第101話 娘が帰ってくる年齢を、母は決めなかった
白い板に浮かんだミアの問いは、帰還路そのものとは違う意味で、広間にいた全員を黙らせた。
――帰ったら、何歳?
二十一年前、アイラと別れた時のミアは十二歳だった。
こちら側の時間だけを数えるなら、今は三十三歳になる。しかし、第十四区画の内部で同じ二十一年が流れた保証はない。三日間の失踪で二十七年を過ごしたルカの例もあれば、ユイのように外見上ほとんど年齢が変わっていない帰還者もいる。
蒼汰は答えを急がず、まずエルナへ尋ねた。
「今の情報だけで、ミアさんが何歳になっているか確認できますか」
「身体年齢なら、ある程度は推定できるかもしれない。でも、本人が聞いている『何歳』がそれだけを意味しているとは限らないわね」
エルナはそう言いながら、白い板に残されたミアの記録を開いた。
「戸籍上なら三十三歳。身体が十二歳のままなら身体年齢は十二歳。向こうで本人が二十一年を経験しているなら、本人の感覚では三十三歳かもしれないし、第十四区画では時間の流れ自体が一定じゃない可能性もある。数字を一つ返して終わりにするのは危ない」
「帰ってきた瞬間に『あなたは三十三歳です』って決めるのも違うってことですね」
「そういうこと。年齢って数字だけじゃなくて、その人がどんな時間を生きたかにも関わるから」
サーラも、医療側の記録を確認しながら頷いた。
「身体については帰還後に診察できます。ただ、身体年齢と本人の認識が一致しない場合も想定しておくべきでしょう。特に長期間、異なる時間流の中にいた方には」
そこで蒼汰はアイラを見る。
娘から届いた問いなのだから、母親ならすぐ答えたいはずだった。
だがアイラは、白い板を見つめたまま何も言わない。
「アイラさんは、どう思います?」
蒼汰が尋ねると、彼女は少し困ったように笑った。
「最初に浮かんだ答えならあります。十二歳です」
「別れた時の?」
「はい。私の中では、ずっと十二歳でしたから」
部屋に残っている記憶も、最後に握った手の小ささも、泣きながら母を先に帰した娘の顔も、すべて十二歳のまま止まっている。
「でも、それをミアへ言ってしまったら、あの子が向こうで過ごした時間を私が勝手に無かったことにする気がするんです」
アイラは自分の赤い髪へ触れた。
二十一年という時間は、母親には確かに流れた。髪には白いものが混じり、顔にも年齢が刻まれている。
なら。
娘にも、娘の時間があったはずだ。
「たとえ外見が十二歳のままだったとしても、ミアは二十一年前のミアとまったく同じではありません。人の名前を覚えて、ユイさんたちを支えて、自分で帰る条件まで考えている。そんな娘に向かって、あなたは十二歳のままよ、とは……私は言いたくありません」
蒼汰は、その言葉を聞いてゆっくり頷いた。
「じゃあ、何歳かは本人と一緒に確認する?」
「そうしたいです」
アイラの返事には、もう迷いがなかった。
「帰ってきたミアが十二歳だと言うなら、まずその話を聞きます。三十三歳だと言うなら、それも聞く。どちらでもないなら、どういう時間を過ごしてきたのか教えてほしい。私が二十一年前の娘に合わせるのではなく、今のミアに会いたいです」
蒼汰は少しだけ笑った。
「それ、返してもいい言葉だと思います」
エルナも同意した。ただし、直接会話をつなぐのではなく、これまでと同じ分散経路を使ってアイラ本人が選んだ言葉として送る。
記録板の前へ座ったアイラは、しばらく考えてから口を開いた。
「ミア。お母さんには、あなたが今何歳なのかわかりません。十二歳だったあなたをずっと覚えているけれど、今のあなたを十二歳だと決めるつもりもありません」
一度、呼吸を整える。
「帰ってきたら、あなたがどんな時間を過ごしたのか聞かせてください。そのあとで、一緒に考えましょう」
エルナが内容と経路を確認し、三つの観測点へ分散させた。
旧校舎。
南海自由港。
奏多家。
どこか一つへ負担が集中していないことを確かめてから、情報を第十四区画へ流す。
今回は返事が来るまで、少し時間がかかった。
その間にサーラが全員へ飲み物を配り、蒼汰も自分の分を受け取った。少し前までなら白い板の前から動かなかったかもしれないが、今はきちんと椅子へ座る。
