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13/16

氷の姫、食事以外も管理される

翌朝。


氷室ソフィアが目を覚まして最初に見たのは、天井ではなかった。


枕元に置いた端末。

その画面に表示された、遠野朔の名前だった。


昨夜、最後に届いたメッセージは短い。


『減ってたら朝飯を軽くする』


食欲の話である。

色気はない。

余韻もない。


世界ランク三位の探索者と連絡先を交換した男が、最初に気にしたのは翌朝の食事量だった。


本当に、この人はぶれない。


ソフィアはベッドの上で身体を起こし、自分の状態を確かめた。


胃。

重さはない。

喉。


毒沼の瘴気を吸った時のひりつきも消えている。


皮膚。

赤みなし。

指先。

少し冷たいが、痺れはない。


右手を開き、小さな氷の針を一本だけ作る。


透明な針は、揺れずに指先へ浮かんだ。


魔力の通りも悪くない。


昨日食べた毒沼ガニの蟹味噌雑炊が、身体に残っていた瘴気まで綺麗に抜いてくれたらしい。


ソフィアは教えられた順番で、状態を入力した。


『胃、異常なし。喉、異常なし。皮膚、異常なし。指先、少し冷えます。魔力の通り、問題ありません。食欲、あります』


最後の項目だけ、妙に入力が早くなった気がする。


だが、必要な情報なので仕方がない。


送信する。


すぐに既読がついた。


返ってきたのは、労いの言葉ではなかった。


『魔力残量』


ソフィアは端末を見つめた。


昨日、指定された項目にはなかった。

それでも体内を巡る魔力を確かめる。


『八割ほどです』


『睡眠』


指が止まった。

時計を見る。


昨夜は、朔とのやり取りが終わった後も、何度か端末を開いてしまった。


新しく登録された名前が、消えていないことを確認しただけだ。


別に、連絡を待っていたわけではない。


たぶん。


『五時間半です』


少し間が空いた。


『足りない』


短い。

冷たい。

逃げ道がなかった。


『普段もそれくらいです』


『普段から足りてない』


正論だった。


朝から正論で殴られるとは思わなかった。


ソフィアが少し唇を尖らせていると、また通知が来た。


『右手に氷を三本出せ。十秒維持して動画』


『毒沼ガニの経過確認ではないんですか』


『それも見る』


それも。


つまり、他にも見るつもりらしい。


ソフィアはベッドから下り、カーテンを閉め直した。


私室とはいえ、氷室ソフィアが寝起きの部屋で氷を出している映像など、万が一にも外へ漏らすわけにはいかない。


端末を固定する。


右手を映し、指先へ魔力を集めた。


一本。

二本。

三本。


細い氷針が、朝の薄い光を透かして浮かぶ。


十秒。


問題はない。


そう思った。


だが、動画を見返すと、一番外側の針だけが最後にほんのわずかに揺れていた。


言われなければ、気づかなかった程度の震え。


ソフィアは動画を送った。


すぐに返信が来る。


『右の一本が遅い』


『これくらいなら戦闘に影響はありません』


『砕くならな』


ソフィアの指が止まった。


『明日の仕事、その手でやる気か』


明日。


そこで初めて、ソフィアは朔が何を見ていたのか理解した。


『大型討伐のことを知っていたんですか』


『ギルドの作業予定に出てる』


表舞台の配信告知ではない。


討伐後の清掃。

崩れた足場の処理。

魔物の死骸と素材の回収。

配信機材の撤去。


朔が見ているのは、そちらの予定だった。


明日の討伐対象は、寒冷階層に現れた大型種――霜角巨牛(フロストミノタウロス)


