氷の姫、交渉する
小さな泡が、霜角巨牛のカレー出汁の表面で一つ弾けた。
部屋中央の折りたたみテーブルは、調理台のすぐ脇まで寄せられている。
ソフィアの前には、氷室ソフィアの名前だけが書かれた紙。
朔の右手側には、弱火にかけられた鍋と、封の切られていないうどん。
朔は紙と鍋を見比べた。
「……何を決める」
うどんの袋から、朔の手が離れる。
ソフィアは膝の上で握っていた指をほどいた。
「まず、先ほど書いた条項です」
「却下する」
「では、今夜はうどんが胃に入りません」
「胃を人質にするな」
「私の胃です」
朔の眉間に皺が寄った。
ソフィアは、ペン先だけを一行目に置く。
「契約の変更と終了には、双方の合意を必要とする。これでいきます」
「明確な危険が出た時に、話し合ってる時間があるとは限らない」
「だから、一人で終わらせていいと?」
「止める必要があるなら止める」
「止めた後は?」
「状況次第だ」
「必ず話し合ってください」
「危険が消えなければ、結論は変わらない」
「それでもです」
ソフィアはペンから手を離し、朔を見た。
「一人で終わらせるのは禁止します」
弱火の鍋から、ことり、と小さな音がした。
朔は出汁の表面を見たまま、しばらく黙っていた。
「……危険が明確な場合は、片方の判断で一時停止できる」
「一時停止した後は?」
「必ず話す、だろ」
朔が少し諦めたように答えた。
「二人で?」
「他に誰がいる」
「では、それで」
ソフィアは少し笑って、先ほどの一行を横線で消した。
その下へ、今度は少しだけ柔らかい言葉で書く。
―――危険な時はいったん止めていい。ただし、契約を変える時も、終わらせる時も、その後は必ず二人で話し合って決める。
書き終えた紙を押し出すと、朔が指先で端を止めた。
「終わらせない、とは書かないんだな」
「書いても、朔さんは同意しないでしょう」
「しない」
「知っています」
ソフィアはもう一度、ペンを持った。
「だから、一人では決めない。それだけは守ってください」
朔の指が、紙から離れた。
「……分かった」
小さな声だった。
鍋の小さな煮立つ音に紛れてしまいそうなほど。
それでも、ソフィアは聞き逃さなかった。
「一つ聞く」
「はい」
「あんたは、この飯がなくなるのが嫌なだけだろ」
カレーの湯気が、二人の間を通り抜ける。
骨出汁。
焦がし玉ねぎ。
生姜と香辛料。
赤ワインで煮込んだ肉から移った、わずかな甘さ。
ソフィアの胃は、さっきから一度も静かになっていない。
「それもあります」
「なら、別の安全な補給方法が見つかれば済む」
「それでは済みません」
朔が顔を上げた。
ソフィアも、自分の返事の速さに少しだけ目を瞬かせる。
最初にこの部屋へ来た時、目に入ったものは、ほとんど理解できなかった。
壁を埋める銀色の器。
折り重なった黒い鉄板。
用途の分からない細い刃物。
調味料の瓶と、毒検知紙が同じ棚に並んでいる。
座らされた折りたたみ椅子は硬く、テーブルには傷が多かった。
今は、RainPeakのどんぶりがどこにあるか分かる。
ZOTOのガス缶を置く棚も。
朔がよく使う温度計と、触ると怒られる砥石の場所も。
棚の端にあったはずの、自分用のカトラリーがケースへ戻されていることも。
この部屋では、配信もスポンサーもランキングも考えなくていい。
普通の女の子のように、腹が減ったと言っていい。
頬が緩んでも、白飯をおかわりしても、それを好感度や広告価値へ変換されない。
朔は、氷の姫としての完璧さを求めない。
食べる量と胃の状態には異常に厳しいが、それ以外を値踏みしない。
「……私は、もう食事だけをしに来ていたわけではありません」
朔は何も言わなかった。
「ここでは、誰にどう見えるかを考えなくていいんです」
「食い方は見てる」
「そういうところです」
ソフィアは少し笑って、小さく息を吐いた。
