氷の姫、カレーうどんを拒否する
『三日後、十九時』
『契約の話をする』
『素材は要らない』
遠野朔から届いたメッセージは、それだけだった。
素材は要らない。
その一文が、三日経っても氷室ソフィアの胸に引っかかっていた。
その間も、朝には『胃は』、夜には『睡眠は』と短い確認が届いた。
食欲と魔力残量を返せば、既読がつく。
けれど、次に何を作るかも、どの素材を持ってこいとも言われなかった。
契約の条件を変えるのだろうとは思った。
黒いボトルを使わない。個人研究用の素材申請を控える。アパートへ来る回数を減らす。
どれも嫌ではあるが、話し合う余地はある。
そう考えながら、ソフィアは地上ゲート裏の古いアパートへ向かった。
十九時になる一分前。
裏口の呼び鈴へ手を伸ばす。
いつもなら、その前に扉が開く。
今日は開かなかった。
紐を引くと、少し遅れて部屋の奥で何かが落ちる音がした。
やがて鉄扉が開く。
「遅い」
「まだ一分前です」
「……入れ」
朔はいつもの黒い長袖シャツに、黒いエプロン姿だった。
後ろで結んだ髪は少し乱れている。
目の下には、薄い影があった。
眠そうというより、眠気を後回しにしたまま動いている顔。
「朔さん」
「何だ」
「……いえ」
見すぎたのか、朔が眉を寄せる。
それ以上は聞かず、ソフィアは部屋へ入った。
最初に感じたのは、カレーの匂いだった。
焦がした玉ねぎ。
香辛料。
醤油。
その奥に、骨から取った濃い出汁と、赤ワインで煮た肉の甘い香りがある。
鉄鍋はZOTOの小型バーナーにかけられ、ごく弱い火で温められていた。
鍋の横には、まだ封の切られていない冷凍うどん。
ソフィアの腹が、反応しかける。
だが、今日はそれより先に目へ入るものがあった。
部屋の中央に、二つのMontaBell製保冷コンテナが置かれている。
片方には、真空パックされたスープや粥が隙間なく並んでいた。
白湯。
霜鳴り麦の粥。
薄い雑炊用の出汁。
霜角巨牛のすじ肉が入ったカレー出汁。
一つ一つに、白い耐水タグが貼られている。
朝。
戦闘翌日。
胃が重い時。
解凍後は再冷凍不可。
加熱は一回。
朔の字だった。
もう一つのコンテナには、CAPTAIN STAGGERの小鍋、計量匙、折りたたみまな板、保存容器。
その隅に、緩衝材で仕切られた小さな褐色の瓶が並んでいる。
十本。
一本ごとに小さな計量匙が括りつけられ、蓋には開封日を書くための白い帯まで巻かれている。
中身は、薄い灰色の粉末だった。
「これは何ですか?」
「持って帰れ」
朔は鍋の表面をレードルで混ぜながら答えた。
「全部ですか」
「そのために詰めた」
ソフィアは瓶を一本持ち上げる。
白いタグには、小さな字で書かれていた。
三百ミリに付属匙一杯。
開封後は湿気厳禁。
配信中使用不可。
持ち歩くのは一本まで。
「もしかして、霜苔羊の骨出汁ですか」
「ああ。煮詰めて、脂を落として、粉にした」
「こんなに」
「液体のままだと保たない。粉なら湯に溶かせる」
「一本で、何回分ですか」
「五回。朝晩使っても二十五日は持つ」
思っていたより長い。
朔は、ソフィアの一か月近い朝と夜の補給を用意していた。
ソフィアは並んだ瓶を見る。
十本とも、粉の色がほとんど同じだった。
それでもよく見れば、タグの端に小さな番号がある。
三。
五。
六。
八。
途中の数字が抜けていた。
「試作したんですか」
「粒が粗いと溶け残る。細かすぎると湿気る」
「何回」
「必要な分だ」
答えになっていない。
コンテナの横には、使い終えた真空袋の芯。
空の小瓶。
口を開けたままの調味料ケース。
流しには洗い終えた小鍋が三つ伏せられている。
いつもなら一つの作業が終わるたびに整えられる部屋が、今日はまだ片づけに追いついていない。
朔がレードルを置いた。
右手の指先が赤い。
親指の付け根には、小さな火傷の跡もあった。
「朔さん、寝ていませんね」
「寝た」
「何時間ですか」
「必要な分」
「その顔で言っても信用できません」
「俺の睡眠時間より、保存状態を見ろ」
話をずらされた。
ソフィアは瓶を元の場所へ戻した。
軽い音が、妙に大きく聞こえた。
「これを、三日間作っていたんですか」
