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17/20

氷の姫、面談前の昼食を見抜かれる

十三時二十五分。


氷室ソフィアは、ギルド本部の職員用休憩スペースに着いた。


面談開始までは、まだ一時間半以上ある。


長机が三つ。

壁際には給湯器と電子レンジ。

昼休みの混雑を過ぎた室内には数人の職員が残っていたが、皆、自分の端末や遅い昼食に意識を向けている。


ソフィアは一番奥の席に座り、鞄を膝の上へ置いた。


中には、黒い保冷ポーチ。


傾いていない。

他の荷物にも押されていない。


朝、家を出る前にも確認した。

移動車へ乗る前にも確認した。

ギルドへ入る直前にも確認した。

だから、もう見る必要はない。


ないのだが。


ソフィアは鞄をわずかに開き、保冷ポーチの向きを確かめた。


問題なし。

白い耐水タグも、昨夜のまま貼られている。


朝まで冷蔵。

保冷して持て。

面談一時間前までに食え。

食べすぎるな。

容器は返せ。


朔の雑な文字が五行。


最後の一文だけ、他より少し強い筆圧に見える。


ソフィアは鞄を閉じた。


そのまま端末を取り出し、午後の面談資料を開く。


確認予定項目。

摂取時刻。

摂取量。

内容物。

成分。

入手経路。

作成者。

今後の使用予定。


上から順に目を通す。


そして最後まで読み、もう一度最初に戻った。


ほとんど頭に入っていなかった。


理由は分かっている。


空腹だからではない。

鞄の中の弁当が気になるからでもない。


ただ。


冷めても食べられる。


朔がそう言っていたから、実際にどうなるのかを確認する必要があるだけだ。


味見役として。


その時、休憩スペースの扉が開いた。


「待たせた?」


聞き慣れた声に顔を上げる。


担当マネージャーが、紙袋と薄い資料ファイルを抱えて立っていた。


淡い色のジャケット。

肩までの黒髪。


配信現場では細いフレームの眼鏡をかけていることが多いが、今日は外している。


「いえ。私も少し前に来たところです」


「そう? もう資料を開いているけれど」


「開いてはいました」


「内容は?」


「ほとんど頭に入っていません」


マネージャーは一瞬目を丸くし、それから小さく笑った。


「珍しく正直ね」


紙袋からサンドイッチとカップスープを取り出し、ソフィアの向かいへ座る。


ソフィアがまだ今ほど有名になる前から、仕事を支えてきた人だ。

スポンサーやギルドの意向を伝える立場ではある。


それでも、ソフィアにとっては数少ない、言葉を選びすぎなくていい相手だった。


「それが、持ってくると言っていたお弁当?」


マネージャーの視線が、鞄から取り出した黒い保冷ポーチへ向く。


「はい」


「ずいぶん厳重ね」


「中身が崩れるので」


答えてから、ソフィアは少しだけ引っかかった。


昨日、朔も同じことを言っていた。


落とすな。

中身が崩れる。


弁当箱そのものは普通だが、中身は崩してはいけないらしい。


「それなら、先に食べましょうか。話はそのあとでもできるし」


「はい」


二人で軽く手を合わせる。


「いただきます」


「いただきます」


ソフィアは保冷ポーチのファスナーを開いた。


保冷材を外す。

黒い弁当箱を取り出し、留め具を外した。

蓋を開ける。


赤ワインと、炒め玉ねぎの甘い香りがふわりと立った。


昨夜、朔のアパートで食べた霜角巨牛の赤ワイン煮込み。

けれど、昨日の鍋からそのまま移したものではない。

すじ肉は、箸だけでも食べやすい大きさまでほぐされている。

赤身端材も、口へ運びやすい一口大。

冷めれば固まる脂はさらに落とされ、赤褐色の煮汁も肉の表面へ絡む程度に抑えられていた。


隣には、バターライス。


煮込みと仕切られ、冷めても粒が潰れないよう、昨夜のパンとは違う少し硬めの炊き上がりになっている。

人参と香味菜まで添えられていた。


マネージャーが弁当箱を見て、何気ない調子で尋ねる。


「あなた、料理するんだっけ?」


ソフィアの箸が止まった。


「……しません」


「そうよね。聞いたことがなかったから」


「作ってもらいました」


「そう」


誰に、とは聞かれなかった。


マネージャーはカップスープの蓋を外し、自分のサンドイッチを開く。


問い詰める気配はない。


ソフィアも箸を動かした。


まずは、ほぐれたすじ肉。


そこへ少量のバターライスを合わせ、口へ運ぶ。


少し冷たい。


けれど、硬くない。


すじ肉は舌で押すだけで繊維がほどけ、赤ワインを含んだ肉の旨味がゆっくり広がった。


温かかった昨夜より、味の輪郭が近い。


