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23/27

氷の姫、耳元で作戦を合わせる

「例の技術協力者、本当に来るらしいぞ」


声を潜めたつもりでも、静かな準備区画ではよく響いた。


地熱水路階層へ降りるための前線拠点。


耐熱服を着込んでいた素材保全班員が、私物端末をロッカーへ収めながら隣を見る。


「会見で発表された、非公開の?」


「そう。回収区画まで入る」


「所属は」


「聞くなって説明されたばかりだろ」


二人の横で、素材保全班長が耐熱グローブの留め具を締めた。


「手を動かせ。対象は焔鰭大鯰だ」


低い声に、班員たちが口を閉じる。


作業台の端では、過去の実証映像が無音で流れていた。


水路を暴れ回る巨大な魚体。

拘束杭が脇腹へ突き刺さる。

大鯰は岩壁へ激突し、動きを止めた。


直後。


魚体の背中が、内側から膨らんだ。

皮膚が弾け大きな爆発が起きる。

噴き出した高温の魔力液が耐熱タープを持ち上げ、映像を白い蒸気で塗り潰した。


別の記録では、魚体に傷をつけず、周囲の水温を急激に下げていた。


大鯰の動きは鈍った。

成功したように見えた数秒後、背中側の魔力反応が大きく揺れた。

映像が乱れる。


最後に映った白身は、泥のように崩れていた。


どちらも蓄熱浮袋は回収不能。

周辺素材も全損。


班員の一人が、閉じたロッカーへ手を置いたまま呟く。


「氷室さんの戦い方を変えた人なんですよね」


「素材保全の助言者だとは聞いている」


班長は映像を止めた。


「だが、助言だけで浮袋が抜けるなら、俺たちも苦労していない」


口調は冷静だった。


何度も失敗してきた人間ほど、期待を声には出さない。


安全管理担当者が全員を見回す。


「現場への私物端末、個人用カメラの持ち込みは禁止。外部協力者の個人情報に関する質問も認めません」


「顔も見られないんですか」


「全面防護装備を着用します」


「ずいぶん厳重ですね」


安全管理担当者は、少しだけ間を置いた。


「氷室ソフィアが、正式な手続きを踏んでまで同行させる人物です」


準備区画が静かになる。

大手ギルドの技術者なのか。

過去の大型討伐に関わった人間なのか。


そこまでして素性を伏せる理由は何なのか。


けれど。


焔鰭大鯰の無損傷回収に、もう一度挑む理由にはなった。



「動くな」


「自分で直せます」


「見えてないだろ」


隣の個別準備室で、氷室ソフィアは椅子へ座らされていた。


探索服へ着替え、銀髪を後ろでまとめたところまでは問題なかった。


問題は、ギルドから貸与された骨伝導通信機だった。


耳の後ろへ当てる受信部に、細い髪が数本挟まっているらしい。


鏡を取ろうとしたところで、遠野朔に止められた。


朔の指が、ソフィアの髪を耳の後ろへ避ける。


指先が耳の縁へ触れた。


ほんの一瞬。


必要な作業でしかない。


それでも、ソフィアの肩へわずかに力が入った。


「痛いか」


「いいえ」


「なら力を抜け。位置がずれる」


原因を完全に誤解されている。


そして訂正できる内容でもなかった。


朔は受信部を押さえ、固定具を留める。


「終わりだ」


数歩離れ、自分の通信機へ触れる。


『聞こえるか』


低い声が、ソフィアの耳のすぐ内側へ届いた。


外から聞くよりとても近い。


振り返れば本人がいるのに、声だけが耳元へ落ちてくる。


「聞こえます」


『音量は』


「問題ありません」


『返事が速い』


「通信遅延の確認です」


『遅延はないな』


通信試験は終わった。


朔が受信機を指す。


「まだ外さないのか」


「再装着で位置が変わる可能性があります」


「さっき一回で合っただろ」


「現場では確実性を優先します」


「そうか」


追及はなかった。


ソフィアは何事もなかった顔で立ち上がる。


―――その時、作業台の上から甘い匂いがした。


小さな鉄板の上で、乳白色の果肉が焼けている。


厚く切った白晶桃(はくしょうとう)


