氷の姫、謎の男の実在を認める
「います」
氷室ソフィアがそう答えた瞬間、会見場の空気が止まった。
ギルド本部の公式会見室。
正面には複数の中継カメラ。
左右にはスポンサー、探索者専門誌、配信メディアの記者たち。
壁面モニターには、配信開始から高速で流れ続けていたコメントが、ほんの一瞬だけ途切れていた。
質問した記者自身も、返答の早さを予想していなかったらしい。
「……それは、近頃噂されている外部サポートの存在を認める、ということでしょうか」
ソフィアは背筋を伸ばしたまま、静かにマイクを見た。
朔との契約を更新してから、三週間。
「素材回収と後処理について、助言を受けている非公開の技術協力者がいます」
止まっていたコメント欄が、爆発した。
『いるの!?』
『謎の男、実在してて草』
『肉質が死ぬ男、妄想じゃなかった』
『非公開の技術協力者って何者だよ』
『氷姫が認めたぞ』
ソフィアは、そのどれにも視線を動かさなかった。
ただ。
この答えを、彼女が一人で決めたわけではない。
―――話は、三日前に遡る。
◇
遠野朔のアパートには、二人分の食器があった。
食事を終えると、朔が二枚の皿を流しへ運び、ソフィアは自分のカトラリーを洗って水気を拭き、壁際の棚へ戻す。
それをどちらも、もう不自然だとは言わなくなっていた。
「朔さん。話があります」
食器を洗い始めかけた朔が、ソフィアを見る。
「食欲は」
「あります」
「胃は」
「問題ありません」
「魔力残量」
「七割です」
「睡眠」
「昨日は六時間半です」
「なら話せ」
「確認しないと聞いてくれないんですか」
「内容が体調に左右されるかもしれないから先に知る」
口調はいつも通り冷たかったが、ソフィアの前にはすでに食後の温かい飲み物が置かれていた。
ソフィアは何も言わず、端末をテーブルへ置いた。
表示されているのは、探索者掲示板のスレッドだった。
【検証】肉質が死ぬ男、バックヤード所属説
12:名無しの探索者
配信終了後の深層にいる
素材の扱いに詳しい
カメラの死角に慣れてる
これフロントじゃなくてバックヤードだろ
19:名無しの探索者
氷姫の配信日に入ってる後処理班を調べれば絞れそう
27:名無しの探索者
男の声と黒い手袋だけで、どうやって探すんだよ
34:名無しの探索者
じゃあ全員撮ればそのうち当たる
41:名無しの探索者
今日、南ゲートの搬入口にそれっぽい奴いた
その下には、動画が貼られていた。
ゲート裏の搬入口。
素材コンテナを押している若い作業員を、離れた場所から撮影したものだ。
顔にはぼかしが入っている。
だが、所属会社のロゴと作業区画は隠れていなかった。
朔は数秒だけ見た。
「別人だ」
「分かるんですか」
「班が違う。こいつは洗浄側だ」
「やはり、関係のない方ですね」
「撮ってる側が立入線を越えてる」
朔の指が、動画の端で揺れる黄色い鎖を示した。
見ている場所が違う。
ソフィアが無関係な職員の顔を見ていた間に、朔は作業区画と搬送導線を確認していた。
次の投稿には、別の作業員の後ろ姿。
その次には、バックヤードギルドへの問い合わせ結果。
さらに、深層清掃班の勤務表を入手しようとする書き込みまであった。
まだ、遠野朔の名前には届いていない。
だが、届かないからこそ。
候補にされた周囲の人間が、広く巻き込まれ始めている。
「今日、ギルドからも連絡がありました」
ソフィアは掲示板を閉じ、別の文面を開いた。
―――外部技術支援の有無について、次回の公式会見までに説明方針を提出すること。
確認が取れない場合、個人研究用素材の受領申請と、未登録補給物の使用を一時停止する可能性があること。
さらに、今後予定される大型案件への参加判断も保留されること。
朔は最後まで読み、端末を伏せた。
「素材枠と補給を止める気か」
「今の状態で、継続的な助言を受けていないと言い続けるのは難しいそうです」
「実際、受けてるからな」