ソフィアが主力として参加する、大型配信案件でもある。


倒すだけなら難しくない。


足場ごと凍らせる。

巨体を氷の中へ閉じ込める。

巨大な大鎌で、まとめて砕く。


最も安全で、最も派手で、最も氷の姫らしい倒し方だ。


だが。


それでは、素材が残らない。


『今まで通りなら問題ありません』


ソフィアはそう打った。


少し迷ってから、続ける。


『でも、できれば砕きたくありません』


送信。

既読がつく。

返事は、すぐには来なかった。


数秒後。


『なら項目が足りない』


『項目?』


『魔力残量、手元、冷え、睡眠、食欲。今後は順に送れ』


『増えています』


『胃だけ見て勝てるなら苦労しない』


ソフィアは画面を見つめた。


以前なら、魔力が残っているかどうかだけを考えていた。


足りなければゼリーを飲む。


胃が痛くても飲む。


飲めなければ、根性で流し込む。


それが探索者の自己管理だと思っていた。


けれど、精密な氷を最後まで使い続けるなら、それだけでは足りない。


魔力が残っていても、指が震えれば狙いはずれる。

身体が冷えすぎれば、氷の立ち上がりが鈍る。

眠れていなければ、突進への判断が一瞬遅れる。

食欲が落ちていれば、必要な補給が身体に入らない。


朔は胃だけを見ているのではない。


戦うための身体を、最初から最後まで見ようとしている。


ソフィアは、少しだけ姿勢を正した。


『分かりました。今後は順に送ります』


すぐに返信が来る。


『今日の夕食は』


急に話が飛んだ。


いや。


朔の中では、飛んでいないのだろう。


『今夜から前線ベースへ入ります。夕食はギルド側で用意される予定です』


『内容』


ソフィアは事前に送られていた案内を確認した。


『クリームパスタ、栄養調整バー、温かいスープです』


既読。


一秒後。


『食うな』


「命令が強い……」


思わず声が漏れた。


『理由を聞いてもいいですか』


『明日の足が死ぬ』


『食材以外にも、その言い方を使うんですね』


『乳脂肪と加工油が多い。今のあんたが前夜に入れる量じゃない』


ソフィアはクリームパスタに罪はないのに、と思った。


だが、明日の戦闘後半で身体が重くなると言われれば、無視もできない。


『では、何を食べれば?』


『俺も十七時に入る』


ソフィアは瞬きをした。


『大型討伐に参加するんですか』


『後処理だ。あんたが壊した床と、倒した物を片付ける』


言い方に棘がある。


しかし、バックヤードの作業員として朔が前線に入るなら不自然ではない。


フロントが派手に戦えば、その分だけ裏方の仕事は増える。


配信画面には映らないだけで、大型討伐は彼らの現場でもある。


『北側の資材置き場。十九時』


続けて、もう一通。


『ギルド飯は断れ』


ソフィアはしばらく画面を見つめた。


朝起きてから、まだ十分も経っていない。


それなのに。


胃だけではなく。

魔力も。

睡眠も。

指先も。


今夜の食事まで管理され始めている。


「……契約内容、変わっていませんか?」


もちろん、返事は聞こえなかった。


ただ。


嫌ではなかった。



夕方。


大型討伐の前線ベースは、華やかな配信告知からは想像できない姿をしていた。


仮設照明。

太い電源ケーブル。

防水シートを被せた機材コンテナ。

予備の配信ドローン。

緊急救護用の簡易ベッド。

素材を運ぶための密閉ケース。


ギルド職員とバックヤード作業員が、泥の上を絶え間なく行き交っている。


ソフィアは正面側の入口から入った。


ギルドの広報担当。

スポンサーの現場担当。

配信スタッフ。

警備担当。


銀髪の姿が見えるたび、周囲の空気が少しだけ張り詰める。


「氷室さん、明日の進行について最終確認をお願いします」


「承知しました」


声をかけられれば、すぐに氷の姫へ戻る。


姿勢を整える。


表情を冷たくする。


完璧なトップ探索者として、明日の流れを確認する。


配信開始時刻。

進入経路。

ドローンの飛行位置。

緊急撤退地点。

討伐後のインタビュー。


一通り終わる頃には、外は暗くなっていた。


ギルド側の夕食を辞退したソフィアは、防寒コートを羽織って仮設テントを出た。


端末を見る。


十九時の一分前。


メッセージを送るより先に、朔から届いた。


『北へ。照明を背にするな』


指示通り、資材コンテナの間を抜ける。


前線ベースの音が少しずつ遠ざかる。


照明の届かない北側。


風除けの岩壁に沿って進むと、低く張られた灰色のタープが見えた。


布の端に、小さく刻まれたロゴ。


TENT MARK(テントマーク・) WORKS(ワークス)


