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氷の姫、世界初の挑戦に立ち会う

『三秒』


ソフィアの左手が、静かに下がった。


三枚の氷板が、水面の下へ伸びる。


巨大な壁ではない。

薄く、長く、斜めに傾いたまま、水路の底近くまで届く。


焔鰭大鯰が押し出した高温水が、一枚目へ乗った。


轟音。


正面へ進んでいた水が持ち上がる。

二枚目に受け渡され、左右へ分かれる。

三枚目が、残った流れを脇の分岐へ押し出した。


大鯰の前から。

水だけが、消えた。


『二秒』


六メートルを超える巨体は止まらない。

赤熱した背鰭が蒸気を裂き、浅瀬へ迫る。


ソフィアの右手が返る。


大鯰の後方。

尾が水を蹴る、その一点から氷が走った。

尾の両側にあった水が、斜めの氷に押し上げられる。


大鯰が尾を振る。

だが、蹴り出された水は後方へ押し返されず、左右へ散った。


大鯰は加速できない。


もう一度、尾が振られる。

今度は水面を叩く音だけが響いた。


『一秒』


浅瀬の底を、白い氷が駆け抜けた。

大鯰の進路へ沿って伸びる、幅広の氷床。

入口は水底とほとんど変わらない高さ。


そこから回収地点へ近づくにつれ、緩やかにせり上がっている。


大鯰の腹が、その上へ乗った。


触れた場所から水が沸き、氷と魚体の間に白い蒸気が噴き出す。


巨体が氷床の上を滑った。


尾が水を失い。

先ほどまでの速度だけを残したまま、浅瀬の中央へ進んでいく。

氷床の両端がわずかに持ち上がり、大鯰の身体を左右から支えた。


魚体は傾かず、何にもぶつかることなく、氷の坂を上るにつれ、滑る速度だけが落ちていく。


やがて。


背中を上に向けたまま。

大鯰の巨体が、回収地点の中央で静かに止まった。


『氷の道を作った!?』


『あの巨体が滑って止まったぞ』


『壁にぶつけるんじゃなくて、止まる場所まで運んだのか』


『最後まで一度も魚体が跳ねてない』


『置いたみたいだったぞ』


大鯰の長い髭が、浅瀬の表面を叩く。


水流を探している。


だが、どこにも泳ぐための深さがない。


尾を振っても、身体は動かない。


ソフィアが一歩、踏み出した。


右手の指先に、一本の氷が生まれる。


細い。

短い。


配信ドローンの映像では、光の筋にしか見えないほどの氷針。


同時に大鯰が頭を持ち上げる。


開いた口の奥で、橙色の魔力光が膨らんだ。


ソフィアの腕が動く。


氷針が蒸気を裂いた。


硬い頭蓋を避け。

その後方。

脳幹と脊髄が接続する一点へ、真っ直ぐに入る。


大鯰の口から、熱い息だけが漏れた。


尾が一度、氷床を擦る。


―――それきりだった。


赤く輝いていた背鰭が、ゆっくりと暗くなる。


身体は凍っていない。

皮膚にも、目立った傷はない。

ソフィアは大鯰から目を離さず、呼吸と反射を確認した。


「対象の討伐を確認しました」


『終わった!?』


『最後の一撃、小さすぎて見えなかった』


『魚体に氷ついてないぞ』


『止めるところから仕留めるところまで静かすぎる』


『あの巨体を暴れさせずに締めたのか』


『どれだけ精密な一撃だよ』


ソフィアは氷針を消した。


配信ドローンが、傷のない大鯰の全身を映していく。


その間に、素材保全班が浅瀬へ走った。


温度記録タグが魚体の背へ貼られる。


班長が計測画面を見る。


「体表温度、規定範囲内。急激な低下はありません」


別の班員が、頭蓋後部の傷を確認する。


「損傷は脊髄接続部のみ。浮袋周辺への冷気反応なし」


討伐は成功している。


だが。


温度分布を映していた画面に、警告色が浮かんだ。


本来、背骨の中央に並ぶはずの高温反応が、右側へ大きく寄っている。


「蓄熱浮袋が移動しています」


班長の声が低くなる。


「最後に身体を捻った影響か」


魚体の右側だけが、わずかに膨らみ始めている。


蓄熱浮袋は、魚体の姿勢を調整するため、背骨の下にある鞘の中を動く。


大鯰が最後に尾を振った時。

内部の浮袋も右へ滑った。