父の安静命令違反百十二回を笑った以上、自分が同じことをしては洒落にならない。
「成長しましたね」
サーラが言うので、蒼汰は紙コップを持ったまま苦笑した。
「座っただけで褒められるの、父の実績のせいですよね」
「非常に低い基準から始められますので」
「それ、褒めてないですよね」
近くにいたアイラが笑い、緊張していた空気が少し和らいだ。
その時、白い板が淡く光った。
ミアからの返答だった。
――わたしも。
次の言葉が現れる。
――わからない。
アイラは驚かなかった。
ただ、続きを待つ。
――十二歳だった。
――それは覚えてる。
さらに。
――でも。
少し間を置いて。
――ずっと十二歳だった気もしない。
蒼汰は、その言葉を見て胸が締めつけられた。
第十四区画には、普通の時計がないのかもしれない。
朝と夜が同じように来る保証もなければ、一年という区切りがあるとも限らない。それでも人は経験を積み、誰かと出会い、別れ、考え方を変えていく。
年齢の数字だけが。
その時間に追いついていない。
次に届いたのは、少し意外な言葉だった。
――昔より。
――背、高い。
アイラが思わず笑った。
「そう……大きくなったのね」
続いて。
――守より。
――まだ低い。
今度は蒼汰まで吹き出した。
「比較対象、親父なんだ」
眠っている守から返事はない。
それでも、もし起きていたら「そりゃそうだろ」と言いそうだった。
エルナは笑いながらも計測を続けている。
「少なくとも身体は成長している可能性が高い。十二歳の外見のまま、という線は薄くなったわね」
さらにミア自身の情報が届く。
――髪。
――長くなった。
――一回、自分で切った。
その次。
――失敗した。
アイラが両手で口元を覆った。
今度の涙は、先ほどまでとは少し違っていた。
「昔も……自分で前髪を切って、とんでもないことになったんです」
蒼汰が笑う。
「成長しても、そこは変わってないんですね」
「本当に」
娘の二十一年を、母は何も知らない。
けれど今。
少しずつ。
その時間が。
戻ってくる。
名前を守ったこと。
誰かの靴紐を結んでいたこと。
髪が伸びたこと。
自分で切って失敗したこと。
大きな英雄譚ではない。
ただの。
生活。
それでもアイラには、どんな奇跡より大切なのだろう。
白い板へ、さらに一つ。
――たぶん。
――大人。
アイラは、長い間その言葉を見つめた。
そして、静かに笑った。
「そうでしょうね」
娘が自分でそう思うなら。
まずは。
それでいい。
エルナが現在の情報を整理する。
戸籍年齢――三十三歳。
帰還時身体年齢――未確認。
本人認識――「たぶん大人」。
経験時間――未確認。
どれか一つを正解として決めない。
「帰ってきた後、結構大変そうですね」
蒼汰が言うと、冬城が頷いた。
「行政上の年齢、本人の生活能力、身体状態、それぞれ別に確認する必要があります。既存制度だけでは対応できない可能性もあります」
「戸籍上三十三だから明日から三十三歳として暮らしてください、じゃ駄目ですもんね」
「はい。一方で、外見や身体状態だけを理由に子どもとして扱うのも適切ではありません」
蒼汰は腕を組んだ。
「帰す前から、その後の制度まで考えないと駄目か」
「だから帰還は門を通って終わりじゃないのよ」
エルナの言葉に。
蒼汰は思わず棺を見る。
「親父みたいなこと言いますね」
「守が私たちから散々聞いた言葉でもあるの」
「結局、誰の言葉かわからなくなってきたな」
「それでいいんじゃない?」
エルナはさらりと言った。
「大事な考えまで、誰か一人のものにしなくていいでしょう」
蒼汰は一瞬黙り、それから笑った。
「帰還路と同じか」
一人で持たない。
考え方も。
方法も。
責任も。
父から受け取ったものを、そのまま父の名前で固定する必要はない。
必要な人が使い。
直し。
また渡せばいい。
その方が。
きっと父も喜ぶ。
白い板へ再び文字が出た。
今度は。
ミアから。
母へではない。
――質問。
宛先。
――こちら側のみんな。
蒼汰は姿勢を正した。
内容は、帰還後の年齢についてではなかった。
――もし。
――帰ったあと。
少し間が空く。
――何もできなかったら。
アイラの表情が変わる。
次。
――名前を覚える以外。
――わたし。
――何ができる?