「はい」
戦い方は変わった。
素材保全率は上がった。
魔力消費は減り、回復も早くなった。
個人研究用として持ち帰る素材も増えている。
誰にも支えられていないと言い張るには、変化が積み重なりすぎていた。
「なら、しばらく俺が現場から外れる」
朔が言った。
ソフィアは即座に顔を上げる。
「却下です」
「最後まで聞け」
「聞いても却下します」
「現場で接点を作らなければ、詮索は止まる」
「代わりに、私の補給と素材申請が止まります」
「保存食はある」
「三週間前と同じことをしようとしていますか」
朔が黙った。
ソフィアはテーブルの端に置かれた紙を指先で軽く叩いた。
何度も書き直し、最後には二人の落書きに近くなった契約書。
一人で終わらせない。
危険な時はいったん止めてもいい。
だが、その後は二人で話し合う。
三週間前、そう決めた。
「終わらせるとは言ってない」
「一人だけいなくなるのは、かなり似ています」
「現場を外れるだけだ」
「では、その案は二人で検討して、二人で却下します」
「もう結論が出てるだろ」
「はい」
「話し合いとは」
「朔さんが勝手に消えないための手順です」
ひどい定義だった。
だが、契約書の作成者の半分は朔自身である。
朔は反論を諦めたように椅子へ座り直した。
以前なら、ソフィアが帰った後に必要なものを用意し、一人でいなくなろうとしていたかもしれない。
しかし今回は、席を立たなかった。
それだけでも契約を更新した意味はあったと、ソフィアは思った。
「存在だけ、認めるのはどうでしょうか」
ソフィアが言った。
「素材回収と後処理について助言する、非公開の技術協力者がいる。それだけです」
「名前は」
「出しません」
「所属」
「非公開です」
「技術の中身」
「素材保全に関する助言、とだけ」
「食事は」
「出しません」
「補給効果」
「出しません」
「純造分解の話」
「ぜっったいに、出しません」
朔が小さく頷いた。
魔物を食べていることも。
食べられるようにしている人間がいることも。
その飯で、氷の姫の戦い方と身体が変わっていることも。
この禁忌を世間へ出すのは、危険すぎる。
「最終的な戦闘判断と、補給物を摂取する判断は、私が行っていると明言します」
「また自分だけで責任を被る言い方をするな」
「被るのではありません。そこは本当に私の判断です」
「こっちの指示が間違ってた場合は」
「二人で止めます」
「都合のいい契約だな」
「朔さんが作った部分もあります」
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
換気扇の低い音。
洗い終えていない食器から、水滴が一つ落ちる。
やがて朔が、掲示板に映っている無関係な職員の後ろ姿を見た。
「これ以上、別の奴に寄る前に止めた方がいい」
「はい」
「ただし、専属とは言うな」
「……そこは重要ですか」
「重要だ」
「分かりました。非専属の技術協力者です」
「担当でもない」
「では、何ですか」
「素材の状態を見て、必要なことを言ってるだけだ」
「私の胃と睡眠まで見ていますが」
「素材を持ってくる人間が倒れると困る」
「指先の震えも」
「素材を壊す」
「朔さんの食事を私が確認するのは?」
「……契約のせいだ」
「双方向ですね」
朔は答えなかった。
ソフィアは、会見用に用意していた回答案を開いた。
「では、これで出します」
『素材回収と後処理について、非公開の技術協力者から助言を受けています』
読み上げてから、朔を見る。
「関係性について聞かれた場合は」
「技術協力者だ」
「それ以外に何がある、とは言わないんですね」
「何の確認だ」
「会見で余計なことを言わないための確認です」
「今の質問が一番余計だ」
ソフィアは温かいカップを持ち上げた。
少しだけ、口元が緩んでいた。
「この回答を、一緒に決めたことは言いません」
「言う必要がない」
