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二 石に漱ぎ流れに枕す



 きょとん。と、感嘆符が浮かぶくらいに、まん丸く見開かれた黒目が闇の中に浮かぶ。

 全く言っている意味が分からないという顔だった。

 実際、言われている意味は二百パーセントくらい分からない。


「…契りって…何、ですか。 …契約……?なんで……??」


 古風な言葉選びをされても、残念なことにそこまで国語力が高くないので理解が出来ない。契りというのは、契約のことを指すのだろうか、それよりも魂的に強い結び付きを指すようにも感じるけれど。

 玉響はそんな昴の様子を、さも愉快、とでも言いたげな笑みを浮かべて悠然と見下ろしている。

 妖狐だか天狐だか知らないが、随分と上から目線である。


「うぬ、外におる小鬼どもに追われておるのだろう」

「え、そう…ですけど……」


 なんで知っているんだ。


「この山は余の臓腑のようなものじゃからの、腹の上でちょこまか動かれていることなど、とうに知っておる。 不届きな小鬼共じゃ」


 玉響は昴の心中の疑問を見透かしたようにそう言って扇子を口の前に持って行った。

 臓腑ってなんだ、肺とか心臓とかそういうもののことだろうか。山が臓器って、どういう喩えだ。


「今はここにおるから、あ奴らは手出しが出来ぬようじゃが、うぬが一度この社から出れば即座に喰われて終わりじゃ」

「く、喰われる…んですか」

「鬼は人間の血肉を好むからのう。大して旨くも無く塩っぽいだけじゃというのに、何が()いのやら」

「……」


 冗談で、食われるのかも、とか思っていたのだが、本当なのか。

 玉響は人間の味とやらについて、呆気らかんと言い放っているが、その言葉も真意に気付けば冷汗が吹き出てくる。

 美しいとはいえ、目の前にいるこの存在は、人間ではない。


「うぬがここから無事に出る方法は二つじゃ」


 玉響が空中に人差し指と中指を立てる。ギャルのように尖った爪が痛そうだ。


「一つは、朝まで待つこと」


 中指が下ろされて人差し指が空中を指した。

 

「朝までって…。 …今、何時。ですか…?」

「そんなのは知らぬ。 まだ月が出て間もないようじゃから戌の刻くらいかのう」


 戌の刻っていつだよ。

 残念なことにポケットに入っているスマートフォンはこの山に入った時から圏外のままなので使い物にならない。

 つまりは、まだ月が出て少ししか経ってない、ということだろうか。


「妖の領分は夜闇じゃ。何より、日の入りが来れば力が落ちる、日が落ちている時に比べその力は一割も満たないかもしれぬ。 …特にあのような小鬼程度であれば、造作も無いじゃろう」


 つまり、朝になれば弱くなるということか。だとすれば、確かに逃げ切れる気がする。

 朝までは大分時間があるけど、この社にいる限りは向こうから手出しがされない、ということはここで夜を明かしさえすれば無事に帰れる。それならば。


「じゃあ——」

「じゃが、この選択肢は現実的ではない」

「………はい?」


 玉響は上げていた人差し指を下げる。

 折角の光明に暗雲が立ち込め始めている。


「この山は特殊でのう、丸一日妖気の強い特殊な場所なのじゃ。それ故、あのような小鬼共からすれば特に、居心地が好かろう」

「…つまり」

「陽があろうが無かろうが、妖の力は低くなったりせぬな。夜明けまで待ったとしても意味は無かろう」

「………。」


 がくりと、文字通り項垂れる。

 折角抜け出せると思ったのに、そんなに甘い話ではないのか。興味本位で禁足地に足を踏み入れたのが運の尽きだった。

 床に両手をついて項垂れる昴を見下ろしながら、玉響はゆっくりと祭壇から腰を上げ、昴へと近寄る。それは幽霊のように宙を浮遊していたが、項垂れている昴の視界には入ってなかった。