朔が一切れを返す。


熱の入った断面には透明な果汁が浮かび、淡い飴色へ変わっていた。

焼きすぎる前に火から外し、浅い器へ移す。

その上へ、保冷容器から冷たいヨーグルトを落とした。


「デザートですか」


「補給だ」


「見た目はデザートです」


「高温環境で水分が抜けにくくなる。胃にも残りすぎない」


器が一つ、ソフィアの前へ置かれる。


温かい桃の上を、白いヨーグルトがゆっくり流れた。


「ありがとうございます、いただきます」


ソフィアはスプーンを入れる。


焼けた表面は、わずかにねっとりしている。

その下は瑞々(みずみず)しいまま。


口へ入れると、まず冷たい酸味が舌へ触れた。


噛んだ瞬間。


温かな果汁と一緒に、桃の甘さが広がる。


火が入った断面だけ、味が濃い。


そこへヨーグルトの酸味が重なり、後味を軽くした。


「……美味しいです」


「食欲は問題ないな」


「味の感想を、体調確認だけで処理しないでください」


「もう一切れ食えるか」


「食べられます」


「なら問題ない」


二切れ目が器へ追加された。


ソフィアは少しだけ得をした気分で、もう一度スプーンを入れる。


「まだありますか」


「戦闘前に食いすぎるな」


「有無を確認しただけです」


「ない」


朔の前には、空の器があった。


「朔さんも食べたんですね」


「食った」


「本当に?」


「空だろ」


ソフィアは器を確認する。


「確認しました」


「信用がないな」


「双方向ですから」


朔は少し呆れた様な顔をしたが返事をせず、鉄板を片付け始めた。


ソフィアは自分の器に残ったヨーグルトを、最後まできれいにすくう。


「戦闘後も、これですか」


「身が潰れてなければ、鯰の素材を使ってみたい」


スプーンが止まる。


「では、潰しません」


「そうしてくれ」


朔は当然のように答えた。


ソフィアも器を置く。


耳元には、まだ通信機が残っていた。



準備区画の扉が開いた。


素材保全班員たちが、一斉に振り向く。


最初に入ってきたのはソフィア。

その後ろに、黒い現場作業着の人影が続いた。


耐熱防護フード。

全面式の防毒・飛沫防護マスク。

技術協力者用の識別ベスト。

胸元にあるのは名前ではなく、登録番号と《外部技術協力》の文字だけだった。


想像していたより、ずっと普通の作業員に見えた。


案件責任者が紹介する。


「今回、素材保全工程を補助する登録済みの外部技術協力者です。個人情報に関する質問は禁止。指示系統は事前資料の通りです」


朔は小さく頭を下げる。


そのまま水路図と、搬入済みの機材を見た。


「ケースは、あそこへ置く予定か」


素材保全班長が答える。


「はい。過去の実証でも使用した位置です」


朔は区画の床へしゃがみ込んだ。


排水溝へ指を入れる。

濡れた床を撫でる。

浅瀬へ視線を移し、そこからケースまでの傾斜を見る。


「三十センチ下げてくれ」


班長の眉が動く。


「理由を聞いても?」


「大鯰が浅瀬へ入る直前に尾を振れば、戻り水がここを通る。今の位置だと右前脚が浮く」


「過去の実証では問題ありませんでした」


「過去は上流で止めてる。今回は生きたまま、ここまで入れる」


班長は水路幅を見た。


朔の指が示した床には、古い水垢が斜めに残っている。


図面へ目を落とし、班員へ顎を向けた。


「ケースを下げろ」


YETRA(イェトラ)の温度保持ケースが移動する。


朔はその横で、HELIAX(ヘリアクス)の搬送フレームを組み始めた。


脚の長さを少しずつ変え、床の傾斜へ合わせていく。


耐熱ホースは、人の足が通らない場所へ固定した。

KOGAWA(コガワ)のタープは、水路に対して斜めに張られる。


班員の一人が首を傾げる。


「この向きなんですね」


「私の視界を残しています」


ソフィアが答えた。


朔が支柱を固定しながら続ける。


「右側へ追加個体が来ても、氷を出せる」


素材保全班員たちが、二人を見比べる。


正式な作戦要員として同じ現場に立つのは、今日が初めてだという。


それでも、ソフィアの魔法がどこへ伸びるのか。


朔がどこで作業するのか。


二人は説明し合わなくても分かっているように見えた。