丸められた酸味。

時間をかけて炒めた玉ねぎの甘さ。

ごく少量だけ加えられたダンジョン蜂蜜。

香草の匂いは強すぎず、最後に赤身肉の濃さだけを残して消える。


そこへ、冷めても粒の立ったバターライス。


煮込みより少し強い塩気が、玉ねぎと蜂蜜の甘さを引き締める。


米は煮汁を吸いすぎていない。


噛むたびに、肉とは別の柔らかな甘みが出てくる。


熱い鍋から食べた昨日とは、違う。


弁当には、弁当の味があった。


「……美味しい」


声に出してから、ソフィアは顔を上げた。


マネージャーが、こちらを見て少しだけ笑っている。


「その顔なら、聞かなくても分かるわ」


「顔には出していません」


「そういうことにしておきましょう」


完全には信じていない返事だった。


けれど、朔のように頬の緩み方を観察されるよりは、まだ逃げ道がある。


ソフィアは二口目を食べる。


今度は赤身。

形は残っているが、歯を入れれば抵抗なく繊維がほどけた。

すじ肉よりも肉らしい弾力があり、噛むほど濃い旨味が出てくる。

人参を挟むと、柔らかな甘みが煮込みの重さを切った。


「昨日、作ったばかりのものも食べましたが、冷めると少し味が違います」


「昨日の夕食を、お弁当にしてもらったの?」


「はい」


「そのまま詰めたわけではなさそうね」


ソフィアは箸を止めた。


「分かるんですか」


「昨日の状態は知らないけれど、煮込みにしては汁気が少ないでしょう。ご飯とも分けてあるし、冷めた脂もほとんど見えない」


言われて、改めて弁当箱を見る。


昨夜、朔は食後に煮込みの一部を別の鍋へ移していた。


肉をさらに細かくほぐし。

煮汁を煮詰め直し。

浮いた脂を丁寧に取り除いていた。


ソフィアは、ただ明日の分を詰めているのだと思っていた。


「面談前だから、量も控えめにしてもらったの?」


「私が頼んだわけではありません」


「では、作った人が決めたのね」


「……はい」


「今日の予定を知っている人なのね」


箸が、ほんの少し止まった。


見た目だけで霜角巨牛だと分かる人間はいない。


朔はそう言っていた。


確かに、肉の正体は見抜かれていない。


けれど、別のところは思ったより簡単に見抜かれている。


マネージャーは、ソフィアの反応を見て小さく息を吐いた。


「別に、名前を聞こうとしているわけではないわよ」


「まだ何も言っていません」


「聞かれたくなさそうな顔をしたから」


「顔には出していません」


「今日はそれ二回目ね」


ソフィアは視線を落とし、バターライスを口へ運んだ。


味は変わらない。

変わらないはずなのに、先ほどより少しだけ頬が熱かった。


「少し安心したわ」


マネージャーがスープを一口飲み、穏やかに言った。


「何がですか」


「あなたが、面談前にちゃんと昼食を食べていること」


「以前も食べていました」


「ゼリーを食事に数えるならね」


ソフィアは反論できなかった。


以前なら。

面談前は資料を読み込む時間だった。

撮影前なら、衣装や台本の確認。

配信前なら、攻略手順とスポンサー商品の確認。

昼食を取る時間がなければ、銀色のパウチを一本。


足りなければ、もう一本。


空腹も胃の痛みも、仕事の邪魔にならないよう押し込めていた。


けれど今は。


空腹のままでは、余計なことを言う。


朔にはそう判断された。


胃を荒らせば、次の食事を受け取れない。

食べすぎれば、面談中に身体が重くなる。


いつ食べるのか。

その後、何をするのか。


全部、弁当の中に入っている。


「最近は、食事も体調管理の一部だと考えています」


「そう」


マネージャーの表情が柔らかくなる。


「良い影響を受けているのね」


誰から、とは言われていない。


否定する理由も、すぐには見つからなかった。


「……そうかもしれません」


自分でも驚くほど、素直な声が出た。


ソフィアは残っていた赤身とバターライスを食べる。


最後に香味菜。


口の中へ残っていた煮込みの濃さが、さっぱりと消えた。


胃は重くない。

眠気もない。


冷えた弁当を食べたはずなのに、指先から力が抜けていくような冷えもない。


戦闘用の補給ではない。

特別な耐性飯でも、燃費飯でもない。

ただの昼食。


けれど、面談資料の文字が、食べる前より少しだけ頭へ入りそうな気がした。


弁当箱に食べ残しがないことを確認し、蓋を閉める。


「ごちそうさまでした」


「ごちそうさま」


マネージャーは自分の紙袋を片付けながら言った。


「作った人にも、ごちそうさまは伝えておきなさいね」


「感想と状態は、送るように言われています」


