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父、奏多守はほら吹きではなかった  作者: てへろっぱ


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第99話 母へ届いたのは、「帰る」ではなく、娘の日常だった

 ユナの欄に残った小さな黄色い印を見ながら、蒼汰はしばらく動かなかった。


 帰還意思は保留のまま。それでも、たまごを食べたい、黄色が好き、姉のユイに会いたい、そして今は帰るかどうかを決めない――そこまでを四歳の少女が自分で選べた。


 父や祖父が長い年月を費やして維持した帰還路とは、ずいぶん違う。


 向こうとこちらをつなぐ巨大な門が開いたわけでもなければ、誰か一人が命を削って道標になったわけでもない。ただ、本人が自分で選んだ小さな情報が、旧校舎、南海自由港、奏多家という三つの経路へ分散して残った。


 それだけなのに、ユナの自己認識は明らかに安定していた。


「まずは成功扱いでいいんですか」


 蒼汰が尋ねると、エルナはすぐには頷かなかった。三つの観測点から戻ってきた数値を何度も比較し、さらにユイ自身の存在反応にも変化がないことを確かめてから、ようやく椅子の背にもたれた。


「第一試験としてなら成功。ただし、まだ人を帰せる段階じゃないわ。今できたのは、本人が自分で選んだ情報を、特定の誰かに負担を集中させず保存して、向こうへ返せたというだけ」


「でも、その“だけ”が今までできなかったんですよね」


「そうなのよね」


 エルナは少し悔しそうに笑った。


「守も、お祖父さんも、最初から『人を帰す道』を作ろうとしていた。でも私たちが今作ったのは、言ってみれば『その人がその人でいるための道』。順番を逆にしたのが良かったのかもしれない」


 蒼汰は、その言葉に納得した。


 名前を失い、自分の声すら自分のものと思えなくなり、何を望んでいるのかもわからなくなった人へ、「帰りますか」と迫っても答えられるはずがない。


 なら先に、赤が好きだった、甘いものが食べたい、眠い、海を見たい、姉に会いたい。そんな小さな「自分」を拾い直す。


 帰還は、そのあとでいい。


「だったら、ユナ以外にも試せます?」


 蒼汰が白い板を見ながら聞くと、エルナはすぐに察した。


「名前がほとんど残っていない人たち?」


「はい。特に『エ』しか思い出せない人とか、本人名が完全に不明な人。帰還意思を聞くより前に、自分のことを少しずつ取り戻せるかもしれない」


 冬城も記録を確認しながら頷いた。


「すでに自発的に送られてきた本人選択情報があります。まずは新しい質問を送らず、既存情報だけを分散保存へ移す方が安全でしょう」


「それでお願いします。こっちから『あなたはこういう人です』って決めないようにだけ気をつけましょう」


 エルナが横目で蒼汰を見る。


「もう技術監視役が板についてきたわね」


「境界工学は何もわかってませんけどね」


「それでいいの。あなたまで技術側へ来たら止める人が減る」


 そこだけは妙に真剣だったので、蒼汰は苦笑しながらも頷いた。


 最初に選ばれたのは、本人名が「エ」までしか残っていない人物だった。


 以前、自発的に届いていた本人選択は「赤」。それ以外には、まだほとんど情報がない。


 エルナは「赤」という情報を三つの観測点へ分散し、その人自身が過去に送った選択として固定した。こちらから「赤が好きなのか」と問いかけたり、「あなたは赤が好きな人だ」と教えたりはしない。ただ、本人が自分で残した情報が消えないようにするだけだ。


