氷の姫、大鯰の蒲焼きを半分にする
氷室ソフィアの端末が、また震えた。
【速報――焔鰭大鯰の蓄熱浮袋、世界初の無損傷回収に成功】
【海外研究機関、共同研究を正式打診】
【素材関連企業、寒冷階層用装備への転用に期待】
【非公開の技術協力者は抽出にも関与したのか】
どれも、探索者産業の行方を変えるかのような見出し。
災害用の保温材。
寒冷階層用の探索服。
長時間にわたって熱を保つ、次世代の魔力装備。
これまで誰にも抜けなかった蓄熱浮袋が、世界を変えるかもしれない。
ソフィアは速報を最後まで読み、端末の向こうに置かれた、皮付きの白身へ目を移した。
遠野朔のアパート。
狭い調理台には、ギルドから検証用サンプルとして受領した焔鰭大鯰の背身が置かれていた。
六メートルを超える巨体から切り出された肉は、サンプルという言葉に似合わないほど大きい。
灰褐色の皮。
その下にある、半透明の厚いゼラチン層。
白身は淡く艶を帯び、指で押せばゆっくりと形を戻した。
「横でニュースを読んでいても、魚は焼けない」
朔が言った。
「見ています」
ソフィアは答えた。
「ニュースをか」
「こちらもです」
朔が顔を上げた。
ソフィアの視線は、端末ではなく白身へ向いていた。
「どっちにしろ、見るだけでは焼けない」
「火を入れるのは朔さんの担当です」
「なら邪魔するな」
「邪魔はしていません」
ソフィアは調理台の前から半歩だけ下がった。
半歩だけだった。
朔は何か言いかけたが、諦めたように手袋をつけた。
「朔さん」
「何だ」
「先ほど、現場で私を名前で呼びましたね」
手袋を引き上げていた朔の指が止まった。
「危険域にいたからな」
「それまでは一度も呼ばなかったのに」
「緊急時は、確実に通じる呼び方を使う」
「では、これからも名前で呼んでください」
朔は白身へ視線を戻した。
「必要がない」
「平常時に呼び慣れていなければ、いざという時に遅れる可能性があります」
「さっきは遅れてない」
「一度だけでは、再現性を確認できません」
「運用試験にするな」
「それに、私だけが朔さんと呼んでいるのは、呼称として非対称です」
「気にするところか」
「気になります」
「そうか」
ソフィアは引かなかった。
「では、もう一度呼んでください」
「……料理の邪魔をするな」
「呼ばれれば、すぐに退きます」
朔は黙った。
ソフィアも動かなかった。
数秒後。
朔は白身と、調理台の正面を塞いでいるソフィアを交互に見た。
「……ソフィア」
「はい」
返事は、驚くほど早かった。
「調理台から離れろ」
ソフィアは即座に二歩下がった。
それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「問題なく反応できました」
「邪魔だったから退かしただけだ」
「理由は問いません。今後もこの運用でお願いします」
「今のは一回だ」
「一回目ですね」
「数えるな」
朔は白身へ向き直った。
ソフィアは椅子へ向かいかけ、途中で足を止めた。
白身ではなく、朔の手元を見守れる位置へ立ち直る。
密閉容器から大鯰の身を取り出し、朔が厚い皮へ指を滑らせた。
表面には、ぬるりとした膜が残っている。
刃を寝かせ、皮を傷つけない角度で膜だけを削いだ。
刃の前へ、薄く濁った粘液が集まっていく。
「それが瘴気ですか」
「瘴気を溜める膜だ」
朔は刃先を拭った。
「このまま焼けば、皮下の脂と一緒に身へ回る。苦くなるだけならまだいい」
「毒も?」
「入る」
ソフィアが白身からもう一歩離れた。
「動きが速いな」
「食べる前に死ぬ可能性は避けます」
「正しい」
朔は皮の端を持ち上げた。
皮下には、ゼラチン質を縫うように細い赤い筋が走っている。
大鯰が高温の水中で蓄えた熱と魔力の残り。
蓄熱浮袋ほど密度は高くない。
だが、普通の魚の血管とは違い、死後もわずかな熱を持っていた。
朔がメスを入れた。
白身を傷つけず、赤い筋の周囲だけを細く開く。
「純造分解」
淡い光が、皮の裏側を滑った。
赤い筋から濁りだけが浮き上がり、小さな容器へ落ちる。
熱を含んでいた筋は色を薄め、白身から鉄を焦がしたような臭いが消えた。
