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14/16

氷の姫、黒いボトルの蓋は自分で開ける

大型討伐当日。


朔に渡された黒い保温ボトルは、昨夜より少し重く感じられた。


寒冷階層の前線控室には、薄い隔壁越しにも冷気が染み込んでいる。


壁際では配信スタッフがドローンの同期を確認し、ギルド職員が討伐区域の封鎖状況を読み上げていた。


通信中継器。

救助用ワイヤー。

予備の魔力杭。

スポンサーのロゴが入った補給箱。


大型討伐配信を支える機材が、狭い室内に隙間なく並んでいる。


その中央で、氷室ソフィアは静かに開始を待っていた。


銀髪は乱れなく結われている。

探索服には汚れ一つない。

姿勢も、表情も、配信用ドローンが捉える横顔も、すでに完璧な氷の姫だった。


ただし。


腰の左側には、スポンサーのロゴが入っていない黒いボトルがある。


「氷室さん」


確認用の端末を持ったスタッフが、そこへ視線を向けた。


「そちらのボトルは、ご自身で持ち込みの補給物でしょうか」


「はい、体調管理用の温かい補給物です」


「未登録補給物に該当する可能性があります。中身を確認してもよろしいですか」


スタッフの声は丁寧だった。

当然、何かを疑っているわけでもない。


大型配信の規定に従って、必要な仕事をしているだけだ。


それでも、ソフィアの手は自然にボトルへ重なった。


昨夜。


朔はこの容器に出汁を入れる前に、一度熱湯を注いでいた。

容器そのものを温め、中の湯を捨てる。


霜苔羊の骨から取った出汁を注いだ後も、蓋を閉める直前まで温度を測っていた。


今ここでボトルを開けてしまえば、その細かな作業が一つ無駄になる。


「開封すると温度が落ちます」


ソフィアは静かに答えた。


「使用した場合は、摂取した時刻と量を記録します。それでは不足でしょうか」


スタッフは少しだけ迷い、端末へ視線を落とした。


「……承知しました。使用後は、補給物ログへの記入をお願いします」


「分かりました」


完全に認められたわけではない。


使えば、後から確認される可能性は高い。


それでも、今ここで蓋を開けられることは避けられた。


スタッフが離れていく。


ソフィアは小さく息を吐いた。


ボトルの側面には、小さな耐水タグが結びつけられている。


三口まで。

横倒し不可。

開封後はすぐ閉めろ。

戦闘中に味わうな。


「……」


ソフィアは最後の一文を見つめた。


"戦闘中に味わうな"