朔は耐火混紡のタープを、地面へ伏せるように低く張っていた。


風上側は隙間なく落とし、風下側だけを少し開けている。


長いペグは斜めに打ち込まれ、ロープには無駄なたるみがない。


冷たい風が吹き抜けても、布は大きく暴れなかった。


タープの下に、遠野朔がいた。


黒い防刃シャツ。

カーゴパンツ。

腰のツールベルト。


アパートの黒いエプロン姿ではない。


カメラの外側で働く、裏方の姿だった。


「三十秒遅い」


「まだ十九時です」


「風向きが変わる前に来てほしかった」


時間ではなく、そちららしい。


朔の足元には、ZOTOの高火力バーナー。

炎を囲むウインドスクリーン。

UNI-FLAMMEの小型グリル。

折りたたみ式の作業台。

RainPeakの小さなチタン皿。

THERMOROCKの黒い保温ボトル。


アパートのギア棚を、そのまま必要な分だけ切り出して持ってきたような空間だった。


「手を出せ」


挨拶より先に言われた。


「まず食事ではないんですか」


「冷え方を見る。食わせる量が変わる」


ソフィアは少し迷ってから、右手を差し出した。


朔は作業用の手袋を外す。


そして、ソフィアの指先を自分の手のひらへ軽く乗せた。


「……っ」


思わず、小さく息が漏れる。


朔の手は、想像していたより温かかった。


刃物やロープを扱うせいか、指には少し硬さがある。


けれど、触れ方は意外なほど丁寧だった。


握るわけでもない。


ただ、冷えた手を下から受け止めているだけ。


それなのに。


自分の手だけが、朔の手の上にある。


そう意識した瞬間、鼓動が一つ大きく跳ねた。


「指を曲げろ」


「……はい」


言われるまま、ゆっくりと指を曲げる。


ソフィアの指先が、朔の手のひらへ触れた。


そのまま動かすと、自然に彼の手を握るような形になる。


「握るな。動きが見たいだけだ」


「……先に言ってください」


「指を曲げろと言った」


「言葉が足りません」


何が足りなかったのか、自分でもよく分からない。


ソフィアは慌てて指を開いた。


だが、朔は気にした様子もなく、手の甲と指先を見比べている。


完全に、道具の調子でも見るような目だった。


特別な意味など、一つもない。


分かっている。


分かっているのに、顔が近い。


視線は自分ではなく手元へ向いているのに、その距離だけが妙に気になった。


「右手の方が冷えてるな」


「分かるんですか」


「氷を出す方だろ」


「……そうです」


「朝の動画も右だけ遅かった」


朔の親指が、ソフィアの指先を一度だけ軽く押す。


ほんの一瞬。


それだけなのに、触れられた場所へ熱が残った。


「朔さん」


「動くな」


「はい」


また、思った以上に素直な返事が出た。


朔は数秒だけ指先を見た後、あっさり手を離した。


温かさが急に消える。


ソフィアは右手を胸元へ戻し、指先をそっと握り込んだ。


冷えを確かめられただけのはずなのに。


触れられていた場所だけが、さっきより熱い。


「左は」


ソフィアは反射的に左手も差し出しかけた。


「そっちは自分で分かるだろ」


途中まで上がった手が止まる。


「……先に言ってください」


「何を」


「何でもありません」


ソフィアは何事もなかったように左手を下ろした。


少し安心した。


その一方で、わずかに残念だったことには気づかないふりをした。


「何してる」


「右手を温めています」


「握っても戻らない。火に当てろ」


朔がグリルの近くを指した。


青い炎の熱が届いている。


「……分かっています」


ソフィアは右手を火へ向けた。


確かに温かい。


だが、先ほどまで触れていた手のひらとは、少し違う気がした。


「もういいか」


「何がですか」


「手だ。氷を出せるか見る」


朔は何事もなかったように、作業台へ視線を戻している。


どうやら、意識していたのは自分だけらしい。