「途中で濃度がずれた。作り直した」
「どうして、そこまで……」
朔は少しだけ黙った。
「急に食えなくなって倒れられたら、契約を切る意味がない」
言葉の意味が、すぐには入ってこなかった。
―――契約を切る。
頭の中で繰り返してから、ようやく息を吸う。
「……見直す、と聞きました」
「見直した結果だ」
朔はソフィアを見た。
眠気も疲労も、その目だけは隠していた。
「今日で契約を終わらせる」
ソフィアは、部屋に並ぶものをもう一度見た。
二週間分はある保存食。
用途ごとに違う濃さ。
先日自分が作ったスープを、これからも自分で作るための骨出汁の粉。
朔がいなくなった後まで考えて作られたもの。
胸の奥が、わずかに熱くなった。
朝の分。戦闘翌日の分。胃が重い日の分。
別れを告げるために、朔は眠る時間まで削って、ソフィアの先の食事を用意していた。
嬉しいと思ってしまった。
こんな時なのに。
喉の奥が詰まるほど、その不器用な丁寧さが嬉しかった。
RainPeakのカトラリーも、いつもの場所にはなかった。
洗われ、乾かされ、最初に見た時と同じ専用ケースへ収まっている。
自分が使うことを前提に増えたものが、一つずつ元の場所へ戻されていた。
まるで、この部屋から氷室ソフィアだけを外せば、出会う前の導線へ戻せるとでもいうように。
「理由を聞いても?」
「大型討伐の外部照会が、裏方にも来た」
「朔さん個人へ?」
「まだ俺個人じゃない。参加者全員への照会だ」
朔は短く答える。
「今は配置と作業内容の確認だけだ。だが、同じ現場で同じことを続ければ、そのうち繋がる」
「契約を終えれば、今までの記録が消えるんですか」
「消えない」
即答だった。
「これ以上増やさないことはできる」
朔は片方のコンテナを閉じた。
留め具が、硬い音を立てる。
「粉は一度に持ち出すな。一本なら、ただの自家製出汁で押し通せる。公式戦闘には持ち込むな。アパートで作ったスープを、配信の前後に飲むだけにしろ」
「その説明で、私が納得すると思っていますか」
「納得は要らない。使い方を間違えるな」
「そうではありません」
朔の手が止まる。
「これは、私のために決めたんですか」
「そうだ」
「では、私を抜いて決めないでください」
朔は目を逸らさなかった。
「正式に出れば、あんたの活動が止まる可能性がある」
「可能性です」
「大型案件も、個人研究用の素材申請も、スポンサーとの補給契約も確認される。賭けるには、あんたが失うものが多すぎる」
「それを決めるのは私です」
「俺がいなければ、新しい説明は増えない」
「私の戦い方は、もう戻りません」
「戻せとは言ってない」
朔の声は低かった。
「素材を残すのも、食うものを選ぶのも、続けたいなら続ければいい。そこに俺がいる必要はない」
胸の奥へ、冷たいものが落ちた。
同時に、腹の底ではカレーの匂いが熱を持っている。
朔は、自分がいなくても大丈夫なようにしたつもりなのだ。
スープを粉にして。
粥を一食分ずつ分けて。
胃の重い日まで、白いタグに書いて。
自分だけを、綺麗に抜こうとしている。
「二週間後は、どうするんですか」
「栄養担当と相談しろ。その間に、自分で食えるものを増やせ」
「この粉がなくなった後は?」
「普通の出汁で作れ。魔力は戻らないが、胃と喉は温まる」
「朔さんのご飯は?」
朔は答えなかった。
代わりに、冷凍うどんへ手を伸ばす。
「今日の分までは食わせる」
「つまり、最後の食事ですか」
袋を持つ手が、わずかに止まった。
否定はなかった。
「空腹のまま帰す気はない」
鉄鍋の蓋が外される。
湯気が立った。
骨出汁の厚い旨味。
赤ワイン煮込みの残りからほどけた肉と玉ねぎの甘さ。
香辛料の熱。
醤油の香ばしさ。
カレーの中では、柔らかく煮えた霜角巨牛のすじ肉が、レードルに触れるだけで崩れた。
絶対に美味しい。
まだうどんが入っていないのに、胃がそれを知っている。
朔が袋の端へ指をかける。
「……食べません」
指が止まった。
朔がこちらを見る。
「胃が悪いのか」
「違います」
「昼は」
「食べました」
「なら夜も食えるだろ」
「食べられます」
喉が鳴りそうになる。
