表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
26/27

氷の姫、恋を知る

「朔さん」


返事はなかった。


ソフィアは床に膝をついたまま、もう一度、朔の呼吸を確認した。


浅い。

けれど、止まってはいない。


首筋に当てた指には、速い脈が触れている。


「……大丈夫」


自分に言い聞かせるように呟く。


大丈夫かどうかを決めるのは、今ではない。


確認する。

判断する。

必要なら助けを呼ぶ。


ずっと朔にやられてきたことだった。


ソフィアは片手で朔の身体を支えたまま、端末を操作する。


探索者用の緊急医療窓口。


通話を繋ぎながら、視線だけで室内を確認した。


スミカゼ7。


炭はまだ赤い。

排気表示は青。

換気扇は動いている。


朔をその場に横たえ、首元を緩める。


火元から距離を取らせる。


床に落ちていた薄いタオルを拾い――やめた。


使用済みかもしれない。


棚を見る。


何度も来ている部屋なのに、こんな時に限って必要なものの場所が分からない。


「……朔さんなら、どこに置く?」


救急用品。


洗浄用品とは分ける。

食材からも離す。

濡れない。

取り出しやすい。


視線を巡らせる。


作業台の下。

赤い留め具の付いた小さなケースがあった。


開く。


体温計。

冷却材。

包帯。

消毒用品。

経口補水用のパック。


異常なほど整然と並んでいる。


「こういうところだけは、本当に……」


――言葉が止まった。


自分用にも、ちゃんと用意してある。


ソフィアは冷却材をタオルで包み、朔の首元に当てた。


端末の向こうから応答が来る。


状態を伝える。


一時的な意識消失。

高温階層での長時間作業。

食事量の低下。

水分摂取不足の疑い。


呼吸。

脈。

外傷なし。


聞かれたことに、一つずつ答えていく。


その途中、朔の眉がわずかに動いた。


「朔さん?」


瞼が開く。


焦点の合わない目が、天井を見た。


それから。


「……炉は」


ソフィアは一瞬、言葉を失った。


「そこですか?」


「炭……」


「排気は正常です。安全灯も青です。換気扇も動いています」


朔が小さく息を吐く。


「ならいい」


「よくありません」


声が、自分でも驚くほど低くなった。


朔が目だけを動かした。


「……何が」


「全部です」


「広いな」


「朔さん」


「聞こえてる」


「今、倒れました」


「らしいな」


「らしいな、ではありません」


端末越しに、意識状態を確認する声が聞こえた。


ソフィアは一度朔から視線を外し、必要な受け答えをする。


しばらく安静。


意識が再び落ちる。

強い吐き気や頭痛。

呼吸状態の悪化。

その他の異常が出れば、すぐに救急搬送。


朔は最後まで聞き、目を閉じた。


「寝れば戻る」


「その判断は今の朔さんには任せません」


「意識は戻った」


「倒れる直前まで、ご自分で問題ないと判断していた方の意見です」


朔が黙った。


ソフィアは少しだけ勝った気がした。


ただ、まったく嬉しくはなかった。


「水分は」


「飲んだ」


「どの程度ですか」


「……」


「朔さん」


「現場で少し」


「帰ってからは?」


「料理してた」


「質問の答えになっていません」


「食事中に水は置いてあっただろ」


「あっただけです」


ソフィアはテーブルを見る。


朔のコップ。

ほとんど減っていない。

どんぶりには、麦飯が残ったまま。


自分が渡した、一番焼き目のいい蒲焼きだけがなくなっている。


「睡眠は」


「今それを聞くのか」


「今だから聞いています」


「普通だ」


「時間を聞いています」


「……短かった」


「どの程度ですか」


朔が目を閉じたまま答えない。


ソフィアはじっと待った。


やがて。


「昨日は、準備が長引いた」


「つまり?」


「いつもより短い」


「つまり?」


「しつこいな」


「朔さんに教わりました」


朔が片目を開ける。


「何を」


「曖昧な報告を信用しないことです」


返事がなくなった。


ソフィアは胸の奥へ溜まっていた息を、ゆっくり吐いた。


熱い階層に長時間いた。


戻ってからも休まず大鯰を処理した。


水分も足りていない。

食事も途中で止まった。

睡眠も足りていない。


それでも、自分には蒲焼きを食べさせた。


甘めのタレまで作った。