「ずいぶん細かい報告が必要なのね」


「試食の記録ですから」


「試食?」


ソフィアの指が、保冷ポーチのファスナーに触れたまま止まった。


「……そういう約束なんです」


「そう」


マネージャーは、それ以上聞かなかった。


ただ、少しだけ楽しそうに見えた。


「では、そろそろ午後の話をしましょうか」


テーブルの上に、面談資料が広げられる。


空気が、ゆっくり仕事のものへ変わった。


「今日確認されるのは、先日の黒い保温ボトルについて。責めるための場ではないわ」


「かなり細かく聞かれそうですが」


「確認はされる。配信中に、事前登録のないものを口にしたのだから」


マネージャーは資料の項目を指でなぞる。


中身。

摂取時刻。

摂取量。

摂取後の状態。

作成者。

入手経路。

今後の使用予定。


「答えられることは、事実だけを答えて」


「作成者については?」


「今すぐ開示できないなら、そう言いなさい」


「それで通りますか」


「何も問題が起きていない以上、今日この場で無理に聞き出せる話ではないわ」


マネージャーはそこで一度言葉を切った。


「ただし、今後も同じものを使えるかは別問題」


「はい」


「だから私が同席するの。相手が聞いていい範囲と、あなたが答えるべき範囲を整理するために」


ソフィアは小さく頷いた。


一人なら。


必要以上に隠そうとして、かえって不自然な答えをしていたかもしれない。


あるいは、相手の求めるままに余計な情報まで話していたかもしれない。


けれど今日は、隣にこの人がいる。

鞄の中には、空になった弁当箱もある。

胃は落ち着いている。


「お腹は?」


マネージャーが尋ねた。


「問題ありません」


「眠気は?」


「ありません」


「なら、あのお弁当は優秀ね」


ソフィアは、ほんの少しだけ間を置いた。


「……はい」


その返事だけは、素直だった。


―――十五時。


ギルド本部の小会議室。


スポンサー側の担当者と、ソフィア。


その間に、担当マネージャーが座る。


卓上には、先日の大型討伐に関する配信ログと、摂取物一覧が表示されていた。


「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


スポンサー担当者は、四十代ほどの落ち着いた男性だった。


「早速なのですが、先日の大型配信中に使用された、黒い保温ボトルの内容について、改めて確認させてください」


「はい」


「中身は、何だったのでしょうか」


ソフィアは、午前中に考えていた答えをそのまま口にする。


「骨を煮出した、体温調節用のスープです」


余計な説明はしない。


魔力についても。

精密制御についても。

朔が、いつ飲むかまで指定していたことも。


「市販の商品ではありませんよね」


「はい」


「原材料は分かりますか」


「作成者のレシピに関わるため、私から詳細を開示することはできません」


担当者は表情を変えず、端末へ記録する。


「作成者は、ギルドやスポンサーと契約している方でしょうか」


「いいえ。個人的な協力者です」


担当者の指が、再び端末を動く。


「摂取したのは、記録上では戦闘開始から三十七分後。量は三口で間違いありませんか」


「間違いありません」


「摂取後、身体に何か変化はありましたか」


「冷えと、喉の違和感が軽減しました。摂取後の体調に異常はありません」


「戦闘への影響は?」


「戦闘続行に支障はありませんでした」


答えた範囲に、嘘はない。


担当者も、それ以上の効果を断定しようとはしなかった。


配信データ上では、スープを飲んだあともソフィアの制御は安定していた。


だが、それがスープによるものなのか。

前日の食事によるものなのか。

ソフィア自身の戦い方が変わった結果なのか。

今ある情報だけでは、誰にも切り分けられない。


担当者が資料を一枚送る。


「では、最後に確認します。同じものを、今後も公式配信中に使用する予定はありますか」


ソフィアは、すぐには答えなかった。


黒いボトルを飲めと言ったのは朔だ。


飲む時刻も、量も、蓋を閉めるタイミングまで指定された。


けれど。


最終的に蓋を開けたのは自分だった。


右肩を残すか。

大技で戦闘を終わらせるか。

自分と素材の両方を守るために、今飲む必要がある。

そう判断したのも、自分だ。


「必要だと判断した場合は、使用したいと考えています」


担当者の視線が上がる。


「作成者から使用を指示された場合、という意味でしょうか」


「いいえ」


ソフィアは静かに首を横へ振った。


「最終的に摂取するかどうかを判断するのは、私です」


