表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
16/20

氷の姫、煮込みが終わるまで帰らない

午前十時になる三分前。


氷室ソフィアは、地上ゲート裏の古いアパートの前に立っていた。


片手には、ギルドから受け取った密閉素材ケース。


肩から下げた鞄には、洗って乾かした黒い保温ボトルが入っている。


朝食は、朔に言われた通り軽く済ませた。


本当に軽くした。


……軽くしすぎたかもしれない。


自室を出た時にはまだ平気だったのに、アパートへ近づくにつれて、胃が今日の予定を察し始めている。


まだ何を作るかも聞いていない。


状態を見てから決める、としか言われていない。


それでも。

霜角巨牛の肉。

朔の部屋。

朝は軽くしろ。


この三つが揃って、何も食べられない可能性は低いはずだった。


ソフィアが呼び鈴の紐へ手を伸ばす。


その前に、鉄扉が内側から開いた。


「三分前だな」


「遅刻ではありません」


「知ってる。腹が早かっただけだろ」


「……素材の温度を優先しました」


黒い長袖シャツ。

黒いエプロン。

後ろで雑に結ばれた髪。


遠野朔は、ソフィアの顔より先に両手の荷物を見た。


「素材は」


「あります」


「写真は」


「受け取った直後に送りました」


「見た。入れ」


必要な会話は終わったらしい。


朔は鉄扉を大きく開ける。


ソフィアは部屋へ入る前に、素材ケースを一度足元へ置いた。


「その前に、これを」


鞄から、黒い保温ボトルを取り出す。


側面には、まだ白い耐水タグが貼られている。


「お返しします。昨日は、ありがとうございました」


朔は礼には触れず、ボトルを受け取った。


外側を見る。

蓋を見る。

側面のタグを確認する。


それから蓋を開け、内側を光へかざした。


「洗ったのか」


「借りたものなので」


「パッキンも外したか」


「はい。洗って、完全に乾いてから戻しました」


朔はボトルの内側へ鼻を近づけた。


水滴もない。

洗剤の匂いも残っていない。


「そこまでやるとは思わなかった」


「普通のことです」


「そうか」


当然のことをしただけなのに、妙な確認をされた。


ソフィアは眉を寄せる。


朔は空のボトルへ蓋を戻した。


「三口で止めたか」


「止めました」


答えるまでに、ほんの少し間が空いた。


朔が顔を上げる。


「妙に間があったな」


「四口目には行っていません」


「行こうとはしたのか」


ソフィアは答えなかった。


「したんだな」


「飲んでいません」


「質問を変えるな」


「戦闘へ戻りましたから」


「戻らなかったら飲んでたのか」


ソフィアは少しだけ目を逸らした。


あの骨出汁は、戦闘中に飲むには美味しすぎた。


冷え切った喉へ落ちる熱。

骨から出た澄んだ旨味。

生姜と香草。


三口目を飲み込んだ後、ボトルを閉じるまでに強い意志が必要だったことは否定できない。


「三口目のあと、すぐ閉めたか」


「……閉めました」


「今も間があったな」


「美味しかったので、仕方ありません」


「戦闘中に味わうなと書いた」


「無理な指示を書いたのは朔さんです」


朔はしばらくソフィアを見た。


それから、黒い保温ボトルを作業台の端へ置く。


「次はもう少し薄くするか」


「それはやめてください」


返事は即座に出た。


朔がわずかに眉を上げる。


「戦闘用だぞ」


「味が薄くなる理由にはなりません」


「ある。四口目を防げる」


「別の方法を考えてください」


「蓋に鍵でもつけるか」


「三口で閉まる鍵なら、壊すかもしれません」


「怖いことを言うな」


朔の真顔を見て、ソフィアの口元がほんの少しだけ緩んだ。


もちろん、本当に壊すつもりはない。


……たぶん。


朔はボトルから耐水タグを剥がした。


ソフィアの視線が、それを追う。


「捨てるんですか」


「使用済みの指示を残すと間違える」