「はい。私たちの契約は、公開事項ではありませんから」
公にするのは、技術協力者の存在だけ。
同じ食卓も。
互いの体調を報告することも。
勝手に終わらせないと決めたことも。
そのどれも、二人の間に残す。
朔は回答案を最後まで確認し、短く言った。
「それでいい」
◇
そして、三日後。
ソフィアは会見場で、世間に向かってその存在を認めた。
「その技術協力者が、近頃の戦闘スタイルの変化にも関与しているのでしょうか」
別の記者が問う。
「助言を取り入れた部分はあります」
ソフィアは否定しなかった。
「ですが、現場での最終判断はすべて私が行っています。討伐方法を選び、その結果に責任を持つのは、探索者である私です」
「補給内容についても、協力者が決めていると?」
「摂取するかどうかを最終的に判断するのは私です」
「協力者の氏名や所属は」
「お答えできません」
「男性だという噂は事実ですか」
「お答えできません」
「深層で活動でき、素材保全にも精通していることから、大手ギルドの技術部門に所属していた人物ではないかという推測もありますが――」
「根拠のない詮索には回答いたしません」
冷たい声だった。
だが、拒絶しているのは自分への質問ではない。
ソフィアは一度だけ会見場全体を見渡した。
「現在、技術協力者を探す目的で、関係のないバックヤード職員への問い合わせや、作業区域での無断撮影が発生していると報告を受けています」
ざわつきが小さくなる。
「探索者の活動は、配信に映らない多くの方々によって支えられています」
素材を運ぶ者。
血と瘴気を洗う者。
壊れた機材を回収する者。
誰にも褒められない場所で、次の探索を成立させる者たち。
その中に、遠野朔もいる。
「業務を妨げ、安全を損なう行為はお控えください」
ソフィアはまっすぐ、カメラを見た。
「私を支えている方を探すために、私を支えてくださっている方々へ迷惑をかけることを、私は望みません」
コメント欄から、軽い冗談が消えた。
『これは正論』
『バックヤード凸は普通に駄目だろ』
『謎の人は気になるけど迷惑かけるのは違う』
『氷姫、ちゃんと全員守りにいったな』
ソフィアは最後まで、朔の名前を出さなかった。
料理も。
契約も。
古いアパートの裏口も。
何一つ、渡さなかった。
―――そして会見を終え、控室へ戻る途中。
担当マネージャーが、薄い書類の束をソフィアへ差し出した。
「存在を認めた以上、次の公式案件へ関わるなら、本人の署名が必要よ」
ソフィアは足を止め、書類を受け取った。
表紙には、『限定外部技術協力者登録申請書』とある。
名前を外へ出すためのものではない。
ギルド内部で、朔を正式に技術協力者として扱うための書類だ。
「会見で認めるだけでは、足りないのですね」
「あなたの個人的な助言者で終わるなら必要ないわ。でも今後、公式案件の現場に入れるなら話は別」
マネージャーは、書類の署名欄を指先で叩いた。
「あなたの署名だけでは登録できない。本人の同意が必要よ」
「……分かりました」
返事をしながら、ソフィアは空白の署名欄を見た。
名前を出すことさえ嫌がる男が。
自分を『氷室ソフィア担当』として登録される書類へ、素直に署名するだろうか。
おそらく、しない。
少なくとも、一度は消そうとする。
「難しい相手?」
マネージャーに問われ、ソフィアは書類を鞄へ収めた。
「大型戦よりは、少し」
◇
その夜。
ソフィアは大型魔物と向き合う時よりも、わずかに難しい顔をして、地上ゲート裏のアパートへ向かった。
「余計なことは」
朔はアパートへ来たソフィアを見るなり聞いた。
「言っていません」
「食事は」
「言っていません」
「浄化は」
「言っていません」
「俺が男かどうかは」
「答えていません」
「見れば分かるだろ」
「世間はまだ見ていませんから」
ソフィアは鞄から一枚の書類を取り出し、テーブルへ置いた。
