第102話 父は、助けた人の家から三度追い出された
冬城が読み上げた肩書を聞いた瞬間、蒼汰は思わず棺を見た。
元・異界帰還者生活支援寮、寮母。
そして、父を三度も寮から追い出した人物。
「……追い出されたって、どういう意味です?」
「文字どおりです」
冬城は名簿を確認しながら答えた。
「守様は三度、退去を命じられています。三度目については、正式な出入り禁止記録まで残っています」
「葬儀で初めて知る父親の経歴として、だいぶ嫌なやつが追加されたんですけど」
エルナが横で笑う。
「安心して。犯罪じゃないから」
「その言い方だと、犯罪じゃないだけで問題はあったんですよね?」
「それは本人に聞いた方が早いわ」
ちょうどその時、広間の扉が開いた。
入ってきたのは、七十歳を少し越えたくらいに見える小柄な女性だった。白髪をきっちり後ろでまとめ、濃紺のワンピースの上から古い灰色のカーディガンを羽織っている。片手には大きな布製の鞄を持ち、もう片方の手には木製のしゃもじを握っていた。
蒼汰は二度見した。
「しゃもじ?」
女性は棺の前まで来ると、まず守の顔をじっと見た。それからしゃもじを軽く持ち上げ、何とも言えない顔でため息をつく。
「死んでようやく、夜中に勝手に台所へ入らなくなりましたね」
眠っている父からは返事がない。
しかし蒼汰には、もし起きていたら確実に「そこから話すのか」と言っただろうという確信があった。
女性は蒼汰へ向き直り、深く頭を下げた。
「マレーネ・オルトです。二十六年間、帰還者生活支援寮《灯りの家》で寮母をしていました」
「奏多蒼汰です。父が三回も追い出されたって聞いたんですが……」
「三回ではありません。追い出したのが三回で、注意した回数なら数え切れません」
「もっと悪かった」
蒼汰が額を押さえると、マレーネは初めて少しだけ笑った。
「でも、悪い人ではありませんでした。ただ、人を助け終わる場所がわからなかっただけです」
その一言で、蒼汰の表情が変わった。
まさに今、自分たちが話していたことだった。
第十四区画から人を帰すだけでは足りない。帰還したあと、その人がどう生きるのか。役割を失っても、自分の席を持てるのか。
マレーネは、その続きを二十六年間見てきた人物なのだ。
蒼汰は席を勧めながら尋ねた。
「《灯りの家》って、どんな場所だったんです?」
「帰ってきた直後、自分の家へすぐ戻れない人のための仮住まいです。家族が見つかっていない人、帰還先そのものが消えている人、身体が今の世界に馴染んでいない人。事情は一人ずつ違いました」
期間も違う。
一週間で退寮する人もいれば、一年以上暮らす人もいた。
帰ってきた世界の言葉を忘れている人。
貨幣制度が変わっていて買い物すらできない人。
数十年先の時代へ帰還し、知り合いが一人も残っていない人。
反対に、自分では数日しか経っていないのに、家族から見れば何十年も行方不明だった人。
そういう帰還者が、次の生活を決めるまで暮らす場所。
「父はそこに何をしに?」
「最初は帰還者を連れてきただけです」
マレーネの表情に、少し呆れが混じる。
「ただ、守さんは人を連れてくると、その後が気になって仕方なかったようで。翌朝には様子を見に来る。昼にも来る。夕方にも来る。ひどい時は夜中にも来ました」
「親父……」
「最初は私も、責任感の強い方なのだと思っていたんです」
「違った?」
「責任感は強かったですよ。強すぎたんです」
守は、帰還者が食事を取ったか確認した。
眠れているか。
怖い夢を見ていないか。
着替えは足りているか。
家族へ連絡できたか。
必要なことばかりだった。