一番焼き目のいいところを渡した。


「……人の食事には、あれだけ細かいのに」


「仕事だからな」


「私の睡眠にも細かいです」


「素材を壊されると困る」


「水分も」


「倒れられると困る」


ソフィアは朔を見た。


「では、朔さんが倒れると、私は困ります」


朔の目が開いた。


一瞬だけ、視線が合う。


何か言い返されると思った。


だが。


「……そうか」


それだけだった。


その返事が妙に素直で。


ソフィアの胸の奥が、少しだけ痛くなった。



しばらく休ませると、朔は自分で上体を起こせる程度には戻った。


立とうとした。


ソフィアが肩を押す。


「どこへ行くんですか」


「寝室」


「一人で?」


「五歩くらいだ」


「先ほど三歩で倒れました」


朔が止まった。


「数えてたのか」


「見ていましたから」


「もう歩ける」


「信用しません」


「何なら信用するんだ」


「今は私です」


言ってから。


少し変な日本語だった気がした。


だが訂正する暇はない。


ソフィアは朔の腕を自分の肩に回した。


「立てますか」


「自分で――」


「却下です」


「まだ何も言ってない」


「言おうとしていました」


朔は諦めたらしい。


ゆっくり立つ。

体重が肩にかかる。


思ったより重い。


当たり前だ。

普段は一人で立っている男性の重さなど、知る機会がない。


ソフィアは朔の腰に腕を回した。


体が思ったより近くて、ほんの少し、息が止まる。


でも今は、それどころではない。

そう思った。


本当に今は、それどころではなかった。


五歩ほど先の寝室まで進む。


「着きました」


「近いだろ」


「三歩よりは長かったです」


「まだ言うのか」


「今日は何度でも言います」


寝室の扉が開く。


ソフィアは足を止めた。


初めて入る場所だった。


台所兼作業場は、何度も見ている。


調理台。

ギア棚。

壁に並ぶ刃物。

自分のカトラリー。


どこに何があるのか、もういくつかは覚えている。


けれど、この扉の奥へ入ったことはない。


ベッド。

小さな机。

衣類用の収納ケース。

壁際には、古い金属棚。


驚くほど物が少なかった。


台所の方が、よほど朔の生活が見える。


「何だ」


肩に体重を預けたまま、朔が聞いた。


「いえ」


ソフィアは首を振る。


「ベッドまで行きます」


朔を座らせる。


ゆっくり横になったのを確認してから、薄い掛け物を腹の辺りまでかけた。


「寝ろ」


「私に言っていますか?」


「もう大丈夫だ」


「先ほども聞きました」


朔が顔をしかめる。


「帰れ」


「嫌です」


即答してから。


ソフィアは一瞬だけ止まった。


朔も見た。


「……意識を失った方を一人にはできません」


言い直す。


「さっきより理由が増えたな」


「必要な理由です」


「明日も仕事だろ」


「午後からです」


「なら寝ろ」


「ここで?」


今度は朔が止まった。


ソフィアも止まった。


「……そういう意味じゃない」


「分かっています」


「なら変な聞き方をするな」


「朔さんが変な言い方をするからです」


少しだけ、いつものやり取りが戻った。


それだけで、胸の奥の硬いものが少し緩んだ。


朔は目を閉じる。

呼吸が、先ほどより深くなっている。


ソフィアはベッド脇の椅子に座った。


端末で時間を確認する。


まだ帰るつもりはなかった。



部屋が静かになると、今まで見えなかったものが目に入った。


ベッド脇。

金属棚の一番下。

使い込まれた、古い救助用ハーネス。


現在の探索現場でよく見る型とは違う。


金具に細かな傷があり、ベルトの一部は何度も補修されている。


朔の仕事道具だろうか。


けれど、普段使っているバックヤード用装備とは少し違って見えた。


その横。


薄い書類ケースが数冊。


一つだけ、きちんと棚へ収まらず、少し斜めに差し込まれていた。


朔らしくない。


ソフィアは立ち上がる。


直すだけ。


そのつもりで手を伸ばした。


ケースを押し戻そうとすると、中から一枚の紙が滑った。


床に落ちる。


「……」


拾う。


古い紙だった。

角が擦れている。


紙の上部は、事故記録らしい様式になっている。


日付。

区画。

危険素材。

何人かの名前。


ただし。


所属を示す部分は、黒く潰されていた。


ソフィアの指が止まった。