それを聞いたソフィアは、浅瀬へ視線を落とした。


水は膝下ほどの深さしかない。


大鯰の右側へ入り、魚体を押し戻せば、姿勢を直せる。


一歩、足を踏み入れる。


探索靴の周囲から、白い蒸気が上がった。


「氷室さん、待ってください!」


班長の声が飛ぶ。


だが、魚体の傾きは少しずつ大きくなっている。


このまま右へ倒れれば、浮袋の重さが偏る。


ソフィアはもう一歩、進んだ。


死んだはずの大鯰の鰓蓋(さいがい)が。

その時、一度だけ持ち上がった。


鰓の奥。

細い隙間に、橙色の光が走る。


流量計の前にいた朔が、最初に気づいた。


魚体の右側へ寄った熱が、喉元へ逆流している。


『ソフィア、離れろ!』


通信機から、初めて大きな声が飛んだ。


ソフィアは考えなかった。

浅瀬を蹴り、後方へ跳ぶ。


直後。


大鯰の口と鰓から、真っ白な蒸気が噴き出した。


甲高い音。

高温の蒸気が、先ほどまでソフィアの立っていた場所を横切る。

対岸の遮熱板へ直撃し、金属の表面が一瞬で赤く染まった。


ソフィアは岸へ片膝をついた。


耳の奥には、まだ朔の声が残っている。


指示の内容ではなく。


朔に初めて呼ばれた、自分の名前が。


『立てるか』


続いた声は、いつもの低さへ戻っていた。


「はい。問題ありません」


『脚は』


「蒸気には触れていません」


『なら岸から動くな』


「ですが、魚体が傾いています」


『浮袋はまだ持つ』


朔の返答は速かった。


『あんたが入る必要はない』


ソフィアは一度だけ、流量計の前にいる黒い人影を見た。


耐熱防護フード。

全面式のマスク。

朔の表情は、どこにも見えない。


それでも。


今の呼び方だけは、聞き間違いにしないことにした。


この案件が終わったら。


絶対に聞いてみよう。


「分かりました」


ソフィアは立ち上がる。


両手を、大鯰の左右にある水路へ向けた。


「右側を閉じます」


『一気に閉じるな。半分』


右側の岩壁から、板状の氷がせり出す。


流路を横切るように伸び、流れの半分だけを塞いだ。


「半分です」


『左を開けろ。魚体の下だけ通す』


左側に残していた氷壁へ、細い亀裂が走る。

ソフィアが指を動かすと、亀裂の下側だけが剥がれ落ちた。


生まれた隙間を、水が通る。

両側から伸びた氷の縁に沿い、細く絞られた流れが、大鯰の腹の下へ入った。


巨大な魚体が、わずかに浮く。


ソフィアは右手の指を一本ずつ閉じていく。

それに合わせ、右側を塞ぐ氷板が少しずつ厚くなる。


流れが細くなり。

左側の氷の溝を通った水が、魚体を中央へ押し戻す。


温度分布の赤い反応が動く。


右から。

中央へ。


班員が画面を見つめた。


「戻っています」


『あと少し』


朔の声が耳元へ届く。


ソフィアは左手をわずかに上げた。


魚体の下へ水を導いていた氷の縁が、少しだけ角度を変える。


流れが背中側へ抜け。

大鯰の背が水平になる。


「中央です」


『そこで止めろ』


左の隙間が氷で閉じる。


流れが消える。

魚体は腹ばいのまま。

蓄熱浮袋を上に向けた状態で、浅瀬へ安定した。


安全管理担当者が、配信担当へ合図を送る。


「討伐工程完了。素材抽出工程へ移行します」


配信ドローンが上昇した。


回収区画を囲う耐熱タープが、画面の外へ消えていく。


配信映像は、浅瀬を封鎖する氷壁と、待機する搬送車両へ切り替わった。


画面中央に、白い文字が表示される。


【素材抽出中】


その下に、小さな注意書きが続く。


【作業映像および音声は、安全管理上の理由により公開されません】


『ここから見られないのか』


『過去の実証、失敗したのは全部この先だぞ』


『討伐成功でもまだ半分ってこと?』


『抽出中の表示が怖すぎる』


『前回はこの後に緊急退避が出て終わった』


視聴者に見えるのは、動かない氷壁だけ。


―――しかしその向こう。


耐熱タープの内側では、全員が動いていた。


素材保全班長が、大鯰の腹側を確認した。


「通常手順で腹部から開きます。消化管を左へ避けて、背骨の下へ――」


「待て」