それが少し悔しくて、ソフィアは右手を上げた。


「出せます」


「なら三本」


「分かりました」


いつもより速い鼓動まで、氷の震えに出ないことだけを願う。


指先に、透明な氷針が三本生まれた。


十秒。

二十秒。


朝と同じように、外側の一本がわずかに揺れた。


朔はその動きを見て、短く言った。


「六十四点」


「何の点数ですか」


「明日、砕かずに最後まで戦える状態」


「低いですね」


「砕くだけなら九十点」


「それなら、褒められている気がしません」


「褒めてない。状態を言ってる」


いつもの返事だった。


ソフィアは氷を消し、自分の手を見つめた。


「今日は、胃ではないんですね」


朔が顔を上げた。


「今日は探索者として見てる」


胸の奥が、少しだけ跳ねた。


「……いつもは何として見ていたんですか」


「胃が壊れかけた試食係」


「ひどい」


一瞬でも嬉しくなった自分が悔しい。


朔はもう、作業台へ向き直っていた。


「六十四点を上げる。座れ」


折りたたみチェアを指され、ソフィアは素直に腰を下ろした。


風の冷たさは残っている。


けれど、タープの下だけは炎の熱が逃げず、少しだけ空気が柔らかい。


作業台の上には、淡い赤色の肉が置かれていた。


赤身の間に、細く白い脂が入っている。


霜苔羊(しもごけひつじ)だ」


「羊ですか」


「寒冷階層の群れ種。毛に霜苔をまとって、体温を逃がさない」


朔は肩肉を持ち上げ、白く固い脂へ細い刃を入れた。


す、と刃が滑る。


厚い脂だけが、肉から切り離されていく。


「脂は使わないんですか」


「全部は使わない。冷えると固まる。前夜に残しすぎると、明日の足にくる」


「美味しいところでは?」


「美味くても、明日に残るなら削る」


朔は赤身の間に薄く入った脂だけを残し、肩肉を均等な大きさへ切っていく。


大きすぎれば火が通らない。

小さすぎれば肉汁が逃げる。


同じ時間で焼き上がるよう、角切りの幅が揃えられていた。


小さな金属容器へ、岩塩。

粗く砕いた黒胡椒。

すりおろした生姜。

乾燥香草。


そして、ダンジョン蜂蜜をほんの一滴。


朔は肉を入れ、表面へ薄く馴染ませる。


「漬け込まないんですか」


「前夜飯に濃い味はいらない。喉が渇く」


「明日のためですか」


「他に何がある」


朔は味を馴染ませた肉を、細いチタン串へ刺していく。


赤身。

薄い脂。

赤身。

火が均等に入るよう、肉の向きまで揃える。


隣では、小さなボウルに淡い灰色の粉が入っていた。


「霜鳴り麦だ」


朔は粉へ塩をひとつまみ入れ、水を少しずつ加えた。


指先で混ぜる。

粉がまとまり始めたところで、油を数滴。

強く捏ねすぎず、表面が滑らかになるところで止める。


「米ではないんですね」


「明日は長い。米より軽く、腹に残りにくい方がいい」


生地を小さく分け、折りたたみ式のまな板の上で薄く伸ばす。


丸く。

手のひらより少し大きく。

厚さは均等。


朔はUNI-FLAMMEの黒皮鉄板を、ZOTOの炎へ置いた。


しばらく待つ。

手をかざす。

温度を確認する。


「タープの下で火を使って大丈夫なんですか」


「難燃混紡だ。火器側だけ天井を上げてある」


朔は灰色の布を見上げた。


「TENT-MARK WORKSは軽くない。でも、横風と火の粉で死なない。前線の屋根に見た目はいらない」


ギアの話になると、少しだけ言葉が増える。


ソフィアはそれを聞きながら、鉄板の横に並べられた串を見た。


早く焼いてほしい。


だが口にすると、待てと言われる気がした。


学習している。


たぶん。


朔は熱した鉄板へ、薄い生地を置いた。


しゅ、と短い音。


表面の水分が飛び、生地が少しずつ膨らむ。


小さな気泡が生まれ、それがぷくりと大きくなる。


裏返す。


薄い生地の表面には、茶色い焼き目がまだらについていた。


