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氷の姫、名前を呼ばれるだけで忙しい

氷室ソフィアは、生まれて初めて。


「おはようございます」の送り方が分からなくなった。


朝。

自宅のベッドで目を覚ましてから、すでに五分。


端末の入力欄には見慣れた文字が並んでいる。


『おはようございます』


ソフィアはそれを見つめた。


消した。


代わりに、いつもの項目を打つ。


『睡眠七時間十分』

『胃、問題なし』

『食欲あり』

『魔力残量九割』

『指先、異常なし』

『昨日の疲労、ほぼなし』


指が止まる。


これだけでは、あまりにも。


「……あまりにも、何でしょう」


誰もいない寝室で呟く。


昨日までは、これで送っていた。


朝起きて。

自分の身体を確認して。

朔へ報告する。


それだけ。


ずっとやってきたことだ。


なのに。


――朝起きて最初に、好きな人へ連絡している。


そう理解してしまっただけで。


昨日まで何でもなかった六行が、急に別のものに見えた。


ソフィアは一番上へ戻る。


『おはようございます』


と付け足した。


見る。


何か違う。


少し親しげすぎるような気がする。


消す。


けれど朝一番の連絡なのに、挨拶もなくいきなり睡眠時間から始まるのは、それはそれでどうなのだろう。


これまでずっとそうしてきた。


その事実がなぜか、今日だけ役に立たない。


もう一度。


『おはようございます』


入力。


三秒。


削除。


「……何をしているのでしょう、私は」


世界中の記者を前にした会見でも、ここまで一文に時間をかけたことはない。


ソフィアはしばらく端末を見つめ。


最終的に、昨日までとまったく同じ六項目だけを送信した。


送ってしまえば早い。


既読がつく。


数分後。


返信が来た。


ソフィアは反射的に端末を取った。


『睡眠八時間』

『朝食済み』

『水分六百』

『立ちくらみなし』

『昨日の疲労は少し残ってる』

『今日は重い処理はしない』


最後まで読んで。


ソフィアは無意識に息を吐いた。


昨日までなら、こちらから聞いていた。


睡眠は。

食事は。

水分は。

立ちくらみは。


あれだけ人の胃や魔力や指先を細かく見るくせに、自分の身体となると平気で後回しにする男だった。


その結果が、先日の失神だ。


けれど今日は違う。


聞かれる前に自分から送ってきた。


朝食も食べた。

水分も取った。

重い作業もしないと、自分で決めている。


『確認しました』


入力。

送信。


そこで止めればよかった。


ソフィアの指はもう一度入力欄へ触れた。


『無理はしないでください』


送る。


既読がつく。


そこでようやく。


ソフィアは端末を伏せた。


好きな人に。


朝から。


無理をしないでください、と送った。


「…………」


両手で顔を覆うほどではない。

ベッドへ倒れ込むほどでもない。


そこまでのことではない。


ただ。


伏せた端末をもう一度表へ向ける。


返信はまだない。


再び伏せる。


十秒後。


もう一度見る。


『分かった』


それだけだった。


ソフィアは画面を見つめた。


たった四文字。


愛想も何もない。


けれど。


「……なら、いいです」


誰に聞かせるでもなく、小さく言った。


端末を置く。


今度こそ立ち上がろうとしたところで。


再び通知が鳴った。


担当マネージャーからだった。



『昨日から、また例の技術協力者についての問い合わせが増えてるわ』


身支度を整えながら通話を取ると、画面の向こうから少し疲れた声がした。


焔鰭大鯰の蓄熱浮袋。

世界初の無損傷回収。


初の同行での結果が大きすぎた。


素材企業。

研究機関。

海外ギルド。

探索者専門メディア。


表へ出ているのは、氷室ソフィアとギルドの素材保全班。


そして。


名前も顔も出ていない、限定技術協力者。


当然。


世間の興味が落ち着くはずもなかった。


「新しい問題がありますか」


『問題というほどじゃないわ。あなたが反応しなければ、そのうち流れる類い』


「では、今まで通りですね」


『基本はね。ただ』


マネージャーが一枚の資料を共有した。


技術協力者について、現在拡散している主な推測。


過去の大手ギルド職員説。

海外研究機関出身説。

引退した高ランク探索者説。