朔が魚体の右側へしゃがみ込む。


耐熱グローブをした手で、厚い皮膚へ触れた。


指を数センチずつ動かしていく。


「腹から入れば、胆嚢(たんのう)が先に当たる」


「位置は事前画像で確認しています」


「それは生きてた時だ」


朔は温度記録タグを指す。


「浮袋はまだ右へ寄ってる」


班員が計測画面を拡大した。


「中央へ戻ったのでは?」


「大きい方だけだ。後ろが残ってる」


魚体の右側。

皮下のゼラチン層が、呼吸のない身体の中で小さく震えている。


朔は指を止めた。


「右へ二十二センチ」


班長が、魚体と画面を交互に見る。


計測器が示しているのは、高温域の大まかな範囲だけだった。


二十二センチという数字までは、どこにも出ていない。


「数値まで分かるんですか」


「皮の張りがここで変わる」


朔の指が、わずかに膨らんだ場所を押す。


滑走鞘(かっそうしょう)が縮んでる。腹から開けば、浮袋へ当たる前に胆嚢を潰す」


班長は、その指先を見つめた。


自分はこの、世界でも指折りの探索者ギルドで、危険素材の回収を任されてきた。


大型魔物の解体に立ち会った数なら、百では足りない。


失敗した過去の焔鰭大鯰も。

破裂後の魚体も。

回収された組織の断面も、すべて見ている。


だが。


死後に移動した浮袋の位置を、皮膚へ触れただけで二十二センチと断定した人間など、一人も見た事がなかった。


班長が計測器を魚体へ押し当てる。


探査範囲を狭め。

角度を変え。

もう一度測る。


遅れて表示された浮袋後方部の位置は。


朔が指を置いた場所と、ほとんど重なっていた。


班長の視線が、計測器から朔の手へ移る。


「では、もう一度姿勢を調整しますか」


「魚体は動かすな。中だけ戻す」


朔はソフィアへ通信を開いた。


『左から、もう一度水を入れられるか』


「量は?」


『さっきの三分の一。尾側から』


ソフィアの指先が動く。


耐熱タープの外。

魚体の後方に残していた氷壁へ、小さな穴が開く。

穴の内側から伸びた氷が、水路の底へ斜めに刺さった。


流れがその表面へ当たり、向きを変える。

細く整えられた水だけが、大鯰の尾側から腹の下へ入った。


大鯰の身体は動かない。


内部だけで、重い液体がゆっくりと移動する。


温度分布の赤い影が、背骨の下へ重なった。


「中央へ戻りました」


班員の声が上がる。


朔は魚体へ当てた手を離さない。


数秒待つ。


もう一度、皮下の張りを確認する。


『止めろ』


ソフィアが指を閉じる。


水を通していた穴が、再び氷で塞がれた。


「ここから開きますか」


班長が尋ねる。


「先に圧を抜く」


朔は大鯰の鰓蓋(さいがい)を持ち上げた。


奥にある厚い膜へ、短い刃を入れる。

切れ目は数センチ。


そこから、白く薄い管を引き出した。

熱を持ち、脈打つように膨らんでいる。


圧調節管。


朔は先端へ接続具を固定し、耐熱ホースをつないだ。

ホースの先は、隔離容器へ伸びている。


班員が圧力計を見る。


針は、警告域の手前まで上がっていた。


「バルブを開きます」


「まだ早い」


班員の手が止まる。


「圧力は上限に近づいています」


「外側だけ上がってる」


朔はホースへ手を添えた。


グローブ越しに伝わる振動を確かめる。


「中の液が動いてない」


誰も声を出さない。


圧力計の針は上がり続けている。


一秒。

二秒。

ホースが、ごく小さく震えた。


魚体の背中側にあった膨らみが、ゆっくりと形を変える。


朔が顔を上げる。


「今。半目盛り」


班員がバルブを回す。


しゅう、と。


高温の蒸気がホースの中を走った。

隔離容器の圧力計が跳ねる。


「止めろ」


バルブが閉じられる。


「内部圧、まだ高いです」


「液がまた寄る。待て」


朔は魚体を見る。


計器ではなく。

皮膚の膨らみ。

圧調節管の張り。

ホースから返る細かな振動。


「次。一目盛り」


再び蒸気が抜ける。


一度に出さない。


魔力液が流れた分だけ。

浮袋の膜が戻った分だけ。