表題は、『限定外部技術協力者登録申請書』。
存在を公表することと、朔を公的案件へ入れることは別だ。
今後も素材保全の助言を続けるなら、ギルド内部に限って身元と役割を登録する必要がある。
閲覧できるのは、ギルドの安全管理部門と案件責任者のみ。
スポンサーや外部メディアには非公開。
朔は書類へ目を通す。
そして、担当業務の欄で止まった。
『氷室ソフィア担当・素材保全技術協力』
ペンを取る。
『氷室ソフィア担当』の部分へ、横線を引いた。
「なぜ消すんですか」
「担当じゃない」
「今までの話を聞いていましたか」
「聞いたから消した」
「私の素材回収と後処理について、継続的に助言する役割です」
「素材担当でいい」
「私が持ち帰る素材です」
「素材はあんたじゃない」
「分かっています」
「なら消せ」
ソフィアは書類を自分の側へ引いた。
「担当を消すと、案件ごとに誰の助言者なのか確認が必要になります」
「確認すればいい」
「そのたびに説明する方が目立ちます」
朔が黙る。
実務の話になると、ソフィアも引かなかった。
世界ランク上位の探索者として、案件書類には慣れている。
―――最終的に。
『氷室ソフィア担当(非専属)・素材保全技術協力』
という、少し苦しい文面が完成した。
「担当なのに非専属なんですね」
「専属じゃない担当だ」
「私以外の担当をする予定があるんですか」
「必要なら」
「事前協議が必要です」
「試食係の追加の話だろ」
「素材だけ持ってくる人なら構いません」
「条件が増えてるぞ」
「契約ですから」
朔は非常に納得していない顔で、書類へ署名した。
そのまま立ち上がりかけて。
ソフィアを見る。
「座れ」
「今、来たばかりですが」
「呼吸が浅い」
「通常です」
「通常より肩が上がってる」
会見中は、誰にも気づかれなかった。
記者にも。
スタッフにも。
何十万人の視聴者にも。
だが朔は、ソフィアが書類を押さえる指と、息を吸う間隔を見ただけで気づいた。
「緊張はしていません」
「そうか」
否定しない。
ただ、椅子を引く。
「なら食えるな。書類の話は終わった、食事にするぞ」
「……はい」
ソフィアは素直に座った。
朔が作業台の下から、黒い鋳鉄鍋を持ち上げる。
ずいぶん重そうだった。
蓋も厚く、持ち手も無骨で、置かれただけでテーブルの脚が低く鳴る。
側面には、見慣れない刻印。
PETROVAX。
「新しい道具ですね」
「そうだ」
「また増えましたね」
「必要だった」
「持ち運ぶんですか」
「今日は持ち運ばない」
「では、なぜ買ったんですか」
「火が逃げない」
ソフィアは鍋を見た。
「重さも逃げませんね」
「そこが問題だ」
朔は真顔で答えた。
黒い鍋の隣には、下処理された霞羽鴨の胸肉が置かれていた。
霧の濃い水辺階層に棲む鴨型の魔物。
薄紅色の肉に、白い皮と脂が重なっている。
「羽根の付け根と脂腺に瘴気が寄る」
朔は細い刃を入れ、皮の裏に残っていた黄色い脂の塊を薄く削いだ。
「ここを潰すと、軽い脂が全部駄目になる」
刃先が脂腺を避け、筋膜の間を滑る。
「純造分解」
淡い光が一度だけ走った。
腐った霧のような臭いが消え、代わりに澄んだ脂の香りが立つ。
朔は胸肉の水分を拭き取り、皮へ浅く格子状の切れ目を入れた。
肉までは届かせない。
塩を振り、冷たいままのダッチオーブンへ皮目を下にして置く。
火は弱い。
最初は何も起こらない。
やがて。
ち、ち、と小さな音が鳴った。
白い皮の下から、透明な脂がゆっくり滲み出す。
重い鋳鉄へ熱を溜め、皮の内側にある脂だけを少しずつ落とす。
肉を押さえつけず鍋を傾け、溶け出した脂を小さな器へ移す。
また戻す。
皮が縮み、淡い狐色へ変わっていく。
「いい匂いです」
「まだ脂が焼けてるだけだ」
「その段階で、もういい匂いです」
「会見後で感覚が緩んでるな」
「食欲は正常です」
「さっき聞いた」
皮が十分に締まると、朔は胸肉を返した。