ギルド上層部の隠し技術者説。


そして。


ソフィアの視線が止まった。


《氷室ソフィアの交際相手ではないか》


「…………」


『大丈夫?』


「はい」


『返事が一拍遅かったけど』


「通信の問題です」


『こっちは綺麗に繋がってるわよ』


ソフィアは無言で次の項目へスクロールした。


しかし内容が頭へ入らなかった。


交際相手。

別の表現もあった。


《恋人》


そこだけ、妙にはっきり見える。


『理由は単純。氷室ソフィアがそこまで必死に守る相手なら仕事だけの関係ではないんじゃないか、ですって』


「……ずいぶんと、根拠が薄いですね」


『世間話なんてそんなものよ』


「私は、業務上必要な秘匿をしているだけです」


『分かってる。だから私生活上の関係については、今まで通りノーコメントでいいわ』


「分かりました」


『午後の配信では聞かれても拾わないで。公式に説明する必要はないから』


「はい」


通話終了。


画面が消える。


ソフィアは端末を置いた。


三秒。


取った。


資料を開く。


《恋人》


閉じる。


置く。


五秒。


もう一度取る。


《氷室ソフィアの交際相手ではないか》


「違います」


小さく言う。


実際、違う。


恋人ではない。


告白すらしていない。


向こうはおそらく、自分が昨日から何に困っているのかすら知らない。


だから。


何も間違ってはいない。


ソフィアはそっと資料を閉じた。


「……仕事へ行きましょう」


今日は午後から、短い公式訓練配信がある。


考えるべきことは別にある。


そう。


別にあるはずだった。



『氷姫きた!』


『定期的な配信崩れないの助かる』


『大鯰の世界初やった人とは思えんくらい通常営業』


『例の協力者は?』


『今日は一人?』


『訓練配信にはいないだろw』


配信開始と同時に、コメント欄が勢いよく流れ始めた。


今日行われるのは、ギルドの訓練区画を使った公式配信。


魔物を討伐する通常探索とは違い、複数の模擬標的と可動障害物を使って、探索者の制御力や状況判断を実戦に近い条件で公開するものだ。


―――訓練開始。


訓練区画の床から、六つの魔力標的が同時に射出される。


高低差。

速度差。

交差軌道。


ソフィアが右手をわずかに上げる。


一本。

二本。

三本。


細い氷針が空間へ現れる。


最初の標的。


中心から三センチ右。


貫通。


次。


上下へ分かれた二つの標的の間へ氷の糸を渡し、進路だけをずらす。


ぶつからない。

壁にも当たらない。


残る三つ。


速度が変わる。


ソフィアの視線が一度だけ動く。


床。

壁。

標的。


見学区画。


一枚の薄い氷板が床から斜めに立ち上がった。


一つ目が滑る。

二つ目がその上を越える。

最後の一つだけを、氷の輪が空中で止めた。


六つ。


破損なし。

所定位置。


訓練担当者が記録を確認する。


「全標的、回収可能状態を確認。魔力消費も規定値以下です」


「ありがとうございます」


ソフィアは静かに手を下ろした。


『うっま』


『精密制御また上がってない?』


『普通に化け物なんだよなこの人』


『当たり前だろ世界三位だぞ』


『なんか最近補給係が本体みたいに語ってる奴いるけど氷姫は元々強い』


『問題は昔より燃費と素材回収がおかしくなったことだろ』


『そのおかしいの意味が褒め言葉なんよ』


次の訓練へ移る。


スタッフから。


「氷室さん、次は移動標的です」


「分かりました」


別の担当者から。


「氷室さん、右側の安全装置だけ確認お願いします」


「はい」


滞りなく、訓練配信が進んでいく。


――その配信では。


『氷姫今日も綺麗』


『氷姫つよ』


『氷姫さん例の人の話してくれ』


何度呼ばれても。


何ともない。


氷室さん。

氷室ソフィア。

氷姫。


ずっと呼ばれてきた名前だ。


世界中の何万人、何十万人に呼ばれても。


いつも通り。


判断は鈍らない。

指先も震えない。

一度も標的を外さない。


だから。


ソフィアは訓練を終えた時、ほんの少しだけ安心していた。


初めて恋をしたからといって。


自分は何もできなくなったわけではない。


探索者としての自分は、昨日までと変わらない。


問題は。


その日の夕方。

地上ゲート裏の古いアパートへ入って、わずか十分後に起きた。



「水分は」


「取った」