ソフィアは一度だけ唇を結び、鍋から視線を外した。
「でも、食べません」
朔の飯を前にして、自分から拒んだことなど一度もなかった。
量を止められたことはある。
戦闘中に味わうなと言われ、名残惜しく蓋を閉じたこともある。
それでも、食べていいと言われたものを断ったことだけはない。
胃は今も、湯気の向こうへ手を伸ばせと訴えていた。
「理由は」
「それを食べたら、最後の食事になります」
狭い部屋が静かになった。
バーナーの小さな燃焼音だけが残る。
「だから、食べません」
「食わなくても契約は終わる」
「私は同意していません」
「最初の契約に、終了条件は決めてない」
「でしたら、今決めましょう」
朔の眉間に、浅い皺が寄った。
「俺が終わらせると言ってる」
「私は終わらせないと言っています」
「危険が増える」
「勝手に切り離されても減りません」
「今よりは減る」
「朔さんの計算には、契約がなくても私がここへ来る可能性が入っていません」
「来るな」
「嫌です」
自分でも驚くほど、迷いなく言えた。
朔が黙る。
「来ます。素材がなくても、裏口から」
「飯は出さない」
「では、話をしに来ます」
「余計に面倒だ」
「先に話し合えば済みます」
朔はしばらくソフィアを見ていた。
疲れている。
目の下の影も。
赤くなった指先も。
三日分の試作番号も。
全部、ソフィアを困らせないために積み上げたものだった。
きっと朔は、この三日間、自分がソフィアの前から消えた後に起こる失敗を、一つずつ潰していた。
朝に食欲がない場合。
探索翌日に胃が重い場合。
粉を入れすぎた場合。
保存容器を温め忘れた場合。
でもその中に、ソフィアが別れを拒む場合だけが入っていない。
だからこそ、受け取るだけではいけない。
「朔さんは、私の胃を確認します」
「必要だからな」
「魔力残量も」
「戦闘に影響する」
「睡眠も、冷えも、食欲も、指先の震えも」
「全部必要だ」
「戦闘中に何口飲むかまで決めます」
「事故を減らすためだ」
「それだけ確認しておいて」
ソフィアは、まっすぐ朔を見る。
「私が契約を続けたいかだけは、確認しないんですか」
朔は答えなかった。
バーナーの青い炎が、鉄鍋の底で静かに揺れている。
「私の意思は、朔さんにとって必要事項ではありませんか」
「意思で危険は消えない」
「私を抜いて決めても、消えません」
「少なくとも――」
「私は、朔さんのご飯で生きていただけではありません」
言葉を重ねると、声が揺れそうだった。
それでも止めなかった。
「自分の身体へ何を入れるか。どこを凍らせるか。何を残すか。私は、自分で選ぶようになりました」
朔は何も言わない。
「その選択を、朔さんが勝手に終わらせないでください」
ソフィアは鞄を開いた。
中から、料理記録用に持ってきていた紙とペンを取り出す。
紙の裏面を上にし、一行だけ書く。
契約の変更および終了には、双方の合意を必要とする。
作業台の中央へ置いた。
朔が読む。
「最初にそれを書くのか」
「今、最も必要だと分かりました」
「俺は同意してない」
「私も終了には同意していません」
「片方が書いただけでは契約にならない」
「だから話し合います」
「今日は終わらせる話だ」
「今から更新する話に変えます」
ソフィアは紙の左側へ、自分の名前を書く。
氷室ソフィア。
右側は空けたまま、朔の前へ押した。
朔はペンを取らない。
ソフィアも引かない。
鍋の横には、封の切られていないうどん。
足元には、二週間分の保存食。
その上には、ケースへ戻された自分用のRainPeakのカトラリー。
「食べないのか」
「最後の料理としては食べません」
「冷める」
「契約を更新すれば、すぐ食べます」
「胃を交渉材料にするな」
「朔さんが一番気にするものを選びました」
「俺の言葉を都合よく使うな」
「朔さんに教わりました」
朔は、うどんの袋を作業台へ戻した。
鍋の中で、霜角巨牛のカレー出汁が小さく泡を吐いた。
香りは、もう十分に完成している。
けれど。
―――二人分の条件が決まるまで、今夜のうどんは鍋に入らない。
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