肉側には短く熱を当てるだけ。
すぐに取り出し、鍋底へ鋳鉄製のトリベットを置く。
その上へ香草を敷いた。
霞羽鴨を皮目を上にして戻し、重い蓋を閉じる。
換気を最大にした調理台の上で、蓋の上へ小さな熾火を三つ。
下からだけではなく、上からも熱を入れる。
「オーブンなんですか」
「鍋だ」
「上にも火があります」
「だからオーブンになる」
「重い鍋に、さらに炭を乗せるんですね」
「熱は軽さで残らない」
朔は蓋用リフターで、わずかに蓋をずらした。
一瞬だけ逃げた蒸気に、鴨の脂と香草の匂いが混ざる。
ソフィアの視線が、鍋から離れなくなった。
その間に、朔は白い果実を取り出した。
白晶桃。
乳白色の果皮の下に、薄く透けるような果肉を持つダンジョン果実だ。
皮と種の周囲を厚めに切り落とし、安全な果肉だけを粗く刻む。
先ほどの鍋に残った焼き汁を小さなパンへ移し、白ワインを少量。
底へ固まった旨味を木べらで剥がす。
そこへ白晶桃。
果肉が熱で崩れ、透明な果汁が広がった。
甘い香りの後から、舌の奥を想像だけで刺激する、鋭い酸味が立つ。
塩をひとつまみ。
白晶桃は潰しすぎず、果肉の形を少し残したまま火を止める。
やがて朔は、ダッチオーブンから霞羽鴨を取り出した。
すぐには肉を切らない。
網の上に置き、肉汁が落ち着くまで休ませる。
「まだですか」
「まだだ」
「かなり待った気がします」
「会見より短い」
「比較対象がおかしいです」
「今切ると肉汁が逃げる」
それを言われると、ソフィアは待つしかない。
世界中の記者を前にしても崩れなかった氷の姫が―――。
一枚の鴨肉を前に、焼けた皮の端を気の抜けた顔で見つめている。
しばらくして、朔がナイフを入れた。
ぱり、と。
最初に皮が割れる音がした。
その下から、しっとりとした薄桃色の肉が現れる。
切るたびに、澄んだ肉汁が断面を濡らした。
二枚の皿へ、鴨肉が並べられる。
白晶桃の酸味ソース。
焼いた香草。
そして、皮の一番濃く焼けた端。
ソフィアの視線が、そこで止まった。
朔の皿を見る。
自分の皿を見る。
もう一度、朔の皿を見る。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「一番香ばしそうな部分が、こちらにあります」
「置いたからな」
「朔さんの分は?」
「今のあんたの体調なら、そっちだ」
意味が分からない。
分からないのに。
いや、分からないからこそ。
何か特別なことをされた気がして、会見中、一度も揺れなかった心臓が、少しだけ落ち着かなくなった。
朔はすでに自分の皿へ視線を落としている。
特別なことをした顔ではない。
ただ、必要な部位を必要な側へ置いた。
それだけの顔だった。
「食え。冷めると皮が戻る」
「……いただきます」
ソフィアは、まず端ではない一切れを取った。
薄桃色の肉に、白晶桃の果肉を少し乗せる。
口へ運ぶ。
最初に、皮が鳴った。
ぱりっ、と薄く砕ける。
その直後。
柔らかな胸肉から、温かい肉汁が溢れた。
鴨の旨味は濃い。
だが、脂は驚くほど軽い。
香草の青い香り。
皮の香ばしさ。
噛むほど広がる、わずかに野性味を含んだ肉の甘み。
そこへ、白晶桃の酸味が鋭く入る。
脂を消すのではない。
濃い旨味の輪郭だけを残し、次の一口が欲しくなるところまで口の中を軽くする。
「……ん」
声が漏れた。
ソフィアは慌てて唇を閉じた。
だが、もう遅い。
肩から力が抜けていく。
浅かった呼吸が、少しずつ深くなる。
肺の奥に引っかかっていたものが溶け、空気が冷たく澄んで入ってきた。
会見中、途切れず張り続けていた集中。
記者の声。
カメラの光。
一言でも間違えれば朔へ届くかもしれない視線。
それらが、噛むたびに遠ざかっていく。
「どうだ」
「……美味しいです」
「呼吸は」
「楽になりました」
「頭は」
ソフィアは一度、目を閉じた。
会見の質問が何度も頭の中で繰り返されていたはずなのに、今は静かだった。