「お腹が空いたと言って、食べて、美味しいと言っても、それ以上のものを求められない」
「感想は求めてる」
「それも、料理の感想だけでしょう」
「他に何を聞くんだ」
本当に分かっていないらしい。
それが少しだけ可笑しくて、安心した。
ソフィアは膝の上で指を組む。
「つまり……私は、この場所が……少し、居心地よくなっていたんです」
口に出した途端、部屋の狭さが急に気になった。
朔との距離も。
鍋の音も。
膝の上に置いた自分の手も。
ソフィアは視線を紙へ落とした。
朔は何も言わず、すぐ脇の鍋へ手を伸ばし、火を少し弱める。
カレー出汁が、一度だけ大きく膨らみ、静まった。
今聞かなければ、もう聞けない。
そんな気がして、ソフィアはさらに口を開いた。
「朔さんは」
「何だ」
「私と試食する時間は、そんなに悪いものでしたか」
鍋の中で、すじ肉がゆっくり沈んだ。
いつもなら、すぐに返ってくるはずの言葉が来ない。
ソフィアは、質問を取り消したくなった。
けれど、組んだ指をほどかずに待つ。
どこを見ていればいいか分からなくなって、紙の端へ目を向けた。
自分で書いた文字が、先ほどより少し歪んで見える。
聞かなければよかったかもしれない。
そう思い始めた頃、朔が鍋を見たまま答えた。
「……悪いとは言わない」
その一言が、胸の奥へ静かに落ちた。
組んだ指から力が抜け、ソフィアはようやく息を吐いた。
「では、それも契約を続ける理由に入れてください」
「感情は契約条件にならない」
「私の食欲は毎回条件に入れるのに?」
「食欲は数値化できる」
「居心地も、私が数値として報告します」
「報告項目を勝手に増やすな」
「双方の合意が必要でしたね。では、協議しましょう」
「却下する」
「今後も報告はします」
「勝手にしろ」
ソフィアは紙の隅へ、小さく書いた。
居心地――随時報告。
朔がそれを見つけ、一本の横線を引く。
ソフィアはその下に、もう一度書いた。
居心地――勝手に報告。
「増やすな」
「一つ消されたので、数は同じです」
「そういう問題じゃない」
「では、これも後で協議します」
「しない」
ソフィアは口元を隠すように、ペンを持ち直した。
先ほどまで、うどんを食べられるかどうかすら分からなかった。
今は、紙の隅へ何を書くかで朔と揉めている。
「胃の状態」
ソフィアが読み上げる。
「必要だ」
「魔力残量」
「当然」
「睡眠時間」
「短ければ前日の食事を変える」
「食欲、冷え、手元の震え……」
紙の左側へ、短い言葉が並んでいく。
配信や討伐の予定。
潜る階層。
使う予定のスキル。
補給できる時間。
前日に食べたもの。
ソフィアが書き忘れた項目を朔が口にし、朔が細かくしすぎた項目をソフィアが一つにまとめる。
「肩のこわばりは、体調で十分では?」
「手元の震えとは原因が違う」
「呼吸の浅さも体調に入ります」
「判断するのは俺だ」
「報告するのは私です」
「細かく分けろ」
「紙が足りません」
「裏を使え」
「これは裏です」
朔が黙った。
ソフィアは少しだけ満足して、紙の中央へ縦線を引いた。
右側へ、朔の報告項目を書き始める。
「何をしてる」
「双方の契約ですから、朔さんの項目も必要です」
「俺は探索者じゃない」
「危険な食材を扱っています」
「仕事だ」
「毒を血に入れたこともあります」
「一度だけだ」
「一度あれば十分です」
毒や瘴気への接触。
【純造分解】使用後の異常。
怪我。
火傷。
睡眠不足。
食事を抜いた時。
危険食材の単独処理。
ソフィアのペンは止まらない。
「長時間作業も入れます」
「基準は」
「私の睡眠時間を管理する人が、自分で考えてください」
「曖昧だな」
「では、六時間以上」
「素材次第では普通に超える」
「だから書くんです」
「体調不良を隠しての調理、も追加します」
「隠してない」
「聞かれなければ言わないのは、隠しているのと同じです」
