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18/21

氷の姫、「適量」が分からない

午前十時ちょうど。


氷室ソフィアが古いアパートの裏口へ着くと、呼び鈴に触れる前に扉が開いた。


「時間通りだな」


「遅れる理由がありませんから」


遠野朔は、挨拶より先に彼女の髪と袖口、指先を確かめた。


銀髪は後ろで一つにまとめてある。袖も広がらないものを選び、爪も短く整えた。


ソフィアはまず洗ってきた弁当箱を差し出す。


朔は中を一度見て、水切り棚へ置いた。


「問題ない」


昨夜から洗い上がりを気にしていた自分が少し馬鹿らしくなり、ソフィアは小さく息を吐いた。


中に入ると、朔は壁のフックから黒いエプロンを外した。


「着けろ」


「朔さんのですか?」


「予備だ」


ソフィアには少し大きい。


首へ通し、腰の紐を後ろへ回す。結ぼうとしたが、慣れない位置で一度指が外れた。


もう一度。


今度は左右の長さが合わない。


背後で見ていた朔が言った。


「貸せ」


返事をする前に、手から紐が抜けた。


朔がソフィアの後ろへ回る。


腰の脇を紐が通り、背中で交差する。


前へ回された両端が、腹の前で結ばれた。


……近い。


耳のすぐ後ろに、朔の呼吸がある。


黒い作業着から、洗剤と、わずかに(いぶ)した木のような匂いがした。


「前なら、ほどけても自分で分かる」


「……たしかに、そうですね」


緊張して声が少し遅れた。


朔はそれに気づいた様子もなく、結び目を軽く引く。


「きつくないか」


「大丈夫です」


「なら始める」


離れていく気配に、ソフィアは密かに息を整えた。


……ただエプロンを結ばれただけだ。


深層の魔物より緊張する理由は、どこにもない。


作業台には、長ねぎ、生姜、薄口醤油、塩、小さな油差しが並んでいた。


端には、透明な小瓶が一つ。


中には、ほとんど色のない液体がわずかに入っている。


「これは?」


「霜苔羊の骨出汁だ。上澄みだけ取り直した」


「結局、魔物素材を使うんですね」


「使わないと、魔力の回復ができないただの汁になる。あんたの探索の助けにならないと、意味がない」


「入れる量は?」


「三百ミリに小さじ一杯。それ以上は増やすな」


あまりに少ない。


黒いボトルの濃い出汁とは、見た目からして違う。


「それで足りますか?」


「あんたの魔力を大きく戻すには足りない。配信前後に、冷えた喉と胃を戻す程度だ」


「黒いボトルの代わりにはならないということですよね」


「ならないし、する気もない」


今日作るのは、ソフィアが自分で持ち歩ける補給。


戦闘中、朔の指示で飲む黒いボトルとは別物だ。


「マネージャーへ説明する時は、何と書けばいいですか?」


「自家製骨出汁」


「何の骨か聞かれたら?」


「答えられない」


「戦闘中の補給としては通りませんよね」


「無理だ」


朔は否定しなかった。


「手作りの温かいスープを持つようになった。それで同じ質問をされる回数は減る」


「一時しのぎですね」


「まあそうだな」


長く使える方法ではない。


それでも、何もしないよりはいい。


朔が長ねぎを一本渡す。


「三センチくらいに切れ」


「くらい、とは?」


「鍋の中で極端に差が出なければいい」


「誤差は何ミリまでですか?」


朔が少し目を細めた。


「料理を測量にするな」


「三センチと指定したのは朔さんです」


「もう面倒になってきた」


「まだ切ってもいません」


朔に包丁の握り方と、左手の指の形を一度だけ直される。


最初の一切れだけ、少し長い。


二切れ目からは、ほとんど同じ幅になった。


とん、とん、と乾いた音が続く。


生姜も、見本を一枚示されれば、同じ厚さで薄く切れた。


朔が切り口を確認する。


「包丁は問題ないな」


ソフィアの胸が少し浮く。


「今、褒めましたか?」


「切るだけなら、だ」


すぐに着地した。


「……限定しなくてもよくないですか」