代わりに残ったのは、脂の甘い匂いだった。
ソフィアの喉が、小さく動いた。
「まだ食えないぞ」
「何も言っていません」
「喉が言ってる」
「高温階層で乾燥しただけです」
「水は」
「飲みました」
ソフィアが答えた。
朔は頷き、自分の作業へ戻った。
今度はソフィアが聞いた。
「朔さんは?」
「何が」
「水分です」
「作業前に飲んだ」
「どの程度ですか」
「俺の確認は必要ない」
「私だけ確認されるのは不公平です」
朔は答えず、切り分けた白身へ布を被せた。
ソフィアはその横顔を見た。
いつもどおりに見える。
短く整えられた黒髪。
無駄のない手元。
刃を置く位置も、使い終えた布を畳む順番も変わらない。
ただ、作業台から手を離すまでに、ほんの一拍だけ長くかかった気がした。
疲れているのだろうか。
「座っていろ」
朔が言った。
「私も作業を――」
「今日はもう十分やっただろ」
高温の水路を制御し。
六メートルを超える巨体を、傷つけずに浅瀬へ運び。
最後には魚体内部へ水を通し、浮袋の位置まで戻した。
ソフィアの脚には、まだ鈍い重さが残っている。
「問題ありません」
朔が椅子を引いた。
「飯を食うまでが今日の作業だ。座れ」
「……はい」
ソフィアは素直に座った。
戦いが終わったあとまで。
朔が組んだ今日の予定には、自分へ食事を出すところまで含まれている。
それが嬉しいと認めるのは少しだけ悔しかったが、緩んだ口元までは隠せなかった。
「何だ、その顔」
「夕食が確定したので」
「最初から作ると言っただろ」
「確定の再確認です」
朔は呆れたように息を吐いた。
◇
朔は処理を終えた白身を金属トレーへ並べると、換気扇を強にした。
窓を開け、調理台脇の耐熱台へ丸い炉を置く。
七輪を一回り小さくしたような、黒い室内用炭火調理炉――スミカゼ7。
外側は金属。
内側には厚い耐熱陶壁が二重に入り、その隙間を細い空気の通り道が巡っている。
炭から出た煙と不完全燃焼ガスを内壁へ引き込み、高温の空気へ通して再燃焼させる構造だった。背面の排気口は、壁の換気ダクトへ接続されている。
朔が側面の安全灯を確認すると、表示が青く点灯した。
それから、着火した炭を炉の中央へ移した。
最初は小さな炎が上がる。
やがて表面へ白い灰が浮き、炭の奥だけが赤くなった。
炉の下部から取り込まれた空気が陶壁の隙間を抜け、炭の赤みを静かに強めていく。
「七輪ですか」
「似たようなものだ」
「煙は大丈夫なんですか」
「脂を一度に落とさなければな。余った煙は内壁で焼いて、外へ逃がす」
朔は答えながら、大鯰の皮へ浅い切れ目を入れた。
一本。
間隔を揃えて、もう一本。
皮だけを断ち、白身へは届かせない。
「何のためですか」
「皮が縮んで反る」
「押さえればいいのでは?」
「身から水が抜ける」
「なるほど」
短いやり取りの間にも、刃は止まらない。
厚く切られた白身が、二人分。
その横には、さらに数枚。
「多くありませんか」
「全部は食わない。焼いた後で残す」
「焼いた後で?」
「明日以降の試作に使う」
ソフィアは小さく頷いた。
明日以降も、大鯰がこの部屋に残る。
その事実だけで、今日の成功に「続き」ができたような気がした。
朔は表面の水分を丁寧に拭き取った。
薄く塩を振り、幅の広い平串を白身へ二本ずつ通す。
皮と身の間を縫うように。
厚い白身を潰さず、焼いている間に崩れない位置を選んでいく。
「串が二本必要なんですね」
「一本だと回る」
「回ると?」
「皮だけ火へ落ちる」
「それは困ります」
「だから二本だ」
朔は炉の上へ串を渡した。
最初は炭から距離を取り、皮目を下にして、遠火でゆっくり熱を入れる。
すぐには音が出なかった。
白身の縁がわずかに締まり、皮の切れ目から透明な脂がじわりと浮く。
一滴。
炉の内側へ落ちる。
じゅっ、と小さな音を立て、白い煙が上がった。
魚の脂を含んだ煙が皮と白身を薄く包み、すぐに陶壁の内側へ吸い込まれる。
また一滴。
今度は炭の表面で小さな炎が立った。
朔は串を持ち上げ、火が落ち着く位置へ数センチずらす。
炎はすぐに消え、赤い炭だけが残った。