少しずつ圧力を逃がしていく。


班長は、圧力計と朔の手を交互に見ていた。


警告が出るより先に止め。


計器の針が落ち着くより先に、次の変化を読む。


何を根拠にしているのか。

どこまで見えているのか。


分からない。


ただ。


朔が「今」と言った瞬間だけ、内部の魔力液が確実に動いていた。


三度目の減圧が終わった時。

警告域に近づいていた針が、規定範囲へ落ちた。


班長が数値を確認する。


「内部圧、安定しました」


朔はホースを外さないまま、鰓の付け根へ刃を当てた。


「血を抜く。左を先に締めろ」


班員がクランプを取る。


「左右同時ではなく?」


「右を締めると浮袋がまた滑る」


「分かりました」


左側の血管が止められる。


朔が、反対側の太い血管へ刃を入れた。


暗赤色の血液が流れ出す。

残っていた心臓の動きが、血を外へ押し出していく。

耐熱タープに作られた溝を通り、血液は回収容器へ流れた。


水路には一滴も入らない。


朔は血の色と流れる速さを見る。


「今、右を締めろ」


クランプが閉じられる。


流れが止まる。


「背中側へ移る」


班長と班員が魚体を回り込む。


朔は、用意していた細長いフィレナイフを取った。


刃は薄く。

押せば、わずかにしなる。


大鯰の背中へ、刃先が入る。


切れ目は短い。


班員の一人が、その範囲を見る。


「そこだけで浮袋まで届きますか」


「届かせる」


朔は刃を寝かせた。


厚い皮膚の下へ滑らせる。

刃先が、皮下のゼラチン層へ入った。

透明に近い脂と体液が、切れ目からにじむ。


朔の手は速くない。


数ミリ進み。

止まる。


角度を変え。

また進む。


目で内部を確認できるほど、魚体は開かれていない。


それでも刃は迷わなかった。


硬い皮。

弾力のあるゼラチン層。

薄い筋膜。

血管。

触れてはいけない浮袋の膜。


刃へ返ってくる抵抗が変わるたび、朔の指がわずかに動いた。


班長には、その差が見えない。


刃先は肉の中にある。

筋膜も血管も、まだ外からは見えていない。


それなのに朔は、次に何があるのかを知っているように刃を止める。


「吸引、ここ」


班員が管を差し入れる。


「角度を下げろ。膜に当たる」


管が数ミリ下げられる。


濁っていた切開部から体液が抜け、内部が見え始めた。


管のすぐ上。


あと数ミリ進めていれば触れていた位置に、薄い膜があった。


班員の手が止まる。


朔には、見える前から分かっていた。


班長は何も言わなかった。


言葉にすれば、かえって理解できなくなる気がした。


照明を向ける。


「吊り膜を確認しました」


白く薄い組織が、筋膜の奥を走っている。


班員が先端の小さな(はさみ)を入れた。


朔のナイフの背が、その手を止める。


「切るな」


「吊り膜では?」


「圧調節管の枝だ」


班長が拡大鏡を寄せる。


細い管は、周囲の膜とほとんど同じ色をしている。


「ここで枝分かれする記録はありません」


「この個体はしてる」


朔は管の先ではなく、根元を指した。


「走る向きが違う。切れば後房だけ膨らむ」


班長が照明の角度を変える。


そこで初めて。


薄い管が、浮袋の後方へ続いていることが見えた。


記録にはない。

事前画像にも映っていない。


切開して、照明を当て、拡大して。

それでも見落としかけた個体差を。


朔は魚体を開く前から、当然のように避けていた。


班長は拡大鏡から目を離した。


目の前にいるのは、登録上は外部の技術協力者。


所属も。

経歴も。

これまで何をやってきた人間なのかも、知らされていない。


だが、その手は。


世界でも指折りの素材保全班が蓄積してきた記録より、今ここにある一体の魔物を深く理解している。


意味が分からなかった。


「クランプ」


朔が手を出す。


班員が、小さなクランプを渡した。


枝管を潰さない位置で止める。


その横を、フィレナイフが通った。

筋膜だけが分けられていく。


切開部の奥。

淡い橙色の光が見えた。


誰も声を出さなかった。


