氷の姫、深層でトンテキ丼に堕ちる
『氷姫、まだ魔力残ってるのか!?』
『新人パーティ庇いながら深層ボス単独処理はバケモン』
『綺麗すぎる……』
『これが世界ランク上位の戦闘かよ』
コメント欄が熱狂する中、氷室ソフィアは巨大な氷の大鎌を振り下ろした。
ダンジョン深層、第七十六階層。
黒曜石のように濡れた大広間の中央で、深層ボス黒牙の魔豚王の巨体が、音もなく凍りつく。
次の瞬間。
氷が、花のように砕けた。
血飛沫は一滴も飛ばない。
肉片も、臓物も、悲鳴もない。
ただ、蒼白く輝く氷晶だけが空中に舞い、配信用ドローンのカメラ越しに、幻想的な光景を作り出していた。
「――対象の凍結を確認しました。これより帰還します」
ソフィアは、乱れのない声で告げた。
銀糸のような髪。
透き通る碧眼。
細い指に握られた、身の丈を超える氷の大鎌。
スポンサー企業のロゴが入った探索服には、汚れ一つない。
完璧な姿勢。
完璧な表情。
完璧な勝利宣言。
だから、誰も気づかない。
彼女の体内に残った魔力が、もう一滴もないことに。
『氷姫つよすぎ』
『新人助けてこの余裕は神』
『スポンサー笑い止まらんだろこれ』
『今日も美しい』
「ご心配には及びません。探索者として当然の責務を果たしたまでです」
ソフィアはカメラに向け、ほんのわずかに目を伏せた。
それだけで、コメント欄がさらに沸く。
だが、配信ドローンのレンズが捉えていない場所で、彼女の指先は小さく震えていた。
本来なら、あの新人パーティは切り捨てても責められない位置にいた。
深層に潜る以上、撤退判断を誤った探索者が命を落とすことは珍しくない。まして、配信中のトップ探索者が予定外の救助行動を取るなど、スポンサーからすればリスクでしかない。
けれど、見捨てられなかった。
だからソフィアは、黒牙の魔豚王のヘイトを単独で抱え込み、広範囲氷結を三度も連発した。
その代償は、今、内臓を空洞にするような寒気となって、彼女の腹の底に沈んでいる。
「それでは、本日の配信はここまでとさせていただきます。ご視聴、ありがとうございました」
ソフィアは最後まで微笑まなかった。
『クール!』
『お疲れ様でした!』
『氷姫最高!』
『ゆっくり休んで!』
カメラのランプが、赤から黒へ変わる。
配信終了。
その瞬間、氷室ソフィアは糸が切れた人形のように膝から崩れ落ちた。
「っ、は……ぁ……!」
冷たい石床に手をつく。
指先に力が入らない。喉が焼ける。息を吸うたび、深層の瘴気が内側から肺を削っていくようだった。
魔力枯渇。
探索者なら誰もが恐れる、最悪の状態。
特にソフィアのような高出力型のスキル使いにとって、それは単なる疲労ではない。体内を巡る血液から酸素だけを奪われたような、生命維持そのものが揺らぐ感覚だった。
「ゼリー……」
震える手で、腰のポーチを探る。
人工魔力補給剤。
通称、ゼリー。
製薬会社がモンスター素材から抽出した魔力を、化学処理で無理やり飲料化したものだ。
探索者にとっては命綱。スポンサー案件としては定番。
そして、氷室ソフィアにとっては、見るだけで胃がひっくり返る泥だった。
銀色のパウチに指が触れた瞬間、喉の奥に酸っぱいものがせり上がる。
だめ。
飲まなきゃ。
飲まなければ、ここから帰れない。
分かっている。分かっているのに、あの薬品と泥を混ぜて薄めたような味を思い出しただけで、身体が拒絶する。
「……っ、う……」
膝をついたまま、ソフィアは小さく背を丸めた。
世界は彼女を『氷の姫』と呼ぶ。
冷たく、美しく、完璧で、決して崩れないトップ探索者。
けれど、今ここにいるのは、魔力を使い果たし、胃を荒らし、ゼリーの封を切ることすらできない、一人の限界探索者に過ぎなかった。
その時。
カツン、と。
金属が石床に置かれる音がした。
「……?」
ソフィアは顔を上げる。
薄暗い深層ボス部屋の端。