端には、手書きの文字がある。


現在の朔の字より、少し荒い。


けれど。


見覚えのある字だった。


細かな数値。

切断位置。

搬送経路。


そして、一番下。


他より強い筆圧で短く。


『素材は廃棄。先に全員出す』


ソフィアは、その文字を見つめた。


似ている、と思った。


巨大な牛を相手にした時。

自分が素材を守ることへ集中しすぎた時。


朔は同じようなことを言った。


肉はまた獲れる。

危険なら全部壊せ。


ずっと変わっていないのだろうか。


――それとも。


変わらざるを得ない何かがあったのか。


紙の下には、まだ続きがある。

ケースの中には、何枚も入っている。


手を伸ばせば、もっと分かるかもしれない。


遠野朔が何者なのか。


なぜ、あれほど危険な素材に詳しいのか。


なぜ【純造分解(エクストラクト)】を使えるのか。


なぜ毒を自分の血へ入れたことがあるのか。


なぜ。


誰かの身体のことは、あれほど細かく見るのに。


自分のことだけは、あんなに雑なのか。


知りたい。


そう思った。


以前より、ずっと。


「……何してる」


声がした。


ソフィアは顔を上げる。


朔が目を開けていた。


視線が、ソフィアの手の紙に向かう。


「あ……」


隠す理由はない。


けれど、勝手に見たと思われるのは嫌だった。


「これ、棚から落ちました」


「そうか」


それだけだった。


怒らない。

取り上げようともしない。


ソフィアは紙を見る。


「少しだけ、見ました」


「ああ」


「これは」


聞きかける。


声が止まった。


朔はまだ、顔色が悪い。


少し戻ったとはいえ、今、この人はベッドの中にいる。


こちらから質問をすれば、たぶん答える。

答えたくなければ答えないだろう。


それでも。


弱っている時に、自分だけが知りたいことを聞くのは。


何か違う気がした。


ソフィアは紙をケースに戻し、きちんと端を揃える。


ケースを棚に収めた。


「何だ」


朔が聞く。


「聞かないのか、という意味ですか?」


「顔に書いてある」


「朔さんほどではありません」


「俺は顔に出ない」


「体調も出さないつもりだったようですが、出ていました」


「……」


ソフィアは椅子に戻る。


「今は聞きません」


「そうか」


「朔さんが、自分で話せる時に聞きます」


朔はしばらく天井を見ていた。


「話すとは言ってない」


「では、その時に断ってください」


「面倒だな」


「知っています」


目を閉じる。


それ以上、朔は何も言わなかった。



夜は、思ったより長かった。


朔は何度か眠り、何度か目を覚ました。


そのたびソフィアは体温を確認した。


水分も少量ずつ。


一気には飲ませない。


意識がはっきりしていることを確かめてから渡す。


「自分で飲める」


「どうぞ」


「持ってるだろ」


「確認してからです」


「何を」


「手元です」


「震えてない」


「今確認しています」


朔は諦めたようにカップを受け取る。


半分ほど飲む。


ソフィアはそれを見てから、ようやく息を吐いた。


「そんなに見るな」


「今日、同じことを言われました」


「今日?」


「……もう昨日でしたね」


時計を見る。


日付が変わっている。


「帰れ」


「先ほど聞きました」


「日付が変わった」


「だから何ですか」


「泊まる気か」


ソフィアの心臓が、一度だけ変な音を立てた。


「看病です」


「誰も違うとは言ってない」


「では、その言い方をやめてください」


「何の話だ」


本気で分かっていない顔だった。


ソフィアはカップを受け取り、テーブルに置いた。


その時。


朔の手に指が触れた。


冷たい。


思わず、手を取る。


指先を包む。


朔が見る。


ソフィアも、自分の手を見る。


いつの間にか。


握っていた。


「……何してる」


「温度を確認しています」


「手首でいいだろ」


「指先も確認項目です」


「俺の項目にあったか?」


「今、追加しました」


「勝手に増やすな」


「必要です」


朔の手は、自分の手より少し大きい。


料理をする手。

刃物を扱う手。

何度も自分の皿に、必要なものを置いてきた手。


今は、力を入れずにこちらへ預けられている。


離せばいい。


温度なら、もう分かった。


それなのに。


あと少し。

そう思った。