言葉にしてみると、不思議なほど迷いはなかった。


スポンサーへ逆らいたいわけではない。


朔の言うことを、すべて無条件に信じているわけでもない。


ただ。


自分の身体へ何を入れるか。

その結果を引き受けるのは、自分でありたいと思った。

担当者は少し考え、資料へ視線を戻した。


「氷室さんの判断については承知しました。ただ、原材料と作成者を確認できないものを、今後も公式配信中に使用されることには、安全管理上の懸念があります」


「摂取した量と時刻、その後の体調については、氷室本人が記録を提出します」


隣から、マネージャーの声が入る。


「ただし、作成者不明のものを今後も同じ形で持ち込めないことは理解しています。次回までに、こちらから運用案を提出します」


担当者が頷いた。


「分かりました。今回は、摂取後に異常がなかったことと、本人の体調記録を確認させてください」


面談は、それ以上長引かなかった。


黒いボトルの中身を開示することも。

朔の名前を話すこともなかった。


ただ。


今までと同じ形で使い続けることはできない。

その事実だけが残った。


スポンサー担当者が会議室を出る。


扉が閉まると同時に、ソフィアは小さく息を吐いた。


「お疲れさま」


マネージャーの声も、昼食の時の柔らかさへ戻る。


「大型討伐より緊張しました」


「その割には、きちんと答えられていたわ」


「隣にいてくれましたから」


ソフィアが言うと、マネージャーは少しだけ目を細めた。


「よく言えたわね」


「何をですか」


「必要なら、今後も使用するって」


「事実ですから」


「そうね」


マネージャーは机の上の資料をまとめた。


「以前のあなたなら、自分がどうしたいかより、先方が望んでいる答えを選んでいたと思う」


ソフィアは否定しなかった。


広告塔として求められる答え。

氷の姫として正しい言葉。

相手が安心できる説明。

ずっと、それを先に選んできた。


「作った人については、今は聞かない方がいい?」


「はい」


「分かった。話せる時が来たら、あなたから教えて」


「ありがとうございます」


「ただし」


マネージャーの口調が、少しだけ仕事のものに戻る。


「次も同じボトルを公式配信へ持ち込めば、今日の説明だけでは済まないわ」


「使用しない方がいいでしょうか」


「そうは言っていない。実際に体調管理へ役立ったものを、代わりもなく捨てる必要はないでしょう」


「では、どうすれば」


マネージャーは少し考える。


その視線が、ソフィアの鞄へ向いた。


昼食の弁当箱が入っている場所。


「今日のお弁当を作った人に、簡単なスープを一つ教えてもらえない?」


ソフィアは顔を上げた。


「私が作るんですか」


「そう」


「レシピを教えてもらうだけでは駄目でしょうか」


「あなたは、レシピを見れば料理を再現できるの?」


「……分かりません」


「料理をしたことは?」


「ありません」


「なら、まず習わないと無理ね」


即答だった。


ソフィアはわずかに唇を引き結ぶ。


料理をしたことがないだけで、できないと決まったわけではない。


世界ランク三位の探索者である。

巨大な氷の大鎌を作り。

細い氷の糸で魔物の関節だけを止め。

大型種の突進方向を三メートル単位で制御できる。


スープくらい。


おそらく。


「先日の黒いボトルと同じものを、作るのでしょうか」


「いいえ。まず必要なのは、安全性と、内容を説明できること」


マネージャーは指を折りながら条件を挙げる。


「ギルドで安全性が確認されている食材を使うこと」


「材料を、あなた自身が説明できること」


「調理工程と保存方法を説明できて、実際に同じものを再現できること」


「体温調節や、冷えた喉を温める用途に使えること」


ソフィアは一つずつ聞き、頷く。


「黒いボトルと同じ効果は必要ですか」


「必要ないわ。そもそも、今の段階では同じ効果かどうかも説明できないでしょう?」


「はい」


「公式配信の前後に、あなた自身の責任で使える食事を一品持つ。それだけでも、正体不明の誰かに完全に依存している状態からは外せる」


完全に依存。


その言葉が、少しだけ胸へ引っかかった。


朔がいなければ、今の自分は温かいスープ一つ用意できない。


ゼリーを飲む前に胃を守るものも。

寒冷階層で喉を戻すものも。

戦闘後に身体を休める食事も。


すべて、朔が作っている。


「今日のお弁当を作った人なら、あなたが面談前に食べることまで考えていたのでしょう?」


「はい」


「なら、あなたに何を教えるべきかも分かるんじゃない?」


ソフィアは鞄の中へ視線を落とした。


”容器は返せ”