 しばらく何も起こらなかった。


 誰も急かさない。


 ユイも、自分の椅子に座ったまま静かに白い板を見ている。


 数分後、本人名「エ」の欄の下に新しい文字が浮かんだ。


 ――赤い。


 さらに。


 ――布。


 蒼汰は声を出さず、冬城がそのまま記録するのを見守った。


 次に現れたのは。


 ――首。


 エルナが眉を寄せたが、勝手に「赤い首飾り」などと補完しない。三つの断片を、そのまま残す。


 少しして。


 ――巻く。


「赤い布を首に巻く……?」


 蒼汰が小さく呟くと、冬城はすぐに分類を「関連記憶・未確定」とした。


 さらに数十秒。


 文字が増える。


 ――仕事。


 ――寒いところ。


 そこでエルナが、過去の帰還記録を検索し始めた。


「赤い布を首に巻いて、寒冷地で働いていた人……候補はかなり多い。でも、まだ絞らない方がいいわね」


「はい。向こうからもう少し出るまで待ちましょう」


 その判断が良かったのかどうかはわからない。


 ただ、次に白い板へ現れたのは、こちらの予想とは違う情報だった。


 ――赤い布。


 ――娘が。


 ――くれた。


 蒼汰は息を止めた。


 仕事道具ではない。


 制服でもない。


 娘からもらった布。


 本人名をほとんど忘れても。


 その記憶は残っていた。


 冬城がすぐに「家族関連記憶」へ分類する。


 そして、その直後。


 本人名の欄に。


 もう一文字。


 ――エド。


「名前が戻った?」


 蒼汰が思わず身を乗り出した。


 エルナはすぐに制した。


「まだ決めない。本人名候補として保存」


 それから。


 ゆっくりと。


 もう一文字。


 ――エドガ。


 さらに。


 最後。


 ――エドガー。


 本人名。


 ――エドガー。


 蒼汰は、そこでようやく息を吐いた。


 名前を直接尋ねていない。


 好きだった赤い布。


 娘からもらった。


 寒い場所で働いていた。


 そんな周辺の記憶を自分で辿った結果、最後に名前へ戻ってきた。


「名前だけを必死に思い出そうとさせるより、遠回りの方が戻ることもあるんですね」


「人間の記憶ってそういうものよ。名前が出てこなくても、匂いや味や誰かの顔から突然戻ることがある」


 サーラが静かに補足した。


「無理に思い出そうとすると、かえって思い出せないこともあります。第十四区画の場合はそれが極端なのでしょう」


 蒼汰は白い板に記された「エドガー」を見つめた。


 帰還意思はまだ聞かない。


 娘が今どこにいるのかも、こちらから調べて勝手に教えない。


 まずは。


 エドガー自身が。


 自分を取り戻す。


 そこからだ。


「この方式、第十四区画全体に広げられそうですか」


「一気には無理。情報量が増えすぎると、また一か所へ負荷が集まるから、観測点も増やしたい」


 エルナは現在の三点を指した。


「旧校舎、南海自由港、奏多家だけじゃ足りなくなる。守が昔使った別の帰還地点や、帰還局の記録設備も使えるなら、もっと分散できる」


 そこでハロルドが残した帰還票が役に立った。


 かつて守が人を帰した場所。


 医療院。


 港。


 学校。


 修道院。


 軍の停戦地点。


 種子庫。


 今日、父の葬儀へ来た人たちの話そのものが、過去の帰還地点一覧にもなっている。


 蒼汰は広間を見回した。


「もしかして、今日ここに来てくれた人たちの場所を、それぞれ観測点にできる?」


「可能性はある」


 エルナはすぐに答えたが、そのあと続けた。


「ただし、勝手には使わない。それぞれの場所の管理者と、今の利用者の許可が必要。それから、そこに住んでいる人へ影響が出ないかも確認する」


「わかってます」


「よろしい」


 蒼汰は少し笑った。


 父の葬儀に集まった人たち。


 父を褒めるだけではなかった。


 父を止めた人。


 父へ教えた人。


 父を怒った人。


 父を助けた人。


 そして今、その人たちがいた場所が、新しい帰還路の一部になれるかもしれない。


 父一人が道になるのではなく。


 父が長い人生の中でつながった場所と人たちが、少しずつ支える。


 それなら。


 確かに。


「みんなで、だな」


 蒼汰が呟いた。


 眠っている父から返事はない。


 でも、今はそれでいい。


 その時、白い板の別の場所が光った。


 ミア・フェルン。


 蒼汰はすぐにアイラを見る。


 彼女も気づき、椅子から立ち上がりかけたが、途中で自分から止まった。娘の言葉が出るまで待つ。


 ミアの欄に、新しい本人選択が現れた。


 ――確認したい。


 次。


 ――新しい道。


 エルナがすぐに眉を上げる。


「こっちの試験、向こう側から観測できてる?」


「こちらから説明は送ってませんよね」


「送ってない。でも分散経路そのものが第十四区画へ開いてるから、何か変わったことは感じてるのかも」


 文字が続く。


 ――一人に。


 ――集まってない?