崩れた柱の陰に、いつの間にか一人の青年がしゃがみ込んでいた。
長めの黒髪が目元にかかっている。
黒の防刃シャツに、動きやすそうなカーゴパンツ。腰には使い込まれたツールベルト。サバイバルナイフ、手斧、小型のメス、砥石が、無駄なく収まっている。
探索者ではない。
カメラの前に立つ人間ではない。
清掃、死骸処理、素材回収、罠の後始末。
配信が終わったあと、誰にも注目されない場所で働く裏方。
その青年は、背負っていた高耐久ナイロンの四十リットルバックパックを下ろすと、中から小さなバーナーを取り出した。
「やめとけ」
低い声が、ソフィアの耳に届く。
「そこまで胃が荒れてると、ゼリーは戻す」
「……あなた、は」
「遠野朔。清掃と素材回収」
青年――遠野朔は、こちらを見もせずに答えた。
そして、慣れた手つきでガス缶を接続し、バーナーの脚を広げる。
カチリ。
点火装置の小さな音。
青い炎が立つ。
「……火力は安定してるな。さすがZOTOの新作だ」
「何、を……」
ソフィアの声はかすれていた。
遠野朔は答えない。
代わりに、バックパックから黒い鉄板を取り出した。
直径十五センチほどの小さな黒皮鉄板。
次に、薄い金属製のケース。
小さな瓶に詰められた調味料。
折りたたみ式のまな板。
そして、丁寧に紙で包まれた分厚い肉の塊。
ソフィアは一瞬、思考が止まった。
ここはダンジョン深層だ。
たった今、深層ボスを倒したばかりの危険地帯だ。
魔力枯渇で動けないトップ探索者の横で、この男は。
料理を始めようとしている。
一方、その頃。
完全に終了したはずの配信画面では、黒い待機画面のまま、なぜか音声だけが数十秒遅れで生き残っていた。
『ん?』
『音、残ってない?』
『姫、息荒くなかった?』
『機材トラブル?』
『今、男の声しなかったか?』
『ZOTO?』
『なんか火つけてる音したぞ』
そして次の瞬間。
ジュゥゥゥゥッ……!!
深層ボス部屋に、分厚い肉が焼ける音が響いた。
『は?』
『え?』
『今の何?』
『肉?』
『肉焼いてない?』
『深層で?』
『氷姫の配信で?』
『誰だよボス部屋で焼肉始めた奴』
そんな外の騒ぎなど、当人たちは知る由もない。
遠野朔は黒皮鉄板の上で、魔豚の肉を焼いていた。
分厚い肉の表面から水分を拭き取り、細かく筋を切る。
軽く塩を振り、脂身を下にして熱した鉄板に押し当てる。
じゅ、と短い音が鳴る。
白い脂がゆっくり溶け出し、鉄板の表面に薄い膜を作った。
「脂は悪くないな。凍結粉砕される前に回収できた部位で助かった」
朔は肉の断面を見ながら、淡々と呟く。
黒牙の魔豚王。
ソフィアが粉々に砕いた深層ボスの一部ではない。
その取り巻きとして転がっていた通常の魔豚を、朔がすでに解体し、処理していたものだ。
モンスター肉は本来、食べられない。
高濃度の魔力を含む代わりに、瘴気の毒を宿している。一口食べれば、普通の人間なら血を吐いて死ぬ。探索者でさえ、命の保証はない。
だが、朔の手元にある肉からは、あの独特の腐った鉄のような瘴気臭がしなかった。
代わりに立ち上るのは、獣脂の甘い香り。
「……ありえない」
ソフィアはかすれた声で呟く。
朔は聞こえているのかいないのか、肉を裏返した。
焼き目がついた表面が、黄金色に縮んでいる。パチパチと脂が跳ねた。
次に、朔は小瓶の一つを開ける。
すりおろしたニンニクを混ぜ込んだ、濃い醤油ダレ。
それを鉄板の上に回しかけた瞬間。
ジュワッ、と音が爆ぜた。
焦げた醤油。
ニンニク。
焼けた脂。
熱い肉汁。
その匂いが、ダンジョン深層の冷たい瘴気を、力ずくで押し返した。
「っ……」
ソフィアの喉が、勝手に鳴った。
だめ。
おかしい。
こんな場所で。
こんな状況で。
こんなものを、美味しそうだと思うなんて。
朔はRainPeakのチタン製どんぶりを取り出し、携帯用の白米を盛った。
ただの保存米ではない。