「……もう分かっただろ」


「まだです」


「何が」


すぐに、答えられなかった。


何を確認しているのか。

自分でも分からない。


「治療です」


苦し紛れに言った。


朔が眉を寄せた。


「そうか」


それ以上追及せず、また目を閉じる。


ソフィアは、しばらく手を離さなかった。



翌朝。


先に目を覚ましたのはソフィアだった。


いつ眠ったのか分からない。


椅子に座ったまま、ベッド脇に腕を置いていたらしい。


朔の手は、もう握っていなかった。


そこだけは少し安心した。

寝ている間まで握っていたら、さすがに言い訳が難しい。


カーテンの隙間から、薄い朝の光が入っている。


朔を見る。


呼吸は落ち着いていた。

顔色も、昨夜よりいい。


額に触れる。

熱はない。


ソフィアはようやく肩の力を抜いた。


そして。


腹が鳴った。


「……」


静かな寝室。

非常によく聞こえた。


だが、朔は起きない。

ソフィアは胸を撫で下ろす。


自分も、昨日かなり動いている。

当然の生理現象だ。


問題は、朔もほとんど食べていないことだった。


ソフィアは立ち上がり、台所へ向かう。


昨日の食器。

途中までしか片づけられていない調理器具。

冷蔵庫。


いつもなら、勝手に開ける場所ではない。


けれど。


今日は事情が違う。


「……失礼します」


誰にともなく言って、開ける。


中は、予想通りだった。


小分けされた保存容器。


日付。

素材名。

下処理。

加熱前。

加熱済み。

出汁。


食材のための棚なのか。


人間のための冷蔵庫なのかも分からない。


奥に、小さな容器が二つあった。


夜潮貝(よしおがい) 処理済』


その下。


『出汁』


ソフィアは容器を取り出した。


夜潮貝。


暗い水辺階層に棲む二枚貝型の魔物。


以前、朔が資料を広げていたのを見たことがある。


普通なら殻の内側へ瘴気が溜まり、火を通した瞬間に苦味と毒が身へ回る。


『処理済み』と書いてある。


なら、危険な部分は朔が終わらせている。


自分が触っていい範囲だ。


さらに冷蔵庫を見る。


炊いた麦飯。

刻んだ生姜。

葱。


ここまで揃っていると、何を作れば良いか、なんとなく分かった。


「お粥……」


米を炊くことはできる。

簡単なスープも作った。


なら。


たぶん。

できる。


ソフィアは小鍋を出した。


どれを使うか少し迷う。


一番小さい鍋。

一人分なら、これ。


出汁を入れる。

次に水。


手が止まった。

どの程度。


ソフィアは計量カップを取った。


出汁の量を測る。

水も同量。


一ミリリットル単位まで合わせようと――


「そこまで合わせなくていい」


背後から声がした。


ソフィアが振り返る。


寝室の扉口に、朔が立っていた。


「何をしているんですか」


「トイレ」


「では、終わったら戻ってください」


「俺の家だぞ」


「知っています」


「何してる」


朔の視線が鍋へ移る。


「朝食です」


「誰の」


「朔さんのです」


一拍。


朔が冷蔵庫の方を見る。


容器。

麦飯。

出汁。


夜潮貝。


「勝手に使ったのか」


ソフィアの肩がわずかに固くなる。


「……駄目でしたか」


朔が鍋を見る。


「いや」


短い。


「それはもう処理済みだ。使える」


少しだけ安心した。


「寝ていてください」


「何作る」


「お粥です」


「作れるのか」


「今から作ります」


「答えになってない」


「作れるかどうかは、完成後に分かります」


「嫌な理屈を覚えたな」


朔は寝室へ戻らず、壁へ寄りかかった。


ソフィアは眉を寄せる。


「座ってください」


「立てる」


「昨日も聞きました」


「今日は四歩歩けた」


「更新しないでください、そんな記録」


朔は仕方なさそうに椅子に座った。


ソフィアは鍋へ向き直る。


出汁。

水。

麦飯。

弱火。


木べらを入れる。


混ぜる。

混ぜる。


「触りすぎるな」


「焦げませんか」


「その火なら焦げない」


「ですが」


「米が潰れる」


手が止まる。


木べらを置く。


数秒。

気になる。


鍋を見る。

まだ触らない。


さらに数秒。

蓋に手を伸ばす。


「開けるな」


ソフィアの手が止まった。


「まだ何もしていません」


「今しようとした」


「確認です」