「違う」
ソフィアは返事をせず、書き足した。
朔側の欄だけが、左側より長くなった。
「俺の方が多い」
「危険行動が多いからです」
「必要ない」
「必要かどうかは、管理する側が決めるのでは?」
「横暴だな」
「朔さんに教わりました」
朔が紙へ手を伸ばす。
ソフィアは取られないように、少しだけ自分の方へ引いた。
その時、伸ばされた指が目に入った。
親指の付け根。
赤くなった皮膚に、小さな火傷の跡が残っている。
ソフィアは紙ではなく、朔の手首を掴んだ。
「これは怪我に入ります」
「書ける程度だ」
「程度を決めるのは、管理する側では?」
「まだ契約は更新してない」
「でしたら、先に更新してください」
朔の手のひらを上へ向ける。
赤みは小さい。
水膨れにもなっていない。
けれど、一か所だけではなかった。
人差し指の側面にも、薄い切り傷がある。
ソフィアが指先を近づけると、朔の視線も下がった。
火傷ではなく、手首を掴んでいるソフィアの指へ。
そこでようやく、ソフィアは自分が何をしているのか気づいた。
手を離す。
少し勢いがつきすぎて、朔の手が宙に残った。
「……怪我の報告を追加します」
「もう書いてある」
「軽い怪我も、です」
ソフィアは右側の『怪我』の横へ、小さく書き足した。
本人が軽いと判断したものを含む。
「触る必要はなかっただろ」
「口頭では信用できません」
「面倒な契約だな」
「まだ増えます」
「まだあるのか」
先ほどより、朔の声から刺が抜けていた。
ソフィアは咳払いを一つして、紙へ視線を戻した。
少し迷ってから、一行を加える。
―――試食係を追加または変更する場合、事前に双方で協議すること。
朔が読む。
「これは必要か」
「必要です」
「理由は」
「感想がぶれます」
「一人増えた程度でぶれない」
「ぶれます」
「断言するな」
「味見役としての判断です」
「増やす予定はない」
ソフィアのペンが止まった。
「……そうですか」
「何だ」
「いえ。でしたら、この条項があっても問題ありませんね」
「予定がないなら必要もないだろ」
「問題もありません」
「もう多すぎて訳が分からない、消せ」
「嫌です」
朔がソフィアの手からペンを取り、横線を引こうとする。
ソフィアは紙を引いた。
ペン先が空を滑り、試食係の『試』にだけ短い線がつく。
「契約書を汚さないでください」
「あんたが書いた紙だろ」
「二人分になりました」
「まだ名前は書いてない」
「では、早く書いてください」
「順番がおかしい」
ソフィアはペンを取り返し、線のついた『試』を丁寧になぞり直した。
その下へ、さらに一行を加える。
長時間作業後、調理者は自分の食事も取ること。
「契約と関係ない」
「三日間、私の保存食を作り続けて、自分の食事を抜いた人が言うことではありません」
「抜いてない」
「いつ食べましたか」
「必要な時に」
「何を」
「……」
「追加します」
朔が露骨に嫌そうな顔をした。
ソフィアは、右側の欄へ小さな丸をつける。
「俺の食事まで管理するのか」
「私の胃を管理している人が倒れたら困ります」
朔は反論しなかった。
ソフィアがペンを紙の上へ置くと、朔がそれを取った。
紙の一番下へ、自分で書き始める。
―――訪問時の居座りは十五分まで。
ソフィアはすぐに、朔のペンを止めた。
「これは必要ありません」
「必要だ」
「食後すぐに動くと、胃が驚く場合があります」
「十五分で十分だ」
「体調次第です」
「都合よく変えるな」
「必要かどうかは、管理する側が決めます」
「俺の部屋だ」
「私の胃です」
二人の手の間で、ペンが動かなくなる。
しばらく押し合った後、紙に短い線だけが残った。
どちらの条件にもならない、中途半端な線。
「では、居座り時間については明文化しません」
「そこを一番書け」
ソフィアは聞こえなかったことにして、ペンを自分の側へ戻した。