少量の蒸気で戻せるように下処理され、ダンジョン内でも味が落ちにくいよう密閉された、朔専用の携帯飯。
それをバーナーで軽く温め直す。
熱を帯びた白米の上に、焼き上がった魔豚肉を乗せる。
鉄板に残ったニンニク醤油ダレを、肉と米に一滴残らず回しかける。
最後に、粗く挽いた黒胡椒を振った。
深層ボス部屋の床に、湯気を立てる一杯の丼が現れる。
『極厚オーク肉のニンニク醤油トンテキ丼』。
「食え」
朔はそれを、ソフィアの前に差し出した。
「魔力が戻る。話はそれからでいい」
「……モンスターの肉、ですよね」
「そうだな」
「食べたら、死にます」
「普通はな」
「なら――」
「俺が処理した」
それだけだった。
自慢も、説明も、説得もない。
まるで、火を通したから食べられる、くらいの温度で言う。
ソフィアはどんぶりを見つめた。
常識が警鐘を鳴らしている。
地上の食材はダンジョン内では魔力にならない。
モンスター肉は瘴気の毒で死ぬ。
だから探索者は、不味くてもゼリーを飲むしかない。
それが、この世界のルールだった。
けれど。
目の前の肉は、あまりにも熱く、あまりにも香ばしく、あまりにも本物の食べ物だった。
胃が痛い。喉が渇く。身体が冷える。魔力が空になる。
そんな全ての苦痛を、焦げた醤油とニンニクの匂いが、乱暴に上書きしていく。
「……本当に、死にませんか?」
「死なせるつもりなら、わざわざ米まで温めない」
「……それ、安心していい返事ですか?」
「少なくとも、今のゼリーよりは胃に優しい。熱いうちに食え。冷めると脂が重くなる」
ソフィアは震える手で、どんぶりを受け取った。
重い。
温かい。
それだけで、泣きそうになった。
箸を持つ指に力が入らない。
それでも、どうにか肉を一切れ掴む。
分厚い肉片から、タレが白米へ落ちた。
ニンニク醤油をまとった魔豚肉を、口へ運ぶ。
そして、噛んだ。
「――っ!?」
最初に来たのは、香りだった。
焦げた醤油の香ばしさ。
ニンニクの荒々しい熱。
脂の甘み。
次に、食感。
表面はしっかり焼けているのに、中は驚くほど柔らかい。歯を入れた瞬間、閉じ込められていた澄んだ肉汁が、熱と一緒に口の中へ溢れ出す。
臭みがない。
瘴気の苦味もない。
ゼリーのような薬品臭もない。
ただ、肉の旨味と、米の甘みと、濃いタレの暴力的な相性だけがあった。
「んっ……」
声が漏れた。
止められなかった。
飲み込んだ瞬間、胃の奥から熱が広がった。
それはただの食事の温かさではない。
濃密で、澄んでいて、身体が本能的に欲していた魔力。
熱い奔流が血管を走り、指先に力を戻していく。内臓を削っていた瘴気の痛みが、じわじわと溶けていく。
呼吸が楽になる。
視界に色が戻る。
「なんですか、これ……」
ゼリーとは違う。
比較にすらならない。
あの泥のような補給剤が、無理やり魔力を胃に押し込むものだとすれば、これは身体の方から受け取りに行く食事だった。
「毒が……ない……」
「抜いたからな」
「魔力が、戻って……」
「含有量は悪くない。味もまあ、及第点だ」
及第点。
この男は、今ソフィアが人生で初めて出会った救いを、及第点と言った。
そのあまりの温度差に、笑う余裕すらなかった。
ソフィアは二口目を食べた。
今度は肉だけではなく、タレの染みた白米も一緒にかき込む。
「んっ……ふぁ……っ」
駄目だ。
止まらない。
頬が勝手に緩む。
涙が勝手に滲む。
氷室ソフィア。
氷の姫。
世界ランク上位のトップ探索者。
スポンサー企業の広告塔。
どんな戦場でも表情を崩さない、完璧な美少女。
そんな仮面が、ニンニク醤油の前であまりにも簡単に溶けていく。
「……美味しい、です」
涙声でそう呟いた瞬間、ソフィアは自分がどれほど飢えていたのかを理解した。
魔力だけではない。
本物の食事に。
誰かが自分のために温かいものを出してくれる時間に。