「音を聞け」


「音?」


耳を澄ます。


小さく。


こと、こと、と。


出汁が煮える音。


先ほどより穏やか。


「沸騰させすぎるな。出汁の香りが飛ぶ」


ソフィアが火を少し落とす。


「この程度ですか」


「少し弱い」


戻す。


「ここ」


「そうだ」


「……難しいですね」


「火力を数字でしか見てないからだ」


「朔さんが温度を数字で測れと言いました」


「肉の話だ」


「料理によって違うんですね」


「全部同じなら鍋一つで済む」


朔の声は、昨日より少しだけ掠れている。


でも、戻ってきている。


その事実だけで、ソフィアは妙に嬉しかった。


しばらく煮る。


麦飯の粒がほぐれ、

出汁に薄いとろみがつく。


蓋を開ける。


貝の香り。

潮のような、濃い旨味。

けれど嫌な磯臭さはない。


生姜がそこへ少しだけ鋭さを足す。


最後に、夜潮貝の身。


「これは最初から入れないんですか」


「硬くなる」


「どの程度?」


「温まればいい」


「時間は」


「見ろ」


「また感覚ですか」


「身の縁が反る前」


ソフィアは真剣に鍋を見た。


柔らかな貝の身。

白っぽかった表面に、少しだけ艶が出る。


「今」


朔が言った。


ソフィアは火を止めた。


「塩は」


「入れなくていい」


「まだ味見をしていません」


「昨日の状態なら薄い方がいい」


「ですが、美味しくないかもしれません」


朔が見る。


「誰のために作ってる」


「朔さんです」


「なら今の俺に合わせろ」


ソフィアは黙った。


それは、何度も聞いた言葉だった。


胃が荒れているなら脂を落とす。

仕事前なら重くしない。

冷えているなら先に温める。

魔力が足りていても、指が震えているなら別のものを出す。


美味しい物を作るのではない。


その時。

その人に必要なものを。

美味しく食べられる形にする。


ずっと朔がやっていたことだ。


ソフィアは塩に伸ばしかけていた手を戻した。


「分かりました」


器を温める。

お粥をよそう。


最後に、細く刻んだ葱をほんの少し。

白い湯気が上がる。


派手な料理ではない。


昨日の蒲焼きとは正反対だった。


焦げた醤油も。

甘いタレも。

炭火の香ばしさもない。


柔らかな麦飯。

薄く白濁した貝の出汁。

生姜。


それだけ。


ソフィアは器を持ち上げる。


「どうぞ」


朔が器を受け取る。


「……ありがとな」


「はい」


それだけの言葉なのに。

ソフィアは、なぜか少しだけ姿勢を正した。


朔はそんなことには気づかず、匙でお粥をすくった。


息を吹きかける。


一口。


ソフィアは、じっと見ていた。


「どうですか」


「薄い」


瞬間、胸が沈んだ。


「塩を足します」


「いらない」


立とうとしたソフィアの手が止まる。


朔がもう一口食べる。


「今はこれでいい」


「……本当ですか」


「嘘ついてどうする」


「気を遣っている可能性があります」


「誰に」


「私に」


「ない」


即答だった。


「もう少し考えてください」


「ない」


三口目。


朔はゆっくり食べる。


昨日のように、途中で止まらない。


匙が器に戻る。

またすくう。

飲み込む。


そのたび、ソフィアの肩から、少しずつ力が抜けていく。


「体調は」


「まだ食ってる途中だ」


「途中の確認です」


朔は一度、息を吐いた。


「昨日よりは楽だ」


たったそれだけで。


胸の奥に詰まっていたものが、一気にほどけた。


「……よかった」


声は、思ったより柔らかく出た。


朔が顔を上げる。


ソフィアは、自分がどんな顔をしているのか分からなかった。


ただ、笑っている気がした。


蒲焼きを食べた時とは違う。

霞羽鴨の一番香ばしい皮をもらった時とも違う。

世界初の素材を壊さず抜けた時とも違う。


自分が何かを得たわけではない。


それなのに。


朔が、自分の作ったものを食べている。

それで少し楽になったと言った。


それが、どうしようもなく嬉しい。


「何だ、その顔」


聞き覚えのある言葉だった。


「通常です」


「通常より嬉しそうだぞ」


少し前にも、同じことを言われた。


一番焼き目のいい蒲焼きを朔に渡して、それを食べた朔が「美味い」と言った時。


自分が食べた時より嬉しかった。

あの時は、美味しいものを美味しいと言ってもらえたからだと思った。


――本当に?