ちり。
ちり、と。
皮が焼ける音が重なっていく。
灰褐色だった皮が、少しずつ濃い色へ変わった。
皮下のゼラチン質が熱でほどけ、その間から透明な脂が滲み出す。
「いい匂いです……」
「皮を焼いてるだけだ」
「前も同じことを言っていませんでしたか」
「霞羽鴨の時だろ」
「皮を焼いている時点で美味しそうなのは、共通しています」
「腹が減ってるだけだ」
「それも共通しています」
「まぁ、そうだな」
炉の端では、短く切った岩実コーンが串に刺されていた。
硬い皮を持つ、地中階層産のとうもろこし。
表面へ薄く油を塗り、炭の弱い側で何度も回す。
黄色い粒の一部へ焦げ目がつき、甘い香りが立ち始めた。
大鯰の脂。
焼けた皮。
とうもろこしの甘み。
換気扇へ吸われ切らなかった匂いが、狭い部屋を満たしていく。
ソフィアは無意識に、椅子から立ち上がっていた。
「近い」
「火からは離れています」
「俺の手元に近い」
ソフィアは足元を見た。
確かに、最初にいた場所からかなり前へ出ている。
「調理工程の確認です」
「座れ」
「名前で言っていただければ、より確実に反応できます」
朔が見た。
ソフィアも静かに待った。
「……ソフィア、座れ」
「はい」
ソフィアはすぐに椅子へ戻った。
先ほどよりも、明らかに機嫌がよかった。
「二回目です」
「作業の邪魔をした回数か」
「名前で呼ばれた回数です」
朔は串を返した。
皮が炭から離れる。
ぱり、と乾いた音がした。
皮目には、濃い褐色の焼き目。
切れ目の中央から、透明な脂が小さく弾ける。
身側は、皮よりも炭から離して焼いた。
白身の表面がゆっくり乳白色へ変わり、厚い中心がふっくらと膨らんでいく。
近火で急がず、串の高さと角度を変えながら、白身の厚み全体へ時間をかけて熱を通す。
「まだですか」
「まだだ」
「先ほどから、かなり焼いています」
「厚さがある」
「少し薄く切れば、早かったのでは?」
「薄くすると、食った時にほどけすぎる」
「ほどけすぎる」
「蒲焼きは飯と食う。身が残った方がいい」
麦飯と。
ソフィアは炊飯器の方を見た。
蓋の小窓から、白い湯気が上がっている。
米へ麦を混ぜ、少し硬めに炊いている。
甘いタレを吸っても、粒が潰れないように。
まだ食べてもいないのに。
すでに美味しい理由が組み上がっていた。
◇
炉から、焼いていた身が一度外された。
朔は中央へ小さな五徳を置き、その上へ小鍋を乗せる。
醤油と酒とみりん。
砂糖。
焼いてから短く煮出した、大鯰の骨の出汁。
炭の熱で、鍋の縁から小さな泡が立った。
木べらで混ぜるたび、さらりとしていた液体が少しずつ重くなる。
酒の鋭い香りが抜け、代わりに甘い醤油と魚の出汁が残った。
朔は小さな匙でタレをすくった。
「味を見ろ」
ソフィアが瞬いた。
「私がですか?」
「他に誰がいる」
差し出された匙を受け取り、息を吹きかける。
一口。
醤油の塩味。
みりんの丸い甘さ。
最後に、大鯰の骨から取った濃い旨味が残る。
ソフィアはもう一度、舌の上で確かめた。
「……美味しいです。少し、甘めですね」
「嫌か」
「いいえ」
答えてから、以前、朔に好みを聞かれた時のことを思い出した。
肉の煮込みを前に、少し甘い方が好きだと答えた。
「私が甘めを好きだからですか」
朔は鍋の火加減を見た。
「今日、一番食うのはあんただ」
「それは、答えになっていますか?」
「なってる」
朔はタレを煮詰めた。
ソフィアは、空になった匙を持ったまま黙った。
何気なく伝えた好みを、朔の手が覚えていた。
長かった一日の最後に、自分だけが分かる小さなご褒美を、もう一つ置いてもらったような気がする。
ソフィアは笑いそうになる口元を隠すように、空になった匙をそっと置いた。
「もう一度、舐める気だっただろ」
「確認が不十分かと思いまして」
「十分だ」
◇
【世界初、焔鰭大鯰の蓄熱浮袋、無損傷回収! 技術協力者は何者?】
31:名無しの探索者
抽出映像を公開してくれ
34:名無しの回収班
無理だろ
危険素材の処理手順だぞ
39:名無しの探索者
氷姫の技術協力者がやったってことでいいのか?