「朝の六百から増えていますか」


「増えてる」


「どのくらいですか」


「一・四くらい」


「食事は」


「昼も食った」


「内容は」


朔が冷蔵庫から保存容器を出しながら、こちらを見た。


「そこまで聞くのか」


「倒れた実績があります」


「一回で実績にするな」


「一度でも再発防止には十分です」


「パンと卵。野菜。スープ」


「量は」


「普通」


「普通では分かりません」


「一人前」


「基準が曖昧です」


「面倒になってきたな」


「管理です」


「尋問だろ」


いつものやり取り。


声も。

部屋も。

調理台も。

壁際のギアも。


何一つ変わっていない。


朔の顔色も、昨日よりずっといい。


目の下に薄い疲れは残っているが、立ち上がる時に机へ手をつくこともない。


自分から水まで飲んだ。


それを確認して。


ソフィアはようやく胸の奥の小さな緊張をほどいた。


「今日は、本当に大きな作業をしていないんですね」


「ああ」


「何をしていたんですか」


「洗浄。刃物の手入れ。保存分の整理」


「それだけですか」


「休めって言ったのはあんただろ」


「はい」


「なら疑うな」


「確認です」


朔は呆れたように息を吐き、保存容器の蓋を開けた。


甘い醤油の匂いがふわりと立った。


ソフィアの意識が一瞬でそちらへ引かれる。


焔鰭大鯰の蒲焼き。


先日焼いたものの残り。

厚く焼かれた白身はすでに冷えて、タレと脂が表面へ薄く固まっている。


その隣。


炊いた麦飯。

小さな鍋。

澄んだ出汁。


調理台には使い込まれた黒皮鉄板。


目新しい物は何もない。


あれだけ大掛かりな素材案件を終えた後なのに。


今日は、冷蔵庫にある残り物を食べるらしい。


「何を作るんですか」


「焼きおにぎり」


「蒲焼きで?」


「残ってるからな」


朔が蓋を置く。


その横。


すでに器が二つ並んでいた。


箸も二膳。

出汁用の椀も二つ。


ソフィアの視線が止まる。


昨日までなら。


何も思わなかったはずだ。


自分が来る。

食事をする。

朔も食べる。


だから二人分。


当然だった。


なのに。


今は。


――私が来ることを前提に、二人分。


そんな風に見えてしまう。


「何だ」


「……いえ」


「腹減ってるなら先に言え」


「そこを見ていたわけではありません」


「じゃあどこだ」


「何でもありません」


朔は不思議そうにしたが、追及しなかった。


代わりに。


「ソフィア、皿」


「はい」


返事が出た。


速かった。

自分でも驚くくらい。


ソフィアは調理台の横から一つ取って、朔へ差し出す。


しかし朔が受け取らない。


見る。


ソフィアも見る。


手の中。

小さな出汁椀。


「それは出汁だ」


「……分かっています」


「皿って言ったぞ」


「確認を間違えただけです」


「今、分かってなかっただろ」


「分かっています」


「どっちだ」


「今は、分かっています」


「珍しいな」


朔は自分で平皿を取った。


ソフィアは椀を元の場所へ戻す。


耳の奥に、まだ声が残っている。


ソフィア。


ただの名前。


今日一日。


何度も呼ばれた。

配信では数え切れないほど名前を流された。


何ともなかった。


なのに。


この狭い部屋で。


一人から呼ばれるだけで。


「……不公平です」


「何が」


「何でもありません」


「さっきから多いな」


朔は蒲焼きをまな板へ移した。


冷えた身を包丁で細く切る。

一口より少し小さく。

米へ混ぜた時、噛めばちゃんと魚が残るくらい。


ソフィアはその手元を見ながら。


少しだけ考えた。


最初は。


危険だから。

確実に伝わるから。


それだけだったはずだ。


それでもソフィアはどうにか理由をつけて、平常時にも名前で呼ばせた。


呼称が非対称だとか。

運用試験だとか。

緊急時の再現性だとか。


今思えば、かなり無理のある理屈だった気もする。


朔は嫌そうな顔をしていた。


必要がない、とまで言っていた。


それなのに。


今は。


いちいち抵抗しない。


自然に。


「ソフィア」


と呼ぶ。


それに気づいた瞬間。


胸の奥に、くすぐったいような熱が生まれた。


困る。


本当に困る。


名前を呼ばれるたび、また変に意識してしまう。


けれど。


だからといって。