「話を最後まで聞け、選択肢は二つあると言うたはずじゃ」


 その言葉に昴は僅かに顔を上げる。

 金色と紅の混ざった幻想的な虹彩が、妖しくこちらを見据えていた。思ったよりも近くに玉響がいた。長い睫毛が顔に刺さりそうだ。


「場合によればもう一つの方が上手くいく」

「…なんですか、それって」

「ふむ」


 ゆっくりと、玉響の右手がこちらへ伸びてくる。そのまま、長く白魚のような指が昴の顎を掴む。

 温度が無かった。ひんやりとした冷たい手が問答無用に顔を上げさせる。こちらを向く瞳の強さに、吸い込まれそうになった。


「綾月昴」

「は、はい」

「余にその身を差し出せ」

「………はい…?」


 何を言われているのか、理解する前に、柔らかな何かが唇に触れた。

 動物の肉球のようにふにゅんと柔らかくて、温度がなく冷たい何か。それが何かを理解する前に、唇から離れたそこには、満足げに自身の口唇を舐める玉響の姿があった。


「なっ、おい、ちょっ——」

「契りは結んだ。うぬの身体を依代とさせてもらう。さすればここから出ることは容易じゃ」

「なん、だ。これ———」


 そうして理解が追いつく前に、ふっ、と意識が浮遊する感覚がある。

 身体がふんわりと宙に浮く、まるで、夢を見ているような感覚。


(…うまく、喋れない。 ……俺の体が、下にある……?)


 口を動かそうとしても音が喉から聞こえて来ない。それに、どうやら身体が空に浮いているようで、本殿の天井付近から俯瞰で本殿内を見下ろしている。こんな感覚は初めてだ、何にでも理想を創れる夢を見ている時以外。


 ――それに、自分がいる。


 見下ろしているそこにいたのは、自分の姿だった。


(なんだこれ、どういうことだ。あいつは…?)


 自分の姿は見えるのに、玉響の姿が見当たらない。

 祭壇の付近にもいなく、どうやら本殿の中にいないようなのだ。

 視線を彷徨わせている間に、一切動かなかった眼下の自分が、ぴくりと動いた。それまで、死んでいるかのように全く動かなかったのに、指先が動いたかと思えばゆっくりと顔が上を向き、その目がこちらを見た。


(っ……!!)


 自分の目のはずなのに自分のものと全く感じない。

 真っ黒な目の奥に、燃えるような紅の色が灯っている。それだけで、そこにいる自分の中に〝何が〟居るのか、脳内に閃光が(はし)ったように理解することが出来た。

 理解出来たはいいけれど、怒ればいいのか悲しめばいいのか、感情は追いついていかない。その間にも、綾月昴の姿を象るそいつはだんだんとその姿を変えていく。その黒い頭から二つの黒い三角が生え、腰から黒い毛並みの尾が一つ生える。


 その姿は、妖狐、そのものだ。


「…ほう。出来合いにしては問題なく馴染むな」


 にゅるんと、身体の前に動いた大きな黒い尻尾を撫でるその手。

 耳の生えた妖狐の見た目をした自分の口から、自分の声色で、聞き慣れない古風な口調が飛び出る。

 昴は空中で口を開けたまま、この光景を呆然と見下ろしていた。


(…なっ……なんだよっ、これ!!)


 口を動かしても眼下の自分の口は動かない。

 まるで幽霊のようになった自分の口が、辛うじて動くだけだが。それは、耳には届かない音になって宙に落ちる。


「うぬの身体に憑かせてもらった。おかげで力を取り戻すことが出来た。 …まあ、一割ほどのようじゃがの」


 妖しく細めた黒の目を宙にいる昴へと向ける昴の身体。その中にいるのは紛れもなく玉響だ。

 ぎりぎりと歯を食いしばる。

 明らかに自分の体なのに、そこに入っているのが自分以外の何かなど、とても奇妙な気持ちだ。


(そんなの、許した覚えはない!)