紙の上には、縦線、横線、追記、小さな丸。
最初の『居心地――随時報告』には一本の取り消し線が引かれ、その下に『居心地――勝手に報告』と残っている。
もはや契約書と呼ぶには、少し散らかりすぎていた。
けれど、最初に書いた一行だけは消えていない。
―――勝手に終わらせない。
危険な時はいったん止めても、その後は二人で話す。
朔は紙を上から下まで目で追った。
「本当に危険になっても、続けるのか」
「危険になったら、続け方を二人で考えます」
「続けられない可能性もある」
「分かっています」
「やめる選択肢も残せ」
「残します」
ソフィアは、中央の縦線を指先でなぞった。
「ただし、一人では選ばないでください」
朔はしばらく紙を見ていた。
やがて、ソフィアの手からペンを取る。
中央線の右側。
その一番下へ、短く署名した。
遠野朔。
契約更新だとも、これからも食わせるとも言わない。
けれど、紙に、ようやく二人分の名前が揃った。
ソフィアは自分の名前と並んだ三文字を見つめた。
朔はペンを置き、棚の端に置かれていた小さなケースを取る。
中には、ソフィア用のRainPeakのカトラリーが入っていた。
朔はケースを開け、カトラリーを以前あった棚へ戻した。
銀色のスプーンと箸が、調味料ケースの隣へ収まる。
「そこに戻すんですね」
「使うんだろ」
「はい」
「なら、ケースに入れておく意味がない」
ソフィアは契約の紙へ視線を落とした。
口元が緩む前に隠したつもりだった。
「何だ」
「何でもありません」
「なら、もう食うぞ」
朔が、うどんの袋を手に取った。
封が切られる。
パリ、と乾いた音がした。
それだけで、ソフィアの胃が返事をした。
「今のは」
「聞こえた」
「三日間、不安だったので」
「腹の音の理由に感情を使うな」
「食欲は報告項目ですよね」
「多い、で、記録しておく」
「契約書へ書くんですか?」
「調理記録だ」
朔はもう一台のZOTOのバーナーへ片手鍋を置いた。
点火装置を押す。
カチリ、と鳴り、青い炎が鍋底を包んだ。
湯が細かく揺れ始める。
沸騰する少し前に、朔は冷凍うどんを沈めた。
白く固まっていた麺の輪郭が、湯の中でゆっくりほどけていく。
「直接、カレーの鍋へ入れないんですか」
「出汁が薄まる。煮すぎると麺も死ぬ」
「うどんも死ぬんですね」
「伸びた麺は戻らない」
朔は箸で無理に崩さない。
湯の流れに任せ、外側がほどけたところで一度だけ返す。
中心まで完全に温まる前に引き上げ、ざるへ移した。
朔は片手鍋の火を止める。
湯気が上がる。
朔はざるを軽く振り、表面の水分を丁寧に落とした。
それからカレー鍋の火を少し上げ、霜角巨牛のカレー出汁へ麺を滑らせる。
褐色の出汁が、白いうどんへゆっくりまとわりついた。
底からレードルを入れ、大きく返す。
柔らかく煮えたすじ肉が、焦がし玉ねぎの間から顔を出した。
霜角巨牛の骨は、一度焼いてから煮出してある。
骨の周りに残った端肉。
硬くて商品にならないすじ。
赤ワイン煮込みを作った鍋に残った、肉と香味野菜の旨味。
鍋の中には、大型討伐で誰にも選ばれなかった部分が集まっている。
朔は麺へ出汁を絡める。
出汁がふつりと煮立ち直したところで、すぐに火を弱めた。
長くは煮込まない。
麺が出汁を吸いすぎる寸前で止める。
最後に、小さな瓶から醤油を落とした。
鍋肌へ、ほんの少し。
ジュッ、と短い音が鳴る。
香ばしい醤油の匂いが起き、カレーの湯気と重なった。
ソフィアの喉が鳴る。
もう、先に否定しなかった。
朔が棚へ手を伸ばす。
先ほど戻したばかりのRainPeakのカトラリー。
続いて、いつものチタンどんぶり。
レードルですじ肉を一度すくい、量を見て鍋へ戻す。
次は麺と一緒にすくう。
太いうどん。
とろみのついたカレー出汁。
箸を入れればほどけるすじ肉。
ソフィアの前へ、湯気を立てる一杯が置かれた。