「そうですか」


「何だ」


「いえ。何でもありません」


写真くらい撮っておけばよかった。


……深い意味はない。


一瞬そう思ったが、さすがに口には出さなかった。


朔は剥がしたタグを処分し、足元の素材ケースへ視線を移した。


「今度こそ入れ。温度が上がる」


「はい」


部屋の中央には、すでにCAPTAIN STAGGERの折りたたみ作業台が出されていた。


ソフィアが密閉素材ケースを置く。


朔は手を洗い、薄い作業用グローブをはめた。


留め具を外す。

蓋が開く。


中に収められていたのは、昨日まで寒冷階層で暴れていた霜角巨牛の一部だった。


頸肩部の筋膜がついた端材。

その周辺から外された太いすじ。

肋骨端。

骨端。

凍結の侵入が少ない赤身。

巨大な身体から切り分けられた、ごく一部。


査定上は、他の高価な部位より価値が低い。


だが、ソフィアが自分で選び、申請した戦果だった。


朔はデジタル温度計を肉の表面へ当てた。

数字を見る。

すじを持ち上げ、指で押す。


赤身の切断面。

筋膜の乾燥。

氷の入り方。

骨端の割れ。


一つずつ、無言で確かめていく。


ソフィアは作業台の向かいで、自然と背筋を伸ばしていた。


昨日の大型配信より緊張している、とまでは言わない。


けれど、世界中から称賛された勝利より、今の朔の沈黙の方が気になるのは確かだった。


「右肩は残ったな」


朔が言った。


「残しました」


「すじも潰れてない」


ソフィアの胸が、少しだけ軽くなる。


「では、八十点ですか」


「まだ点数の話はしてない」


「後で聞きます」


「聞く前提なのか」


「昨日、採点すると言ったのは朔さんです」


「そうだったか」


「覚えていてください」


わずかに不満を含んだ声が出た。


朔は気にした様子もなく、赤身端材を作業バットへ移した。


細いメスを取り出す。

筋膜に沿って刃が入る。


す、と。


淡い光が、肉の奥へ沈んだ。


純造分解(エクストラクト)】。


霜角巨牛の肉に残っていた、冷たい鉄のような瘴気臭が薄れていく。

朔は黒ずんだ筋をわずかに削ぎ、別の部位へ刃を入れた。

光がもう一度走る。


それだけだった。


毒沼ガニを処理した時のような、息を詰める危険物処理のような雰囲気ではない。


朔にとっては、肉を洗い、筋を切り、余計な脂を落とすことと同じ、調理前の工程の一つなのだろう。


やがて、瘴気の臭いが消えた。


代わりに立ち上ったのは、濃い赤身と、冷えた脂の匂い。


朔は細いメスを置き、すじ肉を持ち上げた。


「煮込みにする」


ソフィアの反応は、自分でも驚くほど速かった。


「何時間煮込みますか」


「三時間くらい」


「分かりました」


「何がだ」


「三時間、ここにいます」


「帰る選択肢は」


「素材の経過を確認する必要があります」


「もう俺が管理してる」


「味見役にも確認義務があります」


「今作っただろ、その義務」


「必要になったので追加しました」


朔が呆れたように息を吐く。


ソフィアは何事もなかったように顔を整えたが、内心では勝った気がしていた。


それでも帰れ、とは言われなかった。


ソフィアはそれを許可と受け取り、いつもの簡易チェアへ腰を下ろした。


硬い椅子。

狭い部屋。

壁を埋めるギア。

高級な控室とは比べるまでもない無骨な場所。


なのに、座った瞬間、昨日の大型討伐から張り詰めていた肩がわずかに緩んだ。


朔は霜角巨牛のすじ肉を大きめに切り分けた。

鍋に湯を沸かし、一度下茹でする。

湯の表面へ灰色の泡が浮かぶ。

血と余分な脂を丁寧にすくい、肉を引き上げる。


水気を拭く。

赤身端材には軽く塩と黒胡椒。


次に取り出したのは、使い込まれた厚手の鉄鍋だった。


ZOTOのバーナーに火が入る。


カチリ。


青い炎が、鉄鍋の底を舐める。


鍋が十分に熱を持つまで、朔は肉を入れなかった。


温度計を見る。

手をかざす。

それから薄く油を引き、すじ肉を置いた。


――ジュウッ!