香ばしい麦の匂いが立つ。


次に、小型グリルへ霜苔羊の串を並べた。


肉が熱へ触れる。


ジュウッ、と低い音が鳴った。


表面の脂が透明になり、肉の縁から細かな泡が生まれる。


一滴。


脂が落ちる。


炎が小さく上がった。


ぱち、と香草が爆ぜる。


羊肉の濃い香り。

黒胡椒。

生姜。

焦げた脂。

蜂蜜のわずかな甘い香り。


冷たい前線の空気が、熱い煙に押し返されていく。


ソフィアの喉が鳴った。


朔が見た。


「今のは」


「否定しません」


少しだけ成長した。


朔は串を回す。


焼き目のついた表面が、深い褐色へ変わる。


火へ近づけすぎない。


離しすぎない。


脂が落ちて炎が上がれば、すぐに位置をずらす。


「羊は煙をまとわせすぎると苦くなる」


「野営飯なのに、ずいぶん繊細なんですね」


「野外だから雑でいいと思うな。環境が荒い分、人間が細かく見る」


肉の中心温度を確認し、朔は串を火から外した。


すぐには触らない。


金属バットの上で、肉を休ませる。


「……待つんですね」


「待つ」


やはりだった。


その間に、焼き上げた霜鳴り麦の薄焼きパンへ、煮詰めた骨出汁を薄く塗る。


照りが出る程度。


そこへ、焦がした香味菜。

串から外した霜苔羊の肉。

最後に、刻んだ香草を少し。


パンの端を折り、肉を包む。


湯気が閉じ込められた。


「霜苔羊の炙りスパイスラップ」


朔は紙で下半分を包み、ソフィアへ差し出した。


「一つだけ食え」


最初から釘を刺された。


「まだ二つ目を頼んでいません」


「頼む顔をしてる」


「失礼です」


そう言いながら、ソフィアは両手で受け取った。


温かい。


紙越しに、焼いた肉とパンの熱が伝わる。


「いただきます」


最初は、小さくかじった。


薄焼きパンの表面が、ぱり、と軽く割れる。


内側は骨出汁を吸って、少しだけしっとりしていた。


その直後。


歯が、霜苔羊の肉へ入る。


表面は香ばしく焼き締まっている。


中は柔らかい。


噛んだ瞬間、温かな肉汁が溢れた。


羊らしい濃い旨味。

薄く残された脂の甘み。

黒胡椒の刺激。

生姜の熱。

焦げた香草のほろ苦さ。


最後に、蜂蜜のごくわずかな甘みが、肉の香りを丸くする。


「ん……っ」


声が漏れた。


パンと一緒に噛む。


霜鳴り麦は軽い。


けれど、薄いだけではない。


焼けた麦の香ばしさが、肉汁を受け止めている。


骨出汁を塗った内側から、旨味がじわりと重なる。


肉。

パン。

香草。

また肉。


気づけば、二口目は最初より大きくなっていた。


三口目には、両手でしっかり持っていた。


配信中なら絶対に見せない食べ方だった。


「……美味しいです」


「そうか」


朔は短く答え、残った串の焼き具合を確認している。


ソフィアはもう一口かじった。


飲み込む。


胃の奥へ、熱が落ちる。


だが、重くない。


魔力が一気に膨れ上がる感覚もない。


代わりに、身体の中心へ小さな火種が置かれた。


呼吸をするたび、その火が静かに燃える。


指先まで熱くなるのではない。


冷えにくくなる。


魔力が増えるのではない。


減り方が、ゆっくりになる。


ソフィアは最後の一口を惜しむように食べた。


そして、紙包みの中が空になったことを確認する。


グリルを見る。


串がある。

まだ、三本ある。


「朔さん」


「駄目だ」


「まだ何も言っていません」


「二本目を見る目だった」


「一つだけでは、効果を正確に判断できないのでは?」


「食欲を検証理由に使うな」


「……半分だけ」


「明日の足を、今日の食欲で潰すな」


ソフィアは黙った。


正論だった。


だが、串焼きはまだ温かそうだった。


「美味しいのに、ですか」


「美味しいから止めてる」


朔は串を金属容器へ移し、蓋を閉めた。


視界から消された。