前の呼び方へ戻してほしいとは、一度も思わなかった。


むしろ。


――なんだかんだ、ちゃんと呼んでくれる。


その事実が。


正直、かなり。


嬉しい。


ソフィアは朔に見えないように、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「何笑ってる」


「笑っていません」


「今笑ってただろ」


「気のせいです」


「そうか」


あっさり引いた。


それも少し悔しい。


だが、追及されても困る。


ソフィアは表情を整え、蒲焼きへ視線を戻した。


「手伝います」


「なら飯を混ぜろ」


「分かりました」


大きなボウルへ温め直した麦飯が入る。


朔が蒲焼きを加える。


タレを匙で少量。


ソフィアが見た。


「それだけですか」


「焼く時にまた塗る」


「ですが、混ぜ込む分ももう少しあった方が美味しいのでは」


「多いと米が緩む」


「少しなら」


「焦げる」


「焦げた醤油は美味しいですよね」


「焦がすのと炭にするのは違う」


「まだ炭にするとは言っていません」


「その匙を置け」


ソフィアはタレの小鍋へ伸びていた匙をそっと戻した。


「確認しようとしただけです」


「何を」


「量を」


「目で見ろ」


「朔さんは味見をしろと言う時もあります」


「都合のいい部分だけ覚えるな」


麦飯をしゃもじで返す。


白い米の間へ。


ほぐれた蒲焼き。

薄い飴色のタレ。

白身に残った脂が温かい米へ触れ、ゆっくり溶けていく。


焦げた醤油の香りが蘇る。


それだけで。


ソフィアの腹が小さく鳴った。


二人とも動きを止めた。


「……今のは」


「食欲あり、だな」


「朝に報告済みです」


「夕方も異常なし」


「そういう確認方法はやめてください」


「分かりやすい」


「分かりやすくありません」


朔がボウルをソフィアの前へ置いた。


「握ってみるか」


「私がですか」


「難しくない」


「お粥よりは?」


「比較するものか?」


「完成形がありますから」


「三角にしろ」


「分かりました」


ソフィアは手を洗い。


軽く濡らす。


麦飯を取った。

掌の中へまとめる。

崩れないように。


同じ厚さ。

同じ辺。

同じ角度。

形を整える。


一つ目。


かなり綺麗にできた。


ソフィアは少し満足して、まな板へ置いた。


朔が見る。


持ち上げる。


親指で軽く押した。


「硬い」


「崩れないようにしました」


「握りすぎだ」


「ですが、大きさが揃っていた方が火の入り方も一定になります」


「そこまで変わらない」


「誤差はあります」


「焼きおにぎりに世界三位の精密制御を持ち込むな」


「これは魔力ではありません」


「もっと無駄だろ」


朔は一つ目を戻した。


「米粒が潰れてる。もう少し軽くまとめろ」


「どの程度ですか」


「崩れない程度」


「曖昧です」


「料理は全部数字にできるわけじゃない」


昨日。


お粥を作った時にも、似たようなことを言われた。


火力。

混ぜ方。

音。

香り。


数字で正解が決まらない。


ソフィアは二つ目を取る。


今度は力を抜く。


少し。


形が崩れる。


直そうとしたところで。


「ソフィア、触りすぎ」


手が止まった。


まただ。


名前。


しかも今度はずいぶん自然だった。


「……はい」


返事だけは落ち着いて出せた。


朔はソフィアの内側で何が起きたかなど知らず、二つ目を確認する。


「さっきよりいい」


「本当ですか」


「ああ」


それだけ。


ただ、おにぎりの握り方を直されただけ。


それなのに。


ちょっと嬉しい。


名前で呼ばれて。

さらに褒められた。


正確には、おにぎりを握りすぎなくなったことを評価されただけだが。


それでもいい。


ソフィアは三つ目を取った。


「次はもっと綺麗に」


「綺麗にするな。軽く握れ」


「両立させます」


「そういうところだぞ」


三つ。

四つ。


最初の一つだけ妙に硬そうだったが、それ以外はほどよく形になった。


朔が黒皮鉄板を火へかける。


新しいギアではない。


長く使い込まれ。


油が馴染み。


表面に薄い艶を持った鉄板。


火は強すぎない。


手をかざして温度を見た朔が、焼きおにぎりを並べる。


じゅ。


静かな音。


最初は触らない。


麦飯の表面から、水分だけがゆっくり抜ける。