「まだ火にも触ってない」


朔はCAPTAIN STAGGERの小型フライパンを、ZOTOのバーナーへ載せた。


青い炎が立つ。


「油を少し」


ソフィアは油差しを持ったまま止まった。


「少しとは?」


「底に薄く回る程度」


「何ミリリットルですか?」


「出しながら見ろ」


一滴。


二滴。


慎重に垂らしていると、横から声が飛ぶ。


「日が暮れるぞ」


「まだ午前中です」


「そういう意味じゃない」


「では、あと何滴ですか」


「二滴」


数値が出た途端、ソフィアの指が迷いなく動いた。


朔がそれを見て、小さく息を吐く。


油を広げ、切ったねぎを並べる。


じ、と湿った音がした。


青い匂いが、温まった油の上へ立ち始める。


「少し焦がせ」


「どこまでですか?」


「焼き色がつくまで」


「黒くなる面積は?」


「知らない」


「火力と時間は?」


「ねぎを見て変えろ」


「数値でお願いします」


「あんた、やっぱり料理には向いてないな」


ソフィアは思わず振り返った。


「まだ一工程目です……」


「一工程目で分かった」


朔は淡々としている。


腹は立つ。

けれど、少しだけ笑いそうにもなった。


ソフィアは端末のタイマーを起動する。


「それは煮出す時間に使え。焦げる時刻は予約できない」


「同じ火力と時間なら、同じ結果になるのでは?」


「ならない」


朔がフライパンを指す。


白い部分と青い部分。太いものと細いもの。


すでに表面の乾き方が違っていた。


「水分も太さも違う。全部同じ条件じゃない」


「では、レシピは何のためにあるんですか」


「外しすぎないための目印だ。答えじゃない」


ソフィアはねぎへ視線を戻した。


一つを返す。


まだ白い。


慌てて戻した時、隣の一本から細い煙が上がった。


「こちらは、もう焦げています」


「火を弱めろ」


反射的に、指先へ冷気が集まる。


その瞬間、朔がバーナーのつまみを絞った。


「氷を使うな」


「温度を止めようと」


「水が出て油が跳ねる。それに、魔力がない日に作れなくもなるだろ」


ソフィアの指先から、冷気が消えた。


「……たしかに、分かりました」


今度は自分で火を弱めた。


先に焼けたねぎを端へ寄せ、まだ白いものを中央へ動かす。


青臭さが薄れ、甘い香りが立った。


「匂いが変わりました」


「それを覚えろ」


続けて、焼けたねぎへ水を注ぐ。


じゅわっと音が広がり、油と焦げが湯の中へ浮いた。


ねぎの甘い香りを含んだ湯気が上がる。


そこへ生姜を二枚。


少し煮てから、ソフィアが味を見る。


「弱い気がします」


「なら一枚足せ」


三枚目を加える。


さらに煮て、もう一度口へ運ぶ。


今度は生姜の熱が、舌から喉へ一気に抜けた。


「……増えました」


「煮出したからな」


「入れた量は変わっていません」


「生姜が鍋の中で仕事をした」


「その仕事時間も、先に教えてください」


「実際に体験した方が覚えるだろ」


朔の口元が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。

見返した時には、もういつもの無表情へ戻っていた。


ソフィアは少し唇を尖らせながら、薄口醤油と塩を加える。


塩は一つまみ。


……また新しい問題が生まれた。


「この一つまみは、毎回同じになりません」


「味を見ろ」


「適量や少々は、教える側に都合が良すぎませんか?」


「食べる側の舌には都合がいい」


最後に、霜苔羊の骨出汁を小さじ一杯。


ここには数字がある。


ソフィアは計量匙の縁ぎりぎりまで注いだ。


表面がわずかに盛り上がる。


「入れすぎだ」


「一杯です」


「表面張力を含めるな」


「零れていませんが」


「零れる直前まで攻める必要もない」


ソフィアはしぶしぶ余分を小瓶へ戻した。


骨出汁を落とすと、見た目はほとんど変わらない。


それでも香りの底へ、薄い厚みが加わった。


一杯目が完成した。


朔が小さなカップへ取り、口をつける。


