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一 数奇な運命よ。



「うぬのような人間を見たのは初めてじゃのう。 …これも何かの縁よ。次に相見えた時は、余からうぬへ声をかけてやらんこともないぞ」

「…次とは言うても、人間の寿命はあんたらからしたら短すぎる。儂が次あんたに会う機会があるとすれば、それはこの世ではないところやろうな」

「ほう、そんなもんなのかい」

「…そしたら、もし万が一でも儂があんたに会うことがあったら、こう言うてやろう」


「そうだな。 これは随分――」





✧ ✦ ✧





「はあ、はあ、はあ……」


 木々が生い茂る暗い山の中を、ただひたすらに駆ける一つの影がある。

 荒い息を吐きながら、一心に草木を掻き分ける。

 時折地面に躓いては、無様に地べたに滑り落ち、頬や髪にたくさんの土埃や草を付けながらもなんとか立ち上がりまた走り出す。

 

「はあっ、はあ……。 くそっ、なんなんだよ、ほんと……!!」


 荒い息を吐きながらどこを目指すでもなくただひたすらに駆ける青年。それは、なんの変哲も無い真っ黒の学ランを着ていた。手には鞄などは持っていなく、上下ぴったりに着た学ランは、所々既に汚く、地面に擦ったのか穴すら空いている。

 眼前に広がる無限の闇に向かって悪態をつく少年は、そのまま真っ黒の瞳を苛立たしそうに後方へと向けた。


 少年は綾月昴(あやつきすばる)と言った。

 昨日より、八ヶ谷(やつがや)高校へと転入になった、高校二年生の転入生なわけだが。

 今は正直、それどころでは無いのであった。


 非常に大変なことに、現在その身は妖怪に追われている。


 何をふざけたことを。と、一蹴されるかもしれないが、これは純然たる事実であり、彼は明らかに人ならざる物体に追いかけ回されていた。

 昴が一生懸命に駆け回る、その数メートル後ろ、もはやその差が縮まるのも時間の問題かと思われる距離から、目の前の男子高校生を狙う金色の目玉が六つ。茹蛸のように赤い皮膚に、背丈は昴の腰ほどなので小さめ、しかしその手に持つとげとげの棍棒はあり得ないほど太く大きい。

 鬼だ。

 現在時刻が何時かも分からない、暗い山の中を、なぜか爛々と光る目玉を一直線にこちらへと向ける鬼三体に追われていた。正直、何も身に覚えがない。


 物事を整理すると、今いるこの山は八ヶ谷山(やつがややま)という名で、現在昴が着ているぼろぼろの制服が指定されている八ヶ谷高校の裏手にある山だ。昴は本日付けで八ヶ谷高校に転入となった転入生で、今日はその手続の為に学校を訪れていたわけだが。どういう訳か、手続きが終わり帰路へ就こうとする前に森で妖怪に追われている。

 元々霊感が人より長けており、幽霊やらその他諸々を目にすることも珍しい事ではないとはいえ、流石に妖怪に追われるという経験は初体験だった。


「………やっぱり、入るんじゃなかった…!」


 しかし、こちらが100パーセント被害者かと問われると、そうとも素直に言えない。なぜなら、この森自体立ち入り禁止となっており、学校で手続の際も教師に再三注意された記憶はあるのだが、注意されたら行きたくなるのが人間だった。

 見るからに妖しい空気がだだ漏れの森を前にして、少しの好奇心が抑えられなかった。

 そうして、この森に入るや否や、どこからか現れた鬼に追われ、帰るどころでは無くなったのだ。

 あの鬼達は何故追ってくるのか、言葉も喋らないし、話しかけても無視されるので全く分からない。


 ただただひたすらに陽の入らない野山を無謀に駆け回るしかできないのだが、これもそろそろ限界を迎えそうである。

 というのも、当初は二体くらいだった鬼の数が、徐々に増えているのだ。まるで、騒ぎに乗じるかのように、こちらを追う鬼の数が明らかに増えている。捕まるのも時間の問題だ。