つまり。


味わおうと思えば、味わえる程度には美味しいということなのか。


配信開始までは、まだ数分ある。


どうしても気になったソフィアは、端末を取り出した。


『タグの最後の一文は何ですか』


既読はすぐについた。


返事も早かった。


『必要事項だ』


『味わうな、ということは、味わえる味なんですね』


『戦闘前に読むな』


『読ませる位置に貼ったのは朔さんです』


返事が止まった。


数秒後。


『蓋を緩めるな。温度が逃げる』


そこしか返さないらしい。


「本当に、この人は……」


呆れた声が漏れた。


けれど、少しだけ口元が緩んでしまう。


その時、配信開始の合図が入った。


ソフィアは端末を腰へ戻し、黒いボトルを装備の内側へ収める。


簡単には落ちない位置。

それでも、手を伸ばせばすぐに届く場所。


そこに収まった重さを確かめてから、ソフィアは前線控室を出た。


巨大な隔壁が開く。


冷えた空気が、一気に流れ込んできた。


―――第六十八階層。

白灰大氷原。

地上の季節は、ここには届かない。


天井の見えない広大な空間に、白く凍った岩盤が続いている。


足元には幾重もの亀裂が走り、その隙間から青白い冷気が細く噴き上がっていた。


ソフィアの周囲へ、五機の配信用ドローンが展開する。


その、さらに後方。


封鎖線の向こうには、救助班、分析班、素材回収班、後処理班が待機していた。


黒や灰色の防寒装備。

大型の工具。

素材搬送用のソリ。


その端に、見覚えのある黒い作業着があった。


朔は後処理用の作業台の横に立ち、搬送ソリの留め具を確認している。


手を振る訳でも。

こちらを呼ぶ訳でもない。


一瞬こちらを向いた気がしたが、ソフィアを見ているかどうかも、ここからでは分からなかった。


それでも。


見える位置にいる。


昨夜の言葉通り、そこにいた。


戦うのは自分だ。


朔が代わりに敵を倒してくれるわけでも、戦場で答えを与えてくれるわけでもない。


けれど、戦いを終えて戻った時には、いつもの場所にいる。


状態を報告すれば、いつもの平坦な調子で細かく聞かれるのだろう。


そう思うと、胸の奥に張りついていた戦闘への緊張が、ほんの少しだけほどけた。


ソフィアは腰の黒いボトルへ触れ、正面へ視線を戻す。


カメラのランプが赤く灯る。


『氷姫きた!』


『今日も美しい』


『腰の黒いボトル何?いつもはないよな?』


ソフィアは静かに顔を上げた。


「皆様、ごきげんよう。氷室ソフィアです」


声は冷たく、澄んでいる。


「本日は第六十八階層に出現した大型種、霜角巨牛(フロストミノタウロス)の討伐を行います」


氷原の奥から、低い振動が伝わってきた。


一歩。

また一歩。


足元の細かな氷片が、音を立てて跳ねる。


白い霧を押し分け、巨大な影が現れた。


五メートルを超える巨体。

分厚い牛の脚。

人型に近い上半身。

頭部から伸びる二本の角には、半透明の氷殻が幾重にもまとわりついている。


特に右肩は大きく盛り上がり、岩塊のような外装に覆われていた。


霜角巨牛が白い呼気を吐く。


冷気が地面を這い、氷原の表面が一瞬で白く曇る。


『でかすぎる』


『あの外装、本当に壊せるのか?』


『氷姫なら足場ごと凍らせて終わりだろ』


霜角巨牛がソフィアを敵と認めた瞬間、視界の端からコメントが消えた。


ここから先は、目の前の相手だけを見ればいい。


巨牛が咆哮する。

次の瞬間。

巨体が動いた。

速い。


分厚い脚が氷原を踏み砕き、角を低く構えた霜角巨牛が一直線に迫ってくる。


ソフィアは正面から動かなかった。


右手を上げる。


冷気が集まり、身の丈を超える氷の大鎌が生まれた。


いつも通りなら。

足場ごと凍らせる。

巨体を氷の中へ閉じ込める。

大鎌を振り下ろし、外装も肉も骨もまとめて砕く。


安全で。

速く。

世界中が期待する、氷の姫の勝ち方。


だが、昨夜、朔から渡された霜角巨牛の図には短い文字が並んでいた。


全部残そうとするな。


左は砕いていい。

残すなら右肩と頸肩部(けいけんぶ)


