第100話 父の葬儀で、初めて未来の話をした
ミアから届いた最後の言葉は、白い板の上に静かに残っていた。
――よかった。
二十一年ぶりに交わされた母娘のやり取りが、まさか髪の色についてになるとは誰も予想していなかっただろう。それでも蒼汰には、その短いやり取りが今日ここで起きたどんな大きな出来事よりも、帰還というものの本質に近い気がしていた。
住所を確認することでも、門を開くことでもない。
母親の髪がまだ赤いかを聞き、その答えを受け取って安心する。
そんな何気ない会話ができる相手のいる場所へ帰る。
父が何度も「帰して終わりではない」と言っていた理由を、また一つ理解した気がした。
アイラはしばらく泣いていたが、やがて自分で椅子へ座り直した。冬城が差し出した布を受け取って目元を拭い、深く息を吐く。
「すみません。こんなところで」
「謝ることじゃないですよ」
蒼汰がそう答えると、アイラは少し困ったように笑った。
「二十一年も待ったのだから、もっと立派なことを言えると思っていたんです。でも実際に娘から言葉が届いたら、髪の話だけで何も考えられなくなってしまいました」
「その方が普通なんじゃないですか」
「普通、ですか」
「はい。二十一年ぶりの親子の会話なんだから、最初から帰還計画の打ち合わせになったら、そっちの方が変な気がします」
アイラはしばらく蒼汰を見たあと、ゆっくり頷いた。
「そうですね。あの子がまだ、そういう話をしてくれたことの方を喜ぶべきなのかもしれません」
「それに、帰るかどうかはミアさん自身がこれから決めればいい。今はまだ、お母さんの髪が赤いってわかった。それで十分です」
「……はい」
アイラはもう一度、白い板へ目を向けた。
娘の帰還意思は「あり」。
しかし単独帰還は拒否。
新しい道を確認したい。
誰か一人へ名前を背負わせないこと。
それらは依然として残っている。
ただ、今そこへ加わったのは、もっと小さな記録だった。
家族関連記憶――母の赤い髪。
蒼汰はその項目を見て、少しだけ笑った。
「冬城さん、こういうのも全部残すんですね」
「はい。むしろ今後は、こうした情報を意識して残す必要があると思います」
「帰還先の住所より?」
「どちらが重要かは本人によります」
冬城は記録を整理しながら続けた。
「住所を覚えていても、そこへ帰りたい理由を失っている方もいるでしょう。逆に住所や地名を忘れていても、家族の声や料理の味を覚えている方もいる。帰還先を特定するには、そうした記憶を組み合わせる必要があります」
「本当に帰還局の仕事みたいになってきたな」
蒼汰が呟くと、エルナが設計資料から顔を上げた。
「だから一人でやるものじゃないのよ。技術だけじゃ足りないし、医療だけでも足りない。記録、移送、家族照会、現地の受け入れ、場合によっては教育や福祉まで必要になる」
「父が全部自分でやろうとしてたの、やっぱり無茶ですよね」
「かなりね」
棺から反論は聞こえなかった。
守はまた深く眠っているらしい。
蒼汰はその静けさに少し慣れてきていた。
少し前までは声が聞こえなくなるたびに不安になったが、今は起こそうとは思わない。父にはもう、休んでいい時間が来ている。
その代わりに、自分たちは起きている。
そして続きを考えられる。
蒼汰は長卓の上へ広がった資料を眺めた。
名前保存記録。
本人選択。
帰還票。
多点帰還方式の古い試験記録。
父が途中まで作ったものと、今日ここで新しく生まれた考え。
どれも単独では完成していない。
しかし、少しずつ組み合わせれば形になりそうだった。
「これ、第十四区画の人たちだけに使う仕組みにしない方がいいんじゃないですか」
蒼汰が何気なく言うと、エルナの手が止まった。
「どういう意味?」
「だって、第十四区画だけが最後の未帰還者じゃないでしょう。父の話を聞いてると、今までだっていろんな場所で同じような人がいた。これから新しい境界事故が起きないとも限らない」
冬城も顔を上げる。
蒼汰は自分の考えを整理しながら続けた。
「父はそのたびに現場へ行って、一人ずつ方法を考えてた。でも今回の仕組みが使えるなら、次の誰かは父みたいに一から全部やらなくて済むかもしれない。名前を保存する方法も、本人の意思を急がせないやり方も、最初から使える」
エルナがじっと蒼汰を見る。
「蒼汰、それは第十四区画の救助計画じゃなくなるわよ」
「はい」
