひそめる。
「塩が薄いか?」
「そういう意味ではありません」
「ならいい」
よく分かっていないらしい。
ソフィアは椀を持ったまま、小さく息を吐いた。
身体の中に、温かいものがある。
それだけで、昨日までの自分がどれほど無理をしていたのか、少しだけ分かってしまった。
朔はその間に、別の黒い鉄鍋を火にかけていた。
重そうな蓋を外す。
ふわり、と湯気が上がる。
甘辛い醤油の香り。
生姜。
酒。
脂。
そして、肉。
濃い飴色の煮汁の中で、四角く切られた魔豚の肉が、つやつやと光っていた。
ソフィアの喉が、分かりやすく鳴った。
「……今のは、違います」
「何が」
「お腹の音ではありません」
「誰も聞いてない」
「聞いてましたよね」
「聞こえた」
ソフィアは両手で椀を握りしめた。
朔はまったく気にせず、鍋の中を確認している。
「次は角煮だ」
「角煮……」
「胃が起きたら食わせる。白飯もある」
白飯。
その単語だけで、昨日の記憶が鮮明に蘇った。
深層の冷たい床。
湯気の立つどんぶり。
肉汁の染みた米。
ソフィアは無意識に、椀の縁に指をかける。
朔は温度計を鍋に差し、淡々と言った。
「焦るな。ここで急ぐと胃が負ける」
ソフィアは小さく頷いた。
けれど視線は、もう鍋から離れなかった。
甘辛い湯気が、狭い部屋いっぱいに広がっていく。
昨日、深層で救われた胃袋が、はっきりと覚えていた。
この男の飯は、食べていいものだと。