「ほう。となればうぬは小鬼に喰われても構わぬということだったのかの。それであればすまぬ事をしたな」

(っ……)


 全くそうは思っていない調子で玉響はそう言う。


「選択肢は二択と言うた筈じゃ。 …まあ、安心せい。うぬの身体を今後ずっと使うつもりはないのでな」

(……)

「問題無くこの山からは出してやろう。かような小鬼程度であれば多少の力でも十分じゃ」


 玉響はそう言いながらゆったりと動き出した。

 学ランは初めてだったのか、「窮屈な着物じゃな」と呟きながらも本殿の戸口へと手を掛ける。


「うぬが瞬きをしておる間に余が終わらせてやろう」


 戸口を開けながら残したその言葉が、嫌な予感をさらに増長させていた。





✧ ✦ ✧





 たしかに、文句の付けようがないくらいに玉響は強かった。

 

 戸口を開けばそこには両手の指でも収まらないくらいの鬼達が、目をギラつかせながらこちらを見ていて、実体を持たない幽体のようになっていても尚、空中で後退りをしてしまう程その圧は凄まじいものだった。

 しかし、玉響はそれをモノともせず、ゆったりと社の外へと足を踏み入れた。

 社へと消えていった貧弱な人間が、得体の知れない空気を纏って出て来たことで、鬼達も少し困惑した表情を見せていた。しかし、玉響はそんな相手の様子を意にも介さず、群がる鬼達を前に両手を上げた。


「…さあ、うぬらはどのように余を愉しませてくれる」


 宙に向かい水平に上げた掌の上から、金色の炎が浮かぶ。想像を超えた光景に口を開けたまま何も言えない昴と、その光景に狼狽える鬼達に向かい、玉響は遊ぶようにしてその火の玉を投げた。

 ひゅんひゅんと音を立てて、火の玉が山に放たれる。どごんという爆発音を上げて地面に突き刺さった火の玉は、その場で激しく燃え上がってゆく。


(な、なんだよ、これ……)


 まるで、地獄絵図だ。

 

「ふーむ、まるで話にならぬな」


 玉響はその景色を前にしても何も思っていないようだった。こんなに、山が燃え上がっていると言うのに、これでは鬼に勝てたとしても無事に下山できる可能性は無いに等しい。

 しかし、まるで気にも留めず、玉響は続けて金色の火の玉を放つ。当初は二十以上はいた鬼も、火の玉の爆発に巻き込まれて半数以下になっている。無差別に突き刺さる火の玉を前に、鬼達は成す術もなく逃げ惑う。あれだけ怖かった鬼達なのに、今では全く怖く無い。

 今怖いのは、寧ろ。


(…おい、やりすぎじゃ……)

「何を寝ぼけた事を言うておる。小虫はまだ生きておるじゃろうが」


 昴の言葉を受けても、玉響は気にせず火の玉を投げ続けていく。

 山火事同然になっていく光景が、瞳に映る。あまりにもこの世のものとは思えぬ光景に、昴は口を開けては閉じてを繰り返す。


(おい、たま…もういいだろ…)

「ほらほら、早く逃げぬと駄目じゃろう」

(…おい)

「余の山に巣食うのであれば、もう少し骨のある奴らと想定していたのだがのう。こんな程度であったか」

(………おい!)

「これでは余が手を下すまでも無かったようだな、うはははは!!」


 玉響が残りの鬼を全て焼き尽くしたところで、この爆音を全てかき消すほどの大きな声がその場に轟いた。


(玉響!!!!!)


 その瞬間、時が止まった。

 ぴくりと、両手に火の玉を浮かべたまま、玉響が動きを止める。

 それまで迷いも無く火の玉を放ち続けていたのに、何かに動きを制限されているが如く、玉響はその場で止まった。


「……な、なん……だ、これは…小僧…。 ……何をした………!」

(もういいと言っただろ!もうやめろよ!!)


 ギリギリと音が出そうなくらいに、カラクリ人形のような動きをして玉響が首をこちらへ向ける。動きが制限されて、首を満足に後ろに向けることも出来ないようだ。

 宙に浮いた昴は山の惨状を見た怒りの方が強く、眉根を寄せたまま山を見下ろした。


(このままじゃ山が火事になるぞ!!)

「だ、からと……―って……何、を…」


 苦しそうな声を上げる玉響。

 昴は空中を浮遊し玉響の隣に降り立った。


(まず、この状態をなんとかしろ。俺は山を火事にしろとは頼んで無い)

「っ……―――」


 何も言葉を発することすら出来なくなった玉響は、そのまま恨めしげに昴を見上げることしかできなかった。

 その額には数多の汗の粒が浮かんでいた。



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