ソフィアが耐熱グローブを着け、温度保持ケースの留め具へ手をかける。


一つ。

二つ。

三つ。


蓋を片手で支えたまま開く。

閉じる。


朔が言う。


「もう一回」


「問題ありません」


「戦闘前の手だろ」


ソフィアは黙って、もう一度開閉する。


今度は最後の留め具へ指をかけたところで、厚いグローブが滑った。


朔が留め具を指す。


「引っかけるな。手のひらで押せ」


言われたとおり、掌を当てる。


硬い留め具が跳ね上がった。


「これなら開けられます」


「ならいい」


その様子を見ていた班員たちが、小さく首を傾げる。


なぜ世界ランク三位の探索者が、戦闘に全く関係のないケースの開閉訓練までしているのか。



作業開始前。


安全管理担当者が全員を集めた。


モニターには、先ほどの失敗映像が止まっている。


「魚体へ深い損傷が生じた場合、または周辺水温に急激な変化が確認された場合、危険ですので実証を中止します」


赤い警告範囲が、魚体図の背中側を覆う。


「浅瀬へ入る前に魚体が横転した場合も中止。浮袋内圧が規定値を超えた場合、素材を放棄して全員退避してください」


班員が手を挙げる。


「討伐後なら、すぐ減圧に入れば間に合いますか」


朔が魚体図を見たまま答えた。


「暴れた時間による」


視線が集まる。


「高速遊泳と急旋回を繰り返すほど、浮袋が背中側で動く。圧を逃がす管が曲がれば、そのままホースはつながらない」


「早く仕留めれば?」


「強い衝撃を入れれば、外から傷が見えなくても中の膜が裂ける」


班長が腕を組む。


「傷をつけず、温度を変えず、暴れさせずに倒せと」


「そうなる」


「厄介ですね」


「だから残ってる」


朔は温度計を持ち、回収地点へ向かった。


任せろと胸を張ることもない。

成功を約束することもない。

ただ、必要な位置へ立つ。


その背中を、素材保全班員たちが追っていた。



地熱水路階層。


赤黒い岩盤の間を、濁った高温水が轟音を立てて流れている。


水面から絶えず蒸気が上がり、数十メートル先は白く霞んでいた。


作業橋の金属床は、水が岩壁へぶつかるたびに細かく震える。


配信ドローンの赤いランプが点灯した。


回収区画と朔は、完全に撮影範囲の外。


カメラの前にいるのは、氷室ソフィアだけだった。


「皆様、ごきげんよう。氷室ソフィアです」


蒸気の中でも、声は澄んでいる。


「本日は、地熱水路階層に生息する焔鰭大鯰(ブレイズフィン)の討伐、および蓄熱浮袋の無損傷回収実証を行います」


コメント欄が動き始めた。


『本当に氷姫が担当するのか』


『傷を入れても温度を変えても危険なやつだろ』


『氷属性とは相性悪すぎる』


『例の技術協力者もいる?』


『回収区画は映らないらしい』


ソフィアは水路へ視線を移した。


「魚体への広範囲攻撃と、大規模な温度干渉は行いません」


『大鎌封印?』


『どうやって止めるんだ』


ソフィアは右手を上げる。


「対象を氷で制御します」


耳元へ、朔の声が届いた。


『水温、二度上がった』


ソフィアの目から、配信用の柔らかな光が消える。


次の瞬間。


水面を、二本の細長い影が走った。

左右の岩壁へ触れるほど長い髭。

その先端が水を切り、水流と振動を探っている。


照明が、一つずつ暗くなった。

何かが、その下を通っている。


水面が膨らむ。

道路そのものが、下から持ち上げられていくような盛り上がり。


赤熱した背鰭が、白い蒸気を裂いた。

黒い魚体は六メートルを超えている。


厚い皮膚の下を、橙色の魔力光が脈のように走っていた。


尾が一度、振られる。


轟音―――。


高温水が水路の縁を越え、作業橋へ叩きつけられた。


配信ドローンが大きく揺れる。


回収区画では、搬送フレームの脚が低く鳴った。


『でかすぎる』


『魚の動きじゃない』


『今ので橋が揺れたぞ』


朔の声だけは変わらない。


『第一分岐まで十三秒』


「分かりました」


ソフィアは右手を水面へ向ける。


指先から、無数の小さな氷晶が散った。


白い粒が高温水へ落ちる。

触れた端から、溶けていく。


消えるまでの短い時間。

氷晶は水へ乗り、いくつもの筋を描いた。