「戻りました」
「なら端も食え」
言われなくても、そのつもりだった。
一番香ばしい皮の端。
歯を入れた瞬間、先ほどより乾いた音が鳴る。
ぱりぱりに焼けた皮の内側から、凝縮された脂がほんの少しだけ滲む。
白晶桃の酸味を合わせる。
香ばしい。
濃い。
軽い。
飲み込んだ後に、もう一度同じ端を探したくなる。
だが、一番端は一つしかない。
ソフィアは名残惜しく皿を見つめた。
「追加はない」
「まだ何も言っていません」
「目が言ってる」
「観察範囲が広すぎます」
「契約だろ」
朔はそう言いながら、席を立った。
自分の皿には、まだ手をつけていない。
ソフィアはその皿を見た。
「朔さん」
「何だ」
「食事は」
「片付けてから食う」
「冷めると皮が戻るのでは?」
朔の手が止まる。
「……少しくらいなら問題ない」
「報告内容と違います」
「誰への報告だ」
「私です」
ソフィアは、朔の皿を椅子の前へ戻した。
「長時間作業後の食事も、管理対象です」
「今日は長時間じゃない」
「会見回答の確認。登録書類。霞羽鴨の処理と調理」
「数えてたのか」
「双方向ですから」
朔は非常に面倒そうな顔をした後、椅子へ座った。
「食えばいいんだろ」
「はい」
「その顔は何だ」
「通常の顔です」
「通常より満足そうだぞ」
「料理が美味しかったので」
ソフィアは澄ましたまま答えた。
公には、非公開の技術協力者。
この部屋では、飯を作る男と試食係。
そして、それだけでは足りなくなったから更新された、双方向の契約相手。
その関係の呼び方がいくつあっても。
同じ食卓で食べることだけは、変わらない。
―――その時。
テーブルの上で、二人の端末がほぼ同時に震えた。
ギルドからの通知だった。
朔が先に開く。
表題を見て、目を細めた。
【地熱水路階層・焔鰭大鯰素材保全実証への参加打診】
添付資料には、五メートルを超える巨大魚型魔物の図。
高温の地下水路を泳ぐ、焔鰭大鯰。
体内には、地熱と魔力を蓄える《蓄熱浮袋》を持つ。
災害用保温材や寒冷階層用装備への転用が期待されながら、これまでの回収実証はすべて失敗。
原因の欄には、赤い文字が並んでいた。
――損傷による内部魔力液の相変化(凍結も同様)。
遅れて起きる急激な再膨張。
浮袋破裂。
高温魔力液の飛散。
周辺素材の汚染。
肉質の泥状化――
まるで今日公認となった協力者の実力を試す、と言わんばかりの打診内容。
ソフィアは資料を最後まで読み、朔を見た。
「つまり、私に巨大な魚を凍らせずに捕獲しろと」
「違う」
朔は図面を拡大した。
大鯰ではない。
その周囲を走る、地熱水路の分岐を見ている。
「魚は凍らせるな」
指が、水路の一本をなぞる。
「水路を凍らせろ」
ソフィアはもう一度、巨大魚の図を見た。
五メートル。
高温水中。
凍結禁止。
これまでの自分と、最悪に相性の悪い素材。
「できますか」
「捕るのはあんただ」
「そういう意味ではありません」
「手順は作れる」
朔は立ち上がり、棚からノートを取った。
必要なものを書き始める。
温度保持ケース。
耐熱タープ。
搬送フレーム。
耐熱ホース。
流量バルブ。
低火力の観察用ストーブ。
高出力の加熱器。
ソフィアには、途中から何が違うのか分からなくなった。
「全部、買うんですか」
「現物を見ないと決められない」
「すでに火をつける道具は何個もありますよね」
朔のペンが止まった。
「火が違う」
嫌な予感がした。
これは長くなる顔だ。
「明日、空けろ」
「探索ですか」
「買い物だ」
凍らせてはいけない五メートルの魚を捕るために。
翌日。
氷の姫は、「専属ではない担当」と、キャンプギアを買いに行くことになった。
――――――――――――――あとがき―――――――――――――
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