鉄板に接した米粒が固まり。


香ばしい匂いが立ち始める。


ソフィアは横から見る。


「まだ返さないんですか」


「まだ」


「焼けているように見えます」


「表面だけだ」


「確認しても?」


「触るな」


「分かっています」


数十秒。


朔が薄いヘラを差し入れる。


抵抗なく入る。

持ち上げる。


薄い狐色。

米粒一つ一つの輪郭を残したまま、表面だけが硬く焼けている。


「今」


返す。


じゅっ。


反対側。


しばらく焼いた後。


刷毛。

蒲焼きのタレ。

本当に薄く。


一度だけ。

表面を撫でる。


鉄板へ戻す。


ジュッ――。


音が変わった。


甘い醤油。

焔鰭大鯰の脂。

焦げる直前の砂糖。

焼けた麦飯。


さっきまで部屋にあったすべての匂いが、一段濃くなる。


「……これは」


ソフィアが呟く。


「これは、よくないです」


「何が」


「匂いが」


「腹減ってるだけだろ」


「食欲ありです」


「知ってる」


朔は反対側にもタレを塗る。


焼く。


返す。


もう一度だけ。


表面のタレが乾き。


薄く艶を持つ。


一部の米粒の角が、濃い褐色へ変わった。


そこから香ばしい匂いが立つ。


中はまだ柔らかい。


表面だけ。


ぱりっとしている。


ソフィアはいつの間にか調理台へ少し近づいていた。


「近い」


朔に言われ。


止まる。


以前にも言われたことがある。


「火からは離れています」


「俺の手元に近い」


まったく同じようなことを言われた気がする。


ソフィアは一歩下がった。


今回は。


名前で言ってください、とは要求しなかった。


要求しなくても。


「ソフィア、そっちの椀」


言った。


また。


「はい」


今度は間違えない。


出汁用の椀。


ちゃんと二つ。


朔へ渡す。


「これですね」


「ああ」


成功。


何の成功なのかは分からない。


ただ。


少しだけ誇らしい。


朔は椀をテーブルへ置いた。


「ありがとな」


「……どういたしまして」


返事が一瞬だけ遅れた。


朔が見る。


「やっぱり今日変だぞ」


「変ではありません」


「昼の仕事で疲れたか」


「疲労はほぼありません」


「魔力は」


「八割以上です」


「胃」


「正常です」


「じゃあ何だ」


「何でもありません」


「そればっかりだな」


「朔さんにも、答えたくないことくらいあります」


「別に聞き出す気はない」


朔は焼きおにぎりを皿へ移した。


あっさり。

本当にあっさり。


それ以上は入ってこない。


その距離感に。

ソフィアは何度助けられただろう。


そして今。


少しだけ。


もう少し気にしてくれてもいいのではないか、とも思ってしまう。


人間とは勝手なものだった。



テーブルへ。


焼きおにぎり。

出汁。

刻んだ葱。

少量の山葵。


二人分。


朔も座った。

言われる前に。

自分の水も置いてある。


ソフィアはそれを見る。


「何だ」


「いえ」


「またか」


「ちゃんと食べるんですね」


「そのために作った」


「水もあります」


「飲むために出した」


当たり前の返事。


でも。


昨日までなら。


ソフィアが何度か言わなければ、後回しにしたかもしれない。


今日の朔は。


自分から座った。

自分の分を用意した。

自分の水まである。


ソフィアは小さく頷いた。


「なら、いいです」


「何が」


「何でもありません」


「五回目くらいだぞ」


「数えていたんですか」


「多いからな」


ソフィアは焼きおにぎりを見る。


食べる前に。


ふと。


姿勢を整えた。


――好きな人の前である。


昨日までは知らなかった。


でも今日は知っている。


なら。


少しくらい。


綺麗に。

落ち着いて食べてもいいのではないだろうか。


いつものように、匂いだけで前のめりになったり。


大きな一口で頬を膨らませたり。


追加を急いだりしない。


氷室ソフィアは。


世間から氷の姫と呼ばれる女性である。


「いただきます」


焼きおにぎりを持つ。


まだ熱い。


指先へ熱が伝わる。


少し冷まして。


小さく一口。


ぱり。


最初に米が鳴った。


薄く焼けた表面が、歯の先で崩れる。


焦げた醤油。

甘いタレ。


次の瞬間。


内側の柔らかな麦飯がほどけた。


そこから。