低く、太い音が部屋に響いた。


ソフィアの胃が反応する。


すじ肉の表面が、一気に褐色へ変わっていく。


肉の縁から脂が溶け、鉄鍋の底へ広がる。


続けて赤身。


こちらは火を入れすぎず、表面だけを強く焼き締める。


ぱちぱちと脂が弾けた。


濃い肉の香り。

焦げた胡椒。

鉄鍋の熱。


昨日まで霜と氷をまとっていた巨牛が、今は目の前で、明確に美味しそうな音を立てている。


朔は焼き目のついた肉を一度取り出した。


空いた鍋へ、薄く切った玉ねぎを入れる。


しゅわ、と柔らかい音。


玉ねぎが、鍋底に残った肉の脂を吸っていく。

透明になり。

縁が薄く色づき。

甘い香りを出し始める。


「まだ食べられませんか」


「玉ねぎだぞ」


「肉の味がついています」


「ついてるが、今食う意味はない」


「味見としては」


「座ってろ」


即座に止められ、ソフィアは唇を尖らせた。


それでも、言われた通り椅子へ戻る。


朔は赤ワインの瓶を開けた。


鍋へ注ぐ。


――ジュワアッ!


一気に蒸気が立ち上った。


赤ワインの鋭い酸味。

焼けた肉。

甘くなった玉ねぎ。


鍋底に焼きついていた褐色の旨味が、木べらでこすられるたび、赤い液体へ溶けていく。


ソフィアは思わず息を吸った。


強い。


まだ美味しそうというより、鼻の奥を刺激するような香り。


けれど、その奥には確かに肉の匂いがある。


朔は潰したトマトと香草を加え、焼いた肉を鍋へ戻した。


黒胡椒。

少量の味噌。

水分量を確認し、蓋をする。


「開けるな」


「何もしていません」


「開けたい顔をしてる」


「顔で蓋は開きません」


「念のためだ」


あまりに真剣な声だったので、ソフィアは小さく笑った。


「分かりました。開けません」


「最初からそう言え」


朔が火を弱めた。


鉄鍋の中から、こぽ、と小さな音がする。


これから三時間。


ソフィアは端末を取り出した。


画面には、明日の確認面談に関する通知が残っている。


摂取時刻。

摂取量。

内容物。

成分。

入手経路。


黒いボトルの中身について、聞かれる項目。


朔の名前を出すつもりはない。


けれど、どう説明するかは考えなければならない。


ソフィアは資料を開いた。


―――五分後。


鍋を見た。

蓋は閉まっている。


―――さらに十分後。


時計を見る。


「今、どのくらいですか」


「十五分」


「本当に十五分しか経っていないんですね」


「時計を疑うな」


朔は返却された黒い保温ボトルの蓋を分解していた。

洗浄は十分だったらしく、ボトルブラシには手を伸ばさなかった。


戦闘中、ソフィアの手の中にあったものが、いつもの作業台の上へ戻っている。


それを見ているだけで、昨日の出来事が遠く感じられた。


朔は確認を終えた部品を元へ戻し、次にナイフの手入れを始める。


砥石を濡らす。

刃を一定の角度で滑らせる。


しゃっ。


しゃっ。


静かな音。


鍋の中からは、こぽ、こぽ、と煮汁の音が続く。


ソフィアはもう一度、端末へ目を落とした。


明日の面談。

スポンサー。

補給ログ。

考えなければならないことは多い。


それでも、鍋の音が少し変わるたびに顔を上げてしまう。


最初は鋭かった赤ワインの香りが、ゆっくりと丸くなっていく。


肉の匂いが濃くなる。

玉ねぎとトマトの甘酸っぱい香りが混ざる。


同じ鍋なのに、十分前とは違う。


完成へ向かって、少しずつ匂いが変わっている。


朔は何も話さない。


ソフィアも、無理に会話を探さなかった。


帰ろうと思えば帰れた。


三時間後に来ることもできる。


朔も、帰れと言おうと思えば言えたはずだ。


刃を研ぐ音。

鍋が鳴る音。

壁の時計。


時々、朔が火加減を確認する気配。


何も起きていない。


それなのに、ソフィアはその時間を退屈だと思わなかった。


―――次に時計を見た時。


長針は、思っていたよりも先へ進んでいた。


「今、どのくらいですか」


「五十二分」


「……そんなに」


「今度は進みすぎか」


心の内を見抜かれたような言い方に、ソフィアは少し笑った。


「時計を疑ったわけではありません」


先ほどは、十五分しか進んでいない時計を疑った。


今度は少しだけ、進むのが早すぎるように思えた。


一時間ほど経った頃。