43:名無しの回収班
戦闘は氷姫
抽出は保全班と非公開協力者
ってことだろ
47:名無しの探索者
存在公表した直後に世界初は出来すぎだろ
52:名無しの回収班
逆だ
世界初をやれる人間が、今まで隠れてた方がおかしい
56:名無しの探索者
だから何者なんだよ
◇
世界が、姿の見えない技術協力者を引き続き探している頃。
その男は、煮詰めた甘いタレを大鯰へ塗っていた。
小鍋を炭から外す。
再び串を、炉の上へ渡した。
刷毛をタレへ浸す。
白身の表面を一度。
串を返して、皮にも一度。
余ったタレが炉の内側へ落ちた。
ジュッ、と音が爆ぜる。
甘い醤油が焦げ、魚の脂を含んだ煙が立ち上がった。
煙は大鯰の表面を薄く撫で、そのまま陶壁の内側へ吸い込まれていく。
ソフィアの背筋が伸びた。
朔はもう一度、タレを塗った。
焼き固めた表面へ新たな層が重なり、醤油の色が濃くなって、白身に照りが生まれる。
三度目は、串を炭へ近づけた。
砂糖とみりんが焦げる寸前で薄い膜を作り、大鯰の脂を表面へ閉じ込める。
皮の端が小さく泡立った。
白身の表面には濃い照り。
タレが炭へ落ちるたび、甘く焦げた香りが新しく立ち上がった。
焼けた皮。
甘いタレ。
白身から落ちる脂。
そのすべてが混ざった匂いに。
ソフィアの腹が鳴った。
はっきりと。
狭い部屋で、誤魔化せない程度に。
朔の手が止まった。
ソフィアは何もなかったように端末を持ち上げた。
「世界初のニュースが更新されました」
「そうか」
「海外の研究機関からも――」
「腹の方が大きかったぞ」
「高温階層での魔力消費による、正常な生理反応です」
「言い訳が長い」
「事実です」
朔は串を炉から外した。
ソフィアからはよく見えなかったが、少し笑っていたような気がした。
「なら食えるな」
「はい」
やはり返事だけは、驚くほど早かった。
◇
麦飯が、二つのどんぶりへ盛られた。
その上に、厚い蒲焼き。
串を抜かれ、皮目を上にして置かれた身は、どんぶりの端から端まで届いている。
焦げたタレが、白身の表面で艶を放っていた。
仕上げに、鍋のタレを細く一筋。
麦飯の粒の間へ、濃い茶色が染み込んでいく。
隣には、岩実コーンの炭火焼き。
粒の一部は黒く焦げ、塩だけが薄く振られていた。
「いただきます」
ソフィアは箸を持った。
まず、麦飯には触れなかった。
蒲焼きの端。
白身だけを一口分、切り取る。
表面のタレには、わずかな粘りがある。
箸を入れた瞬間。
皮が、ぱり、と鳴った。
その下にあるゼラチン質は、熱を含んで柔らかい。
さらに箸を進めると、白身が大きくほどけた。
口へ運ぶ。
最初に来たのは、焼けた醤油だった。
香ばしい。
少し甘い。
その直後、皮の内側に残ったゼラチン質が、とろりと舌へ触れた。
脂は濃い。
けれど、重くない。
柔らかな白身を噛むと、澄んだ肉汁と一緒に、大鯰そのものの旨味が溢れた。
魚の身なのに、味が淡くない。
獣肉に似た力強さがある。
それでいて、後へ残る香りは水辺のように澄んでいた。
わずかに立った脂の煙が、皮の奥に薄く残っている。
焦げたタレだけではない。
薪火とも鉄板とも違う、炭火の香り。
噛むほどに、その香ばしさが白身の甘さを押し上げた。
「……っ」
ソフィアの肩が揺れた。
飲み込む。
熱が胃へ落ちる。
地熱水路で身体の内側へ残った、刺すような熱。
氷の制御を繰り返した魔力経路の重さ。
長時間踏ん張り続けた脚の張り。
それらが、温かな食事に押し流されるように緩んでいく。
熱を足されているのに、身体の奥はむしろ落ち着いていった。
乱れていた血の流れが揃い、魔力の通り道に残っていた熱が、少しずつ均される。
「どうだ」
「……おかしいです」
朔の眉がわずかに動いた。
「何が」
「美味しすぎます」
「感想が雑だな」
「まだ整理できていません」
ソフィアは二口目を取った。
今度は、麦飯と一緒に。
甘いタレを吸った麦飯は粒立ちを失わず、噛めば麦のぷつりとした弾力が返ってくる。
ふわりとほどける白身。
ねっとりした皮下の脂。