弁当箱を返すために、もともと朔のアパートへ行く必要はある。


そこへ。


料理を習うという用件が、一つ増えただけだ。


面談終了後。


ソフィアは人通りの少ない廊下へ移動し、端末を開いた。


遠野朔とのメッセージ画面。


『面談は終わりました』


送信から、十秒も経たないうちに既読がつく。


『状態は』


面談の内容より先に、そちらだった。


ソフィアは少しだけ口元を緩め、返信する。


『胃に重さはありません。眠気なし。手元と冷えも問題ありません』


続けて。


『お弁当も全部食べました、ごちそうさまでした』


『残す量では入れてない』


『美味しかったかは聞かないんですか』


少し間が空く。


『美味かったか』


『とても』


今度は、すぐに返事が来た。


『ならいい』


それだけ。


マネージャーには、作った人へごちそうさまを伝えろと言われた。


感想と状態は、送るように言われている。


だから、これは必要な報告。


それ以上ではない。


ない、はずなのに。


短い返事を見ただけで、面談のあとに残っていた緊張が少し抜けた。


『弁当箱は洗って返します』


『パッキンも外せ』


『分かっています』


『洗剤を残すな』


『学習しています』


既読。


次の返事は来ない。


たぶん、昨夜の先回りをまだ覚えている。


ソフィアは一度だけ息を整え、本題を打った。


『それと、料理を教えてください』


送信。


少し待つ。


『今まで何を作った』


質問で返ってきた。


ソフィアは考える。


……料理。


……自分の手で食べられる状態にしたもの。


『お米なら炊けます』


『料理の話をしてる』


『では、ありません』


既読。

今度の返信は早かった。


『断る』


ソフィアの眉がわずかに寄る。


『まだ何を作るか説明していません』


『経験ゼロの人間に、内容は関係ない』


『簡単なスープです』


『その言葉は信用しない』


『なぜですか』


『作ったことがない人間は、全部簡単だと言う』


反論しづらい。


少なくとも、料理をしたことのないソフィアには、それが間違いだと証明する材料がなかった。


『登録済みの安全な食材を使って、私自身が材料と工程を説明できる、体温調節用のスープが必要です』


『ギルドの栄養担当に習え』


『今日のお弁当を作った人に教わるよう勧められました』


そこで、返信が止まった。


先ほどより少し長い。


一分ほどして、端末が震える。


『弁当について何を話した』


『料理をしない私が作ったものではないと伝えただけです』


『余計なことは』


『話していません』


『ならいい』


ソフィアは続ける。


『教えてください』


『断る』


『弁当箱を返しに行きます』


『それは返せ』


『その時に教わります』


『勝手に予定を足すな』


『明日は何時がいいですか』


既読。


返事が来ない。


五秒。

十秒。

二十秒。


やがて、端末が震えた。


『十時』


断っていたはずなのに、時間が決まった。


続けて、もう一通。


『髪はまとめろ』


さらに。


『袖の広い服は着るな』


『爪は短くしてこい』


ソフィアは三つの文面を、順番に読み返した。


『包丁を使うんですか』


『その段階まで行けたらな』


『行けない可能性があるんですか』


『米を炊いただけで料理経験に数える人間だからな』


ソフィアは端末を見つめた。


少しだけ、面白くない。


料理をしたことがないだけだ。


まだ失敗すらしていない。


『分かりました』


一度送信する。


それから少し考え、もう一文を付け加えた。


『よろしくお願いします、朔先生』


既読。


『呼ぶな』


『まだ教わっていませんでした』


『教わっても呼ぶな』


迷惑そうな朔の表情を思い浮かべると少し楽しくなって、ソフィアは小さく笑った。


―――明日の午前十時。


氷室ソフィアは初めて、遠野朔の台所に立つ。


いつもの椅子に座り、出来上がるのを待つのではなく。


今度は、彼の隣で。

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