朔が蓋を開けた。

湯気が立ち上る。


赤かった煮汁は、少し濃い色へ変わっている。


朔はレードルで煮汁をすくい、味見用の小皿へ少量落とした。


棚から小さなスプーンを一本取り、煮汁を口へ運ぶ。


少し待ち。


舌の上で味を確かめる。


「まだ硬いな。酸味も立ってる」


「確認します」


「必要ない」


「味見役です」


ソフィアが手を伸ばす。


朔は仕方なさそうな顔をしながら、新しい小皿と別のスプーンを棚から取った。


そこへ煮汁を少量落とす。


「熱い。待て」


ソフィアは人差し指を立てた。


小さな氷の輪が、スプーンの柄だけを包む。

冷気が金属を伝い、煮汁の表面から湯気が少し減った。


朔が鍋を見る。


「中には入れてないだろうな」


「スプーンだけです」


「冷やしすぎるな。脂が固まる」


「分かっています」


ソフィアは一口、煮汁を含んだ。


「……酸っぱいです」


「だから言った」


「自分で確かめることに意味があります」


「酸味の確認に世界三位のチェックはいらない」


「世界三位にも舌はあります」


少し得意そうに言うと、朔が呆れたように息を吐いた。


肉の味は出始めている。

玉ねぎの甘みもある。

けれど赤ワインの角が残り、舌の奥をきゅっと締める。


朔が別の清潔なフォークで、すじ肉を一欠片取り分けた。


小皿へ置き、ソフィアへ渡す。


まだ噛み応えが強い。

美味しくないわけではない。

ただ、完成した味ではない。


「まだ、美味しくありません」


「途中だからな」


「三時間後には美味しくなりますか」


「ならなかったら調整する」


「絶対になるとは言わないんですね」


「素材が違えば毎回変わる。時間通りに煮れば勝手に完成すると思うな」


朔は蓋を戻した。


ソフィアは空になった小皿を見つめる。


今の味が。

あと二時間で、どう変わるのか。

先ほどより、帰れなくなった。


二時間目に入る頃には、部屋の匂いは完全に変わっていた。


赤ワインの刺すような香りはほとんど消え、煮込まれた肉と玉ねぎの甘い匂いが広がっている。


朔が作業台から立ち上がり、鍋の蓋へ手を伸ばした。


ソフィアも椅子を立つ。

棚から小皿を二枚。

スプーンも二本。


朔がいつも使う味見用のものと、自分が使うものを分けて作業台へ並べた。


朔が手を止める。


「そこまで覚えたのか」


「必要なものだけです」


胸を張って答える。


「勝手に増やすなよ」


「何をですか」


「必要なものを」


意味がよく分からなかった。


けれど、朔の声は本気で咎めているようには聞こえない。


ソフィアは小さく笑い、スプーンを一本差し出した。


「こちらが朔さんの分です」


「分け方まで決めたのか」


「混ざると困るので」


「何がだ」


「味見の記録がです」


ソフィアはそれ以上説明せず、自分の小皿を手元へ引いた。


朔も深くは聞かず、蓋を開ける。


すじ肉をトングで持ち上げた。


まだ形は保っている。


だが、表面は柔らかく震え、肉の繊維へ煮汁が深く染み込んでいた。


「手際が良くなったな」


「学習しています」


「食うことだけは早い」


「大切なことです」


今度は、氷を使わずに待った。


朔は二枚の小皿へ、それぞれ煮汁を落とす。

先に自分の分を味わい、少し考える。

それからソフィアの小皿を差し出した。


ソフィアも一口。


先ほどまで尖っていた酸味が、肉の脂と玉ねぎの甘みへ溶けていた。

トマトの酸味は残っている。

けれど、嫌な鋭さではない。

味噌の深みが、煮汁の底を支えている。

取り分けられたすじ肉を噛む。

まだ完全には崩れない。


それでも、一時間前とは比べものにならないほど柔らかい。


噛むたび、濃い旨味が滲む。


「美味しくなっています」


思わず頬が緩む。


朔がその変化を見た。


「まだ途中だ」


「途中でこれなら、完成したら危険ですね」


「何が危険なんだ」


「私が帰れなくなります」


「完成したら食って帰れ」


「それは完成後に考えます」


ソフィアが微笑んだまま答えると、朔は何か言いかけてやめた。


代わりに、二本のスプーンをそれぞれ別の位置へ置き、鍋へ向き直る。


ソフィアは、その背中を見ながら思い出した。


まだ聞いていない。

昨日の採点。


「朔さん」


「なんだ」