焔鰭大鯰の白身。


厚く焼いた蒲焼きとは違う。


細かくほぐれているから。


噛むたび。

飯の間から甘辛い身が出てくる。


脂。

醤油。

米の甘み。

焦げた端の香ばしさ。


「……ん」


しっかり声が漏れた。


ソフィアは一瞬止まる。


朔は気にせず、自分の分を食べている。


もう一口。


今度は少し大きい。


ぱり。

ふわ。

じゅわ。


表面と中で、食感がまるで違う。


冷蔵庫に残っていた蒲焼きなのに。


ただ温め直すのではなく。


麦飯へ混ぜて。


握って。

焼いて。

タレを塗って。

もう一度、焦がす。


それだけで、別の料理になっている。


「美味しいです」


「そうか」


「蒲焼きの時より、タレが軽いですね」


「出汁もかけるからな。最初から濃くすると後で重い」


「出汁」


ソフィアの視線が横の鍋へ移る。


朔が見た。


「まだ半分食ってないだろ」


「見ただけです」


「目が先に茶漬けへ行ってる」


「工程確認です」


「食事中に工程確認するな」


ソフィアは焼きおにぎりへ戻る。


――綺麗に食べよう。


さっきはそう思っていた。


たしか。


一口目の前までは。


しかし気づけば。


両手で焼きおにぎりを持っていた。


端から。

真ん中へ。


香ばしい表面と。

蒲焼きの多い部分を交互に噛む。


好きな人の前だから。


少し行儀よく。


そんな考えは。


焦げた醤油の前で、五分も持たなかった。


「……朔さん」


「何だ」


「そろそろ出汁でもいいのでは」


「半分残せ」


「残っています」


「あと一口食ったらな」


「今が半分です」


「多分それは三分の二だ」


ソフィアは手元を見る。


確かに。


思ったより大きく残っている。


「誤差です」


「さっきおにぎりの大きさで誤差を嫌がってた奴が言うな」


「用途によります」


「便利だな、その理屈」


一口。


今度こそ半分。


朔が焼きおにぎりを椀へ入れる。


上から。

熱い出汁。


さらり。


音は小さい。


けれど。


湯気が立った瞬間。


香りが変わった。


焼けた醤油が湯気へ溶ける。

大鯰の脂が。

出汁の表面へ、ごく薄い輪を作る。


硬く焼けた米の表面。

そこへ透明な出汁が染み込んでいく。


端は少しずつ柔らかく。

中心は、まだ崩れない。


葱。

少量。


朔が乗せる。


「食え」


ソフィアは匙を入れた。


焼きおにぎりの端を崩す。


出汁と一緒に。


口へ。


「――ん……」


今度は。


先に出汁。


熱い。


澄んでいる。


そのあと。


焦げた醤油。

魚の脂。

やわらかくなった米。

中から蒲焼き。


さっきまで輪郭の強かった甘辛さが。


出汁の中で、一気に丸くなる。


焦げていた米粒は香ばしさだけを残し。


硬いところと。

出汁を吸ってほどけたところが。


一口の中に混ざる。


ソフィアは飲み込んだ。


身体の内側へ。


温かいものが落ちる。


訓練で張っていた肩。

午後まで残っていた細かな疲労。


それが熱と一緒にほどけていく。


もう一口。


今度は山葵をほんの少し。


鼻へ抜ける香り。


大鯰の脂が、さらに軽くなる。


「……朔さん」


「何だ」


「出汁を、もう少し」


朔がソフィアの椀を見る。


「さっき足したばかりだろ」


「もう少しだけです」


「入れすぎると、おにぎりが全部崩れるぞ」


ソフィアは椀の中を見た。


出汁を吸った米がほどけ、その隙間から蒲焼きの白身が覗いている。


少し考えて。


「……崩れても、美味しいと思います」


「そういう問題か」


「そういう問題です」


朔は一拍置いてから、出汁を足した。


「これで最後な」


「はい」


返事は素直だった。


さっきまで、好きな人の前だから少しは綺麗に食べようと思っていたはずなのに。


いつの間にか、そんなことはすっかり忘れている。


ソフィアは満足して匙を取った。


好きな人の前だから。

綺麗に食べたい。


その気持ちは嘘ではない。


―――でも。


美味しいものを美味しいと食べることまで。


取り繕う必要はない。


たぶん。


朔もそんなところを気にしていない。


そもそも最初に。


「反応が分かりやすい」


という理由で試食係にされた。


今さら取り繕った方が、契約上の精度が落ちる。


――そういうことにしておこう。


ソフィアは二杯目の出汁を飲んだ。