「帰還制度そのものを作り直す話になる」
「そうなるかもしれません」
言ってから。
蒼汰自身が少し驚いた。
今日の朝まで。
そんなことを考えたこともなかった。
父の仕事を継ぐつもりはない。
それは今も変わらない。
境界管理者になるつもりもないし、父の代わりに世界中を飛び回る気もない。
でも。
父みたいな人がいなければ救えない仕組みを、そのまま残しておく必要もない。
「俺がやる、じゃなくて」
蒼汰は自分の言葉を確かめるように続けた。
「誰でも必要な時に使える仕組みにしたいです。父みたいな変な人が一人いなくても回るやつ」
「変な人」
エルナが笑った。
「そこは否定しません」
サーラも同意するように頷いている。
蒼汰は棺へ目を向けた。
「親父が聞いてなくてよかった」
そこで。
頭の奥。
『聞いてるぞ』
「起きてたのかよ」
思わず声が出た。
広間にいた何人かが振り向く。
守の声はひどく小さい。それでも、さっきより少しだけはっきりしていた。
『途中から』
「寝てろって言っただろ」
『息子が勝手に俺の仕事なくそうとしてるのに寝てられるか』
蒼汰は一瞬呆れ、それから笑った。
「なくすんじゃないよ。お前みたいなのがいなくても回るようにするって話」
『同じじゃないか』
「全然違う」
エルナが興味深そうにこちらを見る。
「守、何て?」
「父が『俺の仕事なくすな』って」
「なくしましょう」
『おい』
「エルナさんも同意です」
『裏切り者』
少し前なら、このやり取りをもっと長く続けただろう。
けれど蒼汰は、父の声が無理をして浮かんできていることにも気づいていた。
「親父」
『なんだ』
「本気で聞くけど、お前の仕事って、なくなったら困る?」
守の返事が止まった。
蒼汰は続けた。
「未帰還者がいなくなって、誰でも安全に帰れて、誰か一人が命削って迎えに行かなくて済むようになったら、お前の仕事はいらなくなるだろ」
広間が静かになった。
守はすぐには答えない。
その沈黙の中で、蒼汰は父がどんな顔をしているのか想像した。
やがて。
『……困らない』
「だよな」
『むしろ』
少しだけ。
笑う気配。
『最高だな』
蒼汰も笑った。
父は。
仕事を残したかったわけではない。
自分の役目を、息子に立派に継承してほしかったわけでもない。
帰れない人がいなくなるなら。
自分なんて。
必要なくなればいい。
きっと。
最初から。
そういう人だった。
「じゃあ、なくそう」
蒼汰は静かに言った。
「お前が一人でやらないといけない仕事」
守の返事は。
少し遅れて。
『ああ』
それだけだった。
だが。
蒼汰には。
十分だった。
エルナが、今のやり取りの内容を聞いてから、設計資料の上部へ新しい見出しを書いた。
――個人依存型帰還から、分散支援型帰還へ。
「名前、堅いですね」
「正式な計画にするなら必要なの」
「もっとわかりやすくできません?」
「じゃあ蒼汰が付けなさい」
「急に投げないでください」
隣で聞いていたアイラが、少しだけ笑った。
「私は『おかえり計画』でいいと思いますけど」
蒼汰とエルナが同時に彼女を見る。
アイラは少し照れたように肩をすくめた。
「専門的な名前は別に必要でしょうけれど、帰ってくる人にとっては、そのくらいの名前の方がわかりやすいでしょう?」
ユイがすぐに反応した。
「おかえり、いい」
「ユイも?」
「うん」
エルナは数秒黙ったあと、紙の隅に小さく書き足した。
通称――おかえり計画。
蒼汰は笑う。
「採用するんだ」
「利用者側から二票入ったもの」
「研究者、意外と柔軟ですね」
「昔からよ」
『嘘つけ』
父の声が小さく割り込む。
蒼汰は吹き出した。
「親父が嘘つけって」
「守は寝なさい」
エルナが冷たく言うと、それ以降、父の声は本当に聞こえなくなった。
今度こそ眠ったのか。
それとも。
もう少し。
遠くなったのか。
蒼汰は一瞬だけ棺を見つめたが、追いかけなかった。
父は、自分の仕事がなくなってもいいと言った。
その言葉が。
今は。
妙に嬉しかった。
冬城がそこで、広間の時計を確認した。
「蒼汰様。一度、進行についてご相談があります」
「葬儀ですか」
「はい。予定時刻を大幅に超えております」
蒼汰は周囲を見渡した。
弔問者はまだ大勢いる。
本来なら、もっと前に葬儀の一連の進行は終わっていたはずだった。
父の話を聞くたびに人が増え、記録が開き、未帰還者までこちらへ言葉を送り始めた。
気づけば。