そこまでは。
「ところが守さん、一週間経っても同じことをするんです。二週間経っても。本人が自分で買い物へ行けるようになっても、先回りして必要な物を買ってくる。料理ができる人の分まで食事を持ってくる。道を覚えようとしている人へ毎回付き添う」
蒼汰は苦笑した。
「ものすごく想像できます」
「でしょう?」
マレーネも苦笑する。
「ある日、一人の帰還者が言ったんです。『守さんが来ると安心する。でも、守さんが来ないと何もできない気がする』と」
蒼汰の笑みが消えた。
助けている。
なのに。
助け続けることで。
自分で立つ機会まで奪ってしまう。
「それで追い出した?」
「一回目です」
マレーネはしゃもじを軽く持ち上げた。
「夕食後に台所へ入っていた守さんを、これで叩いて外へ出しました」
「しゃもじって、その時の?」
「はい」
「持ってきたんですか」
「葬儀なので」
「どういう理屈です?」
マレーネは気にせず続けた。
「守さんには、『助けることと、代わりに生きることは違います』と言いました。帰還者本人ができるようになったことまで、あなたが奪ってはいけないと」
守は不満そうだったらしい。
せっかく楽にしてやれるのに。
困ってからでは遅い。
失敗したら危ない。
そんなことを言った。
マレーネは全部聞いたあと、こう返した。
失敗できない生活を、生活とは呼ばない。
蒼汰はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。
「失敗してもいい?」
「程度によります。当然、命に関わる危険は止めます。でも、買い物で少し余計な物を買ったり、料理を焦がしたり、道を一本間違えたりするくらいなら、それも暮らしの一部でしょう」
帰還者を「守らなければならない人」に固定してはいけない。
安全だけを考えるなら、寮から一歩も出さなければいい。
食事も毎日作ってやればいい。
金銭も職員が管理し、外出も付き添えばいい。
だが、それではいつまで経っても生活を返したことにはならない。
「守さんは、その時は納得していませんでした」
「その時は?」
「一週間後、また来ましたから」
蒼汰は吹き出した。
「追い出されたのに?」
「今度は裏口から」
「親父!」
エルナが腹を抱えて笑い始める。冬城ですら、さすがに視線を逸らしていた。
「何しに来たんです?」
「壊れていた棚を直しに」
「微妙に善意なのが腹立つな……」
「ですから二回目も追い出しました」
マレーネの二回目の教えは、少し違った。
必要なら頼まれるまで待ちなさい。
守は「壊れてるの見えてるのに?」と聞いた。
マレーネは「見えているからといって、あなたの仕事になるわけではありません」と答えた。
蒼汰は思わず腕を組む。
「それ、今の俺にも刺さるな」
「そうでしょうね」
「即答ですか」
「親子ですから」
今日何度目かわからない言葉だった。
そして。
三回目。
守が正式に出入り禁止になった理由は、それまでとは少し違った。
「何やったんです?」
「何もしませんでした」
「え?」
「正確には、しなさすぎました」
マレーネは、その頃の話をゆっくり語り始めた。
《灯りの家》に、一人の青年がいた。
名前はヨシュア・レン。
帰還時二十四歳。
境界の向こうで十六年間過ごしていたが、こちら側ではわずか三か月しか経っていなかった。
彼は帰還後、何もしたがらなくなった。
家族はいる。
帰る家もある。
身体も健康。
それでも。
働きたくない。
友人にも会いたくない。
家族のところへ戻るのも怖い。
ただ。
寮の窓辺へ座って。
一日中。
外を見ていた。