 捕まれば、どうなるのだろう。

 喰われたり、するのだろうか。


「〜っ…しゃんとしろ!しゃんと!!」


 昴は自身に言い聞かせるようにそう大きく声を上げた。

 こんなところで鬼の餌食になるだなんて、絶対御免だ。明日、転校初日なんだから。


「………ん、なんだ…あれ」


 その時、不意に時が止まった。

 背後から追いかけてくる鬼の足音も、草木が風に揺れる音も、山のざわめきも、全てが聞こえなくなった。


 それはまるで、最初からそこにいたように在った。


 塗装が剥げて朱の色が落ちても尚、動脈のように真っ赤な塗装がされていたことを想起させる、日本人なら誰もが見慣れたその形。立派に天井を向いたその両端が、幾つも連なる。忽然と、野山の中にそれは現れた。

 所々支えが崩れてどうしようもない状態でも、凛とその場に在るのは、幾年も忘れ去られた鳥居の跡だった。

 気付けば、草木が縦横無尽に生え渡っていたはずの視界が急に開け、そこにあったのは、朽ちてどうしようもないように見える、寂れた社だった。


「神……社…?」


 神社と呼ぶには随分と寂れているし、どこかこぢんまりとしている。けれど、それは一目見ただけで神社であると感じる構えをしていた。

 こんな山の中に神社があるなんて、それも、もう誰も寄り付いていないように見える。

 急に視界に現れた神社を前に呆然としていると、止まっていた時が動き出した。背後で鬼達が動く音と、声なのか唸りなのかよくわからない威嚇音が耳に入る。ふと、我に帰った昴は、手早く背後の鬼達を見て、それから眼前に悠然と構える寂れた社を見た。

 もう使われていないであろう社とはいえ、神域であるその中に無断で入るのは気が引ける。けれど、今はそんなことを言っている場合ではない。

 鬼との距離を取りつつ、昴は大きめの木陰に隠れる。そうしてから、手元に落ちていた小石を拾い、少し離れた箇所へと投げた。暗闇で獲物を見失った鬼達は暫く付近をうろうろしたのち、がさりという音を立てて落ちた石の方へと向かって行った。その隙に、足音を消しつつ素早く動いた昴は壊れかけた社の階段を登り、本殿の戸へと手を掛けた。厳重に鍵が掛けられているのかと思えば、どうやら鍵の形跡はあるが壊れているようで、中へはすんなりと入れるようだった。

 がたりと音を立てた戸を前に、昴は深く息を吸う。


「神様仏様、恨むならあの鬼を恨んでください!」


 手短く神仏への謝罪を述べ、その戸を小さく開き、するりと中へ入り込んだ。


 本殿の中は随分と静かだった。

 しんと、周りの山の声も鬼の叫びも全て遮断したように、時と空気がそこで止まっている。

 灯ひとつないけれど、狭くて静かなその神域は、どこか厳かな空気すら感じるようであった。

 部屋の奥に小さな祭壇らしきものがあった。社自体は崩れて朽ち果てていたが、本殿の中はまだ綺麗で、そこだけそのまま取り残されたかのようだった。


「……なんでこんなところに、神社が」


 この山の中に神社があるなんて話は聞いたことがない。学校の先生ですら、中に入るのを止めるほどの場所にこんな神社があるとは。外側の見た目こそ寂れて誰も手を掛けていないようだったが、本殿の中は綺麗に全て残ったままだ。

 そのまま、忘れ去られたかのようだった。


「ほほう、人間がここに入り込むのはいつぶりかのう」


 物珍しげに巡らせていた黒の目が、その声の響きと共に大きく見開かれる。脳内に、腹の中に直接響くかのように唐突に聞こえてきた声に、昴の背筋はぴんと伸びたまま止まった。