薄い膜の向こうに、熱を帯びた魔力液が揺れている。


蓄熱浮袋。


表面に傷はない。

周囲の血管も、ほとんど残っている。


班員が切開部を見つめたまま呟く。


「本当に、背中側から……」


「この切開幅で、枝管まで残したのか」


別の班員の声が続く。


「探査画像にも映っていなかったんだぞ。どうやって……」


―――浅瀬から少し離れたタープの入口で、ソフィアはその声を聞いていた。


自分が褒められているわけでもないのに、背筋が少しだけ伸びる。


でも口元まで緩ませるのは違う気がして。


代わりに、ほんの少しだけ顎を上げた。


朔はフィレナイフを置き、魚体の横に組んでいた搬送フレームを近づける。


「布を入れる。持ち上げるな」


二人の班員が、浮袋の下へ布を通す。


「右を二センチ下げろ」


布の端が下がる。


「そこで止めろ。左は引くな。押し込め」


浮袋へ触れないよう。


魚体との隙間へ、布だけを滑らせていく。


やがて、蓄熱浮袋の全体が布へ載った。


重量は、人の腕ではなくフレームへ預けられている。


朔が接続部を見る。


「後ろの吊り膜から切る」


班員が刃を入れる。


「次、左の蓄熱血管」


クランプ。

切断。


「右はまだだ」


浮袋の位置を確認する。


「圧調節管」


接続していたホースを外し、根元を二重に止める。


「右の血管」


一つずつ。


切るたびに。


浮袋がどちらへ傾くか。

魔力液がどちらへ動くか。

布のどこへ重さがかかるか。


朔はすべて確認してから、次を指示した。

素材保全班は、その指示に従って動いた。


世界でも最高水準の訓練を受けてきた者たちが。


無名の一人の男が、次に何を見るのかを待っている。

誰一人、そのことを不自然とは思わなくなっていた。


最後の吊り膜だけが残る。


「切ります」


「待て」


朔は布の端を引いた。


浮袋が数ミリ、中央へ動く。


フレームの脚が、小さく軋んだ。


「今」


最後の膜が切られた。


浮袋が魚体から離れる。


誰も持ち上げていない。

誰の腕にも、重さはかかっていない。


蓄熱浮袋は布の上に載ったまま、静かにフレームへ収まった。


「ケースを」


耐熱タープの入口にいたソフィアが動く。


厚い耐熱グローブを着けたまま。

留め具に、手をかける。


一つ目。

二つ目。

三つ目。


最後の留め具も、一度で外れた。


重い蓋を片手で支える。


素材保全班が、フレームごと浮袋をケースの横へ寄せる。


内部の支持具が引き出される。


浮袋は布に載せたまま、ケースの中へ滑り込んだ。


底には触れない。

壁にも当たらない。


朔が位置を確認する。


「あと三センチ奥」


支持具が動く。


「止めろ」


固定具が閉じられる。


朔は浮袋の表面へ光を当てた。


漏れはない。

傷もない。


圧力計を確認。

温度計を確認。


「閉めろ」


ソフィアが蓋を下ろす。


一つずつ、留め具を戻していく。


最後の留め具が鳴った。


金属音が、耐熱タープの中へ短く響く。


班長がケース側面の分析表示を見る。


表面損傷。

なし。


魔力液漏出。

なし。


内部圧力。

規定範囲。


温度変化。

許容値以下。


数秒間。


誰も言葉を発しなかった。


班長が、もう一度最初から表示を確認する。

隣の班員も、再確認の為に自分の端末で同じ数値を開いた。

安全管理担当者が、ダメ押しでケースの検査口へ別の計測器を接続する。


三つの画面に。


同じ結果が並んだ。


班長の唇が、わずかに動く。


「……蓄熱浮袋の抽出を完了」


声が一度、詰まった。


「損傷は、ありません」


耐熱タープの中で、誰かが息を呑んだ。


過去の回収実証は、すべて失敗している。


他国の研究機関も。

競合する大手ギルドも。

専用の設備を持ち込んだ素材企業も。


誰一人、焔鰭大鯰の蓄熱浮袋を完全な状態で抜くことはできなかった。


安全管理担当者が、震える指で結果を送信する。


しばらくして、通信機へ本部の声が届いた。


『過去の国内外記録との照合を完了』