「昨日の討伐は、何点ですか」


「今聞くのか」


「待ち時間ですから」


朔は鍋をかき混ぜながら、少し考えた。


「七十九点」


「八十点にも届かないんですか」


ソフィアの表情が、分かりやすく曇る。


「左膝に氷を入れすぎた。あそこまで止める必要はない。左手首の外装も砕きすぎだ」


「左手首は、右肩を守るために必要でした」


「必要だったが、もう少し外装だけで逃がせた」


「厳しいです」


「倒す位置は悪くない。ただ、あと半歩奥なら、左側の作業幅をもう少し取れた」


「そこまで点数に入るんですか」


「入る。回収班が入れたかどうかと、楽に作業できたかどうかは別だ」


ソフィアは納得しきれないまま、腕を組んだ。


世界ランク三位の大型討伐。

配信は大成功。

素材も残した。

回収班からも感謝された。

それでも七十九点。


朔の採点は、やはり世界基準より厳しい。


「ただ」


朔が言う。


ソフィアは顔を上げた。


「右肩と頸肩部は残った。骨端も割れてない。大型で七十九なら悪くない」


「今、褒めましたか」


「少しだ」


「少し」


「ああ」


ソフィアの口元が、隠しきれないほど緩んだ。


「分かりました」


「何がだ」


ソフィアは答えず、端末を持ち上げた。


「何をしてる」


「記録します」


「面談の資料を見ろ」


「今日の重要事項です」


「消せ」


「嫌です」


ソフィアの声には、楽しそうな響きが混ざっていた。


端末のメモ欄へ、短く打ち込む。


大型で七十九点なら悪くない。

少し褒めた。

保存。


朔が何か言いたそうに見たが、ソフィアは気づかないふりをして端末を伏せた。


それからさらに一時間。


気づけば、ソフィアはほとんど時計を見なくなっていた。


資料を読む。

朔が保存容器を整理する。

鍋が静かに鳴る。

時々、短い会話をする。


それだけだった。


けれど、三時間は最初に聞いた時の感覚ほど長いものではなくなっていた。


煮汁は深い赤褐色へ変わっている。

朔がすじ肉を木べらで押す。


ほろり、と繊維がほどけた。


赤身端材は崩れすぎず、形を残したまま柔らかくなっている。


朔は清潔な味見用の小皿へ煮汁を取り、新しいスプーンで味を確認した。


わずかに眉を寄せた。


「酸味を残すか、少し丸めるか」


「私に聞いていますか」


「他に誰が食う」


「これまでも私が食べていました」


「今日は好きな方でいい」


ソフィアは言葉を止めた。


胃に優しいか。

魔力が戻るか。

燃費が改善するか。

手元が安定するか。


これまで朔が料理を決める基準は、いつもソフィアの身体だった。


今、聞かれたのは効能ではない。


ただ、どちらが好きか。


「少しだけ」


ソフィアは鍋を見ながら答えた。


声が、自然と柔らかくなった。


「甘い方が、好きです」


朔は何も言わず、小さな瓶を取った。


ダンジョン蜂蜜。

木の匙で、本当に少量だけ煮汁へ落とす。

混ぜる。


新しい味見スプーンで確認する。


「これでいい」


「今の量、覚えたんですか」


「次にぶれると比較できない」


ソフィアは顔を上げた。


「次も作るんですね」


先ほどより、嬉しさが声に出た。


「同じ状態の素材が残ればな」


何でもないことのように、朔は言った。


ソフィアも、それ以上は聞かなかった。


ただ、鍋の中に自分の好みが入り。

次に作る時の基準として残ったことを、妙に意識してしまった。


朔は赤ワイン煮込みをRainPeakの深皿へ盛った。


ほぐれたすじ肉。

形の残った赤身。

艶のある赤褐色の煮汁。

横には、表面を軽く焼いたパン。


焦げ目のついたパンから、香ばしい匂いが立っている。


「霜角巨牛のすじ肉と赤身端材の赤ワイン煮込み」


皿が置かれる。


「今日は回復飯じゃない。戦闘後の残りを抜く方だ。食いすぎると熱がこもるから、最初はそれだけ」


「最初は」


「言葉尻を拾うな」


「いただきます」


ソフィアはスプーンを取った。


すじ肉へ入れる。

ほとんど抵抗がなかった。

押しただけで、肉の繊維がほどける。


煮汁をたっぷりまとわせ、口へ運んだ。


「……っ」


最初に広がったのは、肉の濃さだった。


魔豚の脂の甘さとは違う。

黒角鹿の澄んだ赤身とも違う。


もっと厚く、深い。