 どこか古風な口調で、凛と透き通った、重みのある声が本殿の中に響き渡る。

 この部屋の中には誰一人人間の姿は無い。つまり、今の声の主は、触れてはいけないナニカだ。

 だらりだらりと、暑くも無いのに冷たい汗が噴き出る中、声の主は続ける。


「ふああ、しかし、どのくらい寝ていたものかのう。 記憶では昨日のようだが、暦ではどのくらい経ったのか皆目見当も付かん」


 声の主の姿はこの本殿の中には見当たらなかった。

 虚空から話しかけられている。まるで、本殿自体が喋っているように。


「それにしても、ここには入れないよう鍵は掛けておいたはずなのだが。人間が入ってこれるほどの簡易的な鍵など、夕星(ゆうづつ)は何を考えておる」

「……はっ…」


 声が一体何を言っているのか話の大半は理解できないままだったが、話を聞いているうちに無意識に止めていた息が急に吸えるようになった。

 嗚咽を漏らしながら、ひゅうひゅうと荒く息を吸う。声しか聞こえていないのに、重圧で押しつぶされてしまうような、そんな感覚があった。

 呼吸を整えた昴は、黒い目を部屋の中へと向ける。


「……鍵なんて、掛かってませんでしたよ」


 なんとか喉を震わせ、虚空に向かって昴はそう言う。

 返事が来るとは思っていなかったのか、声の主は少しばかり空気を揺らした。


「…なんじゃと?」

「最初から、鍵は壊れてました。中には…普通に入れました」


 声を出してみれば、案外言葉がちゃんと出てくる。

 それに対して、何に狼狽えているのか声の主はだいぶ調子を崩された様子で、うぐだのあぐだの声にならない声を時折漏らしていた。厳かな空気を持っているのに、その空気がだんだんと和らいでいく、ような気がした。


(意外と、出そうとすれば声は出るんだ…)


 喉元を押さえながら、案外怖くないのかも、と思い始めていたところ、声にならない声を漏らしていた声の主が一際大きな声を上げた。


「いや!そんなことは有り得ぬ。余はちゃんと確認したはずじゃ、その時はしっかり掛かっておった!!」


 その声と共に、本殿の中が家鳴りのように大きく動いた。


(…まずい)


 前言撤回だ。怖い。殺される。


 そう思った直後、しん、と家鳴りが止んだ。

 おそるおそる目を開けた昴の目に飛び込んできたのは、今までの人生で一度も目にしたことが無いと言い切れるくらいに、美しい生き物だった。


 本殿の奥、まだ綺麗なままであった祭壇の上に腰を掛けるようにして、いつの間にか点いた蝋燭の火に照らされていたのは、金の長い髪を腰まで垂らし黄金の瞳を持つ、白と若草色で統一された狩衣を着た眉目秀麗な生き物が、そこに悠然と居た。

 日本人離れした見目をしていたが、それよりも目を引くのは、その金糸の頭の上に二つ、ちょこんと三角形の耳のようなものがある事。それと、腰を掛けている祭壇の後ろの方に、ゆらゆらと揺れる豊かな毛並みの九本の尻尾がある事だった。


 あまりにも非現実的なその存在を目にして、口を開けたまま固まっていると、その金色の美しい生き物は黄金の瞳をこちらへと向けた。蝋燭の火に照らされるその瞳は、黄金の中に紅が混ざっていて、瞳孔は縦に長かった。そのまま、その瞳は少し丸くなる。


「ほう、これは驚いた。(わらべ)、余が見えるのか」


 少し開いた口の向こうに見えた犬歯は鋭く尖っていて、何もかもが浮世離れしている。

 目の前にいるこのナニモノかが、ナニモノかなんて、想像も付かないけれど、これだけは分かった。

 それは、随分と。


「…美しい……」


 その言葉で言い表すのが不十分と感じてしまうほど、目の前にいるその生き物はとてつもなく美しかった。

 モナリザやミロのヴィーナス像よりも遥かに、今、目の前にいるものが美しいと体現するに値すると言い切ることができる。見た目だけでは性別は判断出来ないほど、女性的な美しさもありながら男性的な美しさもある。圧倒的な美しさを前に、ただ感想を述べることしか出来なかった。それだけ、衝撃を受けた。