そこへ、麦の歯ごたえが入る。
噛むたび、焦げた醤油と魚の旨味が、もう一度口の中に広がった。
「……これです」
「何が」
「麦飯と食べる理由が分かりました」
「最初から意味があると言ってる」
「聞くのと食べるのは違います」
三口目。
四口目。
箸が止まらない。
大鯰を少し。
麦飯を多めに。
タレの染みた場所を選び、そこへ皮付きの身を乗せる。
世界中が、無損傷で回収された浮袋へ価値をつけている。
だが、今のソフィアにとって最も価値があるのは、その浮袋を壊さず抜いたからこそ残った、どんぶりの上の白身だった。
「タレを、もう少し」
朔が見た。
「身を食え」
「麦飯にも必要です」
「配分を考えろ」
「考えた結果です」
「後半、身だけ余るぞ」
「その時は、さらに麦飯を追加します」
「最初から増やす前提で話すな」
そう言いながらも、朔は小さな匙でソフィアの麦飯へタレを少しだけ足した。
本当に、少しだけ。
ソフィアはその場所を見失わないよう、慎重に箸を入れた。
岩実コーンを、一粒かじる。
薄い皮が弾け、中から強い甘みが出た。
焦げた部分には、わずかな苦味。
蒲焼きの濃いタレの後に食べると、口の中が軽くなった。
そして、また蒲焼きへ戻る。
「コーンも必要です」
「口を休めるために焼いた」
「蒲焼きを、より多く食べるために?」
「体力を戻すためだ」
「結果としては同じです」
朔は諦めたように、自分のどんぶりへ箸を入れた。
ソフィアは食べながら、その様子を見た。
いつもなら、朔は食べ始めるのが遅くても、一度座れば一定の速度で食べる。
だが今日は、箸が進まない。
大鯰を一口。
麦飯を少し。
それから、水へ手を伸ばさずに箸を置いた。
「朔さん」
「何だ」
「美味しくありませんか?」
「味は問題ない」
「では、なぜ止まっているんですか」
「火入れを確認してる」
「食べ終わってからでも確認できます」
「食いながら分かる方が多い」
もっともらしい答えだった。
けれど、朔のどんぶりには、まだ半分以上の麦飯が残っている。
コップの水も減っていない。
「そんなに見るな」
「見ていません」
「箸が止まってる」
「味わっています」
「さっきまでと速度が違う」
「観察範囲が広すぎます」
「それはこっちの台詞だ」
朔がもう一口食べた。
ソフィアは、それを確認してから自分の箸を動かした。
◇
最後に。
保存分を除いた蒲焼きが、一切れだけ残った。
他より大きい。
皮の焼き目も濃く、タレの照りも一番いい。
ソフィアの視線が、そこへ止まった。
朔が箸ではなく、包丁を取った。
中央へ刃を入れる。
皮が、ぱり、と割れた。
二つに分かれる。
朔は少し大きい方を、ソフィアのどんぶりへ置いた。
「大きさが違います」
「今日使った体力が違う」
「朔さんも長時間作業をしていました」
「俺は戦ってない」
「世界初の素材を抜きました」
「魔力は使ってない」
「集中力と体力は使っています」
「食えば戻る量が違う」
朔は小さい方を、自分のどんぶりへ乗せた。
特別扱いではない。
消費した分を、必要な側へ置いただけ。
朔はそういう顔をしている。
少し前なら、ソフィアはそのまま受け取っていただろう。
一番香ばしい部分を。
一番大きな身を。
必要だからと渡されたものを、嬉しく思いながら食べていた。
だが、ソフィアは自分のどんぶりへ置かれた蒲焼きに、すぐには口をつけなかった。
皮の中央。
炭火の焼き目が最も濃く、タレが薄く泡立って固まった場所。
先ほど口にした端の部分より、明らかに香ばしそうだった。
ソフィアは少しだけ迷い、その部分が入るように、蒲焼きへ箸を入れた。
中央から、もう一度分ける。
皮が割れ、白身が二つにほどける。
焼き目の濃い方を持ち上げた。
崩さないように運び、朔の麦飯へ置く。
朔が少し驚いたようにソフィアを見た。
「どうした」
「朔さんの分です」
「それはあんたの分だ」
「私の分をどう分けるかは、私が決めます」
「その理屈を蒲焼きに使うな」
朔が箸で戻そうとする。