「守さんは、その青年を見るたびに困っていました」
「助け方がわからなかった?」
「はい。怪我なら運べる。帰り道なら探せる。空腹なら食事を用意できる。でも、何もしたくない人へ何をすればいいのかわからなかったんです」
そこで守は。
何もしないことにした。
声もかけない。
頼まれない限り手伝わない。
二回追い出されて学んだつもりだったから。
「でも、それが三回目の間違いだった?」
蒼汰が尋ねると、マレーネは頷いた。
「守さんは極端なんです。手を出しすぎるなと言ったら、今度は全部引っ込める」
「……親父だなあ」
「でしょう?」
ある日。
ヨシュアが。
守へ言った。
あなたまで。
何も言わなくなった。
その時。
守は。
初めて気づいた。
待つことと。
放っておくことも。
違う。
「マレーネさんは何て?」
「見守るというのは、何もしないことではありません。相手が頼める距離にいることです、と」
蒼汰は黙った。
手を出しすぎない。
でも。
いなくならない。
助けを押しつけない。
でも。
助けを求められる場所にはいる。
第十四区画にいる人たちへ。
今。
まさに必要なものだった。
「それで父を三回目に追い出した理由は?」
「守さん、その話を聞いたあと、自分も寮へ住むと言い出したんです」
蒼汰は数秒。
本気で意味がわからなかった。
「……何で?」
「いつでも頼める距離にいるため、と」
「極端!」
「ですから三度目は正式に出入り禁止にしました」
広間に笑いが広がった。
マレーネも少し笑っていたが、やがてその表情を穏やかに戻した。
「ただ、その後の守さんは少し変わりました」
毎日来なくなった。
必要な時だけ来る。
頼まれた時は手を貸す。
でも、本人が自分でできるなら待つ。
帰還者が寮を出る時には、以前のように心配して何度も後をついていかなくなった。
代わりに。
一つだけ。
必ず聞いた。
困った時。
誰に頼める。
「自分を答えにしなかったんですね」
蒼汰が言うと、マレーネは満足そうに頷いた。
「そうです。家族でも、友人でも、役所でも、私たちでもいい。頼れる先が一つしかないなら増やす。それから送り出すようになりました」
守一人を。
帰還者の最後の支えにしない。
それは。
今の分散帰還路と。
同じ考えだった。
蒼汰はエルナの設計図を見る。
「技術だけじゃなくて、帰った後も分散させないと駄目なんだ」
「何を?」
「頼れる先です。一人だけにしない」
アイラ。
医療。
住居。
仕事。
生活支援。
友人。
本人が望むなら家族。
一か所が駄目になっても。
全部を失わない。
「冬城さん」
「はい」
「帰還後支援のところに追加してください。『支援先を一つに集中させない』」
「承知しました」
「それから、支援の終了もこっちで勝手に決めない方がいいですよね」
マレーネがすぐに頷いた。
「大切です。退寮したら支援終了、就職したら自立完了、というものではありません。必要なくなった支援から少しずつ減らせばいい」
「戻ってくることも?」
「もちろん」
寮を出た人が。
一か月後。
一年後。
十年後。
また相談へ来てもいい。
帰還とは。
一度の試験に合格して。
終わるものではない。
「そういう場所」
蒼汰は呟いた。
「第十四区画の人たちにも必要だな」
帰還した。
だから。
もう大丈夫。
ではない。
むしろ。
そこから。
始まる。
その時。
白い板が。
淡く光った。
ミア・フェルン。
先ほどまで。
自分が帰ったあと。
何ができるのか。
それを不安がっていた女性。
新しい。
本人選択。
――何もしなくても。
一度。
文字が止まる。
――いていい?