葬儀というより。
大規模な帰還会議に近い。
「皆さん、大丈夫なんですか」
蒼汰が尋ねると、グスタフが前方から答えた。
「私は問題ない。奏多守に三日戦争を止められたことに比べれば、この程度待つうちに入らん」
マルタも続ける。
「港を三日閉めた男の葬儀なんだから、三時間くらい延びたところで誤差だよ」
「そういう基準にしないでください」
広間に笑いが起きる。
サーラだけは真面目な顔で付け加えた。
「ただし、全員一度休憩を入れるべきです。弔問者にも高齢者が多いので」
「それはそうですね」
蒼汰は即座に頷いた。
「休憩にしましょう」
言ってから、自分で少し笑う。
父の葬儀で。
全員を。
休ませる。
昔の守なら「その間に俺だけやってくる」と言ったかもしれない。
今は。
誰もしない。
「エルナさんも休んでくださいね」
「あとここだけ」
「駄目なやつだ」
「五分」
「サーラさん」
「エルナさんも休憩です」
「……はい」
エルナが不満そうに椅子から立った。
蒼汰はその様子を見て笑った。
誰か一人に背負わせない。
それは。
帰還路だけの話ではない。
作る側も。
同じだ。
休憩の準備が始まり、弔問者たちが少しずつ席を立つ。温かい飲み物や軽食が運ばれ、張り詰めていた広間に、ようやく人間らしいざわめきが戻ってきた。
アイラも席を立つ前に、もう一度白い板のミアの名前を見た。
「蒼汰さん」
「はい」
「私、少し先のことを考えてもいいでしょうか」
蒼汰は首を傾げる。
「先?」
「もし、です」
アイラは慎重に言った。
「ミアがいつか帰ると決めて、本当に帰ってこられたら。その時のことを考えてもいいですか」
蒼汰はすぐに答えなかった。
彼女自身も。
それが娘へ圧力になるのではないかと。
気にしているのだろう。
「ミアさんに押しつけなければ、いいんじゃないですか」
「押しつけない」
アイラはすぐ答えた。
「私自身が、考えておきたいだけです」
「なら」
蒼汰は少し笑った。
「いいと思います」
アイラの表情が。
ゆっくり。
明るくなる。
「部屋を、一つ空けておこうと思います」
それは。
娘の部屋。
ではない。
「ミアが帰ってきて、うちに住みたいと言った時に使える部屋です。別の場所で暮らしたいなら、そのまま客間にします」
蒼汰は。
少し驚いた。
昔のアイラなら。
娘の部屋を。
二十一年前のまま。
残したかもしれない。
帰ってくる場所を。
勝手に決めたかもしれない。
今は違う。
選べるように。
空けておく。
「いいですね」
「それから」
アイラは少し笑った。
「髪も、もう少し赤いままでいようと思います」
「それはミアさんのため?」
「半分は」
「もう半分は?」
「私が、この色を気に入っているからです」
その答えに。
蒼汰は笑った。
「それなら一番いいですね」
アイラも。
笑った。
未来。
その言葉を。
蒼汰は。
今日。
初めて。
自然に考えられた気がした。
父が死んだ。
帰れない人がいる。
祖父のことを知った。
ずっと。
過去ばかり。
見ていた。
でも。
ミアが帰ったあと。
ユナがいつか決めたあと。
第十四区画の人たちが。
それぞれ。
自分の行き先を選んだあと。
その先にも。
時間は続く。
父が。
いなくても。
続いていく。
蒼汰は。
棺を見た。
「親父」
返事はない。
それでも。
今度は。
寂しさだけではなかった。
「葬式で」
少しだけ笑う。
「初めて」
「この先の話したよ」
守の声は。
聞こえなかった。
代わりに。
白い板が。
静かに。
光った。
新しい。
本人名。
――ミア・フェルン。
蒼汰たちは。
休憩へ入ろうとしていた足を。
止める。
ミアの欄。
本人選択。
そこへ。
今までなかった。
一つの言葉。
――未来。
そして。
その下。
ゆっくり。
続いた。
――帰ったら。
一拍。
――何歳?
アイラの目が。
大きく見開かれた。
十二歳で。
母と別れた娘。
二十一年。
第十四区画にいた。
その時間が。
彼女の身体に。
どう流れているのか。
誰も。
まだ。
確認していない。
蒼汰は。
白い板を見ながら。
ようやく気づいた。
帰還した先にあるのは。
ただ。
おかえり。
だけではない。
帰ってきた人が。
これから。
どんな時間を生きるのか。
そこまで。
考えなければならない。
新しい「おかえり計画」は。
ようやく。
帰還の先にある。
未来へ。
目を向け始めていた。