ソフィアは、朔のどんぶりに置いた蒲焼きを自分の箸で軽く押さえた。
「そこが一番よく焼けています」
「だから渡した」
「十分いただきました」
「まだ食えるだろ」
「食べられます」
即答したあと、ソフィアは焼き目の濃い蒲焼きを見た。
「ですが、朔さんにも食べていただきたいです」
言い切ってから、少しだけ視線を逸らす。
「私だけがいつも一番いいところを食べるのは、なんだか落ち着きません」
朔はしばらく蒲焼きを見た。
それから、少し面倒そうな顔で箸を持つ。
ソフィアが選んだ蒲焼きを口へ運んだ。
ぱり、と。
よく焼けた皮が鳴る。
朔が噛み、飲み込むまで、ソフィアは何も食べずに待っていた。
「どうですか?」
朔が見た。
「何が」
「そこです。一番よく焼けていた部分です」
「……美味い」
短い返事だった。
それでも、ソフィアの口元がわずかに緩んだ。
自分が食べた時よりも、少しだけ満足そうに。
「その顔は何だ」
「通常の顔です」
「通常より満足そうだぞ」
「蒲焼きが美味しいので」
「またそれか」
朔はそれ以上追及しなかった。
二人のどんぶりには、同じ一切れから分けた蒲焼きが乗っていた。
それだけだった。
ソフィアは残りの蒲焼きを口へ運んだ。
甘い。
香ばしい。
それにさっきまでより、少しだけ美味しく感じた。
◇
ソフィアが食事を終えても、朔の麦飯はまだ残っていた。
「朔さん」
「分かってる」
「水も減っていません」
「片付けてから飲む」
「食事は?」
「もういい」
朔は椅子を引いた。
その前に一度、長く、静かに息を吐いた。
ソフィアは箸を置いた。
「私が洗います」
「座ってろ」
「戦闘は終わっています」
先ほど朔に言われた言葉を返す。
朔はテーブルへ手をついて立ち上がった。
一瞬だけ、手のひらへ体重を預ける。
「朔さん?」
「何だ」
声はいつもどおりだった。
朔はソフィアの空いたどんぶりを手に取り、流しへ向かった。
一歩。
二歩。
三歩目で、足が止まった。
どんぶりが、わずかに傾く。
朔の右手が作業台を探ったが、届かない。
膝から、力が抜けた。
「――朔さん!」
ソフィアは床を蹴った。
倒れかけた身体の下へ滑り込み、片腕を朔の胸へ回す。
もう片方の手で、後頭部を支えた。
手を離れたどんぶりの下へ、薄氷が走る。
器は氷の上を滑り、低い音を立てて止まった。
ソフィアは朔の身体だけを、ゆっくりと床へ下ろした。
「朔さん。聞こえますか」
返事がない。
呼吸は浅い。
首へ指を当てると、脈は速かった。
ソフィアは朔の頬へ触れた。
指先が、冷たさに強張る。
高温水路から戻ったばかりの人間の温度ではなかった。
「朔さん」
もう一度、呼ぶ。
焦げた醤油。
甘いタレ。
炭火で焼けた魚皮。
先ほどまで美味しいだけだった匂いが、急に息苦しいほど部屋へ満ちていた。
世界中は今も、姿の見えない技術協力者を探している。
何者なのか。
どんな技術を持つのか。
次に何を変えるのか。
―――しかし、その男は今。
蒲焼きの残る食卓のすぐ横で、ソフィアの腕に支えられていた。
呼んでも、返事がない。
遅れて、ソフィアの指先が震えた。
それでも、朔を支える腕は緩めなかった。
身体を抱き直し、もう一度、呼吸を確かめる。
それから、床へ膝をついたまま端末へ手を伸ばした。
驚くのも、怖がるのも、理由を考えるのも後でいい。
今は、この人を助ける。
「朔さん」
返事はなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
更新が予定より遅れてしまい大変申し訳ありません…!
少しでも「面白い」「続きが読みたい」と思っていただけましたら、画面下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にし、リアクションや感想を書いて応援していただけると、作者の最大の魔力回復(励み)になります!
合わせて【ブックマークに追加】もぜひよろしくお願いいたします!
次回も、2日後頃に更新予定です。