長時間煮込まれたすじの旨味が、舌の上でゆっくり溶ける。


赤ワインの香り。

トマトの酸味。

炒めた玉ねぎの甘み。

黒胡椒。

香草。

煮汁の奥に隠れた、味噌の深さ。


最後に、ほんの少しだけ蜂蜜の丸い甘みが残る。


酸味を消してはいない。


肉の濃さを重くしすぎない程度に支え、次の一口を欲しくさせる。


「美味しい……」


声が、自然にこぼれた。


頬が緩む。


今度は隠そうとはしなかった。


赤身端材は、すじとは違う食感だった。


形は残っている。


噛めば肉らしい弾力があり、その後から繊維がほぐれる。

煮汁を吸いながらも、赤身そのものの味が消えていない。


ソフィアはパンを千切った。


煮汁へ浸す。


表面の焦げた部分を残し、内側だけが赤褐色の煮汁を吸い込んでいく。


口へ入れる。


柔らかいパンから、肉と玉ねぎの旨味が溢れた。


外側の香ばしさが、煮込みの濃い味を受け止める。


―――反則だった。


肉。

煮汁。

パン。


もう一度、肉。


気づけば、三口目を飲み込んでいた。


ソフィアの手が止まる。


朔が見る。


「どうした」


「四口目に行っていいんですよね」


「今は戦闘中じゃない」


「三口まででは」


「書いてないだろ。急ぐ必要もない」


「……そうですね」


ソフィアは、小さく笑った。


四口目。


昨日は我慢した一口。


今度は急がず、きちんと味わう。

温かい煮汁が胃へ落ちる。

魔力が爆発的に増える感覚はない。


代わりに、昨日から指先の奥へ残っていた細かな疲労が、ゆっくりとほどけていく。


精密制御を続けた右手。

冷気を受け続けた喉。

無意識に強張っていた肩。


身体の中に残っていた疲労が、温かい煮込みに押し流されていく。


「朔さん」


「なんだ」


「もう少し、ありますか」


「最初からそのつもりでパンを少なくした」


「分かっていたんですか」


「朝を軽くしろと言った」


「ちゃんと軽くしました」


「顔を見れば分かる」


ソフィアは恥ずかしそうに視線を逸らした。


それでも、おかわりを断るつもりはなかった。


朔は鍋から、すじ肉を少しだけ追加した。

煮汁も一杯。

パンは半分。


「これで終わりだ。高魔力素材だから、昼から詰めすぎるな」


「はい」


返事だけは素直だった。


二杯目は、一杯目よりゆっくり食べた。


味は同じはずだった。


それでも、自分が選んだわずかな甘みを意識するたび、少しだけ自分のための料理に近づいたように感じる。


煮汁を飲み込むたび、身体に残っていた冷えと緊張がほどけていく。


ソフィアは最後のパンを千切り、皿の縁に残った煮汁へ浸した。


勝った瞬間には、戦いが終わったとは思えなかった。


回収班へ素材を渡しても。

配信終了のランプが消えても。

自室へ戻っても。


けれど今。


狭い部屋で。

朔が火を止めた鉄鍋の前で。

自分が残した霜角巨牛を、温かい料理として食べている。


ようやく、昨日の戦いが終わった。

そんな気がした。


気づけば、皿に残っているのは最後の肉と、わずかな煮汁だけだった。


ソフィアのスプーンが止まる。


最後のすじ肉をすくったまま、しばらく見つめる。


「食わないのか」


朔が言った。


「食べています」


「三分前から同じ肉を見てる」


「……最後なので」


「見ていても増えないぞ」


「分かっています」


分かっている。


食べ終われば、皿は空になる。

煮込みを待つ理由もなくなる。


三時間ここにいると言った、その三時間が終わる。


それだけのことだ。


「冷める」


「分かっています」


二度目は、少しだけむくれた声になった。


一瞬、朔がわずかに口元を緩めたように見えた。


けれど、ソフィアが確かめる前に、いつもの無表情へ戻っていた。


ソフィアは最後の肉を口へ入れた。


急がずに噛む。

ほろりとほどける繊維。

濃い煮汁。

玉ねぎの甘み。

蜂蜜の丸い余韻。


飲み込んだ後も、口の中には温かな味が残った。


最後にパンで皿を拭う。


赤褐色の煮汁を、一滴残さず吸わせる。


それも食べ終えると、本当に何もなくなった。


銀色の深皿には、薄い艶だけが残っている。


ソフィアはスプーンを置いた。


「ごちそうさまでした」


いつもと同じ言葉のはずなのに、今日は少しだけ言いにくかった。


朔は空になった皿を見る。