「前線では、食欲も管理対象だ」


横暴である。


だが、食べる前にあった手の冷えは、もう感じなかった。


ソフィアは右手を開き、三本の氷針を作った。


一本。

二本。

三本。


十秒。

二十秒。

三十秒。


朝に揺れていた外側の一本も、今は静かだった。


氷の透明度も落ちていない。


余分な魔力も漏れていない。


「……軽い」


「出力は上がってない」


朔は氷を見ながら言った。


「明日の最後まで残るようにしただけだ」


ソフィアは三本の氷針を見つめた。


派手ではない。

大きくもない。

けれど、崩れない。


それは今まで、自分が最も苦手としていた強さだった。


「七十六点」


朔が言った。


「十二点も上がりました」


「食って温まった分と、緊張が少し抜けた分だ」


「褒めていますか?」


「状態を言ってる」


やはり、褒めてはいなかった。


それでも、少し嬉しかった。


朔は鉄板の火を落とすと、今度は小さなRainPeakの鍋をバーナーへ置いた。


中に入っているのは、透明に近い骨出汁。


脂はほとんど浮いていない。


生姜と香草が、ごく薄く香る。


「それは?」


「明日の分」


朔は出汁を温めながら、少量の岩塩を加えた。


味を確認する。


ほんの少し水を足す。


「さっきのラップとは別なんですか」


「戦闘中に肉を噛んでる暇はないだろ」


透明な出汁が、静かに湯気を上げる。


霜苔羊の骨から取った、軽いスープ。


身体を一気に回復させるものではない。


冷えた喉を温め、呼吸を戻し、手元が崩れるのを遅らせるための補給。


朔は温度計を入れ、数字を確認した。


THERMOROCKの黒い保温ボトルを、一度熱湯で温める。


中の湯を捨てる。


そこへ骨出汁を注いだ。


蓋を閉める前に、もう一度温度を見る。


「細かいですね」


「容器が冷たいままだと、入れた瞬間に温度が落ちる」


「少しくらいなら」


「その少しを残すための道具だ」


蓋が、固く閉められた。


朔は黒い保温ボトルをソフィアへ渡す。


「明日、手元が鈍ったら飲め」


ずしりとした重さが、両手に乗った。


「いつ飲めばいいですか」


「その時は送る」


「配信中に?」


「端末は見られるんだろ」


「状況によります。戦闘中はコメントも通知も制限されます」


「なら、見える位置にいる」


ソフィアは顔を上げた。


朔はもう、使い終わったギアを片付け始めている。


「後処理班としてですか」


「他に何がある」


いつも通りの、平坦な返事。


自分を応援するためではない。


配信を見るためでもない。


大型討伐後の作業があるから、その現場にいる。


たぶん、それだけ。


けれど。


明日、世界中が氷の姫を見る。


美しい氷。

巨大な大鎌。

派手な勝利。

スポンサーのロゴ。

完璧な表情。


その画面の外側で。


朔だけは、ソフィアの指先がいつ震えるかを見ている。


「分かりました」


ソフィアは黒い保温ボトルを両手で持ち直した。


容器越しにも、まだ熱が伝わってくる。


「落とすなよ」


「中身が大事ですからね」


「ボトルも高い」


「今、それを言いますか」


「大事だろ」


少しだけ笑ってしまった。


外では、冷たい風が鳴っている。


けれど、TENT-MARK WORKSのタープは揺らがない。


ロープは緩まず。

ペグも抜けず。


片付ける直前のZOTOの炎も、最後まで青く安定していた。


―――大型討伐の前夜。


ギルドの前線ベースに戻った氷室ソフィアは、黒い保温ボトルを胸元に抱いた。


明日、世界中が見るのは、氷の姫の勝利だ。


けれど、その勝利に至るまでの震えも、冷えも、空腹も知っている人が、一人だけいる。


その事実が、前線の夜風よりも静かに、彼女の胸を温めていた。

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