広間が。
静かになった。
蒼汰は。
思わず。
アーデルから受け取った。
木の皿を見る。
何もしなくても。
食卓へ来ていい。
役に立たなくても。
自分の席はある。
百年以上前。
父が。
教えてもらったこと。
そして今。
同じことを。
ミアが。
聞いている。
蒼汰は。
すぐに答えようとはしなかった。
これは。
こちら側のみんなへの。
問いだった。
自分一人が。
代表して。
「いい」と言うのも。
少し違う。
「マレーネさん」
「はい」
「帰還者に、何もしなくてもいていい場所を作るのって」
蒼汰は。
白い板を見たまま。
続ける。
「できますか」
マレーネは。
迷わなかった。
「もう作りましたよ」
「え?」
「《灯りの家》は、そのための場所でもあります」
働けなくても。
すぐに家族へ戻れなくても。
何をしたいか。
わからなくても。
とりあえず。
眠る。
食べる。
風呂へ入る。
窓の外を見る。
それだけで。
いい日がある。
「今も?」
「あります。私は引退しましたが、寮そのものは今も続いています」
蒼汰の顔が。
少し明るくなる。
「じゃあ、ミアさんだけじゃなくて」
「帰還した方が希望されるなら、受け入れ相談はできます」
「家族のところに帰らなくても?」
「当然です」
アイラが。
少し驚いた顔をした。
しかし。
すぐに。
笑った。
「それなら、私も安心できます」
娘が帰ってきたら。
自分の家へ。
それだけが。
選択肢ではない。
母親の家。
支援寮。
一人暮らし。
別の場所。
ミア本人が。
選べる。
「アイラさん」
「はい」
「大丈夫ですか?」
蒼汰が念のため尋ねると、アイラは頷いた。
「少し寂しいです。でも」
白い板の。
娘の名前を見る。
「寂しいから帰ってきなさい、と言うよりずっといいです」
蒼汰は。
ゆっくり頷いた。
マレーネが。
布鞄から。
一冊の古い帳面を取り出した。
「これも、お渡ししておきます」
「何です?」
「《灯りの家》の退寮記録です。ただし、個人情報の部分は伏せてあります」
蒼汰が受け取る。
退寮理由。
家族の元へ。
就職。
一人暮らし。
別世界へ再帰還。
同居。
進学。
そして。
いくつか。
――本人希望により、もう少し残る。
退寮しない。
それも。
選択だった。
「これ、参考になります」
「そうでしょう?」
マレーネは。
そこで。
棺を見る。
「守は、帰還者を送り出す時に『もう大丈夫だな』と言う癖がありました」
蒼汰は。
少し嫌な予感がする。
「また怒られた?」
「はい」
マレーネは。
しゃもじを。
ほんの少し。
持ち上げた。
「大丈夫かどうかを、お前が決めるな、と」
蒼汰は。
笑った。
「三回追い出されても、かなり教わってるじゃん」
眠る父から。
返事はない。
でも。
きっと。
聞いていたら。
ぶつぶつ。
文句を言っただろう。
「マレーネさん」
「はい?」
「そのしゃもじ、今日は父に置いていくんですか」
「いいえ」
即答だった。
「これは私のです」
「ですよね」
「ただ」
マレーネは。
棺の脇へ。
一枚の。
新しいしゃもじを。
置いた。
蒼汰が。
目を丸くする。
「それは?」
「もし次に」
マレーネは。
少しだけ。
笑う。
「向こうで誰かを助けすぎていたら」
棺の守へ。
穏やかに告げる。
「今度は、そちらの誰かに叩いてもらいなさい」
広間に。
笑いが広がった。
蒼汰も笑った。
「親父なら、ありそうだな」
そして。
その笑いが。
少し落ち着いた頃。
白い板に。
ミアから。
新しい文字が。
浮かんだ。
――何もしなくても。
――いていい場所。
その下。
本人希望。
――見てみたい。
帰る。
ではない。
住む。
でもない。
見てみたい。
蒼汰は。
それを。
そのまま。
記録した。
本人希望――帰還後の生活支援場所を見てから決めたい。
「これでいいですね」
マレーネが頷く。
「ええ。まず見ればいいんです。嫌なら別の場所を探せばいい」
何もしなくても。
いていい。
でも。
そこへ。
いなければならないわけでもない。
帰還後にも。
選択は。
続いていく。
蒼汰は。
おかえり計画の。
帰還後支援欄へ。
さらに。
一文を加えた。
――帰った後も、本人の選択を終わらせない。
書き終えて。
少しだけ。
父の棺を見る。
「親父」
声は。
聞こえない。
「お前が」
「帰した後まで」
「追いかけ回さなくてもいい仕組み」
蒼汰は。
笑った。
「ちゃんと作れそうだよ」
返事はなかった。
けれど。
棺の脇に置かれた。
新しいしゃもじが。
妙に父らしくて。
蒼汰は。
しばらく。
笑いを止められなかった。