それから、いつも通り短く返した。


「ああ」


皿が片付けられる。

スプーンも。

パンを置いていた小皿も。

テーブルの上から食事が消えていく。


それでも、部屋の中にはまだ赤ワイン煮込みの香りが残っていた。


鍋が鳴っていた音。

刃を研いでいた音。


何度も時計を見たこと。

途中から、見なくなったこと。


七十九点を保存したこと。

甘い方が好きだと答えたこと。


何も起きていない三時間が、空になった皿よりもはっきりと残っている。


ソフィアは椅子に座ったまま、その余韻へ小さく息を吐いた。


「食いすぎたか」


「違います」


「なら帰れるな」


「……そうですね」


少し名残惜しそうな声になった。


けれど、否定する理由はもう残っていない。


朔は食器を流しへ置くと、鉄鍋に残った煮込みを保存容器へ移し始めた。


すじ肉の一部を取り分け、細かくほぐす。


ソフィアはそれを何となく眺めていた。


保存するだけなら、肉を崩す必要はないはずだ。


朔は別の小鍋を火にかけた。


少量の米。

バター。

黒胡椒。


温められた米粒へバターが薄く馴染み、柔らかな香りが立つ。


そこへ、汁気を少し切った赤ワイン煮込み。


茹でた人参。

香味菜。


朔はバターライスを浅い金属バットへ広げ、保冷板の上へ置いた。


煮込みも別のバットへ移し、湯気を逃がす。

十分に熱が抜けたところで、黒い弁当箱へ詰めていった。


今、食べ終えたばかりの煮込みが、別の形へ組み直されていく。


「それは何ですか」


「明日の昼」


「私のですか」


「他に誰が面談へ行く」


ソフィアは椅子から、わずかに身を乗り出した。


その目が少し明るくなる。


「作ってくれるとは思いませんでした」


「空腹で面談へ行くと、胃も判断も荒れる」


「判断まで管理するんですか」


「空腹の人間は、余計なことを言う」


「私はそこまで単純ではありません」


「最後の肉を三分見てた人間が言うな」


「……あれは、食べ終わるタイミングを確認していただけです」


「何の確認だ」


ソフィアは反論しようとして、やめた。


弁当箱に収まった煮込みを見ていると、それ以上強く否定する気にはなれなかった。


朔は弁当箱の中身を平らに整えた。


煮込みが一方へ寄らないよう仕切りを入れ、蓋を閉じる。


最後に、白い耐水タグを貼った。


朝まで冷蔵。

保冷して持て。

面談一時間前までに食え。

食べすぎるな。

容器は返せ。


ソフィアは最後の一文を、もう一度読んだ。


「容器は返せ、とあります」


「書いてあるな」


「洗剤も残しません」


朔が一度だけ顔を上げた。


「まだ何も言ってない」


「学習しています」


ソフィアの声に、わずかな笑みが混じった。


朔は弁当箱を薄型の保冷ポーチへ収め、小さな保冷材を脇へ差した。


ポーチの口はまだ開いており、白いタグが覗いている。


ソフィアはタグから視線を外さないまま、それを両手で受け取った。


「面談へ持っていっても問題ありませんか」


「配信中の補給じゃない。ただの昼飯だ」


黒い保温ボトルとは違う。


配信で使う補給物ではない。


ただの昼食だ。


それでも。


量も。

脂も。

食べる時刻も。


明日のソフィアの胃と、面談中の集中力に合わせて決められている。


「温められなければ、そのままでも食える」


「冷めても美味しいという意味ですか」


「弁当だからな」


「明日の状態で確認する必要があります」


「あんた、もう一個食う気だろ」


「味見役としてです」


「明日食え」


「では、明日感想を送ります」


「感想だけじゃなく、状態も送れ。食欲、胃、手元、冷え」


「昼食ですよね」


「面談前の補給だ」


「ただの昼食ではなかったんですか」


「昼食も補給だろ」


朔にとっては、そうなのだろう。


戦闘前の粥も。

寒冷階層の骨出汁も。

今食べた煮込みも。

明日の弁当も。


全部、ソフィアが次に動くための食事として繋がっている。


昨日まで、朔から受け取るものは戦場へ持っていく補給だった。


魔力を保つため。

手元を戻すため。

冷えた喉を温めるため。

砕かずに勝つという選択を、最後まで維持するため。


今、手の中にあるのは。


明日の昼に食べるだけの弁当だった。

魔力を一気に増やすものではない。

大きな耐性がつくわけでもない。