ソフィアは、その表情をじっと見た。


わずかに眉間へ皺が寄る。


「四十八点」


「安全性は?」


「問題ない」


「効果は?」


「薄いが出てる。冷え戻しには使える」


「味だけが四十八点ですか」


ソフィアも飲む。


生姜が強い。


焦がしねぎの甘さが来る前に、喉が先に熱くなった。


「身体を温める目的には忠実です」


「便利な言い方をするな」


「不味くはありません」


「毎回飲みたいか?」


ソフィアはカップを見つめた。


……少し考える。


「体調管理のためなら」


「ゼリーと同じ答えだな」


その一言で、気持ちが静かになった。


必要だから我慢する。

効果があるから流し込む。

それでは、ゼリーと変わらない。


「もう一度、作ります」


「持参食としてなら、これでも最低限は使える」


「私が飲むものですから」


ソフィアは鍋を見たまま言う。


「もう少し、美味しい方がいいです」


朔が一度だけ彼女を見る。


何も言わず、新しい長ねぎを一本出した。


「材料はある」


二回目。


今度は時計より、ねぎを見る。


水分が抜ける音。

断面の縁から色が変わっていく様子。

青い匂いが消え、甘さへ移る瞬間。


先に焼けたものは端へ逃がし、遅いものを中央へ寄せた。


「今ですか?」


「自分で決めろ」


「教える気がありますか?」


「失敗しそうなら止める」


「その基準も曖昧ですね……」


そう言いながら、ソフィアはねぎを返す。


今度は焦げすぎていない。


生姜は二枚から。

煮出してから味を見て、足すなら半枚。

塩も醤油も、一度で決めない。


「適量、分かったか?」


「分かりません」


ソフィアは正直に答えた。


「ただ、一度に全部入れない方がいいことは分かりました」


「それでいい」


意外なほど、あっさり認められた。


最後に骨出汁を小さじ一杯。


今度は匙の縁を瓶の口で切り、余分を落としてから入れる。


火を止める。


二杯目の湯気は、一杯目より柔らかかった。


焦がしねぎの甘い香り。

その後ろから、生姜の熱。

骨出汁は前へ出ず、味の奥だけを細く支えている。


ソフィアが一口飲む。


喉を刺さない。

胃へ落ちた熱が、ゆっくり内側へ広がった。

魔力の戻りはごくわずか。


それでも、ただのお湯ではないことは分かる。


「……魔力が戻ります」


「少しだけな」


「私が作った部分にも、意味はありますか?」


聞いてから、少しだけ不安になった。


意味があるのは朔の出汁だけだと言われたら、たぶん悔しい。


朔は鍋を見る。


「出汁だけじゃ胃が受け取りにくい。温度と塩分、生姜の量で入り方が変わる」


「では」


「意味はある」


ソフィアの頬が、わずかに緩んだ。


新しいカップへ注ぎ、朔へ渡す。


朔が一口飲む。


今度は眉間に皺が寄らない。


「六十一点」


「十三点も上がりました」


「まだ六十一だ」


「初めて作ったことへの加点は?」


「飲む側には関係ない」


厳しい。


だが朔はカップを置かず、そのまま最後まで飲んだ。


ソフィアは空になった底を見る。


「六十一点なのに、全部飲むんですね」


「捨てるほどじゃない」


「……そうですか」


自分の声が少し柔らかくなったことには、気づかないふりをした。


朔は記録用の紙を出す。


水、長ねぎ、生姜、薄口醤油、塩。

加熱と保存の目安。


ソフィアも端末へ入力する。


原材料欄の最後で、指が止まった。


「自家製骨出汁、小さじ一杯」


「何の骨かは書けない。魔力回復も効果として出すな」


「配信前後の補給用。戦闘中は使用しない」


「開封後二時間以内。再加熱は一回まで」


完全な説明ではない。

問題が完璧には消えない。

それでも、何もできなかった昨日よりは一歩進んだ。


―――記録を終えた頃には、正午を少し過ぎていた。


張りつめていたものが緩んだせいか、ソフィアの腹が小さく鳴る。


朔は何も言わず、棚から小ぶりな焼きおにぎりを一つ出した。


薄い醤油の焼き目がついている。