「顔が戻ったな」


朔が言う。


「何がですか」


「さっきまで変に固かった」


「……通常です」


「今の方が通常だろ」


ソフィアの匙が止まる。


朔はそれ以上何も言わず、自分の茶漬けを食べている。


その横顔を。


ソフィアは一秒だけ見た。


昨日までと同じ。


なのに。


今日は少し違って見える。


そして。


朔にとっては。


たぶん何も変わっていない。


それが。


少しだけ悔しくて。


かなり安心した。



食後。


ソフィアは自分のカトラリーを洗った。


水気を拭く。

壁際の棚へ戻す。


いつもの場所。

何度もやってきたこと。


棚には。


自分の箸。

匙。

フォーク。

専用のケース。


最初にこれを見つけた時も。


嬉しかった。


あの頃は――。


次も食事ができる。

次もここへ来ていい。


そういう意味だと思っていた。


今も。


たぶん。


それで間違ってはいない。


ただ。


今日だけは。


別の意味まで考えてしまう。


朔の生活の中に。


自分が次も来ることを前提にした物がある。


食器も。

椅子も。

出汁椀も。

今日の焼きおにぎりも。


最初から二人分だった。


ソフィアはカトラリーの位置を揃える。


少し右。


戻す。


「何してる」


背後から朔が言った。


「戻しています」


「さっきから三回動かしてるぞ」


「位置を整えています」


「最初で合ってた」


「確認です」


「今日、確認が多いな」


「大切ですから」


何が。


とは言わなかった。


朔も聞かなかった。


ソフィアは棚を閉じた。


その時。


テーブルの上で、朔の端末が震えた。


通知音。


朔が画面を見る。


いつもより少しだけ長く止まる。


「どうしました」


「ギルド」


「何か問題ですか」


「いや」


朔が端末をテーブルの中央へ置いた。


ソフィアも見る。


【別チーム採取素材・状態評価依頼】


その下。


対象。


晶糸茸(しょうしだけ)・大型個体。


添付画像があった。


巨大な茸。

白に近い傘。


その周囲から。

無数の細いものが垂れている。


糸。


いや。


透明に近い。


光が当たった部分だけが、ガラスのように白く反射している。


一本一本は細い。


なのに。


画像の奥では、それが幾重にも重なり。


棚や固定器具の間へ複雑に伸びていた。


「綺麗ですね」


「見えにくい方が問題だな」


朔は画像を拡大する。


素材の状態。

採取方法。

保管条件。

添付資料。


次々に目を通す。


ソフィアは、その横に表示された案件区分を見る。


現在の朔の登録。


《氷室ソフィア担当(非専属)・素材保全技術協力》


通常であれば、別チームが採取した素材は対象外。


だが。


《非専属》


であることを根拠に。


試験的な外部評価案件として、打診したい。


そう書かれていた。


ソフィアの視線が。


その三文字で止まった。


非専属。


自分も知っている。


むしろ。


朔が『氷室ソフィア担当』を嫌がった結果。


実務上の折衷案として一緒に決めた文面だ。


自分以外の素材を扱ってはいけない、などという条件ではない。


朔の技術が必要とされる。


それは、良いことだ。


焔鰭大鯰で何をしたのか。


一番近くで見ていた。


評価されるべき人だと思う。


だから。


何も問題はない。


何も。


「私が採取した素材では、ないんですね」


気づけば、聞いていた。


朔は資料から目を離さない。


「ああ」


「受けるんですか」


「資料を見てから決める」


「そうですか」


数秒。


ソフィアは画面を見る。


晶糸茸。

別チーム。

状態評価。


そして。


非専属。


「……非専属ですから?」


朔が顔を上げた。


「そう書いただろ」


正しい。


何も間違っていない。


自分で納得した。


仕事だ。


むしろ、朔がソフィアの付属物のように扱われる方が、おかしい。


分かっている。


十分。


分かっているのに。


恋を知って。


まだ一日。


氷室ソフィアは初めて。


《非専属》


という三文字を。


ほんの少しだけ、気に入らないと思った。

ここまでお読みいただきありがとうございます!

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