完璧でいなくても、ただ食べていい場所に。
ずっと、飢えていた。
「そうか」
朔はそれだけ言うと、鉄板の火を落とした。
慰めもしない。
褒めもしない。
感動もしない。
ただ、ソフィアが食べる速度を見て、白米を少し追加した。
「……ごはん」
「足りないか」
「もう少し、ありますか」
「ある」
RainPeakのチタンどんぶりに、追加の白米が盛られる。
その上に、朔は残していた肉を二切れ乗せた。
「急に入れすぎるな。胃が驚く」
「はい……」
「でも冷める前に食え」
「はい……!」
返事だけは素直だった。
ソフィアは丼を抱え込み、夢中で食べた。
深層の冷たい石床に座り込んだまま。
世界中から氷の姫と呼ばれる少女は、頬に涙を伝わせながら、トンテキ丼をかき込んだ。
やがて、どんぶりは空になった。
最後の一粒まで食べ終えたソフィアは、しばらく呆然としたまま、膝の上の器を見つめていた。
身体が温かい。
魔力が戻っている。
立てる。
戦える。
生きている。
「これで自力帰還できるくらいには戻っただろ」
朔は後片付けをしながら言った。
黒皮鉄板の汚れを拭き、バーナーの火を落とし、調味料ケースをバックパックへ戻す。
手際が良すぎた。
まるで、ここが深層ボス部屋ではなく、ただのキャンプ場であるかのように。
「じゃあな」
「待ってください……!」
ソフィアは反射的に、朔の服の裾を掴んでいた。
朔が振り返る。
その目に、熱狂も、畏怖も、同情もない。
道端で腹を空かせた野良猫が、まだ餌皿を離さないのを見ているような、妙に平坦な眼差し。
その視線に、ソフィアはなぜか安心してしまった。
「お願いします」
自分でも驚くほど、必死な声が出た。
「明日も、これを作ってください」
「無理だ」
即答だった。
「俺は清掃と素材回収の裏方だ。あんたみたいなトップ探索者に付きまとわれたら、非正規作業がギルドにバレる。効率が著しく落ちる」
「今日のことは黙っています! だから、口止め料として――」
「今日の黙秘は、俺があんたを見捨てず、自力で帰還できるだけの魔力を提供したことへの対価だろ」
朔は淡々と言う。
「あんたが黙るのは当然だ。継続して食事を提供する理由にはならない」
「うぐっ……」
正論だった。
あまりに正論で、世界ランク上位のトップ探索者は何も言い返せなかった。
けれど。
それでも。
もう戻れない。
あのゼリーを飲む生活には、戻れない。
胃を荒らしながら、泥のような補給剤を流し込み、カメラの前では平気な顔をして戦い続ける毎日には。
絶対に。
「お願いします……」
ソフィアは朔の裾を握る手に力を込めた。
「私にできることなら、何でもしますから」
朔の動きが止まる。
彼は少しだけ考え込むように、空になったチタンどんぶりと、涙目のソフィアを交互に見た。
「……何でも、か」
「できることなら、ですけど」
「じゃあ、これならどうだ」
朔はしゃがみ込み、ソフィアと目線を合わせた。
「俺は新しい魔物肉の浄化レシピを試してる。ただ、味見役がいない」
「味見役……」
「普通の人間に食わせるには危ない。毒抜きが成功していても、魔力濃度が高すぎる場合がある」
「……それ、私なら大丈夫なんですか?」
「たぶんな」
「たぶん」
「世界ランク上位だろ。耐性はある。あと、反応が分かりやすい」
「分かりやすい……?」
ソフィアは自分の頬がまだ緩んでいることに気づき、慌てて口元を押さえた。
遅い。
完全に見られていた。
「条件がある」
朔は淡々と続ける。
「俺の存在をギルドやスポンサーに漏らすな。料理も配信に映すな。試作に使う魔物素材は、あんたの討伐ノルマのついでに持ってこい」
「素材……」
「できるだけ凍らせるな。肉質が死ぬ」
「私の戦い方、全否定じゃないですか」
「食材目線ではそうだな」
ひどい。
けれど、なぜか嫌ではなかった。
今まで誰も、氷室ソフィアにそんなことを言わなかった。