「食え」
「食べていいんですか」
「契約は終わってないんだろ」
「更新されましたからね」
「冷める」
「いただきます」
箸を入れる。
うどんを持ち上げると、濃い出汁が太い麺へ絡みついた。
湯気が頬に触れる。
ソフィアは息を吹きかけ、口へ運んだ。
熱い。
最初に舌へ触れた出汁が、香辛料の熱を残して喉へ落ちる。
その後から、骨の旨味が押し寄せた。
深いのに、重すぎない。
焦がし玉ねぎの甘さ。
赤ワインのわずかな酸味。
生姜の鋭い香り。
醤油が、カレーの奥から輪郭を引き出している。
太いうどんには、噛み切る直前まで弾力が残っていた。
「ん……」
肩から、力が抜けた。
箸を持つ指が温まる。
喉の奥に引っかかっていた緊張も、湯気と一緒にほどけていく。
ソフィアはすじ肉を一つ掴んだ。
箸先で少し押しただけで、繊維が開く。
口へ入れる。
骨出汁とカレーを吸った肉が、舌の上でほろりと崩れた。
噛むほどに、赤身の旨味が出てくる。
脂は少ない。
その代わり、長く煮込まれたすじの甘さが残る。
「……美味しいです」
朔が鍋の火を止める。
「塩は」
「ちょうどいいです」
「辛さは」
「もう少し辛くても食べられます」
「今日は神経が疲れてる。刺激を増やす必要はない」
ソフィアはもう一口すすった。
カレーが胃へ落ちるたび、身体の内側が温まる。
魔力が一気に膨らむ感覚はない。
代わりに、張り続けていた細い糸が緩んでいく。
「……最後のご飯ではないと分かると、いつもより深みが増します」
「特別なことはしてない」
「そういう意味ではありません」
「なら、感想としては使えないな」
「美味しいです。とても」
「それでいい」
ソフィアはどんぶりへ顔を近づける。
少し目が潤んでいたが、湯気が目元を隠してくれる。
「おかわりにも、双方の合意が必要ですか」
「一杯目を食ってから協議する」
「原則として、ですね」
「都合よく覚えるな」
朔は鍋へ向き直った。
ソフィアは当然、自分のおかわりをよそうのだと思った。
けれど朔が手に取ったのは、別のRainPeakのどんぶりだった。
「朔さんも食べるんですね」
「調理者も食事を取るんだろ」
「初日から守ってくれるんですね。今後もお願いします」
「条件を増やすな」
朔は自分の丼へうどんをよそった。
残っていたすじ肉を入れ、ソフィアの向かいへ座る。
いつもなら、朔は鍋か作業台の前にいる。
ソフィアが食べる速さを見て、呼吸を見て、空いた器を片付ける。
今日は、テーブルの向こうに丼がある。
朔の手にも、箸がある。
狭い卓の上で、二つのどんぶりから同じ湯気が立った。
朔が何事もなかったように、うどんを食べ始める。
ソフィアも箸を動かした。
けれど、途中で止まった。
「朔さん」
「何だ」
「そちらの方が、すじ肉が多く見えます」
「重量は同じだ」
「私のすじ肉の方が小さいです」
「目測を信用するな」
ソフィアは自分の丼と、朔の丼を交互に見た。
「では、一つ交換してください」
「嫌だ」
「契約更新直後なのに」
「肉の交換は契約にない」
「追加します」
「するな」
ソフィアは箸を持ったまま、朔の丼にある一番大きなすじ肉を見つめた。
朔は無視して、うどんをすする。
ソフィアも一口食べる。
それから、また見る。
朔が箸を止めた。
「食いにくい」
「私は何もしていません」
「見てるだろ」
「大きさを確認しています」
「報告項目に肉の大きさはない」
「では、追加を」
朔はため息をついて立ち上がった。
鍋の底をレードルで探り、残っていたすじ肉を一つすくう。
それをソフィアの丼へ落とした。
「これで黙って食え」
ぽちゃん、と肉が出汁へ沈む。
ソフィアは丼の中を確認した。
「私の方が多くなりました」
「なら戻せ」
「もう私のものです」
ソフィアはすぐに肉を出汁の下へ隠した。
箸で麺をかぶせ、取り返されない位置まで沈める。