角が届く寸前。


ソフィアは半歩だけ左へずれた。


氷の大鎌を横薙ぎに振るう。


轟音。


蒼白い刃が、霜角巨牛の左肩へ食い込んだ。


分厚い外装が、内側から爆ぜる。


白い氷片が空中へ舞い、配信用ドローンのライトを反射した。


霜角巨牛の身体が大きく傾く。


ソフィアは大鎌を返した。


そのまま胴へ振り下ろせば、胸部までまとめて割れる。


だが、刃は巨体へ向かわなかった。


大鎌の先端が、霜角巨牛の左側にある地面へ突き刺さる。


氷原がせり上がった。


厚い氷壁が、進路を塞ぐように立ち上がる。


傾いた巨体が氷壁へぶつかった。


砕けた左肩を擦りつけながら、霜角巨牛の身体が右へ向きを変える。


右肩には、刃を触れさせない。

頸肩部にも、氷を入れない。


ソフィアには聞こえない配信画面の向こうで、コメント欄がざわつく。


『追撃しなかった?』


『今ので胴まで砕けただろ』


『いや、右側だけ残してないか?』


『わざと攻撃する場所を選んでるってこと?』


霜角巨牛が腕を振るう。


ソフィアは大鎌の柄で受け流し、後方へ滑った。


続けて、巨牛が左脚を踏み込む。


ソフィアは足元へ薄い氷を走らせた。


凍らせるのは巨体ではない。


左の蹄が着地する、その一点だけ。


(ひづめ)が滑る。

重心が崩れる。


巨牛は倒れまいと左腕を振り回し、身体をさらに右へ捻った。


ソフィアは横へ回り込む。


目の前に広がっているのは、ただの平らな氷原ではない。


左には深い亀裂。

後方には救助班の退避経路。


右奥には、回収用の大型ソリを入れやすい平坦な場所がある。


どこへ倒すか。


そこまで含めて、自分で選ぶ。


ソフィアは氷の刃を左脇腹の外装へ突き刺した。


爆ぜる。


霜角巨牛が痛みに身体を反らし、一歩だけ平坦な場所へ下がった。


今の誘導は、何点だろう。


そんな考えがふと浮かんだが、ソフィアはすぐに打ち消した。


違う。


自分は世界ランク三位の探索者だ。


食材調達係として、裏方の採点を待っているわけではない。


ない、はずなのに。


四十点は欲しいと思った。


『今の足止め何?』


『巨牛じゃなくて、踏む場所だけ凍らせた?』


『氷の使用量が少ない』


『右側だけ露骨に守ってない?』


霜角巨牛が両腕を振り上げる。


氷原へ叩きつけた。

衝撃が足元を走る。


亀裂が広がり、巨大な氷板が何枚も跳ね上がった。


ソフィアは一枚目をかわす。


二枚目を大鎌で砕く。


三枚目の陰から突き出された角を、薄い氷壁でわずかに逸らした。


広範囲を固める必要はない。


一歩分。

刃一枚分。

角度を変えるための、拳一つ分。


必要な場所にだけ氷を置く。


魔力は残っていた。


昨夜食べた霜苔羊と霜鳴り麦が、身体の内側で細く燃えている。


大技を使った後のような、急激な空洞はない。


呼吸も乱れていない。


けれど。


細い氷の線を何度も引くたび、右手の奥に重さが溜まっていく。


霜角巨牛が左腕を振り回した。

ソフィアは身体を沈め、腕の下を抜ける。

そのまま右手の薬指から、細い氷針を放った。


狙いは、砕けた左肩の奥。


氷針は正確に刺さった。


ただし。


根元だけが、想定よりわずかに太い。


ソフィアはすぐに魔力供給を断った。

氷針の成長が止まり、それ以上深く入り込むのを防ぐ。


魔力の精度が下がった。

補給すべきだろうか。

右手を見る。


震えてはいない。

痛みもない。


……これだけでは、まだ判断できない。


腰の黒いボトルへ手を伸ばすことなく、ソフィアは霜角巨牛へ向き直った。


巨牛が吠える。


砕いた左肩へ、周囲の冷気が集まり始めた。


外装を作り直すつもりだ。


ソフィアは大鎌を小さく分解した。


長い柄と巨大な刃が、数本の細い氷刃へ変わる。


一本目が左膝の外装を削る。

二本目が角の左側だけを欠く。

三本目が脇腹へ走り、再生しかけた氷殻を剥がした。


右肩には触れない。

頸肩部にも入れない。


以前なら、一度の凍結で終わっていた相手だ。


今は、一つずつ選ばなければならない。


砕く場所。

残す場所。

次に動かす方向。


そのすべてが、指先へ重く積み重なる。


霜角巨牛が左脚を踏み込んだ。


ソフィアは人差し指を振る。


蹄の前へ、薄い氷板を作った。


だが。


氷は狙った範囲より、わずかに広く生まれた。


右脚の縁へ届く寸前で、ソフィアは魔力を切る。


氷板が細かく砕けた。


霜角巨牛の蹄が、そのすぐ横を踏み抜く。


轟音。


飛び散った氷片が、ソフィアの頬をかすめる。


二度目の魔力精度低下のサイン。


腰の黒い保温ボトルが、急にはっきりと重さを増したように感じられた。


指先が、ボトルへ触れる。


耐水タグのざらつきが、ソフィアに昨夜のことを思い出させる。


――前夜、朔の野営地。


低く張られたタープの下。


朔は黒い保温ボトルの側面へ、細い耐水テープを貼っていた。


「細いのを三本。右手で出せ」


「今ですか?」


「明日、俺の合図が使えない時の目印を決める」


ソフィアは右手を上げ、指先に三本の氷針を作った。


細く。

透明に。

同じ長さで。


朔は炎の向こうから、それを順番に見る。


それから、耐水テープへ短く文字を書いた。


右、二回。


「魔力の乱れが二回出たら飲め」


「一度では駄目なんですか」


「足場が揺れたかもしれない。風か、相手の攻撃で集中が切れた可能性もある」


ペン先が、二回という文字の下に線を引く。


「二度出たなら無視するな」


ソフィアは三本の氷針を消した。