普段なら感情を挟まない報告が、一度途切れる。


『蓄熱浮袋の無損傷抽出を確認しました』


短い呼吸。


そして。


『世界初です』


ソフィアの胸にも、遅れて喜びが広がった。


けれど、驚きはしなかった。


朔なら抜く。

最初から、そう思っていた。


だから彼女の視線は、世界初の素材を収めたケースから、早くも浅瀬に残る大鯰の身へ移りつつあった。


今夜の食卓に。

あの巨体が、どんな姿で並ぶのか。


―――耐熱タープの外。


タープ内を確認した案件責任者が出てくると、待機していたギルド職員たちが一斉に顔を上げた。


案件責任者が目を閉じる。


素材保全班の一人が、声にならない息を吐いた。


世界三位の探索者を抱え。


数え切れない大型討伐を成功させてきたギルドが。


今日初めて。


戦闘ではなく、素材回収の技術によって世界記録へ名を刻んだ。


「……やった」


誰かが、小さく呟いた。


その一言を合図にしたように。

タープの外から大きな歓声が上がった。


安全管理担当者は、記録画面へ承認を入れた。


配信中の画面には、まだ同じ文字が表示されている。


【素材抽出中】


『長くないか』


『警報は出てない』


『出てないのが逆に怖い』


『今までなら、もう結果が出てる時間だぞ』


『頼むから成功してくれ』


その時、画面が暗転した。


白い文字が消える。


数秒後。


新しい表示が現れた。


【世界初・素材抽出成功】


続いて、その下へ結果が追加される。


【焔鰭大鯰・蓄熱浮袋】

【損傷なし】

【温度/内圧・規定範囲内】


コメント欄が、一瞬止まった。


何十万もの視聴者が。


表示された文字の意味を、同時に読み直したかのような空白だった。


直後。


画面を埋め尽くす勢いで流れ始める。


『世界初!?』


『待て待て待て』


『無損傷って本当に完全な状態ってことか?』


『世界で初めてなのかよ』


『今まで研究機関も企業も全部失敗してた素材だぞ』


『氷姫のギルド、とんでもない実績取ったぞ』


『討伐から抽出まで事故ゼロってどうなってる』


『映像が切れてる間に世界初を達成するな』


『あの技術協力者、何者なんだよ』


『氷姫が一度も傷つけずに止めて、画面の外の誰かが一つも傷つけずに素材を抜いた』


『このギルド、素材回収の歴史まで変えたぞ』


『回収の作業を見せてくれ』


『見せられない人間が世界記録を作ったの、怖すぎる』


配信に映っているのは。


閉じられた温度保持ケースだけだった。


蓄熱浮袋を抜いた手も。

使われた刃も。

短い指示を出し続けた男も。


映っていない。


それでも。


これまで世界中で一度も変わらなかった失敗の記録が。


今日初めて、成功へ書き換えられた。


―――耐熱タープの内側。


班長は、魚体に残された小さな切開部を見ていた。


腹部は開かれていない。

胆嚢も、消化管も傷ついていない。

浮袋の周囲にあった膜や血管まで、素材として利用可能な状態で残されている。


普通なら、浮袋へ到達するために切り捨てる組織だった。


目の前の男は。


浮袋だけを抜いたのではない。

それ以外の素材まで、壊さずに残している。


班長は、これまで自分たちが使ってきた標準手順を思い浮かべた。


安全性も。

再現性も。

積み重ねた経験もある。


決して、間違った技術ではない。


だが。


今日の魚体を前にした朔は。


標準手順では拾えない個体差を読み。

記録にない枝管を見抜き。

計器が追いつくより先に内部の変化を捉え。


世界中が失敗してきた素材を、傷一つなく抜いてみせた。


どこで覚えたのか。

何体の魔物を見れば、ここまで分かるようになるのか。


そもそも。


これほどの人間が、なぜ今まで誰にも知られていなかったのか。


考えても。


一つも答えが出なかった。


「今回の手順を、保全班の記録へ残したい」


朔はケースの固定具を確認していた。


「残せばいい」


「世界初ですので、協力者名も記載させて頂きます」


「要らない」


「ですが、手順の考案者として――」