 金色の美しい生き物はその言葉に大きく目を見開いた。(まなじり)に引かれた朱色が印象的に目に入る。そうして、暫くしてから豪快に大きく口を開けて笑った。


「うっはっは!! そうかそうか。それはまた、酔狂なことよのう」


 何が面白いのか全く理解が出来なかったが、満足そうな笑みを浮かべて、虚空から顔ほどに大きい金色の扇子を取り出したのち優雅に笑む。

 その様子を見て昴はふと我に帰った。ほぼ、何も考えずに言葉を口にしていたが、今、なんと言ったんだっけか。


「あれ、俺今なんて……」

「童」

「わら、え、俺?」

「そう、うぬじゃ。うぬ、名をなんという」


 なぜか満足げな様子のまま、金の扇子をこちらへ向ける。昴は眉根を寄せつつその金色の目を見返した。

 もう怖さは無くなったが、これは一体何物なんだろうか、妖怪のようだけど完全にそうとも言い切れない気がする。なんでかはわからないけど。


「…俺は綾月昴、ですけど」

「あやつき、ふーん。星の名を冠するか」


 正直言って自分の名前はあまり好きでは無い。なんか、古臭いし。車のメーカーとからかわれるし。


「……貴方は?」


 祭壇に腰を掛けるその美しい生き物へ問い掛ければ、扇子を仰いでいたそれはその手を止め、ゆったりとした仕草で足を組んだ。

 なんだか、高貴なものを相手にしている気分だ。


「余は玉響(たまゆら)。たまとでも呼ぶがいい」

「たま」


 猫みたいな名だな。

 玉響、そう名乗った金色の生き物は、金と紅の混じり合った目をこちらへ向けた。


「うぬは余が見える稀な人間のようだが、余を何だと思う」

「何って…」


 気位が高そうな目線を向けてくる。祭壇に腰を掛けて足を組むなど相当罰当たりなことをしているし、しかしそれが様になって見えるくらいには、本人の位も高いような気もする。

 しかし、神と言われるとそうとも言い切れない気がする。霊感があるとはいえ、流石に神はこの目で見たことはないが。


「妖怪…みたいですけど、なんか少し違う。それより位は高そうな感じはしますけど…」


 その言葉をゆっくり聞いて、じっくりこちらを見定めた玉響。その目で見据えられるだけで心臓が縮み上がりそうな心地になる。ライオンに狙いを定められたシマウマはこんな気持ちなのだろうか。

 ごくりと、音が聞こえそうなくらいに唾を飲み込んだ。長い時間が過ぎたような気がした。

 何かに合点がいったのか、玉響は閉じていた扇子を再び開いた。


「余は天狐の位を持つ。人は余を九尾の妖狐と呼ぶ」


 ゆったりとした扇子の動きが、玉響の言葉とのアンバランスさを表現していた。

 九尾の妖狐とは、よく漫画やアニメで見る妖怪界のボスのようなものだろう。たしか、伝説上の陰陽師である安倍晴明は母親が妖狐だという逸話もあった気がする。天狐が何かは分からないけれど、それだけ、神にも近く妖怪の中では一目置かれている存在ということだろうか。

 

 昴はそれを聞いて、固まったまま動けなくなった。

 瞬時に、それはそうですかと受け入れられるほど、今の自分には余裕が無かった。ただでさえ、よく分からない鬼に追われ続けている最中だというのに。


「……そうだ、鬼…!」


 そこで今までの記憶を不意に思い出した昴は、慌てて本殿の戸口へと近寄った。ここに入ってどれだけの時間が経過したのか全く分からないが、その間、鬼は一切こちらへ接触して来なかった。これだけ分かりやすい社があればまず最初に調べるであろう筈なのに、そう言えば、全然音沙汰がない。まるで、この社自体に近寄らないようにしているかのように。


「童」

「え。あ、はい」


 慌てふためく昴に、玉響が声を掛ける。昴の緊張感に対して、玉響の語調は進んでいる時が違うくらいにゆったりしていた。


「余と契りを結ばぬか」

「………はい?」



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