ただ、明日の自分が空腹にならないように。

胃を荒らさないように。


……余計なことを言わないように。


朔が作った昼食。


それだけの違いが、なぜか少し大きく感じられた。


「落とすなよ」


「弁当箱も高いんですか」


「普通だ。中身が崩れる」


「分かっています」


ソフィアは、保冷ポーチを抱え直した。


昨日、寒冷階層へ持っていった黒い保温ボトルよりも。


ほんの少しだけ、慎重に。


鞄を開く。

朝まで黒い保温ボトルが入っていた場所へ、今度は保冷ポーチごと黒い弁当箱を収める。


潰れない位置。

傾かない向き。


蓋が他の荷物へ当たらないことまで確かめ、鞄の口を閉じようとした時。


テーブルに伏せていた端末が、短く震えた。


表示された送り主は、担当マネージャーだった。


『明日のスポンサー面談、十五時からで間違いないわね』


確認への返信を打つ前に、もう一通届く。


『その前に、久しぶりに一緒にお昼でもどう?』


ソフィアの指が止まった。


続けて、少し間を置いてメッセージが届く。


『最近ゆっくり話せていないし、面談前に少し確認しておきたいこともあるから』


断る理由はない。


いつもなら、すぐに了承していた。

けれど明日の昼には、すでに予定がある。


ソフィアの視線が、鞄の中へ収めたばかりの黒い保冷ポーチへ落ちた。


「朔さん」


「なんだ」


「明日、担当マネージャーから昼食に誘われました」


流しで皿を洗っていた朔は、手を止めなかった。


「行けばいいだろ」


止めてほしかったわけではない。


ないのだが、弁当の扱いを確認するより先に即答されると、なぜか少しだけ面白くなかった。


「これを持っていっても大丈夫でしょうか」


ソフィアは鞄の中の保冷ポーチを見る。


朔も一度だけ、そちらへ視線を向けた。


「見た目だけで魔物の肉とは分からない。そこで食うこと自体は問題ないだろ」


「匂いは」


「普通の赤ワイン煮込みだ。少なくとも、蓋を開けただけで霜角巨牛だと当てる奴は絶対にいない」


「そういうものですか」


「肉を見て種まで当てられるなら、そいつは俺より素材に詳しい」


確かに。

それは、たぶんいない。


ソフィアは端末へ視線を戻した。


誘いを断れば、かえって不自然かもしれない。


最近ゆっくり話せていない、という言葉にも心当たりがあった。


「……確かに、急に断る方が変ですね」


「なら行け」


「簡単に言いますね」


「昼飯を食うだけだろ」


朔はそう言って、また皿を洗い始めた。


細い水音が部屋へ戻る。


ソフィアは少し考えてから、返信を打った。


『ありがとうございます。ぜひお願いします』


一度、そこで指を止める。


鞄の中の黒い保冷ポーチを見る。


それから、もう一文を付け加えた。


『ただ、明日はお弁当を持参する予定だったのですが、それでも大丈夫でしょうか』


送信。


ほどなくして既読がついた。


『もちろん。私も何か買っていくわ』


続けて。


『じゃあ十三時半に、いつもの職員用休憩スペースで』


昼食の予定が決まった。


ソフィアは端末を伏せ、鞄の中をもう一度確かめる。


黒い保冷ポーチ。

その中の弁当箱には、白い耐水タグ。


朝まで冷蔵。

保冷して持て。

面談一時間前までに食え。

食べすぎるな。

容器は返せ。


朔の雑な文字が、五行並んでいる。


ただの昼食。

少なくとも、朔はそう言った。


ソフィアは弁当箱が傾いていないことを確かめ、静かに鞄の口を閉じる。


明日の昼は、担当マネージャーと一緒に食べることになった。


そのこと自体に、問題はない。


―――問題があるとすれば。


朔の作った弁当を前にして、いつも通りの顔で食べられるかどうかだった。

ここまでお読みいただきありがとうございます!

長くなってしまいすみません…二人と一緒に三時間かけて読んでください笑

少しでも「面白い」「続きが読みたい」と思っていただけましたら、画面下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にし、リアクションや感想を書いて応援していただけると、作者の最大の魔力回復(励み)になります!

合わせて【ブックマークに追加】もぜひよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