「次に抜く時、俺の名前を読んでも浮袋は抜けない」


朔は最後の固定具を引いた。


緩みはない。


「順番と数値だけ残せ」


班長は、朔の全面マスクをしばらく見た。


世界初の成果を出した直後だというのに。


声も。

動きも。

何一つ変わっていない。


まるで、壊さずに抜けたことが快挙ではなく。


素材を扱うなら当然だとでも言うように。


「分かりました」


蓄熱浮袋が、ケースごと搬送区画へ運び出される。


安全管理担当者。

案件責任者。

素材保全班。


誰もがケースを見ていた。


朔だけが、浅瀬へ戻る。


残された焔鰭大鯰の魚体へ手を当てた。


背中側。

腹側。

厚い皮下のゼラチン層。


指で押し、戻り方を見る。


ソフィアが隣へ立つ。


「何か、問題がありますか」


「ない」


「では、何を確認しているんですか」


朔は大鯰の背身を押した。


柔らかな白身が、指を離すと元の形へ戻る。


「身も潰れてない」


ソフィアの視線が、六メートルを超える魚体へ落ちる。


「つまり?」


「蒲焼きにする」


「何人前ですか」


「……そこから聞くな」


―――その夜


【探索者掲示板】


1:名無しの探索者

配信で世界初って軽く表示されてたけど、とんでもないニュースだぞ


2:名無しの探索者

焔鰭大鯰の蓄熱浮袋、今まで一度も完全な状態で抜けてないんだろ?


6:名無しの回収班

国内だけじゃなく海外の研究機関も失敗してる


9:名無しの探索者

それを討伐から抽出まで事故なしで成功させたのか


16:名無しの探索者

氷姫のギルド、素材保全分野でも世界記録取ったぞ


18:名無しの探索者

戦闘映像は見た。あれだけ綺麗に止められたから抽出まで繋がったんだろうな


22:名無しの回収班

問題は映像が切れた後だろ


25:名無しの回収班

例の技術協力者、存在を公表した直後に世界初はさすがに出来すぎてる


26:名無しの回収班

せめて人間かどうかだけでも教えてくれ


27:名無しの回収班

そこから疑うなw


夜が更けても、掲示板の勢いは落ちなかった。


そして各国では、研究者が速報を共有し。

素材企業の株価が動き。

ギルドの広報部門には、記録映像と抽出手順を求める問い合わせが殺到した。


焔鰭大鯰の蓄熱浮袋が、初めて傷一つない状態で地上へ運ばれる。


世界が知っているのは、そこまでだった。



配信が終了し掲示板が盛り上がり始めた頃。


隔離施設へ向かう蓄熱浮袋とは別に、焔鰭大鯰の魚体では検証用サンプルの切り分けが進んでいた。


身。

皮。

骨。


朔は切り出された背身を指で押し、戻ってくる弾力を確かめた。


「この範囲なら研究用として持ち帰れるそうだ」


ソフィアが、密閉容器へ収められていく白身を見る。


六メートルを超える魚体から切り出されたそれは、検証用という言葉では済まないほど大きい。


「すべて、今日使うのですか」


「使わない分は下処理して保存する」


「では、今日使う分は?」


「皮付きで持って帰る」


朔は背身の厚さを見ながら答えた。


「脂が落ちる。蒲焼きにするなら皮が要る」


ソフィアは小さく頷いた。


世界初の素材が運び出された時より、少しだけ真剣な顔で容器の中を見る。


「麦飯はありますか」


「ある」


「タレは?」


「帰ってから作る」


「骨の出汁も入れますか」


「……まだ調理も始まってないのに、どんどん先へ行くな」


「確認しているだけです」


世界中が、傷一つなく回収された蓄熱浮袋に沸いていた。


誰が抜いたのか。

どんな技術を使ったのか。

その価値が、探索者産業をどう変えるのか。


数え切れない人々が、その答えを求めている。


けれど、世界はまだ知らない。


歴史的快挙のすぐ隣で。


氷の姫と謎の技術協力者が、浮袋ではなく、その本体の身を夕食へと持ち帰る相談をしていたことを。


そしてその氷の姫はもう、世界初の素材より。

今夜の蒲焼きにかかるタレの量を気にしていたことを。

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