皆、彼女の氷を褒めた。
美しいと。
完璧だと。
最強だと。
けれどこの男は、世界が称賛する氷の魔法を、肉質が死ぬという理由で否定した。
「食事の提供と素材取引以外は、互いに干渉しない」
朔は最後の条件を告げる。
「それでいいなら、試作品を食わせる」
ソフィアは迷わなかった。
「やります」
「即答か」
「やります。だから……」
彼女は空になったどんぶりを抱えたまま、朔を見上げた。
「明日も、作ってください」
朔は小さく息を吐いた。
呆れたようにも、少しだけ笑ったようにも見えた。
「契約成立だな」
彼はポケットから小さなメモ帳を取り出し、一枚破る。
そこに住所らしきものを書きつけ、ソフィアへ差し出した。
「地上ゲート裏のアパート一階。表じゃなく裏口から来い」
「アパート……」
「素材を持ってこい。手ぶらなら飯は出さない」
「分かりました」
「あと、居座るな。食ったら帰れ」
「……努力します」
「努力じゃなくて守れ」
朔はバックパックを背負い直した。
その横顔は、やはりどこまでも平坦だった。
世界ランク上位のトップ探索者を救ったという自覚もなければ、氷の姫に懇願されたという興奮もない。
ただ、使い終わったギアの収まり具合と、次に試すレシピのことを考えている顔だった。
「それと」
朔は歩き出す前に、ふと思い出したように言った。
「次に魔豚を持ってくるなら、後ろ脚だ。脂と赤身のバランスがいい」
「……覚えておきます」
「凍らせるなよ」
「分かりました」
ソフィアが少しむくれた声を出すと、朔は今度こそ振り返らず、深層の暗がりへ歩いていった。
残されたソフィアは、手元のメモを見つめる。
地上ゲート裏。
古いアパート。
一階の裏口。
そこに行けば、またあの飯が食べられる。
そう思っただけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「ああ……」
完璧な氷の姫の顔など、もうどこにもなかった。
ソフィアは深層ボス部屋の冷たい床に座り込んだまま、だらしなく頬を緩める。
「私、もうゼリーには戻れないかも……」
その呟きは、誰にも聞こえていない。
はずだった。
だが、その夜。
氷室ソフィアの神秘的な勝利配信は、まったく別の話題に塗り替えられることになる。
――掲示板。
【悲報】氷の姫の配信、最後に謎の男の声が入る
1:名無しの探索者
なあ、最後の音声聞いた奴いる?
4:名無しの探索者
聞いた
なんか姫の息荒くなかった?
7:名無しの探索者
魔力切れっぽい感じはした
普通に心配
11:名無しの探索者
いやそれより問題はその後だろ
15:名無しの探索者
肉焼いてた
18:名無しの探索者
は?
22:名無しの探索者
深層で肉焼いてた
25:名無しの探索者
深層ボス部屋で?
29:名無しの探索者
たぶん
33:名無しの探索者
なんで?
38:名無しの探索者
知らん
でも「ZOTOの新作」って男の声が聞こえた
41:名無しの探索者
ダンジョン深層でキャンプ用品レビューしてる奴いて草
45:名無しの探索者
その後、氷姫が「美味しいです」って言ってないか?
49:名無しの探索者
言ってる
切り抜き上がってる
53:名無しの探索者
待て
氷の姫に深層で飯食わせた男がいるってこと?
59:名無しの探索者
しかも男の声で「凍らせるな。肉質が死ぬ」って言ってる
64:名無しの探索者
氷姫の戦闘スタイル全否定で草
71:名無しの探索者
いや笑い事じゃない
モンスター肉って食えないよな?
78:名無しの探索者
食ったら死ぬ
83:名無しの探索者
じゃあ何食わせたんだよ
91:名無しの探索者
検証班、出番だぞ
102:名無しの探索者
深層で肉を焼く謎の男、爆誕
世界ランク上位の氷の姫と、深層で肉を焼く謎の裏方男の噂は、本人たちの知らないところで静かに燃え広がり始めた。