「残りのスープに入れろ」


「朔さんは?」


「俺はあとで食うからいい」


そう言うと朔は流しへ移り、使った道具を洗い始める。


ソフィアはRainPeakの深皿へ焼きおにぎりを置き、自分で作ったスープを注いだ。


焼けた醤油が湯へほどけ、澄んだ色を少しだけ濃くする。


スプーンの先を入れる。


ぱり、と残っていた表面が割れ、中の白い米がスープを吸った。


一口。


焦がしねぎの甘さ。

生姜の熱。

醤油の香ばしさ。


出汁を含んだ米が、口の中でほどけていく。


朔の料理ほど強い味ではない。

大きな魔力の回復もない。


それでも、自分で切り、自分で焼き、自分で味を決めたものが、ちゃんと温かい昼食になっている。


「……美味しいです」


「六十一点だろ」


朔は背を向けたまま言う。


「今は、もう少し高く感じます」


「腹が減ってるからだ」


「空腹も料理の条件では?」


洗い物の音が、一度止まった。


「間違ってはない」


それだけ答え、また水音が始まる。


いつもの完全な一人の昼食とは、少し違った感覚がした。


味を知っている人が近くにいる。

失敗も、やり直したことも、全部見ていた人がいる。


深皿の底には、米粒一つ残らなかった。


食後、ソフィアは自分で器を洗った。


朔に指定された白いスポンジへ、洗剤を落とす。


「一滴でいい」


ソフィアは振り返る。


「それも適量では?」


「今のは一滴だ」


少しだけ言い返せた気がして、ソフィアは満足した。


―――その日の午後。


自室へ戻ったソフィアは、完成したスープの写真とレシピを担当マネージャーへ送った。


ほどなくして通話が入る。


『確認したわ。これ、本当にあなたが作ったの?』


「はい。教わりながらですが」


『料理経験は?』


「本日が初めてです」


向こうで、短い沈黙。


『……台所は無事?』


「なぜ最初にそこを心配するんですか……」


『あなた、加減を知らなそうだから』


反論しづらい。


マネージャーが資料を開く音がする。


『長ねぎ、生姜、薄口醤油、塩。それから、自家製骨出汁』


「はい」


『骨出汁を作ったのは、前回話していた個人的な協力者?』


「そうです」


『今回のスープ自体は、あなたが最後まで調理したのね』


「教わった通りにですが」


『なら、配信前後に飲む本人管理食としては問題ないわ。普段の食事まで、スポンサーへ申請する必要はないから』


ソフィアは、わずかに肩の力を抜いた。


「例の黒いボトルについては?」


『前回分は、今回と同じ系統の補給として記録を残すわ。戦闘中にもう一度使わない限り、今すぐ追加の説明を求められることはないと思う』


ひとまず、今日の目的は果たせたらしい。


しかしソフィアが安堵した、その直後。


『ただ、今は別の問題が出ているの。今から送る画像を見てもらえる?』


端末へ、一枚の画像が送られてきた。

掲示板の切り抜きだった。


【肉質が死ぬ男】最近の氷姫、裏で同じ奴に面倒見られてる説


1:名無しの探索者

最初の配信事故覚えてる?

男の声と肉焼く音が入ったやつ


7:名無しの探索者

凍らせるな、肉質が死ぬ

とか言ってた奴な


12:名無しの探索者

その後から氷姫の倒し方変わってない?

雷鳥も霜角巨牛も、前みたいに全部砕かなくなった


19:名無しの探索者

本人が戦い方を変えただけだろ

何でも男のせいにするな


26:名無しの探索者

氷姫が強いのは前からだぞ

ただ最近、素材を残す倒し方増えてない?


33:名無しの探索者

最初の男、素材にうるさそうだったし

そいつの影響じゃねって説?


41:名無しの探索者

戦い方まで口出すのかよ


48:名無しの探索者

全部氷姫本人の判断でも説明つくだろ


55:名無しの探索者

でも大型討伐の黒いボトルもスポンサー品じゃなかったよな


63:名無しの探索者

顔も名前も何も分かってないのに話進みすぎw


70:名無しの探索者

だから「説」だろ

本当にいるなら、スポンサー外の個人サポートってことになるのか?