蒼汰は。
すぐに答えられなかった。
二十一年間。
ミアは。
名前を覚える人だった。
誰かが忘れれば。
代わりに覚えた。
それが。
自分の役割になった。
もし帰還して。
その役割が。
必要なくなったら。
自分には。
何が残る。
蒼汰は、アーデルが父について語った話を思い出した。
誰かを助けていないと。
自分がここにいていい理由を。
見つけられなかった。
父。
そして。
今度は。
ミア。
「似てるな……」
思わず漏らすと、アイラが不安そうにこちらを見た。
「守さんに?」
「はい。でも」
蒼汰は。
アーデルからもらった。
木の皿へ。
目を落とした。
守。
そう書かれた。
古い皿。
仕事をしていなくても。
役に立っていなくても。
食卓に。
自分の席はある。
父が。
百年以上前に。
教えてもらったこと。
「ちょうど」
蒼汰は。
少し笑った。
「親父が昔、同じことで怒られた話を聞いたばかりです」
アイラが首を傾げる。
蒼汰は。
白い板にいる。
ミアへ向けてではなく。
まず。
こちら側の全員へ。
言った。
「これ」
「帰還路と同じくらい」
「帰った後に必要なものかもしれません」
家。
食事。
身体。
戸籍。
家族。
そして。
役に立たなくても。
そこにいていい場所。
帰還者が。
帰還者であることを。
やめられる未来。
それがなければ。
ずっと。
父のように。
誰かを助け続けないと。
自分の席がない人になってしまう。
蒼汰は。
アイラを見る。
「ミアさんが帰ってきて」
「何もしなくても」
「座れる場所」
少しだけ。
笑う。
「あります?」
アイラは。
質問の意味を。
すぐに理解した。
涙を拭き。
そして。
今度は迷わず。
答えた。
「あります」
娘のために。
保存された部屋ではない。
昔の十二歳へ。
戻るための場所でもない。
「何歳でも」
「何ができても」
「何もできなくても」
アイラは。
静かに続けた。
「私と暮らしたければ」
「うちに席があります」
一度。
微笑む。
「暮らしたくなければ」
「食事だけしに来てもいいです」
蒼汰も笑った。
「それ、いいですね」
白い板へ。
今すぐ。
その言葉を。
送ることはしなかった。
ミア自身が。
聞きたいと言った。
でも。
母親の言葉だけで。
答えを埋めない。
他にも。
帰った後に。
必要なものがある。
「おかえり計画」
蒼汰は。
設計資料の端へ。
新しい項目を。
書き加えた。
――帰還後支援。
その下。
少し考えて。
もう一つ。
――役割を失っても、生活を失わせない。
エルナがそれを見て。
静かに頷いた。
第十四区画から。
人を帰す計画は。
また。
一つ。
大きくなった。
門を作るだけではない。
帰った人が。
その次の日を。
生きられるようにする。
そして。
その時。
冬城が。
弔問者名簿を。
そっと開いた。
「蒼汰様」
「はい?」
「次にお待ちの方ですが」
冬城は。
少しだけ。
不思議そうな顔をしていた。
「今回のお話に」
「非常に関係があるかもしれません」
蒼汰が身構える。
「どんな人です?」
冬城が。
名前と。
肩書を読む。
「元・異界帰還者生活支援寮」
「寮母」
そして。
「守様を」
一拍置いて。
「三度、寮から追い出した方です」
蒼汰は。
思わず棺を見た。
「何してんだよ、親父」
眠っているはずの父から。
今度は。
何の返事もなかった。