 蒼汰は少しだけ笑った。


 十二歳の頃から。


 ミアがずっと気にしていたこと。


 守がまた一人でやっていないか。


 誰か一人が、全員の名前を背負っていないか。


「答えたいですけど」


 蒼汰はエルナを見る。


「今なら安全に、こちら側の記録情報として返せる?」


「ユイの時と同じ分散方式なら可能。ミアへ直接語りかけるんじゃなく、現在のシステム状態を情報として返すだけなら」


「じゃあ、事実だけにしましょう」


 蒼汰たちは返信内容を慎重に作った。


 固定点――個人使用なし。


 本人名保存――複数地点分散。


 本人選択保存――複数地点分散。


 帰還意思――本人確認前に確定しない。


 ミア一名への名前保持依存――解除試験中。


 余計な励ましは入れない。


 「もう大丈夫」とも言わない。


 まだ試験中なのだから。


 エルナが三つの経路へ情報を分散し、送る。


 返事は。


 すぐには来なかった。


 アイラは、娘の名前を見つめたまま静かに待っている。


 数分。


 そして。


 ミアから。


 ――わかった。


 一行。


 次。


 ――それなら。


 一度。


 止まる。


 アイラの手が震えた。


 だが。


 続きは。


 帰る。


 ではなかった。


 ――お母さんに。


 アイラが息を呑む。


 ――ひとつ。


 ――聞いてほしい。


 蒼汰は、すぐにアイラへ確認した。


「聞きますか?」


 アイラは涙を拭おうともせず、はっきり頷いた。


「はい。聞きます」


 エルナが安全確認を行い、ミアからの情報をこちら側へ受け取る。


 母と娘。


 二十一年。


 直接会話をつなぐのは、まだしない。


 ただ。


 ミア自身が選んで送った。


 一つの質問だけ。


 白い板に。


 文字が浮かぶ。


 ――お母さん。


 アイラの肩が震える。


 さらに。


 ――髪。


 蒼汰は、意味がわからず少し眉を寄せた。


 次。


 ――まだ。


 そして。


 ――赤い?


 アイラは。


 その場で。


 泣き崩れた。


 蒼汰は、一瞬どうしてそこまでと思った。


 だが。


 アイラは泣きながら。


 笑っていた。


「……あの子」


 両手で顔を覆い。


 何度も。


 息を整えようとする。


「小さい頃から」


 ようやく。


 続ける。


「私の髪が好きだったんです。寝る時も、よく触っていて……私が白髪になったら嫌だって、何度も言って」


 それは。


 帰還意思ではない。


 救助計画でもない。


 名前保存でもない。


 二十一年ぶりに。


 娘が母親へ。


 最初に聞いたこと。


 母の髪は。


 まだ。


 赤いか。


 ただ。


 それだけだった。


 蒼汰は。


 胸の奥が。


 強く締まるのを感じた。


 人は。


 帰りたい場所を。


 住所だけでは。


 覚えていない。


 母の。


 髪の色。


 触った感触。


 そんなものまで。


 全部含めて。


 帰る場所なのだ。


 アイラは。


 しばらく泣いたあと。


 自分で。


 顔を上げた。


「返事を」


 蒼汰が確認する。


「送りたいですか」


「はい」


 アイラは。


 自分の赤い髪へ。


 そっと触れた。


 少し。


 白いものも。


 混じっている。


 二十一年。


 経った。


 だから。


 嘘は言わない。


 彼女は。


 記録板へ向かい。


 ゆっくり。


 自分の言葉を選んだ。


「ミア。まだ赤いわ。でも、少しだけ白い髪も増えました」


 そこで。


 少しだけ。


 笑う。


「あなたが見たら、たぶん笑うくらい」


 送る前に。


 エルナが確認する。


「これでいい?」


「はい」


「『待ってる』とか『帰ってきて』は入れなくて?」


 アイラは。


 首を横に振った。


「それは今、聞かれていませんから」


 蒼汰は。


 その答えに。


 静かに頷いた。


 今。


 娘が。


 聞きたかったこと。


 それだけに。


 答える。


 エルナが。


 分散経路を使い。


 アイラの言葉を送った。


 そして。


 しばらくして。


 ミアから。


 たった一行。


 返ってきた。


 ――よかった。


 アイラは。


 また泣いた。


 でも。


 今度は。


 声を押し殺さなかった。


 二十一年ぶり。


 母と娘が。


 交わしたもの。


 それは。


 帰還の約束ではなかった。


 ただ。


 髪の色を。


 確かめる。


 ごく普通の。


 親子の会話だった。


 そして。


 蒼汰には。


 その普通の会話こそが。


 第十四区画から。


 誰かを本当に帰すための。


 最初の道に思えた。


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