朔が呆れたように息を吐いた。
ソフィアは隠したすじ肉をもう一度探し出し、口へ運ぶ。
先ほどのものより大きい。
柔らかい肉の繊維に、濃いカレー出汁がたっぷり入り込んでいる。
頬が緩んだ。
朔は何も言わず、自分の丼へ視線を戻した。
呆れた吐息に、ほんの少しだけ笑いが混じった気がした。
ソフィアが顔を上げた時には、もういつもの無表情だった。
二人の箸が、交互にどんぶりへ触れる。
カレー出汁は少しずつ減り、うどんの湯気も低くなっていく。
条項を追加しすぎてもはや落書きのようになった契約書は、そっとテーブルの端へ避けられていた。
二人の名前の下には、互いの胃と睡眠と怪我と食事。
取り消された『随時報告』。
その下に残った『居心地――勝手に報告』。
書きかけで終わった、居座り時間の線。
正式な契約書には、到底見えない。
それでもソフィアは、食事の合間に何度かその紙を見た。
棚には、自分のカトラリーが戻っている。
向かいには、同じものを食べる朔がいる。
「朔さん」
「今度は何だ」
「明日の朝、睡眠時間を送ります」
「今まで通りだろ」
「朔さんも送ってください」
「必要なら送る」
「必要です」
「朝から面倒だな」
「契約ですから」
「楽しんでないか」
ソフィアはすじ肉を飲み込んだ。
「まさか」
その返事だけは、少し遅かった。
―――同じ頃。
氷室ソフィアの大型討伐配信を追っていた掲示板では、新しい書き込みが増え続けていた。
【考察】氷姫の謎の補給係、探す場所が違う説
1:名無しの探索者
配信事故
黒いボトル
素材を残す戦い方
ここまで揃って、まだ偶然って言う奴いる?
7:名無しの探索者
もう補給係が存在する前提で話してて草
13:名無しの探索者
でも最初の配信事故で男の声は入ってるんだよな
「凍らせるな。肉質が死ぬ」って
20:名無しの探索者
戦闘コーチなら肉質なんか気にしないだろ
27:名無しの探索者
じゃあ料理人?
33:名無しの探索者
深層に入れる料理人がどこにいるんだよ
41:名無しの探索者
料理人じゃなくて、素材回収とか解体側の人間じゃね?
48:名無しの探索者
大型討伐の日、後処理班もかなり入ってたよな
55:名無しの探索者
一般人の特定みたいになるからやめとけ
63:名無しの探索者
それはそう
でも、配信映像ばっかり見ても出てこないのは当然か
71:名無しの探索者
探すなら、配信が終わった後の現場じゃね?
その書き込みを最後に、スレッドはしばらく止まった。
―――世界はまだ知らない。
二人の契約が、ひっそりと更新されたことを。
試作品を作る裏方男と、素材を提供し味見をする氷の姫が、同じ鍋の飯を食べる関係になったことを。
恋人でも、専属の補給係でもない。
けれど、もうただの料理人と味見役でもない。
まだ名前のない、その関係の始まりを。
狭いアパートの一室、その食卓の丼が、初めて二つになっていたことを。
そして、その小さな食卓へ。
世界の視線が、静かに近づき始めていることを。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました!
今回をもちまして、『世界ランク3位の氷姫は、底辺清掃員のダンジョン飯なしではもう戦えない』第一章が完結となります。
応援やフォロー、星、コメントなど、いつも本当に励みになっています。
皆さまのおかげで、朔とソフィアも契約を盛大にこじらせながら、無事に第一章を走り切れました……!
第二章は、少しだけお休みを頂いて……一週間後の投稿開始を予定しています。
秘密の食卓へ少しずつ近づいてくる外の視線。
アパートを飛び出して増えていく、二人の楽しいイベント。
そして、さらに厄介で美味しい魔物たち。
飯テロも、ギア沼も、腹ペコ氷姫の崩壊も、ここからまだまだ加速していきます。
それでは一週間後。
次の飯と、次の騒動でまたお会いしましょう!