不意に、いくつもの記憶が浮かんだ。


初めて、温かいどんぶりを渡された日。

自分専用のカトラリーを見つけた日。

危険なら素材なんて全部壊せ、と言われた日。


そして――呼んでも返事がなかった、昨夜。


怖かった。


食事が作れなくなるからではない。

素材を見てもらえなくなるからでもない。

探索に必要だからでもない。


ただ。


遠野朔が目を開けないことが、怖かった。


過去の記録を見つけた時も、何があったのか知りたい気持ちより先に、今は眠ってほしいと思った。


起きて。

水を飲んで。

元気になってほしかった。


そして今。


朔がもう一度、匙を口に運ぶ。


器の中のお粥は、もう半分も残っていない。


それを見るだけで、嬉しい。


最初は、食べさせてもらいたかった。

それだけだったはずなのに。


今は、この人に食べてほしい。


今日だけではない。

明日も。

その次も。


この部屋で、いつも通り。


薄いとか。

触りすぎるなとか。

言ってほしい。


その時間の中に、これからも自分がいたい。


もう、別の名前で誤魔化す方が難しかった。


「……ああ」


声が漏れた。


朔が匙を止める。


「何だ」


ソフィアは答えられなかった。


食事でもない。

仕事でもない。

契約でもない。


それはもっと単純で、ずっと厄介なものだった。


――私は。


朔さんに恋をしている。


理解した瞬間。


昨日まで普通だった狭い部屋が、急にさらに狭くなった。


ソフィアは向かいに座る朔を見る。


昨日までと何も変わらない。


少し掠れた声。

寝不足の残る目元。

匙を持つ指。


さっきまで普通に見ていたはずなのに。


急に、全部が近い。


ソフィアは慌てて視線を逸らした。


「おい」


「……はい」


「顔が赤いぞ」


心臓が跳ねた。


「赤くありません」


「赤い」


「調理の熱です」


「火はもう消えてる」


「では、寝不足です」


「体温測れ」


「必要ありません」


朔がテーブルの向こうから手を伸ばす。


額に触れようとして。


ソフィアは反射的に身を引いた。


朔の手が止まった。


「何だ」


「……自分で測れます」


「さっきまで人の体温を勝手に測ってただろ」


「状況が違います」


「何が」


「違うんです」


「説明になってない」


できるわけがなかった。


ほんの数時間前まで、何も考えずに握っていた手なのに。


今、額に触れられたら。


たぶん本当に熱が出る。


ソフィアは体温計を自分で取った。


朔は納得していない顔のまま、お粥に匙を戻す。


いつもと同じだった。

何一つ変わっていない。


遠野朔は昨日までと同じ距離にいる。


変わってしまったのは。


氷室ソフィアの方だった。



【考察】氷姫の非公開技術協力者を特定せよ


31:名無しの探索者

名前なし

顔なし

所属なし

情報なさすぎる


37:名無しの探索者

氷姫があそこまで徹底して隠してる相手なのはちょっと気になる

まさか恋人とかじゃないよな?


42:名無しの探索者

普通に仕事相手だろ


49:名無しの探索者

その仕事相手が来てから

戦い方変わって素材回収率上がって世界初まで行ってるんですが


56:名無しの探索者

やっぱ肉質が死ぬ男なんじゃね?


61:名無しの探索者

お前らいつまでその男を擦るんだよ


68:名無しの探索者

でも最近の氷姫、確かに前よりちょっと楽しそうじゃね?


――世界はまだ知らない。


その誰も名前を知らない男の部屋で。


氷の姫が。


初めて、恋を知ったことを。

ここまでお読みいただきありがとうございます!

少しでも「面白い」「続きが読みたい」と思っていただけましたら、画面下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にし、リアクションや感想を書いて応援していただけると、作者の最大の魔力回復(励み)になります!

合わせて【ブックマークに追加】もぜひよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