岩壁へ当たって戻る水。

分岐へ吸い込まれる流れ。

水面の下で押し潰される小さな渦。


蒸気に隠れた水の動きが、白い粒によって浮かび上がる。


ソフィアの碧眼が、その全てを追った。


『索敵?』


『氷で流れを見てるのか』


『姿が見えなくても位置が分かるってこと?』


「左へ来ます」


『魚体角度、左二十度』


ソフィアが腕を払う。


水路の底から、幾本もの氷が斜めに伸びた。


壁ではない。

魚体へも触れない。


氷に押された水だけが、右側の分岐へ強く流れ込む。


大鯰の頭が、流れに押されて右へ傾いた。


そのまま分岐へ入る。


ソフィアが指を閉じる。


進行方向の先。

左右の岩壁から、二枚の氷がせり出した。


魚体へぶつけるためではない。

進める幅だけを削る。


だが、大鯰は氷が完成する前に止まった。


長い髭の先端が、冷えた水の筋へ触れている。


六メートルの巨体が、狭い水路の中で身をひねった。


尾が岩壁へ叩きつけられる。


水が爆ぜる。


大鯰は半ば岩肌へ身体を擦りつけながら、閉じかけた分岐から強引に逃れた。


『避けた!?』


『氷を見る前に止まったぞ』


『水温の変化を読んだのか』


途端、大鯰の背鰭(せびれ)が、強く輝いた。


橙色の光が黒い皮膚の内側を走る。


熱が周囲の水へ放たれた。

水面一帯が煮立つ。


直後。


白い蒸気が爆発するように噴き上がり、水路も魚体も覆い隠した。


配信映像が、白く染まる。


『何も見えない!』


『蒸気で隠れた?』


『ただのデカい魚じゃないぞ』


熱気が探索服の上から肌を押した。

吸い込む空気まで熱い。


それでも、ソフィアの呼吸は乱れない。


口内にも、まだ乾きはなかった。


白晶桃の果汁とヨーグルトの冷たさが、身体の奥に薄く残っている。


水面には、先ほど散らした氷晶が流れていた。


蒸気の下。

白い粒が一斉に右へ弾かれる。


ソフィアの目が動く。


『右水路、流量上昇。五秒後に合流する』


「第二分岐は閉じません」


『理由は』


「合流させて、後ろから押します」


短い間。


『了解』


朔から届くのは、水温と流れと距離だけ。


ソフィアは作業橋の手すりへ片足をかけた。


足元に、薄い氷板が生まれる。


高温水へ触れた端から、白い蒸気へ変わった。


その上へ踏み込む。


次の一歩の先へ、新しい氷。

さらに次。

踏み切った後から足場は溶け、青白い欠片だけを残して消えていく。


銀髪が蒸気を切った。


ソフィアは水路の上を走る。

配信ドローンが遅れてその背中を追った。


『水の上を走ってる』


『足場、作った端から消えてるぞ』


『氷だけで、何でもありかよ』


二本の水路を流れてきた水が、大鯰の後方で合流する。

重なった水流が、巨体の尾を押した。


大鯰が浅瀬側へ流される。

作戦どおりの方向だった。


だが、魚体はそのまま流れなかった。


頭を沈める。

長い髭が水路の底へ触れた。


ソフィアの目が細くなる。


「―――下がってください!」


声と同時に。


大鯰の尾が水路の底へ叩きつけられた。


岩盤まで震えるような轟音が響く。

作業橋の支柱が軋む。

持ち上げられた高温水が、一枚の壁となった。


人間を飲み込むほどの高さとなった水塊が、ソフィアと配信ドローンへ迫る。


真正面から止めれば、衝撃は水路を伝って回収地点へ抜ける。


ソフィアは両手を重ね、開いた。


空中へ、薄く湾曲した氷板が並ぶ。


一枚。

二枚。

三枚。


巨大な魚の鰭にも似た、透明な板。


一枚目へ熱水がぶつかった。

氷が砕ける。


だが、水は止まらない。


斜めの表面を滑り、上方へ逸れた。


二枚目が、残った水を右へ流す。


三枚目が、さらに左右へ分ける。


薄い氷板が連続して割れる。

高温の水塊が、ソフィアへ届く前に形を失っていく。


白い蒸気が天井まで吹き上がった。


その中を、砕けた氷晶が青白く舞う。


そして水が落ちる。


ソフィアは一歩も下がっていなかった。


銀髪の先と探索服に、数滴の水が残っているだけ。


『今のを薄い氷で?』


『防いでない。周りに被害が出ないように受け流したのか』


『かっこよすぎない?』


『壁一枚で受けるより絶対難しい』