―――そこで切り抜きは終わっていた。


「単なる掲示板の推測ですよね?このくらいならよくある話のような気がしますが……」


『掲示板の中だけならね』


マネージャーの声は落ち着いていた。


『この書き込みを、大手のダンジョン考察アカウントが取り上げたの。それを見た配信メディアから、非公開の個人サポートがいるのかと照会が来ているわ』


「否定することは?」


『協力者が存在しない、とは言えないでしょう?』


ソフィアは答えられなかった。


確かに先日の面談で、自分の口から伝えてしまっている。

黒いボトルを作ったのは、個人的な協力者だと。


『確認するけれど』


マネージャーは少し間を置いた。


『料理を作っている人と、体調や素材の扱いについて助言している人は同じ?』


ソフィアの口が止まる。


嘘をつくことはできた。


料理を教えてもらっているだけだと。

戦い方を変えたのは、すべて自分の判断だと。

実際、戦場で最後に判断しているのは自分だ。


朔が代わりに魔法を使うわけでもない。


けれど。


魔力残量。

指先の震え。

冷え。

睡眠。

食欲。

素材を残す位置。

倒した後、回収班が入るための導線。


それらを考えるようになったきっかけが、朔であることも事実だった。


「最終的な戦闘判断は、すべて私が行っています」


『ええ』


「ですが、体調管理と素材の扱いについて、助言を受けています」


通話の向こうが、少し静かになった。


『……分かったわ、正直に話してくれてありがとう。ただそれなら、掲示板の内容を完全な誤解として否定するのは難しいわね』


「助言を受けること自体に、問題がありますか?」


『それだけなら、すぐに規則違反になるわけではないわ』


マネージャーは、言葉を選びながら続ける。


『でも、世界ランク三位の探索者に継続的な補給を提供して、体調や素材の扱いにまで助言するなら、単なる友人からの差し入れではおそらく済まなくなる』


ソフィアは黙って聞く。


『その人が、あなたの公式活動を大きく支える外部サポートだと判断されれば、ギルドもスポンサーも、何を提供している人物なのか確認しなければならない』


「名前だけを伝えれば済みますか?」


『済まないわ』


即答だった。


『正式な外部サポートとして申告するなら、氏名と所属だけでは足りない。提供している補給物、業務内容、安全管理。それから、あなたとの間に報酬や素材のやり取りがあるかも確認される』