「それでも迷ったら?」


「全部砕け」


朔は少しも考えずに答えた。


「右肩もですか」


「右肩も、頸肩部も、肉も全部だ」


「せっかく残した素材でも?」


「肉はまた獲れる」


朔は黒い保温ボトルの蓋を締め、逆さにして漏れがないことを確かめた。


「危なくなったら素材は諦めろ。自分の安全を優先しろ」


ソフィアは、朔の横顔をじっと見た。


「……私のことを心配してくれるんですか?」


「倒れられたら困る」


「試食係がいなくなるから?」


「それもある」


ソフィアは目を瞬いた。


「それも、ということは。他にもあるんですか?」


朔は少し考えてから、ボトルの側面へ耐水タグを貼った。


「胃も、魔力の戻り方も、氷が乱れる時の癖も、食える量も。今は全部、あんたに合わせてる」


「……私に?」


「ここで壊されたら、また一から調整し直しになる。面倒だ」


朔にとっては、ただの作業上の問題ということなのだろう。


けれど。


全部、自分に合わせている。


その言葉が思っていたより嬉しくて、深く胸へ落ちた。


ソフィアは何かを返そうとして、やめた。


代わりに、差し出された黒いボトルを両手で受け取る。


「ちゃんと戻ってきます」


「そうしろ。終わったらまた来て、状態を報告しろ」


「全部砕いて素材がなくなっても、行っていいんですか?」


朔の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。


手ぶらなら飯は出さない。

最初に決めた契約。


朔はわずかに眉を寄せ、それから小さく息を吐いた。


「……確かに、契約とは違うな」


「では、素材を駄目にしたら――」


「何か用意するからいい」


あまりにも軽い口調だった。


特別なことを言ったつもりなど、きっとない。


それでも。


素材を持ち帰れなくても、ここへ来ていい。


その事実だけで、胸の奥が少し温かくなる。


ソフィアは黒いボトルへ視線を落とした。


緩みかけた口元を隠すには、ちょうどよかった。


「……分かりました」


「何を笑ってる」


「笑っていません」


「そうか」


朔はそれ以上気にした様子もなく、残ったギアの片付けへ戻った。


――現在。


黒い保温ボトルを握る。


朔は隣にはいない。

氷壁の陰で起きた二度目の乱れまでは、見えていない。


霜角巨牛が次にどう動くかも知らない。


それでも。


何を見落としてはいけないのか。

何を諦めていいのか。

必要なことは、昨夜すでに渡されている。


霜角巨牛が、突進の姿勢を取った。


角が低く沈む。


巨体の周囲で冷気が渦を巻く。


これまでで最も強い突進。


今、蓋を開ければ間に合わない。


ソフィアはボトルから手を離した。


先に、補給の為の数秒を作る。


霜角巨牛が地面を蹴る。

氷原が砕けた。


真正面から受ければ、氷壁ごと押し潰される。


左右へ避ければ、巨牛は後方の機材区画へ抜ける。


巨大な大鎌を出せばいい。


足場ごと凍らせる。


巨体を氷の中へ閉じ込める。


右肩も頸肩部も関係なく、全部まとめて砕く。


そうすれば勝てる。


今まで通りなら。


安全に。

美しく。

誰にも文句を言われずに。


ソフィアは右手を上げた。


大量の冷気が集まる。


氷原全体が、低く鳴った。


配信画面の向こうで、コメントが一気に加速する。


『大鎌くるぞ!』


『これで終わりだ』


『氷姫の本気!』


いつもの氷の姫なら、そのまま振り下ろしている。


けれど。


生まれかけた巨大な大鎌は、途中で形を変えた。


刃が細く割れる。


氷の帯となり、左側の地面だけを厚く覆っていく。


霜角巨牛が突進した。


ソフィアは動かない。


一歩。

二歩。


巨体が迫る。

三歩目。


左の蹄が、厚く張った氷へ乗った。


ソフィアは右手を握る。


氷が割れた。


ただ壊れたのではない。


左の蹄を外側へ落とすよう、斜めに砕ける。


霜角巨牛の重心が大きく傾いた。


突進の勢いを殺せないまま、左肩から氷原へ滑っていく。


ソフィアは横へ抜けた。


巨牛の左側へ氷壁を立てる。


衝突。

轟音。


壊れていた左肩の外装が、さらに砕け散った。


右肩を上にしたまま、霜角巨牛の巨体が平坦な場所へ倒れ込む。


氷原全体が震えた。


白い粉塵が舞う。


数秒。


ほんの数秒だけ、巨牛の動きが止まった。


ソフィアが、補給のために作った時間だった。


右手を見る。

指先に力は入る。


だが、次も同じ精度で動く保証はない。


まだ戦える。


それでも。


まだ戦えることと、このまま続けていいことは同じではなかった。


ソフィアは腰から黒い保温ボトルを抜いた。


カメラと霜角巨牛の間に立ち上がった氷壁。


その陰へ半歩入る。


ボトルの側面に、朔の字が見えた。


三口まで。

横倒し不可。

開封後はすぐ閉めろ。

戦闘中に味わうな。


その下に、小さく書き加えられた文字。


右、二回。

危なくなったら、素材は諦めろ。


霜角巨牛の指が、氷原を掻く。


もうすぐ立ち上がる。


ソフィアはボトルを握り直した。


ここから先は。

朔が決めることではない。


補給をするか、しないか。

何を砕くか、砕かないか。

どう勝つか。


すべて、自分で選ぶ。


ソフィアの指が蓋にかかる。


固く閉められていた蓋が。

小さな音を立てて、緩んだ。


ここまでお読みいただきありがとうございます!

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