『大技封じられた方が技術のおかしさ分かるな』


『協力者がいても戦ってる本人が化け物だろ』


コメント欄が加速する。


ソフィアは水路の奥から目を離さない。


その背後。

逸らされた水の一部が、浅瀬の回収区画へ逆流した。


「戻り水!」


素材保全班員が叫ぶ。


濁流が水路の縁を越える。

魚体から剥がれた硬い鱗が、金属床を削りながら流れてきた。


鋭い端が床へ突き刺さり、跳ねる。


鱗が横切ったのは、温度保持ケースが最初に置かれていた場所だった。


今、そこには何もない。


三十センチ後ろに移されたケースへ、戻り水がぶつかった。


フレームが低く鳴る。

脚は浮かない。

ケースも傾かなかった。


素材保全班員の一人が、床へ突き刺さった鱗を見る。


あの位置に立っていたら。

機材だけでは済まなかった。


班長が朔へ振り返る。


全面マスクの奥にある表情は分からない。


朔は流量計を見たまま言う。


「フレームの右脚」


班長が即座に動く。


「確認しろ!」


班員が固定具へ駆け寄る。


「異常ありません!」


「ケース温度は?」


班長から問われ、朔が計器へ目を落とす。


「問題ない」


期待は、まだ確信ではない。


けれど少なくとも。


どこかの噂だけで連れてこられた人間ではなかったと、その場の全員が理解した。


朔が通信を開く。


『浅瀬まで、あと四十』


「誘導を続けます」


ソフィアが次の氷を作ろうとした時。


大鯰の動きが止まった。


蒸気の中。

二本の長い髭が、別々の方向へ伸びていく。


一方は、ソフィアが氷を配置した誘導水路。

もう一方は、まだ一度も魔力を使っていない浅瀬。

すなわち、回収地点。


『第二分岐、閉じるな』


ソフィアの手が止まる。


「理由は」


水面の下にある巨大な影が、ゆっくり旋回した。


開いている誘導路ではない。


頭が、回収地点へ向く。


『こっちを見てる』


赤熱した背鰭が、水面を割った。


尾が振られる。


一度。


水路そのものを蹴るような加速。

六メートルを超える巨体が、浅瀬へ向かって突進した。


「対象、進路変更!」


「回収地点へ来ます!」


安全管理担当者が、隔壁の操作盤へ手を伸ばす。


「緊急隔壁を閉鎖します!」


「閉めるな」


朔の声が飛んだ。


手が止まる。


「なぜです!」


「今ぶつければ、水圧が全部ここへ来る。魚体も横転する」


「では、どうします」


「全員、タープの外へ出ろ」


素材保全班員が温度保持ケースを見る。


「機材は」


「置いていけ」


「しかし――」


「人間より先に運ぶ物じゃない」


短い声だった。


迷いはなかった。


「退避!」


班長の声で、全員が動き出す。


朔は最後まで流量計を見ていた。


『浅瀬まで十一秒』


ソフィアは、大鯰と回収地点の間を見る。


厚い氷壁を置けば、巨体は止められるかもしれない。


だが、正面衝突の衝撃が内部へ抜ける。


浮袋が破れれば、高温の魔力液が回収区画を飲み込む。


いつもの氷壁では駄目だ。


ソフィアは水路の縁へ跳ぶ。


岩壁へ、細長い氷板を打ち込んだ。


一枚。

反対側へ、もう一枚。

さらに奥へ、三枚目。


道を塞ぐ壁ではない。

水へ角度をつける、青白い翼。


『八秒』


足元へ、細い氷の道が伸びる。


高温水の上に、一瞬だけ存在する足場。


ソフィアは踏み出した。


『六秒』


蒸気の中を走る。


一歩ごとに氷が生まれ。

背後から溶けていく。

配信ドローンが、その背中を追う。


『四秒』


朔の声は変わらない。

焦りも。

恐怖も。

余計な指示もない。


必要な時間だけが、耳元へ届く。


ソフィアは大鯰と回収地点の間へ降り立った。


背後には、退避する素材保全班。

そして、流量計の前から動かない朔。


正面には、熱水を押し分けて迫る巨大な影。


大鎌はない。

分厚い氷壁もない。


それでも、ソフィアの眼に迷いはなかった。


「十分です」


ソフィアはその両手を、水路へ向けた。

ここまでお読みいただきありがとうございます!

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