ソフィアは、端末に表示されたレシピへ目を落とした。


「自家製骨出汁、小さじ一杯」


その一杯が作られるまでに、何が行われているのか。


ソフィア自身も、すべてを知っているわけではない。


『今ここで名前を聞くつもりはないわ』


マネージャーの声が少しだけ柔らかくなる。


『現時点では、顔も所属も出ていない。外部からの照会も、噂の確認にすぎないから』


「では、今のところは」


『何も処分はないわ。調査が始まったわけでもない』


そこで、マネージャーは一度言葉を切った。


『ただし、次にその人物へつながる情報が出れば、話は変わる』


「どのようにですか」


『確認が終わるまで、個人研究用素材の申請や、その人物から提供された補給物の使用を止められる可能性がある』


ソフィアの表情から、少しずつ温度が消えていった。


『新しい大型配信案件も、一度保留になるかもしれない。スポンサー側も、契約上の補給管理や外部支援について確認することになるわ』


「公式討伐への参加まで止まる可能性があるんですか?」


『長引けばね。ランキングそのものがすぐに変わるわけではない。でも、世界三位として受けている大型案件やスポンサー契約に、何の影響もないとは言えないわ』


世界三位の実力が消えるわけではない。

明日から突然、順位を失うわけでもない。


けれど。


配信。

大型討伐。

スポンサー。

研究用素材。


氷の姫として積み上げてきた仕事が、一つずつ止まる可能性がある。


『不正をしたと決まったわけではないの』


マネージャーは、静かに付け加えた。


『確認が必要になった時、その間だけ止められるという話よ』


「……分かっています」


だからこそ厄介だった。


相手が悪意を持って奪おうとしているなら、戦うこともできる。


だが、安全と契約を確かめるために必要な手続きだと言われれば、拒むことは難しい。


『現時点では、掲示板の憶測以上の情報は外へ出ていないわ』


「何をすればいいですか」


『扱いを決めるまでは、その人から新しい補給や助言を公式案件へ持ち込まないこと』


マネージャーの返答は簡潔だった。


『正式な外部サポートとして申告するのか。それとも、公式活動から支援を外すのか。次の大型案件までに一緒に考えましょう』


―――通話が終わった。


ソフィアは、しばらく端末を持ったまま動かなかった。


長ねぎ。

生姜。

薄口醤油。

塩。

自家製骨出汁、小さじ一杯。


今日初めて、自分で作った補給。


これを作れるようになれば、朔を隠しやすくなると思っていた。


実際、黒いボトルの問題からは一度離れられた。


けれど世界が探し始めたのは、ボトルの中身だけではなかった。


氷の姫が、なぜ変わったのか。


その理由そのものだった。



――同じ頃。


遠野朔の作業者用端末にも、一件の業務連絡が届いていた。


霜角巨牛(フロストミノタウロス)討伐案件に関する外部照会について】


当日参加者は、配置、担当業務、他の参加者に関する外部からの問い合わせへ個別に回答しないこと。

作業記録および入退場記録は、確認が完了するまで保持すること。

現時点で、参加者個人への調査は行っていない。


短い文面だった。


添付された照会内容には、こうある。


――氷室ソフィアが大型討伐で使用した補給物や、戦い方に、非公開の個人サポートが関与していた事実はあるか。


朔は一度だけ読み返し、端末を閉じた。


その夜。


『掲示板、見たか』


朔からのメッセージを見たソフィアの指が止まる。


『なぜ朔さんが知っているんですか』


『大型討伐に入った作業者へ、外部照会に答えるなと連絡が来た』


ただの掲示板遊びではなくなっている。


その事実が、昼間よりも重く感じられた。


『今のところ、朔さんの名前や顔は出ていません』


『後処理班までは』


『届いていません。私に個人的な協力者がいるのではないかと、推測されているだけです』


『マネージャーには何を言われた』


ソフィアは少し迷ってから、昼間の話を順番に送った。


今回のスープは、本人管理食として認められたこと。

黒いボトルも、戦闘中に再使用しない限りは、追加の確認を求められないこと。


そして。

朔の存在へつながる情報が出れば、正式な確認が始まる可能性があること。


既読がつく。


『確認が始まったら、あんたはどうなる』


『まだ、何も決まっていません』


『決まった場合の話をしてる』


『個人研究用素材の申請と、朔さんから提供された補給物の使用です』


既読。


『他は』


『新しい大型配信案件が、一時的に保留になる可能性があります』


『スポンサーは』


『契約内容の確認になります』


少し間が空いた。


『ランキングは』


『すぐに変わるものではありません』


そこまで打ち、一度指を止める。


『ですが、公式討伐や大型案件への参加が長く止まれば、今の立場を維持できるとは言い切れません』


今度は、しばらく返事が来なかった。


ソフィアは続ける。


『私は、何も不正なことはしていません』


『知ってる』


返事は短かった。


『なので、問題ありません』


『違反がなくても、確認中は止められるんだろ』


ソフィアは画面を見つめた。


何も言い返せない。


『正式な外部サポートとして申告する方法もあるそうです』


『何を出す』


『氏名と所属。提供している補給物。業務内容と安全管理。それから、報酬や素材のやり取りです』


すぐには既読がつかなかった。


やがて。


『それは名前だけ出す話じゃないな』


『はい』


朔の名前を伝えるだけでは済まない。


朔が何を作っているのか。

何を取り除き。

何を食べられるものへ変え。

ソフィアが何を持ち込み、何を食べてきたのか。


契約の中身そのものを差し出すことになる。


しばらくして、朔から新しいメッセージが届いた。


『次に来る前に、契約を見直す』


ソフィアは画面を見つめる。


『何を変えるんですか?』


今度の返事は、少し遅かった。


『今のまま続けてばれると、あんたが失うものが多すぎる』


そこで、メッセージは止まった。


素材と試作品を交換する。

秘密を守る。

食事と素材以外では、互いに干渉しない。


最初に決めた枠は、今の二人を守るためには少し狭い。


朔は何を変えるつもりなのだろう。


何を足すのか。

何を減らすのか。


それとも……。


ソフィアは、今日自分で書いたレシピへ視線を落とした。


一番下には、朔の字で短く追記されている。


「骨出汁は、小さじ一杯まで」


その一行を指先でなぞる。


「失うものが多いのは、朔さんも一緒じゃないですか……」


―――朔から、続きのメッセージは来なかった。

ここまでお読みいただきありがとうございます!

更新時間が予定より遅くなってしまい申し訳ありません……!

しかもだいぶ長くなってしまいました。

少しでも「面白い」「続きが読みたい」と思っていただけましたら、画面下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にし、リアクションや感想を書いて応援していただけると、作者の最大の魔力回復(励み)になります!

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